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1巻
1-2
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なんなんだ。くそ、職員室はまだか。
廊下がいつもより長いような錯覚までしてくる。ノートの回収を僕に頼んだ担任に恨みの矛先が向かいそうになり、違う、諸悪の根源はこの女だ、と頭を抱えたくなった。ノートの束に両手を取られているせいで叶わなかったが。
もはや意地を貫く形で稲川をスルーし続け、ようやく職員室の前に辿り着く。
ノートの束を膝を上げて支えつつ、引き戸に手をかける。
教室のときとは異なり、稲川は戸を引いてはくれなかった。別に頼む気もないし、引いてくれないからと言って困ることなどひとつもないが。
この二週間で気づいたことだが、稲川はどうやら職員室が苦手らしい。おそらく、生活指導の教師に目をつけられているからだ。
こういうときには大概、少し離れた場所で僕の戻りを待っている。苦手なら、行き先が職員室だと分かっていてなぜついてきたのか、理解に苦しむ。最初から来なければいいのに。
担任と、当たり障りのないやり取りを交わす。
二年に上がってからの担任は、一年の頃の担任に比べて、無気力な僕との距離の取り方がうまい。一年の頃の担任はなんでもかんでもやる気で片づけたがるタイプだったから、正直苦手だった。
クラスの担任は、どうしても関わらなければならない相手だ。上位の成績さえ取っておけばあれこれ口を挟んでこない今の担任のほうが、なるべく他人と距離を置きたい僕としてはやりやすい。
職員室を出て、僕は小さく息をついた。そのままふと周囲を見渡す。
稲川の姿はどこにも見当たらない。……え、いない?
そんなわけがない、と思わずきょろきょろと視線を動かしてしまった、そのときだった。
「わっ!!」
「……っ」
職員室脇にある掃除ロッカーの陰から突然飛び出してきた稲川と、バッチリ目が合った。
……不覚にもビクッとしてしまった自分が呪わしかった。周囲を見渡して姿を捜したというだけでも失態に等しいのに、こんなにも安っぽい方法に、こんなにも分かりやすい反応を示してしまった。
最悪だ。
本当に、なんなんだ、この女。
「あっははー。もしかして捜した?」
口を開いたら負け。口を開いたら、負けだ。
苛立ちに必死に蓋をしながら、僕は無言で教室に戻った。
帰ろう。つきまとってくるこの女を振りきって、一刻も早く、走ってでも家に帰らなければ。
イライラする。なんでこうもイライラするんだろう。この女を相手にイライラしてしまっている自分にまたイライラする。悪循環はいつになっても終わらない。
余計な感情は要らない。あと半年でこの世のどこにもいなくなる僕は、最後まで、なにも要らないと思い続けていなければならないのに。
職員室に向かったときよりも、苛立ちは明らかに強まっていた。
教室の扉を引く勢いに不快感が滲み出ないよう、僕は神経を尖らせた。この苛立ちを、感情の蠢きを、稲川に悟られてはならない。
そんなことを強く意識していなければならない時点で、僕は、すでに相当この女に振り回されているのだろう。そのことにはもう気づいていて、だが、まだ明確に自覚したくはなかった。
自席に戻り、通学鞄を手に取る。努めて冷静に机の中身を鞄にしまいつつ、茶髪女が自席の真ん前に立った気配を感じ取った。その眼前に、一冊のノートを突きつけてやる。
きょとんとノートを見つめる稲川がなにか言い出すよりも先に、口を開く。
そして、初めて自分からこの女と話をするために、僕は深く息を吸い込んだ。
「数学の宿題だ。明日の」
「え?」
「貸してやるから、もうついてくるな」
大きく目を見開いた茶髪女の手元に、強引にノートを押しつける。勢いで端が折れてしまったが、気にしている余裕はなかった。
目を合わせず、会話を切るようにして鞄を掴み、教室を出た。
後には、呆然とその場に立ち尽くした稲川が残った……のだと思う。早々に教室から立ち去った僕には、その詳細を知る由もなかった。
足早に階段を駆け下りる。稲川が追いかけてくる様子はなかった。
よし。これであの女は満足して、もう僕につきまとってこなくなるだろう。そんな安堵に包まれていたのだが、昇降口で下駄箱から靴を取り出したときにふと気づいた。
……ノートを返してもらうときに、また絡まれる流れじゃないか、これ?
盛大な溜息が零れそうな気がしたから、意識的に口を開かないよう努めた。
眼前の不快感から逃れるために、問題を先延ばしにしただけ。僕は基本的に人付き合いに慣れていないままこの齢まで生きてきてしまったから、どうしたって詰めが甘くなる。
こういう目に遭わざるを、得なくなる。
なんとなく鬱々とした気分のまま、校門を出た。
稲川のことを頭から振り払おうと、僕は早足で道を進んでいく。学校の前を通っている大きな道を越え、閑静な住宅街に差しかかったところで、ふと思い出した。
寄り道することを、朝の時点で決めていたのだ。
学校から歩いて五分程度の、住宅街のど真ん中に佇む神社。そこの鳥居を僕はそっとくぐった。
古い賽銭箱の裏から、一匹の三毛猫が顔を出す。僕はその野良猫を前に、通学鞄の中身をゴソゴソと漁った。
人気のないこの小さな神社の境内で、ガリガリに痩せ細ったこの野良猫を見つけたのは、今年の七月下旬、夏休み中の雨の日のことだった。バターだったかマーガリンだったかを買ってきてくれと母親に使いを頼まれた帰り道に、ずぶ濡れになっていたこの猫と偶然出会ったのだ。
真正面からバッチリ目が合ったせいで、見なかったことにするのは気が引けてしまった。どうにも放っておけず、近くのコンビニで一番安いキャットフードを買って与えたのが始まりだ。
最初こそコンビニで買ったものを与えたが、それ以降は、スーパーやホームセンターで特売になっている安価なキャットフードに切り替えた。コンビニの猫缶は持ち運びには便利だが、値が張るから購入をためらってしまう。バイトをしていない僕の収入源は、ひと月五千円の小遣いだけだ。出費は極力抑えたい。いくら来年には死ぬのだといっても、そこは譲れなかった。
家から持ってきたキャットフードを鞄からそっと取り出す。すると、野良猫は「早く寄越せ」と言いたげに僕の靴をカリカリ引っ掻き出した。
鬱陶しい。爪先でそっと押し返しつつ、ビニール袋の口を簡単に折って、なんとなく皿っぽい形にしてから差し出してやる。
……猫はいい。余計なことを喋らない。
勢い良く中身を食み始めた野良猫を眺めつつ、飼うのは無理かな、とぼんやり思う。
多分、親は反対しない。家は戸建てだし、昔、母親が猫を飼っていたという話を聞いたこともある。それに、父親も僕も動物のアレルギーはない。「自分で面倒を見るならいい」くらいのことは言われるだろうが、頭ごなしに反対されはしないだろうと踏んでいる。だが。
結局、これは僕自身の問題なのだ。
僕は猫を飼ったことがないから、この猫の齢がいくつくらいなのかなんて分からない。でも、僕よりは長生きするだろう。となれば、僕にこの猫の面倒を最後まで見ることはできない。
そうと分かっていて安易に飼い始めるだなんて、そんな無責任な話もないよなと思ってしまう。
そもそも、飼えない癖にこうやって安易に餌を与えたり構ったりすることが、本来禁じられるべきことだとも分かっている。気まぐれでやっていいことではないということも。
僕は、なにに対しても責任を負えない。
この猫だけに限らず、なんでもだ。自分自身の人生にさえ。
「……仕方ないよな……」
ぽつりと声が零れた。ビニール袋の中身はすでにからっぽで、野良猫が訝しそうな顔をして僕を見ている。
猫特有の縦長の瞳孔が、まっすぐに僕を向く。目が合った。
この猫をどうしてやることもできないのだと分かっているのに、どうして僕はあの日以降、こうやって餌をやり続けているんだろう。
関心があるということとは違う気がする。その癖、違わない気もしてしまう。
もしかして僕は、なににも関心がないのではなく、なにかに関心を持つことを避けているだけなのではという気がして、それ以上は考えることをやめにした。
今日はもう帰ろう。
学校を出たときよりも遥かに強くなった西日に目を細め、僕は立ち上がる。
出会って以来、猫には一度も触れていない。撫でてしまったら最後、もう後に引けなくなる気がしてならなかった。
僕は今日もまた、猫から引っ掻かれたり目を向けられたりと一方的に絡まれることを鬱陶しく思いながら、この場を去るだけだ。
噛まれたせいで穴があいてボロボロになったビニール袋を拾い上げ、軽く縛ってから鞄に突っ込む。にゃ、と短く鳴いた猫には視線を向けず、僕は神社を後にした。
帰りの道すがら、あの猫、なにかに似てるなと不意に思った。
……ああ、もしかしてそれ、稲川衣梨奈じゃないか。
一方的に僕に絡んできてはひとりで笑っている、相手の迷惑をまるで考えない気まぐれ女――そう気づいたのは、自宅に到着した後だった。
*
翌日。
「井荻ー、ノートありがとねー」
登校して自席に着くと、予想通り、稲川は宿題のノートを返しにやってきた。
机の前に立ちはだかった茶髪女から、奪い取るようにしてノートを回収する。向こうはなにか話し続けていたけれど、早々に一時限目の準備を始めて徹底的に無反応を貫いた。
しばらくすると、稲川は飽きたのか、唐突に口を閉じて友人のもとへ駆けていく。楽しそうに談笑する彼女を見て安堵した。僕のことは放っておいて、ずっとそうしていてくれ。
この二週間、登下校時や放課後のみならず、授業と授業の間にまで絡まれている。憂鬱でならない。始業のチャイムを聞きながら、僕は小さく溜息をついた。
しかしそれ以降、茶髪女はなぜか僕に絡んではこなかった。
不審に思ったものの、逆にそういう思考こそが危ないと昨日職員室前で思い知ったばかりじゃないか、とすぐに考えを改める。
もしかしたら、昨日から強まっている苛立ちと不機嫌が、顔や行動に出ていたのかもしれない。
それであの稲川衣梨奈が遠慮するとは到底思えないのも、また事実ではあったが。
結局、放課後にはさも当然のごとく話しかけられた。
帰宅の準備を進めていたところ、唐突に机に影がさしたのだ。誰なのかは見なくても分かる。最悪だ。
今日、日中にあまり絡んでこなかったのは、単に向こうの気まぐれなのかもしれない。今までもそうだったじゃないかと、僕は心の中で舌打ちをした。
この茶髪女は、いつもこうやって僕の調子を掻き乱しては狂わせる。
「ねえ、井荻って今日ヒマ? 私さ、こないだから行きたいって思ってたお店があってねー」
僕は暇だとはひと言も言っていない。今日はこの女と喋ってすらいない。
この一方通行感にもそろそろ慣れてきた。無論、これっぽっちも慣れたくなどないが。
まともに話を聞いてやる気はなかったけれど、駅前だかどこだかに新しくオープンしたカフェだか雑貨屋だかへ一緒に行こう、という誘いらしかった。
「行かない」
稲川は店の説明を続けていたが、途中で話を遮る形で断った。
えー、と大袈裟なほどがっかりした声をあげる稲川は、まるでドタキャンでもされたみたいに不満げな顔をしている。
ふざけた反応だ。またイライラしてきた。
「……予定があるんだ。悪いけど」
思った以上に平坦な声が零れた。
稲川が驚いたように目を瞠る。僕はなんとなく気まずくなって、元々直視はしていなかった彼女の顔から目を逸らしながら席を立った。そして、なにか言いたげな茶髪女の返事を待たずに教室を出た。
いつもなら、断った直後に教室から出ていく。だが、今日は思わず言い訳じみたことを口走ってしまった。
そのことに、僕は多分、茶髪女以上に困惑していた。
なんでわざわざあんなことをしたんだ。なにか返せば相手の思う壺だと分かっていながら、馬鹿みたいだ。
昨日も、必要もないのに宿題のノートを貸してまで干渉を振りきろうとして、結果的に稲川が僕に絡むチャンスを与えてしまった。あの女を面白がらせるだけなのに、近頃の僕は、うっかりやり取りを成立させてしまう。
稲川衣梨奈は僕の天敵だ。あの女に関わると碌なことがないと、この二週間で身をもって学んだはずだ。
だというのに、一体なにをやっているんだろう、僕は。
イライラする。自分の部屋に閉じこもってからも苛立ちは収まらなくて、そんな自分にまたむしゃくしゃして……悪循環にもほどがある。苛立ちであれ不快感であれ、僕は自分の中に潜んでいる感情の蠢きなんか、知らないままでいたいのだ。
そんなものは、あと半年で死ぬ僕には不要だ。
そもそも、この世から消える日までのカウントダウンを指折り数えていること自体が、どう考えても僕らしくない。あと半年でその日が訪れるということなんて、もうずっと、大して気にすることでもないと思っているのに。
稲川が僕を標的にする理由が分からない。
調子が狂う。つきまとわないでほしいと心底思う。そもそも、あの女の行動理由などどうだっていいじゃないかと思い至って……どう考えても良くない傾向だ。
嫌気が差してくる。
最近の僕は、だいぶ、おかしい。
*
厚化粧女に絡まれる学校生活が続き、気がつけば九月最後の金曜。ようやく週末が訪れた。
浮き立った雰囲気は昼を過ぎた頃から徐々に膨れ上がっていたが、放課後となった今、それはかなり顕著だ。教室中を余すところなく満たすその空気に、僕もそっと身を預ける。
明日からの二連休、なにか予定が入っているわけではない。とはいえ、単純に休日は好きだ。二学期が始まって以降は、稲川衣梨奈という厄介者に絡まれる心配がなくなるという、絶対的な安心感も生まれた。
「明日の映画、サトウも一緒に行く~?」
「あーごめん。私、明日も部活なんだよねー朝から」
「そっかぁ……ミサキも塾だって言ってたし、どうしよっかなぁ」
教室内を漂うざわめきの中から、女子たちが交わす会話が勝手に耳に入ってくる。
楽しそうだなと思うが、それだけだ。羨ましくはないし、交ざりたいとも思わない。相手が男子であれ女子であれ、彼らの話に対して僕が興味を抱くことは皆無だった。
ちなみに、僕は部活には入っていないし、塾にも行っていない。だから、この休日は勉強しようと考えていた。
成績は、現在のところ上の中程度をキープしている。体感としては、常に学年で二十番から三十番以内をうろうろしておくのがベターだ。良すぎると無益な競争に巻き込まれかねないし、教師からの期待も膨らんでしまう。
どうせ死ぬなら勉強する必要だってないのでは、と言われてしまえばそれまでだが、両親から小言を並べられないくらいの成績を維持していたほうが、なにかと楽だ。
両親――特に母親は、僕の大学進学についてかなり気を揉んでいるようだが、現時点ではある程度の成績を取ることができているから、今のところ進路についてとやかく言われることはない。言うなれば、彼らへのポーズという意味で勉強している意味合いが強い。進学前にこの世を去る以上、両親の期待に添えないことはすでに決定しているのだが。
将来の役に立つわけでもなんでもない、僕にとってはスムーズに死を迎えるためだけの勉学。虚しい気はするけれど、仕方がない。
勉学に励むことは嫌いではないが、良い成績を取り続けることはそう簡単ではない。しかし、塾へ通えば人と関わらなければならない。それは避けたかった。だから、塾に行かずとも両親を納得させられるよう、休日にはだいたい勉強をして過ごしているのだ。
ざわざわと楽しそうに喋りながら教室を出ていくクラスメイトの波に乗り、僕も帰路に就いた。
聞こえてくるクラスメイトの名前は、聞き覚えがあったりなかったりとまちまちだ。ただ、顔と名前が完全に一致している人間はひとりとしていなかった。……いや、ひとりだけ、いるにはいるわけだが。
「ふふん。逃げようったってそうはいかないんだから」
校門を出たところで、顔と名前が一致する唯一のクラスメイトに不意に声をかけられ、僕は思わず片手で目元を覆った。
声をかけられるよりも先に教室を出たというのに、なぜか稲川は校門の傍で待ちぶせしていた。ストーカーかよ、と心の中で毒づく。
「……待ちぶせとか……頭大丈夫か、あんた」
「まぁ良くはないけどね」
「知ってる……」
そういう意味で言っているわけではない、というツッコミは避けた。会話を続けたい気持ちは一切ないからだ。
本人の言う通り、稲川の成績はクラスでも学年でも下から数えたほうが早い。そのことは知っていた。無論、本人から聞かされたのだが、わざわざ記憶してしまっていることに改めて苛立った。
まるで、この女に関心を持っているみたいだ。
僕が時間をかけて積み重ねてきた安寧を、この女に壊されかけている。以前はなにかに腹を立てることさえ滅多になかったのに。
嫌になる。こんな感情は、邪魔でしかない。
「ねえ、今日はどこ行くの? ……あっ」
無視して歩き出すことにした。稲川は「ちょっとぉ!」と不機嫌そうに声を荒らげながら、ノコノコと僕の斜め後ろをついてくる。
気が滅入る。面倒すぎて逃げる気にもなれない。だからといって歩幅を合わせてやるのは癪だ。
そして、そんなことを延々と考え続けていること自体が、なによりも癪だった。
「はーん。分かった、あの猫のところに行くんでしょ」
しばらく無言を貫いて歩いていたが、唐突に背後から稲川の声がして、つい振り返ってしまった。分かってるんだから、と言わんばかりの得意げな顔がまた新たな苛立ちを生む。だが、躍起になって否定するのも面倒だった。
僕が向かおうとしている先は、稲川が指摘したそれがそのまま正解で、あの三毛猫がいる神社だ。しかし、今まで稲川がそこまでついてきたことはなかった。
それなのに知っているということは、こっそり尾行でもされていたのかもしれない。なにを考えているのか分からないこの女のことだ、十分にあり得る話だった。
ついてくるなと言ったところで、どうせ来る。だからなにも言わないことにした。
これ以上、この女と余計な会話を積み重ねたくなかった。強めにそう意識していないと、近頃では簡単に返事をしてしまいそうになることばかりだ。
いっそ、「僕、来年死ぬんだ」と打ち明けてしまったほうが気が楽だろうか。
頭がおかしい奴だと思われるかもしれないが、そう思ってもらえれば、こいつも過ぎた干渉をやめるかもしれない。
そんな考えを名案だと思ってしまいそうな時点で、僕も相当参っているのだと思う。人付き合いの経験そのものが乏しい僕には、結局、どうするのが正解なのか分からない。
住宅街のど真ん中にある小さな神社。鳥居をくぐり、本殿の横を通る細い砂利道に入る。途端に「にー」と細い鳴き声が聞こえた。なぜか稲川がふふ、と笑う。
「やっほー、にゃんこ。ご主人様がおやつ持ってきたぞー」
……「ご主人様」じゃないだろ、僕もあんたも。
そのツッコミは、心の中だけに留める。
思わず口を挟みたくなることが増えた。まさかこの頭の悪そうな女がそこまで画策して喋っているとも思えないが、開きかけた口をごまかすのも、そろそろ不自然になってきている気がする。
今日もまた、家から持ってきた安価なキャットフードを鞄から取り出す。それを差し出すと、にー、とさっきより少し大きく鳴いた猫はすぐさま食み始めた。
ポリポリ、ポリポリ。軽めの咀嚼音が、寂れた景色の中に響いては消える。
茶髪女に行動を読まれるくらい頻度が上がっていたなら、この餌やりももうやめるべきなのかもしれない。この猫と過ごす時間は嫌いではなかったが、そろそろ終わりにしなければ。もうすぐ死ぬ僕は、なにもしてやれないのだから。
別れが惜しいわけではなかったものの、なんとなく物寂しさを感じて猫の頭に触れようとすると、猫は僕の手を避けるみたいにスッと傍を離れた。
僕自身、単なる気まぐれでこんなことをしているつもりでいるが、猫は猫で大概気まぐれな生き物なのだろう。餌を用意した僕のことなんて振り返りもせず、出入り口のほうに歩を進めていく。しかし境内から出ずに、猫は鳥居の直前で左へ曲がった。
そちら側にはちょっとした遊び場があり、古びた遊具がいくつか並んでいる。
猫の歩む方向へなんの気なしに視線を向けると、ブランコを立ち漕ぎしている稲川の姿があった。
……なにやってんだ、あいつ。
茶髪で厚化粧の女子高生が古びたブランコで遊ぶ光景は驚くほどシュールで、僕は笑えばいいのか目を背ければいいのか、反応に困ってしまう。
しかし、猫はどんどん進んでいくから、僕も遊び場の方向に歩かざるを得ない。
僕と猫の気配に気づいたのか、稲川はブランコの勢いを緩め、座ってから動きを完全に止めた。立ち漕ぎの状態からジャンプで飛び降りそうな性格だと思っていたから、まともな降り方をしたことが意外に思えてくる。
「昔ね、ママと一緒によく遊びに来てたんだ。ここ」
「……へえ」
知らねえよ、別に聞いてねえし。
そう思ったものの、それをそのまま口に出すわけにもいかず、僕は適当な相槌を挟むに留めた。
申し訳程度の遊具が並ぶ、公園と呼ぶのも憚られるちっぽけな遊び場は、柵などで仕切られているでもなく、誰もが自由に出入りできる。
とはいっても、いつ来てもだいたい誰もいない。閑散としている。無論、今も。
ふたりと猫一匹しかいないそこに、子供向けの古びた遊具がぽつん、ぽつん、と配置されているさまは、哀愁が漂っている。神社そのものも寂れた雰囲気に満ちているが、この遊び場も同様だ。
そのとき、不意ににー、と鳴き声が聞こえ、我に返った。
見ると、猫は僕が餌をやっているときよりも心なしか甘えた声を出しながら、稲川の足元にすり寄っている。
……なんだこいつ、いきなり。女好きなのかな。
「おっ? なになに、ご主人様はあっちだぞ~」
若干嬉しそうな稲川の声に、だから僕はこいつのご主人様ではない、と内心で毒づく。
やはり、この猫に構うのはこれで最後にしようと改めて思う。飼えもしない癖に中途半端に可愛がったところで仕方がない。僕もこの猫も、幸せにはなれない。
はぁ、と小さな溜息が零れてしまったとき、稲川がおもむろに口を開いた。
廊下がいつもより長いような錯覚までしてくる。ノートの回収を僕に頼んだ担任に恨みの矛先が向かいそうになり、違う、諸悪の根源はこの女だ、と頭を抱えたくなった。ノートの束に両手を取られているせいで叶わなかったが。
もはや意地を貫く形で稲川をスルーし続け、ようやく職員室の前に辿り着く。
ノートの束を膝を上げて支えつつ、引き戸に手をかける。
教室のときとは異なり、稲川は戸を引いてはくれなかった。別に頼む気もないし、引いてくれないからと言って困ることなどひとつもないが。
この二週間で気づいたことだが、稲川はどうやら職員室が苦手らしい。おそらく、生活指導の教師に目をつけられているからだ。
こういうときには大概、少し離れた場所で僕の戻りを待っている。苦手なら、行き先が職員室だと分かっていてなぜついてきたのか、理解に苦しむ。最初から来なければいいのに。
担任と、当たり障りのないやり取りを交わす。
二年に上がってからの担任は、一年の頃の担任に比べて、無気力な僕との距離の取り方がうまい。一年の頃の担任はなんでもかんでもやる気で片づけたがるタイプだったから、正直苦手だった。
クラスの担任は、どうしても関わらなければならない相手だ。上位の成績さえ取っておけばあれこれ口を挟んでこない今の担任のほうが、なるべく他人と距離を置きたい僕としてはやりやすい。
職員室を出て、僕は小さく息をついた。そのままふと周囲を見渡す。
稲川の姿はどこにも見当たらない。……え、いない?
そんなわけがない、と思わずきょろきょろと視線を動かしてしまった、そのときだった。
「わっ!!」
「……っ」
職員室脇にある掃除ロッカーの陰から突然飛び出してきた稲川と、バッチリ目が合った。
……不覚にもビクッとしてしまった自分が呪わしかった。周囲を見渡して姿を捜したというだけでも失態に等しいのに、こんなにも安っぽい方法に、こんなにも分かりやすい反応を示してしまった。
最悪だ。
本当に、なんなんだ、この女。
「あっははー。もしかして捜した?」
口を開いたら負け。口を開いたら、負けだ。
苛立ちに必死に蓋をしながら、僕は無言で教室に戻った。
帰ろう。つきまとってくるこの女を振りきって、一刻も早く、走ってでも家に帰らなければ。
イライラする。なんでこうもイライラするんだろう。この女を相手にイライラしてしまっている自分にまたイライラする。悪循環はいつになっても終わらない。
余計な感情は要らない。あと半年でこの世のどこにもいなくなる僕は、最後まで、なにも要らないと思い続けていなければならないのに。
職員室に向かったときよりも、苛立ちは明らかに強まっていた。
教室の扉を引く勢いに不快感が滲み出ないよう、僕は神経を尖らせた。この苛立ちを、感情の蠢きを、稲川に悟られてはならない。
そんなことを強く意識していなければならない時点で、僕は、すでに相当この女に振り回されているのだろう。そのことにはもう気づいていて、だが、まだ明確に自覚したくはなかった。
自席に戻り、通学鞄を手に取る。努めて冷静に机の中身を鞄にしまいつつ、茶髪女が自席の真ん前に立った気配を感じ取った。その眼前に、一冊のノートを突きつけてやる。
きょとんとノートを見つめる稲川がなにか言い出すよりも先に、口を開く。
そして、初めて自分からこの女と話をするために、僕は深く息を吸い込んだ。
「数学の宿題だ。明日の」
「え?」
「貸してやるから、もうついてくるな」
大きく目を見開いた茶髪女の手元に、強引にノートを押しつける。勢いで端が折れてしまったが、気にしている余裕はなかった。
目を合わせず、会話を切るようにして鞄を掴み、教室を出た。
後には、呆然とその場に立ち尽くした稲川が残った……のだと思う。早々に教室から立ち去った僕には、その詳細を知る由もなかった。
足早に階段を駆け下りる。稲川が追いかけてくる様子はなかった。
よし。これであの女は満足して、もう僕につきまとってこなくなるだろう。そんな安堵に包まれていたのだが、昇降口で下駄箱から靴を取り出したときにふと気づいた。
……ノートを返してもらうときに、また絡まれる流れじゃないか、これ?
盛大な溜息が零れそうな気がしたから、意識的に口を開かないよう努めた。
眼前の不快感から逃れるために、問題を先延ばしにしただけ。僕は基本的に人付き合いに慣れていないままこの齢まで生きてきてしまったから、どうしたって詰めが甘くなる。
こういう目に遭わざるを、得なくなる。
なんとなく鬱々とした気分のまま、校門を出た。
稲川のことを頭から振り払おうと、僕は早足で道を進んでいく。学校の前を通っている大きな道を越え、閑静な住宅街に差しかかったところで、ふと思い出した。
寄り道することを、朝の時点で決めていたのだ。
学校から歩いて五分程度の、住宅街のど真ん中に佇む神社。そこの鳥居を僕はそっとくぐった。
古い賽銭箱の裏から、一匹の三毛猫が顔を出す。僕はその野良猫を前に、通学鞄の中身をゴソゴソと漁った。
人気のないこの小さな神社の境内で、ガリガリに痩せ細ったこの野良猫を見つけたのは、今年の七月下旬、夏休み中の雨の日のことだった。バターだったかマーガリンだったかを買ってきてくれと母親に使いを頼まれた帰り道に、ずぶ濡れになっていたこの猫と偶然出会ったのだ。
真正面からバッチリ目が合ったせいで、見なかったことにするのは気が引けてしまった。どうにも放っておけず、近くのコンビニで一番安いキャットフードを買って与えたのが始まりだ。
最初こそコンビニで買ったものを与えたが、それ以降は、スーパーやホームセンターで特売になっている安価なキャットフードに切り替えた。コンビニの猫缶は持ち運びには便利だが、値が張るから購入をためらってしまう。バイトをしていない僕の収入源は、ひと月五千円の小遣いだけだ。出費は極力抑えたい。いくら来年には死ぬのだといっても、そこは譲れなかった。
家から持ってきたキャットフードを鞄からそっと取り出す。すると、野良猫は「早く寄越せ」と言いたげに僕の靴をカリカリ引っ掻き出した。
鬱陶しい。爪先でそっと押し返しつつ、ビニール袋の口を簡単に折って、なんとなく皿っぽい形にしてから差し出してやる。
……猫はいい。余計なことを喋らない。
勢い良く中身を食み始めた野良猫を眺めつつ、飼うのは無理かな、とぼんやり思う。
多分、親は反対しない。家は戸建てだし、昔、母親が猫を飼っていたという話を聞いたこともある。それに、父親も僕も動物のアレルギーはない。「自分で面倒を見るならいい」くらいのことは言われるだろうが、頭ごなしに反対されはしないだろうと踏んでいる。だが。
結局、これは僕自身の問題なのだ。
僕は猫を飼ったことがないから、この猫の齢がいくつくらいなのかなんて分からない。でも、僕よりは長生きするだろう。となれば、僕にこの猫の面倒を最後まで見ることはできない。
そうと分かっていて安易に飼い始めるだなんて、そんな無責任な話もないよなと思ってしまう。
そもそも、飼えない癖にこうやって安易に餌を与えたり構ったりすることが、本来禁じられるべきことだとも分かっている。気まぐれでやっていいことではないということも。
僕は、なにに対しても責任を負えない。
この猫だけに限らず、なんでもだ。自分自身の人生にさえ。
「……仕方ないよな……」
ぽつりと声が零れた。ビニール袋の中身はすでにからっぽで、野良猫が訝しそうな顔をして僕を見ている。
猫特有の縦長の瞳孔が、まっすぐに僕を向く。目が合った。
この猫をどうしてやることもできないのだと分かっているのに、どうして僕はあの日以降、こうやって餌をやり続けているんだろう。
関心があるということとは違う気がする。その癖、違わない気もしてしまう。
もしかして僕は、なににも関心がないのではなく、なにかに関心を持つことを避けているだけなのではという気がして、それ以上は考えることをやめにした。
今日はもう帰ろう。
学校を出たときよりも遥かに強くなった西日に目を細め、僕は立ち上がる。
出会って以来、猫には一度も触れていない。撫でてしまったら最後、もう後に引けなくなる気がしてならなかった。
僕は今日もまた、猫から引っ掻かれたり目を向けられたりと一方的に絡まれることを鬱陶しく思いながら、この場を去るだけだ。
噛まれたせいで穴があいてボロボロになったビニール袋を拾い上げ、軽く縛ってから鞄に突っ込む。にゃ、と短く鳴いた猫には視線を向けず、僕は神社を後にした。
帰りの道すがら、あの猫、なにかに似てるなと不意に思った。
……ああ、もしかしてそれ、稲川衣梨奈じゃないか。
一方的に僕に絡んできてはひとりで笑っている、相手の迷惑をまるで考えない気まぐれ女――そう気づいたのは、自宅に到着した後だった。
*
翌日。
「井荻ー、ノートありがとねー」
登校して自席に着くと、予想通り、稲川は宿題のノートを返しにやってきた。
机の前に立ちはだかった茶髪女から、奪い取るようにしてノートを回収する。向こうはなにか話し続けていたけれど、早々に一時限目の準備を始めて徹底的に無反応を貫いた。
しばらくすると、稲川は飽きたのか、唐突に口を閉じて友人のもとへ駆けていく。楽しそうに談笑する彼女を見て安堵した。僕のことは放っておいて、ずっとそうしていてくれ。
この二週間、登下校時や放課後のみならず、授業と授業の間にまで絡まれている。憂鬱でならない。始業のチャイムを聞きながら、僕は小さく溜息をついた。
しかしそれ以降、茶髪女はなぜか僕に絡んではこなかった。
不審に思ったものの、逆にそういう思考こそが危ないと昨日職員室前で思い知ったばかりじゃないか、とすぐに考えを改める。
もしかしたら、昨日から強まっている苛立ちと不機嫌が、顔や行動に出ていたのかもしれない。
それであの稲川衣梨奈が遠慮するとは到底思えないのも、また事実ではあったが。
結局、放課後にはさも当然のごとく話しかけられた。
帰宅の準備を進めていたところ、唐突に机に影がさしたのだ。誰なのかは見なくても分かる。最悪だ。
今日、日中にあまり絡んでこなかったのは、単に向こうの気まぐれなのかもしれない。今までもそうだったじゃないかと、僕は心の中で舌打ちをした。
この茶髪女は、いつもこうやって僕の調子を掻き乱しては狂わせる。
「ねえ、井荻って今日ヒマ? 私さ、こないだから行きたいって思ってたお店があってねー」
僕は暇だとはひと言も言っていない。今日はこの女と喋ってすらいない。
この一方通行感にもそろそろ慣れてきた。無論、これっぽっちも慣れたくなどないが。
まともに話を聞いてやる気はなかったけれど、駅前だかどこだかに新しくオープンしたカフェだか雑貨屋だかへ一緒に行こう、という誘いらしかった。
「行かない」
稲川は店の説明を続けていたが、途中で話を遮る形で断った。
えー、と大袈裟なほどがっかりした声をあげる稲川は、まるでドタキャンでもされたみたいに不満げな顔をしている。
ふざけた反応だ。またイライラしてきた。
「……予定があるんだ。悪いけど」
思った以上に平坦な声が零れた。
稲川が驚いたように目を瞠る。僕はなんとなく気まずくなって、元々直視はしていなかった彼女の顔から目を逸らしながら席を立った。そして、なにか言いたげな茶髪女の返事を待たずに教室を出た。
いつもなら、断った直後に教室から出ていく。だが、今日は思わず言い訳じみたことを口走ってしまった。
そのことに、僕は多分、茶髪女以上に困惑していた。
なんでわざわざあんなことをしたんだ。なにか返せば相手の思う壺だと分かっていながら、馬鹿みたいだ。
昨日も、必要もないのに宿題のノートを貸してまで干渉を振りきろうとして、結果的に稲川が僕に絡むチャンスを与えてしまった。あの女を面白がらせるだけなのに、近頃の僕は、うっかりやり取りを成立させてしまう。
稲川衣梨奈は僕の天敵だ。あの女に関わると碌なことがないと、この二週間で身をもって学んだはずだ。
だというのに、一体なにをやっているんだろう、僕は。
イライラする。自分の部屋に閉じこもってからも苛立ちは収まらなくて、そんな自分にまたむしゃくしゃして……悪循環にもほどがある。苛立ちであれ不快感であれ、僕は自分の中に潜んでいる感情の蠢きなんか、知らないままでいたいのだ。
そんなものは、あと半年で死ぬ僕には不要だ。
そもそも、この世から消える日までのカウントダウンを指折り数えていること自体が、どう考えても僕らしくない。あと半年でその日が訪れるということなんて、もうずっと、大して気にすることでもないと思っているのに。
稲川が僕を標的にする理由が分からない。
調子が狂う。つきまとわないでほしいと心底思う。そもそも、あの女の行動理由などどうだっていいじゃないかと思い至って……どう考えても良くない傾向だ。
嫌気が差してくる。
最近の僕は、だいぶ、おかしい。
*
厚化粧女に絡まれる学校生活が続き、気がつけば九月最後の金曜。ようやく週末が訪れた。
浮き立った雰囲気は昼を過ぎた頃から徐々に膨れ上がっていたが、放課後となった今、それはかなり顕著だ。教室中を余すところなく満たすその空気に、僕もそっと身を預ける。
明日からの二連休、なにか予定が入っているわけではない。とはいえ、単純に休日は好きだ。二学期が始まって以降は、稲川衣梨奈という厄介者に絡まれる心配がなくなるという、絶対的な安心感も生まれた。
「明日の映画、サトウも一緒に行く~?」
「あーごめん。私、明日も部活なんだよねー朝から」
「そっかぁ……ミサキも塾だって言ってたし、どうしよっかなぁ」
教室内を漂うざわめきの中から、女子たちが交わす会話が勝手に耳に入ってくる。
楽しそうだなと思うが、それだけだ。羨ましくはないし、交ざりたいとも思わない。相手が男子であれ女子であれ、彼らの話に対して僕が興味を抱くことは皆無だった。
ちなみに、僕は部活には入っていないし、塾にも行っていない。だから、この休日は勉強しようと考えていた。
成績は、現在のところ上の中程度をキープしている。体感としては、常に学年で二十番から三十番以内をうろうろしておくのがベターだ。良すぎると無益な競争に巻き込まれかねないし、教師からの期待も膨らんでしまう。
どうせ死ぬなら勉強する必要だってないのでは、と言われてしまえばそれまでだが、両親から小言を並べられないくらいの成績を維持していたほうが、なにかと楽だ。
両親――特に母親は、僕の大学進学についてかなり気を揉んでいるようだが、現時点ではある程度の成績を取ることができているから、今のところ進路についてとやかく言われることはない。言うなれば、彼らへのポーズという意味で勉強している意味合いが強い。進学前にこの世を去る以上、両親の期待に添えないことはすでに決定しているのだが。
将来の役に立つわけでもなんでもない、僕にとってはスムーズに死を迎えるためだけの勉学。虚しい気はするけれど、仕方がない。
勉学に励むことは嫌いではないが、良い成績を取り続けることはそう簡単ではない。しかし、塾へ通えば人と関わらなければならない。それは避けたかった。だから、塾に行かずとも両親を納得させられるよう、休日にはだいたい勉強をして過ごしているのだ。
ざわざわと楽しそうに喋りながら教室を出ていくクラスメイトの波に乗り、僕も帰路に就いた。
聞こえてくるクラスメイトの名前は、聞き覚えがあったりなかったりとまちまちだ。ただ、顔と名前が完全に一致している人間はひとりとしていなかった。……いや、ひとりだけ、いるにはいるわけだが。
「ふふん。逃げようったってそうはいかないんだから」
校門を出たところで、顔と名前が一致する唯一のクラスメイトに不意に声をかけられ、僕は思わず片手で目元を覆った。
声をかけられるよりも先に教室を出たというのに、なぜか稲川は校門の傍で待ちぶせしていた。ストーカーかよ、と心の中で毒づく。
「……待ちぶせとか……頭大丈夫か、あんた」
「まぁ良くはないけどね」
「知ってる……」
そういう意味で言っているわけではない、というツッコミは避けた。会話を続けたい気持ちは一切ないからだ。
本人の言う通り、稲川の成績はクラスでも学年でも下から数えたほうが早い。そのことは知っていた。無論、本人から聞かされたのだが、わざわざ記憶してしまっていることに改めて苛立った。
まるで、この女に関心を持っているみたいだ。
僕が時間をかけて積み重ねてきた安寧を、この女に壊されかけている。以前はなにかに腹を立てることさえ滅多になかったのに。
嫌になる。こんな感情は、邪魔でしかない。
「ねえ、今日はどこ行くの? ……あっ」
無視して歩き出すことにした。稲川は「ちょっとぉ!」と不機嫌そうに声を荒らげながら、ノコノコと僕の斜め後ろをついてくる。
気が滅入る。面倒すぎて逃げる気にもなれない。だからといって歩幅を合わせてやるのは癪だ。
そして、そんなことを延々と考え続けていること自体が、なによりも癪だった。
「はーん。分かった、あの猫のところに行くんでしょ」
しばらく無言を貫いて歩いていたが、唐突に背後から稲川の声がして、つい振り返ってしまった。分かってるんだから、と言わんばかりの得意げな顔がまた新たな苛立ちを生む。だが、躍起になって否定するのも面倒だった。
僕が向かおうとしている先は、稲川が指摘したそれがそのまま正解で、あの三毛猫がいる神社だ。しかし、今まで稲川がそこまでついてきたことはなかった。
それなのに知っているということは、こっそり尾行でもされていたのかもしれない。なにを考えているのか分からないこの女のことだ、十分にあり得る話だった。
ついてくるなと言ったところで、どうせ来る。だからなにも言わないことにした。
これ以上、この女と余計な会話を積み重ねたくなかった。強めにそう意識していないと、近頃では簡単に返事をしてしまいそうになることばかりだ。
いっそ、「僕、来年死ぬんだ」と打ち明けてしまったほうが気が楽だろうか。
頭がおかしい奴だと思われるかもしれないが、そう思ってもらえれば、こいつも過ぎた干渉をやめるかもしれない。
そんな考えを名案だと思ってしまいそうな時点で、僕も相当参っているのだと思う。人付き合いの経験そのものが乏しい僕には、結局、どうするのが正解なのか分からない。
住宅街のど真ん中にある小さな神社。鳥居をくぐり、本殿の横を通る細い砂利道に入る。途端に「にー」と細い鳴き声が聞こえた。なぜか稲川がふふ、と笑う。
「やっほー、にゃんこ。ご主人様がおやつ持ってきたぞー」
……「ご主人様」じゃないだろ、僕もあんたも。
そのツッコミは、心の中だけに留める。
思わず口を挟みたくなることが増えた。まさかこの頭の悪そうな女がそこまで画策して喋っているとも思えないが、開きかけた口をごまかすのも、そろそろ不自然になってきている気がする。
今日もまた、家から持ってきた安価なキャットフードを鞄から取り出す。それを差し出すと、にー、とさっきより少し大きく鳴いた猫はすぐさま食み始めた。
ポリポリ、ポリポリ。軽めの咀嚼音が、寂れた景色の中に響いては消える。
茶髪女に行動を読まれるくらい頻度が上がっていたなら、この餌やりももうやめるべきなのかもしれない。この猫と過ごす時間は嫌いではなかったが、そろそろ終わりにしなければ。もうすぐ死ぬ僕は、なにもしてやれないのだから。
別れが惜しいわけではなかったものの、なんとなく物寂しさを感じて猫の頭に触れようとすると、猫は僕の手を避けるみたいにスッと傍を離れた。
僕自身、単なる気まぐれでこんなことをしているつもりでいるが、猫は猫で大概気まぐれな生き物なのだろう。餌を用意した僕のことなんて振り返りもせず、出入り口のほうに歩を進めていく。しかし境内から出ずに、猫は鳥居の直前で左へ曲がった。
そちら側にはちょっとした遊び場があり、古びた遊具がいくつか並んでいる。
猫の歩む方向へなんの気なしに視線を向けると、ブランコを立ち漕ぎしている稲川の姿があった。
……なにやってんだ、あいつ。
茶髪で厚化粧の女子高生が古びたブランコで遊ぶ光景は驚くほどシュールで、僕は笑えばいいのか目を背ければいいのか、反応に困ってしまう。
しかし、猫はどんどん進んでいくから、僕も遊び場の方向に歩かざるを得ない。
僕と猫の気配に気づいたのか、稲川はブランコの勢いを緩め、座ってから動きを完全に止めた。立ち漕ぎの状態からジャンプで飛び降りそうな性格だと思っていたから、まともな降り方をしたことが意外に思えてくる。
「昔ね、ママと一緒によく遊びに来てたんだ。ここ」
「……へえ」
知らねえよ、別に聞いてねえし。
そう思ったものの、それをそのまま口に出すわけにもいかず、僕は適当な相槌を挟むに留めた。
申し訳程度の遊具が並ぶ、公園と呼ぶのも憚られるちっぽけな遊び場は、柵などで仕切られているでもなく、誰もが自由に出入りできる。
とはいっても、いつ来てもだいたい誰もいない。閑散としている。無論、今も。
ふたりと猫一匹しかいないそこに、子供向けの古びた遊具がぽつん、ぽつん、と配置されているさまは、哀愁が漂っている。神社そのものも寂れた雰囲気に満ちているが、この遊び場も同様だ。
そのとき、不意ににー、と鳴き声が聞こえ、我に返った。
見ると、猫は僕が餌をやっているときよりも心なしか甘えた声を出しながら、稲川の足元にすり寄っている。
……なんだこいつ、いきなり。女好きなのかな。
「おっ? なになに、ご主人様はあっちだぞ~」
若干嬉しそうな稲川の声に、だから僕はこいつのご主人様ではない、と内心で毒づく。
やはり、この猫に構うのはこれで最後にしようと改めて思う。飼えもしない癖に中途半端に可愛がったところで仕方がない。僕もこの猫も、幸せにはなれない。
はぁ、と小さな溜息が零れてしまったとき、稲川がおもむろに口を開いた。
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