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伊勢平定
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永禄11年8月。岐阜に戻った信長はあらかじめ動員させていた軍を率い伊勢に向け出陣した。5月に滝川一益の調略が功を奏し、木造城主、木造具政が寝返った。弟の離反に激怒した北畠具教は軍を率いて木造城を攻めるが、滝川勢の後ろ巻きにより8月に至っても持ちこたえている。
南伊勢を手中に収めるため、信長は3万を率い、総勢7万と号して南下した。
ここで織田勢が伊勢攻略を断行できたのは、志摩の九鬼一族を味方につけたことが大きい。大軍を養うのには当然大量の物資がいる。九鬼一党が海上から背後に回り込み、補給線を攻撃されたら織田勢はなすすべもなく飢えることとなる。そうなれば、大軍であること自体が仇となり敗北は必至である。
永禄初めごろに信長を頼ってきた九鬼嘉隆はそのまま織田の被官となり伊勢湾北部で交易船の護衛などの任についていた。北伊勢が織田の手に落ちた際に、志摩の九鬼本家が分裂し、滝川の勧めにより嘉隆を送り込み、織田の後ろ盾を得て嘉隆が九鬼海賊衆の事実上の頭領とすることに成功したのである。
のち秀隆の勧めで知多半島に拠点を設け、九鬼家を分家させ元の当主であった澄隆をおいた。嘉隆は志摩の支配権を与えられ、熊野灘から大阪湾に進出させる。これは畿内の支配権強化を図る織田家の利益とも合致する動きであった。
一方澄隆の方では、徳川の支援に回り駿河水軍との戦いを繰り広げることとなる。海路による補給線を得た徳川は対武田戦を何とか持ちこたえることができたのである。
さて、織田の大軍の来襲により北畠軍は囲みを解き大河内城に後退した。大河内とその支城に総勢8千が立て籠もり迎撃の構えである。
「秀隆よ、策は?」
「そうですなあ、大河内は山城で実は阿坂城が兵站の中心なのですよ。こちらも小なりといえど山城です。木下勢を差し向けましょう」
「であるか、しかしお主どうやってそんな機密を掴んでくるのじゃ?」
「内緒です」
「そういうな、ちょっとでいいから、ほら、先っぽだけでもいいから、の?」
「まあ、あれです。兄上の不利になることは絶対にいたしませぬよ」
「うーむ、そうか。ならばよい」
「つーか、酒場女でも口説くときのような台詞回しは帰蝶様に報告いたしますので」
「ちょ、まて!?」
「岐阜城下のはずれにある屋敷の件とかね…」
「おま、どこでそれを!?」
「うふふふふ」
秀隆の諜報網に心底震え上がった信長である。岐阜に戻ったときの騒動は割愛する。
木下勢は3日で阿坂城を落としてのけた。秀隆が内応者を作り城中に送り込んでいたのである。
秀隆の作り上げたネットワークは河原者に始まり、彼らの密接な横のつながりを用いる。下人とか小者とかそういった人間は、支配階級から見れば人間扱いされていないことも多く、彼らの前では機密を口にすることもある。また、頭数を得るためそういった人間を駆り集めることもしばしばで、彼らは知らぬ間に獅子身中の虫を招き入れることとなっているのであった。
兵糧攻めを続けて2か月、10月には城内の兵糧が底をつき始め、和議が結ばれた。交渉は秀隆が行ったが城内の備蓄をかなり詳細に把握されていることを知った北畠の使者は顔面蒼白で城に戻った。
大枠として、信長の次男、茶筅丸を養子として北畠の家督を譲ること。北畠氏の織田への従属が条件である。ただ、秀隆の底知れなさに何かを感じ取ったか、具教と具房親子は一部の郎党を引き連れ京への移住を求めてきた。信長はそれを認め、朝廷工作などでの協力を求め伊勢からの蔵入地を与えた。
南伊勢はひとまず三十郎信包が代官となり、甥の茶筅丸の後見を勤めることとなった。
信長は岐阜に帰ると、ズサーという音を立てて帰蝶に土下座した。商家の娘に子供を産ませていたことを秀隆にチクられ、般若の形相で信長に折檻を加える。近侍の小姓たちは震えあがり、その日の記憶は彼らが墓に入るまで封印されたという。
翌日、信長は秀隆の屋敷を訪れた。むろんお忍びである。家人も信長の顔は見知っており、我が物顔で上がり込む信長を止められるはずもなく、秀隆の私室のふすまをいきなり開けた。
そこには、妻である桔梗を膝の上にのせ、戯れる秀隆の姿があった。
「おお秀隆、ちと相談があってな…っておぬし、何をしている?」
「…あげませんよ?」
その言葉を聞いた信長は踵を返し、半刻後、帰蝶を伴って再度現れた。
茶菓子をもって来た侍女が目の当たりにしたものは、互いの嫁を膝の上に載せ、談笑する秀隆と信長の姿であった。
「儂には帰蝶がおるから、うらやましくなんぞないんだぞ!」
開口一番、信長が放った一言で、帰蝶は涙目で信長をにらんだ。しかしながら膝の上に乗せられ抱きすくめられている状況ではそのにらみも一切の迫力を欠き、ただいちゃついているだけである。
互いの妻は耳まで真っ赤になり、目線を上げることもかなわなかったのであるが、しっかり夫と手を繋いでおり、まんざらでもなかったようである。
室外や武者隠しに待機する護衛の兵たちの口元からはギギギという歯ぎしりが聞こえ、なるべく音を立てずに壁を殴るものもいた。
子供たちの世話をしながら側室のあさひは、明日は私の番ですねーとにこやかにつぶやいていたのである。膨らみ始めた腹を幸せそうにさすりながら。
「とりあえずだ。ほかでもない、あの将軍どうにかならんかの?」
「無理」
「おいおい、なんか手立てを考えよ」
「無理」
にべもない秀隆の言葉に信長の額に青筋が浮かぶ。
「あれをどうこうするよりも、細川、明智を取り込むべきですよ」
「む…であるか」
「ええ、十兵衛殿はもうあのダメ公方に見切りを付けつつあるようですがね」
「ふむ、細川、和田あたりを押さえるが先か」
「そうですね。しかし桔梗はいいにおいがするなあ」
「なんだと? 帰蝶の髪はいい手触りだがな」
「ふ、桔梗も負けておりませぬぞ」
「むう、ここは痛み分けか。それでだな、あの阿呆が儂に無断であちこちに御内書を出しているようじゃ」
「ああ、朝倉、武田、浅井、三好、毛利、上杉はまあいいとして、松永弾正にまで送ってるのはもういっそ笑いが出ましたね」
「松永?!」
「あれ? ご存じない?」
「つくづく思うのだが、儂より情報が速くて多いのはいろいろと思うところがあるぞ」
「まあ、あれです。乙」
「乙じゃねえ!?」
「弾正殿とは少し交流があるのですよ。瀬戸焼の件で」
「どういうことだ?」
「かの老人、かなりの数寄者であることはご存知でしょうが、ちとこう吹き込んでみたのですよ」
「ほう?」
「古き伝統を愛でるも数寄ならば、新たなる美を追求するも数寄ではないかとね。なんか自作の焼き物にドはまりしたようで…」
「ああん?!」
「そうそう、これですが」
秀隆の差し出した鉄製の釜には見覚えがあった。
「平蜘蛛!」
「友情の証にいただきました」
しれっと言う秀隆に信長は崩れ落ちそうになる。
「帰蝶よ、儂はもう駄目じゃ。だがそなたがちゅうしてくれたらまだ立ち直れる」
衝撃のあまりか非常に頭の悪いことを言いだす信長。
「いえ、あの、その、殿、人前で御座いますに…」
「そうか、儂はもうだめだ。吉法師のことよろしく頼む」
「だめです、殿は天下泰平をもたらすまで死んではなりませぬ!」
「ならば、ここにほれ、ぶちゅっと」
すっごいニヤつきながら頬を指さす信長。
「う…ちゅっ」
「ふはははははははは、復活!!!」
兄夫妻のやり取りにニヤニヤが止まらない秀隆と、真っ赤な顔で目を伏せる桔梗。そしてふすまの向こうからはどかっと床を蹴りつける音が聞こえてくる。
「いろいろと話がそれまくったが、手近なところで朝倉を攻めようと思う」
「ふむ、なれば浅井にも陣触れを」
「何故?」
「当家と浅井の同盟は、いうなれば私事です。ですが、公方様に逆らうものを討伐するは私事にあらず」
「踏み絵を迫るか」
「です」
「浅井は真っ二つに割れるであろうのう」
「まあ、母上が寂しがっている体で、市は一旦里帰りさせるのも手ですな」
「いや、長政に預けおく」
「危険ですぞ?」
「それでもじゃ。何、わが妹であれば自らの命運を切り開くであろうよ」
「あー、そこら辺のセリフだけを聞くと、兄上は当代の英雄ですなあ」
「だけとはなんじゃ!?」
「嫁を膝の上に置いて評定します?」
「やってやろうではないか!」
「いやそれはさすがに…」
こうしてグダグダのまま朝倉攻めが決定された。
木下小一郎が使者となり、堀秀村経由で小谷へ向かう。副使は竹中重矩であった。
南伊勢を手中に収めるため、信長は3万を率い、総勢7万と号して南下した。
ここで織田勢が伊勢攻略を断行できたのは、志摩の九鬼一族を味方につけたことが大きい。大軍を養うのには当然大量の物資がいる。九鬼一党が海上から背後に回り込み、補給線を攻撃されたら織田勢はなすすべもなく飢えることとなる。そうなれば、大軍であること自体が仇となり敗北は必至である。
永禄初めごろに信長を頼ってきた九鬼嘉隆はそのまま織田の被官となり伊勢湾北部で交易船の護衛などの任についていた。北伊勢が織田の手に落ちた際に、志摩の九鬼本家が分裂し、滝川の勧めにより嘉隆を送り込み、織田の後ろ盾を得て嘉隆が九鬼海賊衆の事実上の頭領とすることに成功したのである。
のち秀隆の勧めで知多半島に拠点を設け、九鬼家を分家させ元の当主であった澄隆をおいた。嘉隆は志摩の支配権を与えられ、熊野灘から大阪湾に進出させる。これは畿内の支配権強化を図る織田家の利益とも合致する動きであった。
一方澄隆の方では、徳川の支援に回り駿河水軍との戦いを繰り広げることとなる。海路による補給線を得た徳川は対武田戦を何とか持ちこたえることができたのである。
さて、織田の大軍の来襲により北畠軍は囲みを解き大河内城に後退した。大河内とその支城に総勢8千が立て籠もり迎撃の構えである。
「秀隆よ、策は?」
「そうですなあ、大河内は山城で実は阿坂城が兵站の中心なのですよ。こちらも小なりといえど山城です。木下勢を差し向けましょう」
「であるか、しかしお主どうやってそんな機密を掴んでくるのじゃ?」
「内緒です」
「そういうな、ちょっとでいいから、ほら、先っぽだけでもいいから、の?」
「まあ、あれです。兄上の不利になることは絶対にいたしませぬよ」
「うーむ、そうか。ならばよい」
「つーか、酒場女でも口説くときのような台詞回しは帰蝶様に報告いたしますので」
「ちょ、まて!?」
「岐阜城下のはずれにある屋敷の件とかね…」
「おま、どこでそれを!?」
「うふふふふ」
秀隆の諜報網に心底震え上がった信長である。岐阜に戻ったときの騒動は割愛する。
木下勢は3日で阿坂城を落としてのけた。秀隆が内応者を作り城中に送り込んでいたのである。
秀隆の作り上げたネットワークは河原者に始まり、彼らの密接な横のつながりを用いる。下人とか小者とかそういった人間は、支配階級から見れば人間扱いされていないことも多く、彼らの前では機密を口にすることもある。また、頭数を得るためそういった人間を駆り集めることもしばしばで、彼らは知らぬ間に獅子身中の虫を招き入れることとなっているのであった。
兵糧攻めを続けて2か月、10月には城内の兵糧が底をつき始め、和議が結ばれた。交渉は秀隆が行ったが城内の備蓄をかなり詳細に把握されていることを知った北畠の使者は顔面蒼白で城に戻った。
大枠として、信長の次男、茶筅丸を養子として北畠の家督を譲ること。北畠氏の織田への従属が条件である。ただ、秀隆の底知れなさに何かを感じ取ったか、具教と具房親子は一部の郎党を引き連れ京への移住を求めてきた。信長はそれを認め、朝廷工作などでの協力を求め伊勢からの蔵入地を与えた。
南伊勢はひとまず三十郎信包が代官となり、甥の茶筅丸の後見を勤めることとなった。
信長は岐阜に帰ると、ズサーという音を立てて帰蝶に土下座した。商家の娘に子供を産ませていたことを秀隆にチクられ、般若の形相で信長に折檻を加える。近侍の小姓たちは震えあがり、その日の記憶は彼らが墓に入るまで封印されたという。
翌日、信長は秀隆の屋敷を訪れた。むろんお忍びである。家人も信長の顔は見知っており、我が物顔で上がり込む信長を止められるはずもなく、秀隆の私室のふすまをいきなり開けた。
そこには、妻である桔梗を膝の上にのせ、戯れる秀隆の姿があった。
「おお秀隆、ちと相談があってな…っておぬし、何をしている?」
「…あげませんよ?」
その言葉を聞いた信長は踵を返し、半刻後、帰蝶を伴って再度現れた。
茶菓子をもって来た侍女が目の当たりにしたものは、互いの嫁を膝の上に載せ、談笑する秀隆と信長の姿であった。
「儂には帰蝶がおるから、うらやましくなんぞないんだぞ!」
開口一番、信長が放った一言で、帰蝶は涙目で信長をにらんだ。しかしながら膝の上に乗せられ抱きすくめられている状況ではそのにらみも一切の迫力を欠き、ただいちゃついているだけである。
互いの妻は耳まで真っ赤になり、目線を上げることもかなわなかったのであるが、しっかり夫と手を繋いでおり、まんざらでもなかったようである。
室外や武者隠しに待機する護衛の兵たちの口元からはギギギという歯ぎしりが聞こえ、なるべく音を立てずに壁を殴るものもいた。
子供たちの世話をしながら側室のあさひは、明日は私の番ですねーとにこやかにつぶやいていたのである。膨らみ始めた腹を幸せそうにさすりながら。
「とりあえずだ。ほかでもない、あの将軍どうにかならんかの?」
「無理」
「おいおい、なんか手立てを考えよ」
「無理」
にべもない秀隆の言葉に信長の額に青筋が浮かぶ。
「あれをどうこうするよりも、細川、明智を取り込むべきですよ」
「む…であるか」
「ええ、十兵衛殿はもうあのダメ公方に見切りを付けつつあるようですがね」
「ふむ、細川、和田あたりを押さえるが先か」
「そうですね。しかし桔梗はいいにおいがするなあ」
「なんだと? 帰蝶の髪はいい手触りだがな」
「ふ、桔梗も負けておりませぬぞ」
「むう、ここは痛み分けか。それでだな、あの阿呆が儂に無断であちこちに御内書を出しているようじゃ」
「ああ、朝倉、武田、浅井、三好、毛利、上杉はまあいいとして、松永弾正にまで送ってるのはもういっそ笑いが出ましたね」
「松永?!」
「あれ? ご存じない?」
「つくづく思うのだが、儂より情報が速くて多いのはいろいろと思うところがあるぞ」
「まあ、あれです。乙」
「乙じゃねえ!?」
「弾正殿とは少し交流があるのですよ。瀬戸焼の件で」
「どういうことだ?」
「かの老人、かなりの数寄者であることはご存知でしょうが、ちとこう吹き込んでみたのですよ」
「ほう?」
「古き伝統を愛でるも数寄ならば、新たなる美を追求するも数寄ではないかとね。なんか自作の焼き物にドはまりしたようで…」
「ああん?!」
「そうそう、これですが」
秀隆の差し出した鉄製の釜には見覚えがあった。
「平蜘蛛!」
「友情の証にいただきました」
しれっと言う秀隆に信長は崩れ落ちそうになる。
「帰蝶よ、儂はもう駄目じゃ。だがそなたがちゅうしてくれたらまだ立ち直れる」
衝撃のあまりか非常に頭の悪いことを言いだす信長。
「いえ、あの、その、殿、人前で御座いますに…」
「そうか、儂はもうだめだ。吉法師のことよろしく頼む」
「だめです、殿は天下泰平をもたらすまで死んではなりませぬ!」
「ならば、ここにほれ、ぶちゅっと」
すっごいニヤつきながら頬を指さす信長。
「う…ちゅっ」
「ふはははははははは、復活!!!」
兄夫妻のやり取りにニヤニヤが止まらない秀隆と、真っ赤な顔で目を伏せる桔梗。そしてふすまの向こうからはどかっと床を蹴りつける音が聞こえてくる。
「いろいろと話がそれまくったが、手近なところで朝倉を攻めようと思う」
「ふむ、なれば浅井にも陣触れを」
「何故?」
「当家と浅井の同盟は、いうなれば私事です。ですが、公方様に逆らうものを討伐するは私事にあらず」
「踏み絵を迫るか」
「です」
「浅井は真っ二つに割れるであろうのう」
「まあ、母上が寂しがっている体で、市は一旦里帰りさせるのも手ですな」
「いや、長政に預けおく」
「危険ですぞ?」
「それでもじゃ。何、わが妹であれば自らの命運を切り開くであろうよ」
「あー、そこら辺のセリフだけを聞くと、兄上は当代の英雄ですなあ」
「だけとはなんじゃ!?」
「嫁を膝の上に置いて評定します?」
「やってやろうではないか!」
「いやそれはさすがに…」
こうしてグダグダのまま朝倉攻めが決定された。
木下小一郎が使者となり、堀秀村経由で小谷へ向かう。副使は竹中重矩であった。
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