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1巻

1-3

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「ねぇ井荻、この子のこと飼わないの?」
「……飼わない」
「なんで? すっごく懐いてるのに。井荻だって可愛がってるじゃん」

 むしろあんたに懐いているみたいに見えるがな。
 そう思いつつも、質問に答えるだけに留めるべきだと意識を強める。

えさをやってるからだ。同じことをすれば僕じゃなくても懐く。それに、最後まで面倒見られないなら飼ったって逆に迷惑だろ」

 茶髪女の反応を待たず、一方的に伝える。普段よりも言葉数が多くなってしまったが、いっそそのほうが、会話のキャッチボールは続かなくなるのではという気がした。
 返事はなかった。別にそれで良かったのに、どうしてか、僕は稲川に視線を向けてしまう。
 稲川は、目を見開いてぽかんと口を開けていた。
 ……なんだ、その間抜けな顔は。眉根を寄せると、彼女は少々面食らった様子でしゃべり出した。

「えっと、誰に迷惑?」
「え……猫と、あと親」
「なにそれ。なら最後まで面倒見ればいいじゃない」

 微妙に焦点がズレたことを尋ねてくるなと思って真面目に答えてやれば、次の瞬間にはあきれきったような声を返してくる。
 その声に、無性に腹が立った。
 こいつ、本当になんなんだろうと思う。余計なことを言うべきではなかったと心底後悔して、今すぐこの女との会話をぶった切ってしまいたい衝動に駆られた。
 イライラする。最近感じた中で、一番大きい苛立ちだった。
 僕がどうしようと、あんたには関係ないだろう。どうして、こうも毎日毎日関わろうとするんだ。これ以上、僕の中に踏み込んでこないでほしい。
 ああ、いっそ本当のことを言ってしまえば、この女はもう僕につきまとわないだろうか。
 それなら――

「無理。僕、来年死ぬから」

 長年誰にも明かさなかった、親にさえ信じてもらうことを諦めた秘密を茶髪女目がけて叩きつけてやる。それも、牽制けんせいのためだけに。
 わざと粗雑そざつな言い方を選んだ。頭がおかしい奴だと思われても、構いやしなかった。
 これ以上僕に関わらないでくれ――そういう内心がにじみ出た口ぶりになって、一瞬、自分がひどいことを言っているような気分になった。
 そんな僕の顔を、稲川がぐっとのぞき込んできた。非常に深刻そうなその顔が、軽そうな外見にまったく合っていない。
 急に縮まった距離に、僕は反射的に身を引く。だが稲川は表情ひとつ変えないまま、普段よりトーンを抑えた声をこぼした。

「来年、死ぬの?」

 ……食いつくところはそこなのか。
 てっきり笑い飛ばされるか、あるいは引かれるものとばかり思っていたから、真剣にき返されてつい戸惑ってしまう。
 とはいえ、自分から振った話だ。稲川から距離を取りつつ、僕は最低限の返答をすることにした。

「死ぬよ」
「なんで? 病気かなんか?」
「さぁ」

 なかば投げやりな僕の返答に、稲川はついに言葉を失くしたらしかった。
 にゃあ、と間延びした声が聞こえ、なんだか僕たちが交わしている会話が滑稽こっけいに思えてくる。それでも、僕はたたみかけるようにして続けた。

「これ以上、僕につきまとうの、やめて」

 ……これでいい。
 心の中に蓄積し続けてきたこの女に対する鬱憤うっぷんのすべてを、本人相手に吐き出してやった。ざまあみろ。
 いつの間にか、僕はきつくこぶしを握り締めていた。思った以上に、余裕はがれていた。頭がおかしい奴だと思われてももう構わないという諦念ていねんと、とうとう言ってやったぞという達成感とがい交ぜになって、僕の呼吸を乱しにかかる。
 自分が今興奮しているのだと気づくまでに、少し時間がかかった。
 興奮なんて何年ぶりに味わうだろう。幼い頃にはまだ何度か抱くこともあったその感覚が、今の僕にとってはあまりにも新鮮だった。
 稲川は、沈黙をつらぬいたままだ。黙り込んだきり、呆然と目を見開いて、すっかり固まってしまっていた。
 まばたきひとつせずに固まり続ける茶髪女の横を素通りし、僕は足早に境内けいだいを出る。にー、と猫の鳴き声がしたが、そちらにも見向きはしなかった。
 もうここには来ない。猫と顔を合わせることもない。それに、僕のペースを散々引っ掻き回してくれた稲川衣梨奈との関わりも、終わる。
 稲川は、僕を追いかけては来なかった。
 やってやった、という気持ちが強く身体の中を駆け巡る。
 先ほど全身をつらぬいた興奮が、いまだに冷めやらない。溜飲りゅういんが下がる、とはこういう心境を示す言葉なのかもしれないと思う。同時に、胸の底をかすかなもやがぞわぞわとうような感じがして、妙に息苦しかった。
 ……なんだ、これ。
 これで良かったと思うのに、そうとしか思えないはずなのに、息苦しいだなんておかしくないか。
 もやと息苦しさの正体が「罪悪感」だと気づいたのは、自宅に着いた頃。それでも、その罪悪感を誰に対して抱いているのか――猫に対してなのか、それとも稲川衣梨奈なのかまでは、僕には結局分からずじまいだった。
 ただ、言葉を失って黙り込む稲川の顔が、まぶたに焼きついて離れなかった。



   第2章 十月、降られた猫に雨傘



 ようやく、稲川衣梨奈を突き放すことに成功した。
 二学期が始まってからというもの、あの女に振り回されるだけ振り回されて、しなくてもいい心労を重ねて……そんな日々ともお別れだ。絡まれることはもうないだろう。
 月曜日の今日、神社で一方的に拒絶の言葉を放って以来、稲川と初めて顔を合わせることになる。
 最後に見た稲川の顔をまた思い出してしまう。あの日も感じたほのかな罪悪感――土日にも引きずる羽目になったそれが、胸をぞろぞろとうようにしてよみがえる。
 露骨ろこつに突き放してしまった自覚はある。
 だがそれも、彼女が僕にあれこれとちょっかいを出してこなければ良かっただけの話だ。
 そう自分に言い聞かせることで、くすぶるように残っていた違和感を、土日の二日間をかけて無理やり消化したつもりだ。
 思考ごと蹴散けちらしたくなり、僕は強く首を横に振った。
 知らない。だいたい、僕が死ぬという事実を告げたことが、そのまま稲川を傷つける理由にはなり得ない。からかい相手がいなくなるというショックはあるだろうが、稲川にとってはそれだけのはずだ。だから、僕が罪悪感を抱く必要はない。
 姿見の前で念入りに寝癖を確認する。まさかまだれしく話しかけてくるなんてことはないと思うが、あの根気強さを思うと絶対とは言いきれない。僕を避ける稲川を実際にこの目で確認するまで、安心はできない。
 もやもやした気分と緊張を抱えて、家を出た。
 必要以上に髪を確認したのは、以前、稲川に寝癖を発見されて絡まれたことがあったからだ。
 絡まれるきっかけを自ら用意するわけにはいかない。歩きながらまたも髪を撫で、いや、今日からはそもそも絡まれないのではと思い、僕はひとりで派手に顔をしかめた。
 僕の生活は、いかに稲川からの干渉を避けるかが再優先事項になってしまっている。
 辟易へきえきした。あの女の姿が見えないところでまでこんなに気を張って、振り回されるにもほどがある。
 いいんだ。もう終わったんだ。今日からは普段通り。
 それで良かったはずなのに――それこそが僕の望んでいたことだったはずなのに、寂しいというか物足りないというか、なぜかそんな気分になってしまう。
 まさかそんなわけはないよなと、考えることをいい加減やめにする。
 なんとなくもやもやした気持ちをぬぐいきれずに校門前まで辿たどり着いた、そのときだった。

「あ、寝癖だー」

 ……背筋がこおった。文字通り、こおりついた。
 聞き慣れた、今にもまとわりついてきそうな高い声。
 いや、他の誰かに話しかけているだけかもしれないと一縷いちるの望みにすがろうとしたが、その望みは肩にぽんと手を置かれたことであっけなく散った。
 ――正気かよ、こいつ。

「おはよー井荻! 寝癖、全然直ってないよ~?」

 先週までとなんら変わらない声だった。ショックもダメージも、これっぽっちも受けていないと言いたげな。
 もしかして、金曜のことは僕の夢だったのでは。焦燥しょうそうに駆られつつ首だけをゆっくり動かし、声の主を見下ろす。
 目が合った。にっこりと笑われた。眩暈めまいがした。

「金曜の、神社での話なんだけど。昼休み、ちょっと時間いい?」
「……え……」
「いいよね?」

 強引がすぎる。だが、今日からは絡まれることがないとほとんど確信していた僕は、動揺のせいでうまく対応ができない。
 返事をできずに黙っていると、「は~い決定~」と、稲川はまたも楽しそうに笑った。
 ……溜息ためいきひとつすら、出そうになかった。


   *


 教室で食べた弁当は、ほとんど味がしなかった。
 気の乗らない食事を終えたと同時に、稲川は問答無用で僕を屋上まで引っ張っていく。おおかた、僕が弁当を食べ終えるまで監視していたのだろう。
 今日は風が強く、屋上は想像していた以上に寒い。思わず天を仰ぐと、ふっと足がすくんだ。
 空が青い。青すぎて逆に不安になってくる。まぁ、その原因は空にというよりも、ここに僕を連れてきた稲川衣梨奈にあるのだが。
 大きく腕を広げて伸びをする茶髪女を、一瞥いちべつする。ただただ居心地が悪かった。
 屋上で昼食を取ることは校則によって禁じられているが、中には何人か、弁当を手にしている生徒の姿も見える。
 硬いコンクリートに胡座あぐらをかく数名の男子生徒のうちのひとりと目が合った。慌ててらすのも気が引けたため、僕はゆっくりと空を見上げて相手からの視線をさえぎる。
 派手な外見の女とふたり。目立つよな、と思う。目立ちたくないんだけどな、とも。
 そんな僕の内心になど気づいてもいないのだろう、稲川は男子生徒の群れとは逆の方向に足を運んでいく。
 必然的に僕も彼女について行かざるを得ない。多分、稲川はこれから交わす話を他の誰にも聞かれずに済むよう、人の少ない屋上を選んだのだ。僕も、好奇心のにじむ視線を向けてくる男子生徒の群れに話を聞かれたくはないことに違いはない。
 屋上の端の端、大袈裟おおげさに思えるくらいの高さを誇る安全あんぜんさく。稲川はそのすぐ脇の、少し高くなったコンクリート部分に腰を下ろし、すでにこの場所からは見えない男子生徒たちの方向をちらりと見やってから深く息を吸い込んだ。

「ねえ、こないだの話。死なないようにはできないの?」

 ……思った以上に単刀直入だ。
 とんとんと自分の隣を指し示す稲川は、どうやら僕に隣に座ってほしいらしい。しかし僕は目をらして拒否した。
 稲川の隣になんて、到底座る気になれない。そもそも、僕はこの女と話をしたいとこれっぽっちも思っていないのだ。
 僕のその態度が、多少なりとも稲川のカンにさわったらしい。彼女はムッと眉根を寄せ、不機嫌そうに口をとがらせた。

「なによ、あのときも一方的に言い捨てて逃げてっちゃうしさ」

 まぁ、あれであんたとのやり取りは終了する予定だったからな――不満を宿した稲川の言い分に、僕は内心でそっと毒づく。
 無言をつらぬき続けていた僕を、しばらくじっと見つめた彼女は、やがて諦めたように露骨ろこつ溜息ためいきを落とした。それでも、表情は先ほどから一貫して真剣なままだ。
 ……やっぱりこいつ、馬鹿だ。
 僕の話を疑っていない。母親にすら信じてもらえなかった妄言もうげんに等しい僕の言葉を、こいつは頭から信じている。
 元々知ってたけれど、頭、弱すぎる。

「まさか信じたのか、あんなアホみたいな話」
「嘘なの?」

 あざけりを込めて放った言葉に真っ向から返され、言葉に詰まってしまう。
 嘘ではない。嘘ではないが、だからといって信じてほしかったわけでもない。自分の気持ちのどこまでをこの女に伝えればいいのか、僕にはもう分からなかった。

「嘘、というわけでは……」
「本当なんでしょ? よぉし、じゃあ作戦会議しよ! 放課後、あの神社でどう? 誰もいないところのほうがいいよね?」
「……は?」

 しどろもどろに嘘ではないことを僕が告げている途中で、稲川はさも名案を思いついたとばかりに両手をパンと合わせた。
 一方的にもほどがある。当事者である僕の意見を聞き入れる素振そぶりのない彼女に、心底辟易へきえきしてしまう。
 次の瞬間には腕をつかまれ、ぎょっとした。れしい。僕の秘密を知って避けるどころか、以前よりもれしさが増している。
 おかしい。なんでこうなるんだ。

「今日もキャットフード、ちゃんと持ってきてる?」
「い、いや……」
「はっはー、そう言うと思って私が持ってきてるのだ~! 昨日奮発ふんぱつしてちょっといい猫缶、ホームセンターで買ってきたんだよね!」

 浮かれた声で得意げに話す稲川を、別世界の生き物を見るような目で眺めてしまう。
 実際、僕とは違う世界を生きているとしか思えない相手だ。絡まれ始めた頃から、その考えは変化していない。
 晴れやかに笑う稲川の顔から目をらし、僕は足元のコンクリートをじっと見つめた。稲川を見ているよりは、無機質なものを見ていたほうがはるかに気が落ち着く気がした。
 まずは猫ちゃんにご飯をあげて、それから……となおも楽しげに話し続ける稲川の声を、僕はなかば強引にさえぎった。

「僕はもうあそこには行かない。だいたい野良猫のづけなんてめられたことじゃないぞ」
「えっ、それアンタが言う?」
「だ、だからもう行かないって言ってるだろ」
「じゃあうちくる?」
「はァ?」

 思わず間抜けな声が出てしまう。
 なにを言い出すんだこいつ、やぶからぼうに。顔が盛大に引きつった自覚はあった。
 こいつは僕をなんだと思っているんだ。これでも男だぞ、一応。自宅に連れ込むだなんてそんな……とまで考えてから、僕のほうこそなにを考えているんだろうと眩暈めまいがした。
 まるで僕が率先してやましいことを考えているみたいだ。頭を抱えそうになる。

「……行かない……」
「よし、じゃあ決まりね。放課後、神社集合。ていうか一緒に行こ? 以上、解散!」

 どっちにも行かないという意味だ、と声を荒らげかけたときには、すでに稲川は僕に背を向けていた。
 かろやかな足取りで階段の方向へ向かっていく稲川の背を、呆然と見送る。
 ……なんでこうなるんだ。
 カンカンカン、と甲高かんだかい音を立てて階段を下りていく彼女の足音を聞きながら、僕はここに来たときと同じように再び天を仰いだ。


 稲川の放課後の嫌がらせは、昇降口での待ちぶせと僕の机の前への仁王立におうだち、ここ最近ではその二パターンがある。
 今日は机の前だった。逃げようがない。いや、昇降口での待ちぶせも逃げようがないことに変わりはないが。
 逃げるために頑張らなければならないのも辛い。だから仕方なく付き合ってやることにした。くどいかもしれないが、僕自身は決してこの応酬おうしゅうを楽しんでなんかいない。
 校門を出るなり、稲川は僕の手首をつかんだ。ぎょっとしたが、稲川はなんとも思っていない様子で、僕を引きずるように手を引っ張って歩き出した。
 別に逃げねえよと思ったが、わざわざ声に出してまで伝えるのは億劫おっくうだった。結局、僕はされるがまま、黙って稲川についていくことにする。
 女性と手をつなぐのは何年ぶりだろうと思う。幼児期以来、下手をすると人生初かもしれなかった。
 普通ならドキドキしたり勘違いをしてしまいそうになったり、いろいろあるのかもしれないが、今の僕は気恥ずかしさなどちっとも感じられずにいる。鷲掴わしづかみに等しい手首への触れ方は、つなぐというよりは握ると言い表したほうが近い。どう贔屓目ひいきめに見てもただの連行だ。
 稲川は、かかとの高いローファーをカツカツと鳴らしながら早歩きをしている。僕からすると、いつもよりほんのわずかに歩幅を広げる程度の速度でしかないのに、妙にせわしない。女という生き物は歩行ひとつ取っても大変なんだな、と、的外れなことを思う。
 交差点に差しかかり、赤信号に引っかかる。
 稲川は動かしていた足を止め、僕の手首をつかんだまま、不意に顔をのぞき込んできた。低い位置から見上げられ、こいつ意外と小さいんだな、と思う。靴のヒールがこれだけあるのに……僕が思っている以上に、この女の背丈は低いのかもしれない。

「あのさ。前から思ってたんだけど、私のこと、名前で呼んで」
「え……稲川さん……?」
「『稲川』じゃなくて、下の名前でって意味。あと『さん』とか要らない」

 それ、今しないといけない話なんだろうか。
 そんなことを思っているうちに信号が青に変わり、稲川は僕の答えを待たずに再び前に向き直ってしまう。
 短い足――という言い方はさすがに失礼だろうか――を懸命に動かし、稲川はまたも早歩きで僕を引っ張る。
 無理して急がなくてもいいぞと伝えてみようか迷ったが、誤って足の長さの話までしてしまいそうだったからやめた。そんなことを言ってしまえば最後、来年を待たずに死を迎えさせられかねない。
 それにしても、この女は無理を言うものだと思う。いきなり下の名前でなんて呼べるわけがないとは思わないのか。稲川は僕の彼女ではないし、それどころか僕らは仲の良い友人同士ですらないのだ。
 そもそも、この女の名前を呼ぶ状況にはまずならない。僕にはこいつと話す気はないのだから。
 脳内では「稲川」とか「茶髪女」とか「厚化粧」とかさまざまな呼び方をしているが、まぁ……それもわざわざ本人に伝えるべきことではないだろう。
 あれこれと思考を巡らせているうちに、僕らは目的地である神社に到着してしまった。
 相変わらず閑散かんさんとしている遊び場に向かう。すると、稲川は僕の横をすっと通り過ぎ、やにわに滑り台の階段を上り始めた。
 ……なにやってんだ、こいつ。

「なっつかしー、こないだ来たときこれもやりたかったんだよね。井荻もおいでよ」
「僕はいい。それより用件……」
「あっはは、だよねー。言うと思った」

 笑う稲川の声は、妙に乾いて聞こえた。
 稲川は、僕が拒否すると分かっている提案をわざと持ちかけては僕の反応を楽しむ傾向があるから、今のやり取りもそれを狙っていたのだと思う。それなのに、なぜか、いつになく冷めた声を返してくる。
 怒らせてしまっただろうかと、わずかながらもひるんでしまう。怒らせたところで、別に僕には関係ないじゃないかと思うのに。
 この女に気を遣ってしまうだなんて、最近の僕はやはりどうかしている。
 滑り台の後は鉄棒、その後はジャングルジム。手当たり次第に遊具に足を運んでは、稲川はそれで呑気のんきに遊ぶ。
 鉄棒でくるんと回転されたときには、まさか短いスカート姿でそれだけはやるまいと思っていたから、非常に焦った。露骨ろこつに目をらしてさっさと回りきれよと心の中で毒づき、そろそろいいかと視線を向け直すと稲川はまださかさになっている。
 ぎょっとして、ついスカートに目が行ってしまう。だが、スカートの中には太ももまで折り込まれたジャージがしっかり穿かれていた。
 ――完全に遊ばれている。

「んふふ。見えるわけないじゃん、期待した?」

 ……してねえよ、くそ。
 なんなんだ、本当に。なんで僕が焦らなきゃいけないんだ。
 さっさと本題を済ませて帰りたい。というより、稲川の気まぐれでしかないこんなやり取りに、律儀に付き合ってやる必要はない。

「……帰る」
「あー! 待って待って、ごめんってば!」

 鉄棒を回り終え、慌てて走り寄ってくる稲川に冷めた視線を向けつつ、僕は帰路に就くつもりで鳥居を目指した……だが。

「にー」

 ぐいっとなにかにズボンのすそを引っ張られ、反射的に背筋が強張こわばる。
 ゆっくりと視線を下げると、そこにはふてぶてしい顔をした三毛の野良猫の姿があった。飯はまだか、と言わんばかりにガシガシと足を叩かれ、僕は思わず目元を押さえた。

「おー! ありがと猫ちゃん、ご褒美におやつあるよ~」
「んにー」

 あっさりと僕に追いついた稲川が、背負っていたかばんを下ろしてガサゴソと中をあさり出す。
 そういえば、昼に『猫のえさを持ってきている』と言っていた。それも僕が与えていたような安物のえさなどではなく、上質な旨味をたたえた、値の張る猫缶。買ったって言ってたもんな、昼休みに。
 稲川が差し出した高級猫缶に、三毛猫は勢い良く食いついた。
 心なしか、僕がえさをやっていたときよりも嬉しそうだ。物言わぬ猫に親しみを覚えた時期もあったが、稲川との謎のシンクロを見せることが増えた現在のこの猫は、僕にとって厄介やっかい者に近かった。


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