乾坤一擲

響 恭也

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直虎の嫁入りと新年の宴

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天正2年年末。井伊次郎法師直虎とその一族は尾張の地を踏んだ。三河も織田の経済発展の恩恵を受け、発展が進んでいたが、尾張はその三河をすら片田舎と見せるほどの発展を見せている。
「あれはいったいなんじゃ?」
「は、あれは街路樹にござるな。街道の脇に一定間隔で植えることで、距離の目安となります。また木陰で旅人が休むこともできます」
「あの小屋は?」
「番所ですな。街道の治安維持と保安を担当する兵が詰めております」
「要するにどういうことじゃ?」
「盗賊の類の討伐と、旅する者の安全を守ることが任となります」
「それをすることでどのような利がある?」
「そうですな。行商人が安全に行き来できることで商売が発展します。これによって、織田家には膨大な税が納められております。また人の往来が増えれば国内の人口が増え、更なる発展が望めます」
「なるほどの。人を土地に縛り付けるのでなく、動かすことで生まれるものがあるか」
「左様にございます。たとえばですが、米が余っているところでは味噌が足りず、味噌が余っている土地には米が足りないということをお考えくだされ。互いの余剰分を交換すれば互いに利が生まれます。ある土地で価値がないものが、ある土地では高級品だったりします。モノを動かし、利を得る。これこそが商売でございます」
「そうか、わかったぞ。モノを持っていくにも費えがかかる。そこでかかる費用を少なくすれば、値を下げても利が出る。それを国単位でやっているわけだな?」
「御明察にござります」
「ありがとう、弥八郎。わたしはあの谷を出てよかったと今初めて思った。土地にこだわらずとも好いのじゃな」
「生まれた地を去るは、身を裂かれんがごとき思いがありましょう。それも人として普通の思いにござる。ですが、新天地を求め旅立つもこれまた人としての行い。今は思うが儘になされるがよろしいかと」
「お主には迷惑をかけた。谷に残った者にも何らかの助けにならんことを思うが、今はまず婿殿に会わねばのう」
「は、今は鳴海のあたりですので、明日には黒田城に着けましょう」
「早いな。そうか、道が整っているからか。生ものを動かすには早さが重要となる。それゆえの整備でもあるな。なるほどなるほど」
 次郎法師が井伊谷の領主として立ったのはいろいろと理由がある。直系の男子が戦災で絶えたこと。後は幼少の男児が一人という状況。さらに彼女自身が領主としての才を持ち合わせていたことだ。弥八郎との会話でもわずかな手がかりからその先の事情までを類推することができる。これだけでも非常に明晰な頭脳であった。さらに快活な人柄で彼女を慕う領民が多かった。先祖伝来の土地を捨て、彼女に従った民が多かったのはこういった点もある。それにしても、500ほどの人間がぞろぞろと歩いている光景はある種異様でもあったのだが。

 翌日、井伊の一行が黒田城の前に到着した。弥八郎が先触れとなり、城門を開いて城主である織田喜六郎秀隆が出迎える。隣には彼の子の二男二女と妻二人が付き従っていた。
「井伊次郎法師殿か。お初にお目にかかる。織田喜六郎秀隆である」
「お初にお目にかかります。井伊直虎と申します。不束者ですが末永くお願い申し上げます」
「うん、遠いところよくいらっしゃった」
「そうだ、万千代。あなたもご挨拶を」
「はい、父上様。井伊万千代と申します。よろしくお願いいたします」
「うん、よく来た。よろしくな」
 秀隆は笑顔を見せて万千代の頭をなでる。これまで家族の縁が薄かった万千代は、父とはこのような方かとむず痒いような思いを覚えていた。
 その晩。側室であるゆえ、簡単な婚礼の義を行うはずだったが、秀隆は初めて妻を迎えるかのような用意を整えていた。また万千代は正式に秀隆の養子となるが、井伊の家を継ぐ意味も含め、姓はそのままとなった。付き従っていた井伊谷の民は、まず家を与えられそのうえで、長良川沿いの土地を開墾することを命じられた。開墾が終わるまでの生活費は秀隆が負担すること。費用は貸し付けという扱いとするが、収穫があってからの支払いで、税とともに返済とすること。税は五公五民。それと初期費用の返済で五分を追加との破格の条件であった。税の一部はそのまま救済倉庫に収められ、凶作や災害の際に無償で分け与えられる。事実上住民のための備蓄であり、その善政と秀隆の心遣いに次郎法師は涙したという。

 開けて天正3年正月。秀隆は直虎ほか妻子を連れて岐阜城に登城した。
「前年は皆よく働いてくれた。今年もよろしく頼む」
「家臣一同粉骨して相働きまする!」
「では、新年の宴を始める。乾杯!!」
 信長と秀隆のあいさつののち、乾杯の音頭が執られた。真っ先に権六が妻の名を叫んで酒杯を干す。横には内蔵助と又左が付き従い、杯を交わす。彼らの膝の上には当然嫁がのっかっている。すとんと。
 その有様を見た直虎は耳とか首筋まで真っ赤にして周囲を見渡していた。そして微妙に酒が入った秀隆に連れられ、信長の前に出る。
「兄上、新たに妻となりました直虎にござる」
「おお、美しきも勇ましき女性であるな。わが弟のこと、よろしく頼む」
 信長が頭を下げたのを見て直虎は激しく狼狽した。第六天魔王とか、覇王とか呼ばれている信長を内心畏怖していたのであったが、よく見ると隣にいる正室の手を握り締めている。当たり前に家族を愛する血の通った人間であると初めて気づいたような気がした。
「では、固い挨拶はここまでとしようぞ」
 そう宣言すると帰蝶をぽすんと膝の上に乗せる。
「ですなあ」
 秀隆が応じると直虎を抱き上げ同じく膝の上で抱きかかえる。
 唐突なふるまいに直虎はまた首まで真っ赤にして身じろぐが、がっしり抱きすくめられてそれ以上の動きができない。
「吉法師もそろそろ元服ですか」
「じゃのう、諱を考えておるがなかなかこれと言ってよい考えがなくての」
「うちの六郎もですよ。信の字をつけて、私と合わすと、信秀とか…」
「父上の名になるか。まあ、それもよいのではないか?」
「ふむ、そうですのう。そうそう、直虎、万千代もこちらに」
「は、え?」
「万千代はいずこにおる?」
「はい、今連れてまいります」
「おう、頼むぞ」
 直虎は秀隆の膝から立ち上がり、控えの間にいる万千代を呼びに行く。今年は直虎のお披露目もあり、桔梗とあさひはこちらで、それぞれの子供を世話しながら、ほかの妻女と話をしていた。万千代は当年13歳、六郎は10歳で、今まで長男だったのが兄ができたと非常に喜んでなついている。
「あ、桔梗様。殿が万千代を大殿に引き合わせると」
「まあ、それはようございました。万千代は利発な性分故、大殿に気に入られるに違いありません!」
「え、ええ、ありがとうございます」
 桔梗の満面の笑みは、自分の子が褒められているような感じで、まったく裏を感じさせなかった。第三夫人ということで、それなりの扱いを覚悟して嫁いだが、それは完全に杞憂に終わっている。
「万千代、お父上がおよびです。ついてきなさい」
「はい!」
「あにうえー、いっしょにいくのじゃー」
「母上、六郎も一緒でいい?」
「いいと思いますよ。一緒にいきなさい」
「え、よろしいのでしょうか?」
「秀隆殿が我が子とするというたならばそうなのです。であれば、万千代も私たちの子ですよ」
「はい、ありがとうございます」
 じわっと来てしまった目をこらえつつ直虎は二人の子の手を引いて秀隆の元に戻る。
「おお、万千代。よく来た。六郎もついてきたか。よしよし」
「ほう、これはいい目つきをしておるな。儂のもとに預けぬか?」
「兄上、それは質としてですか?」
「いや、そんなつもりは毛頭ない。光秀の頭ほどもじゃ」
「それ毛頭じゃなくて頭毛!?」
「いやすまん。よき若者を見るとついついな。許せ」
「構いませんが、当面は私の近習としますよ。兄上に掘られたら直虎に申し訳が立ちません」
「いや、さすがに甥に手は出さぬが?」
「わかりました。では久太郎に今度確認しますね? 信益のことを」
「ちょ、おま!?」
「ああ、信益と気づかずに風呂に連れ込んだんでしたっけ?」
「殿…?」
「いや、あの、その、帰蝶、そなたは年々美しいな。儂は日々心奪われておる」
「では、ちょっとお隣でお話ししましょうね?」
「はっはっは、そなたはいくつになっても甘えん坊じゃのう」
「うふふふっふっふふふ、そんな気が起きなくなるまで搾り取って差し上げます」
 やがて隣の部屋からアッーーーーーー!? という悲鳴らしき声が聞こえてきたが秀隆は妻子を連れて避難していたため、何も知らないということになっていた。

「そうじゃ、万千代。おぬしこの相撲大会に出ぬか?」
「よいのですか?」
「ああ、井伊の武者の武勇、見せつけてくるがいい」
「はい!」
「ちちうえ、六郎も出たい」
「おぬしは…来年だな。それまで万千代とともに稽古に励むのじゃ」
「あい!」
 息子の笑顔に相好を崩す秀隆。その笑顔を見て安らぎを覚える直虎であった。

「相撲大会開幕じゃ! 貴様ら励め!」
 どことなくげっそりしている信長の宣言により、相撲場は熱気にあふれていた。小姓たちは今まで見も知らない少年が混じっていることに気付き、ひそひそと言葉を交わしあう。
 13歳としては体も大きく力も強い。最初の対戦相手は張り手一発でふっ飛ばされた。次々と勝利を重ね、見事決勝に残る万千代。
「では決勝は儂が行司をつとめる。力を出し切って戦うのじゃ」
「「はは!」」
「では・・・はっけよい!!」」
 二人の勝負は力相撲となった。真っ向からぶつかり四つに組む。肩の筋肉が盛り上がり、互いに隙あらば投げようと力を籠める。万千代は相手の崩しをどっしりと構えて耐え抜き、気を見ると一気に力で押し切った。
「勝負あり、万千代の勝ちじゃ!」
 その光景を見た秀隆は目に涙を浮かべる。引き取って1か月の息子に対してすでに親バカ全開である。横でキャッキャと兄の勝利を喜ぶ六郎。顔を真っ赤にして兄の勝利を喜んでいる。
「では、万千代に褒美を与える。万千代には我が姪を嫁としよう!」
 その一言で秀隆の背中に寒いものが走った。
「兄上、待って!?」
「秀隆の娘、ひなたを妻として娶わせようぞ」
「マテコラアアアアアアアアアアアアアア!?」
 秀隆が鬼の形相を浮かべて土俵に突貫…しようとしたとき、彼の首は華麗に刈られた。桔梗がスパーンと抑えつけたのである。そして、あさひに連れられたひなたは、にっこりと笑顔で喜んでいた。
「わたしお兄ちゃんのおよめさんになるー!」
 その一言を聞いた秀隆は無言で崩れ落ちた。意識を失う前に見たのは信長のどす黒い笑顔であったという。
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