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清州同盟と美濃侵攻
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桶狭間の合戦の影響は劇的だった。信長の若いころのふるまいからいまだに彼の実力を疑問視していた国人土豪らがこぞって臣従してきた。義元の首と交換で鳴海を奪還し、沓掛に駐屯していた今川勢も遁走し、破竹の勢いで三河表まで進軍する。国境沿いに砦を築き、刈谷の水野氏の臣従をもってここを最前線とした。岡崎に拠った松平党とは全面戦争を避けるための措置でもある。
尾張南東部の安定を最優先し、北に目を向けるためでもあった。
永禄3年。清州城。
秀隆による兵站の講義が行われていた。参加者は柴田、丹羽、森、林、佐久間など織田家重鎮の歴々。ほか、勘十郎や三十郎、犬山信清などの一門衆、連枝衆らも加わる。
「腹が減っては戦はできぬと申します。また、矢玉なくば、刀槍がなければ、戦にはなり申さぬ。権六殿、そこは根性で乗り切るという手はならぬ。権六殿は稀にみる勇士ゆえそれでも何とかなるが、末端の兵はそうはいかぬ」
引き合いに出された権六は、希代の勇士と呼ばれ、髭面を赤らめて照れる。実に朴訥な男である。
「はっきりと認識していただきたいことは、知恵も勇気もその気になればいくらでも湧いてくる。だが金と米は何をどうやっても無いところからは出てこぬ。兵も同じです」
丹羽五郎左が我が意を得たりとばかりに頷いている。物資や兵糧の調達を行うことが多い彼は家中で米五郎左とあだ名され、不可欠の存在であると評される。
「逆に、城攻めで水の手を断てば勝敗は決する。敵の食料を焼き払えば退かざるを得なくなる。お歴々には何を当たり前と思われるやもしれませぬが、自軍の被害を抑えて勝つということを心掛けていただきたいのです」
下座の木下兄弟は目を爛々と輝かせて話に聞き入る。秀隆の取り立てにより、末席ながら士分となった。そして信長の出した布告。下剋上の推奨である。力ある者が上に行くのは当然である。才を発揮せよ、されば報われると宣言した。非常に過激ないいようである。
多忙な政務の合間に馬を駆り、刀、槍を振るう信長の姿に、馬廻の武者どもは先を争って己を鍛えた。また、都から高名な学者を招き、学問を奨励した。ここで意外な特技を発揮したのが、先日帰参のかなった前田犬千代であった。見事な手さばきで算盤をはじき、正確に計算をこなしたのである。この出来事から、武芸だけできればよいものではないと家風が変わっていった。
「孫氏に曰く、十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを避く。故に小敵の堅は大敵の檎なり、といいます。意味が分かる者は?」
「敵より有利な兵力があれば、包囲、攻勢に出てよい。敵より兵力で劣れば可能な限り戦いを避けよ。これでよろしいか?」
佐久間右衛門尉が得意満面の顔で解説してくる。
「そうです。なれば右衛門殿、さらにこの言の本質を皆に教えていただけますか?」
「ふむ、そうですな…敵より多くの兵をそろえることが肝要。勝てない戦はするな、というところでしょうか?」
「素晴らしい。さすが織田家の柱石を担う方です」
秀隆が満面の笑みで答える。面目を施した佐久間も上機嫌であった。
秀隆の基本方針は褒めることである。何とかもおだてればというが、ビシバシとやり込められれば学ぶ意欲そのものが失せる。よって、まず各々の得意分野で質問をしほめたたえる。そのうえで話を聞き入れる態勢にしてから話せば頭に残る可能性は高い。
重臣の子弟らもこうした講義に参加させ、家臣の質の向上を図る。これは織田家の10年後を見据えた試みだった。
鳴海方面が平定され、後ろの憂いがなくなった滝川左近は兵を起こし北伊勢の国境を越えて軍事行動を開始した。長島へは手出しせぬとの約定を結び、相互不可侵とする。そのうえで桑名あたりの土豪に戦を仕掛け斬り従えていた。服部左京は滝川勢に敗れ、一向宗の伝手をたどり願正寺に保護されていた。これにより、尾張全土が完全に織田の支配下にはいった。
尾張が統一されたことで兵力の集中がなされ、外征への戦力を抽出することができるようになった。今川との最前線であった地域などはまだ荒れているが、国内の砦などを整理して必要のないものは破却し経費削減を図る。同時に領内の治安を引き締めるため一銭切りの布告を出した。盗みを働いたものは斬刑に処すという苛烈な内容であるが、信長は良民に対しては善政を敷いており、むしろ好意的に受け止められたのである。
永禄5年。水面下で進んでいた松平党との和睦が成立した。
松平家康が清州城に赴き、同盟の誓詞を交わしたのである。家康自身は三河半国を何とか平定し、東三河の要衝、牛久保を何とか攻略に成功していた。今川氏は義元亡き後混乱が続いており、後を継いだ氏真は祖母の後見を受け何とか体勢を維持していた。
今川に見切りをつけ、自立した松平党は様々な因縁を飲み込んで織田との同盟に踏み切った。所謂清州同盟である。
「竹千代、いや、今は家康殿か。立派になられた」
「吉殿もご健勝で何よりです」
「ここに盟を結んだからには、儂は日ノ本の西を、御身は東をすべて切り取られよ」
「はっ、上総殿のご武運をお祈り申す」
「かたじけない。だがな、武運は祈るものではなく、つかみ取るものよ」
「で、ありますか。桶狭間の戦を思い出すと含蓄があり申す」
「はっはっは、言うようになったのう。もはやお互い童ではない。わが背中、おぬしに預けた」
「はい、我らはこれより三河一統を目指します」
「うむ。よろしく頼む」
家康が清州を辞去する際に一人の家臣を呼び寄せた。見送りに来ていた信長の顔が驚愕する。
家康と全くうり二つの男が横に控えていたのである。
「これなるは世良田元信。種違いながら、わが弟にござる」
「お、おう。御舎弟か」
そこで我に返る。信長がこれほど驚くことは珍しかった。
「兄者を助け、よき働きをしてくだされ。家康殿は我が友ゆえにな」
「はっ、ありがたきお言葉。元信、肝に銘じまする」
声までそっくりであった。さすがに今度は驚きを表に出さなかったが、いたずらを成功させたような顔で笑う二人は、竹千代のころの笑みそのままだった。
清州同盟が結ばれ、三河との国境の兵を治安維持に関わる人数を残して一切合切引き挙げた。それにより投入できるようになった労力を用いて、信長は小牧山に城を築き始めた。
秀隆の講義で、本拠と前線の距離は兵にかける負担が加速度的に大きくなる。清州は尾張の中心部であるが、美濃を狙うには国境より遠すぎた。それゆえ山上から美濃国境を望むことができるこの地に本拠を移したのである。
清州からの移転に伴い、諸将の屋敷なども移された。木下兄弟も武家屋敷を賜り、禄も増えたので母をはじめとした親戚などを引き連れ移住した。藤吉郎はこの引っ越しを機に妻を娶り、織田家の足軽であった義父とその長子を自身の家臣とする。野鍛冶をしていた加藤某、織田の足軽であった福島某などを配下にさせて自身の手勢を早い段階で持たせたのは秀隆の助言であった。
川並衆を通じて美濃の動静を探る。一色左京太夫義龍が重病であるとのうわさが届いた。信長に報告を上げると、犬山経由で2000を率いて加治田郡堂洞城に攻め入った。近隣の土豪が援軍を出すが、指揮系統の整わない野合であったため、分断されて各個撃破の憂き目にあって潰走した。岸伸周は城を枕に討ち死にしたが、稲葉山や関から援軍が差し向けられ、支えきれずに退却した。
率いた兵が少なかったこともあり、威力偵察の側面が強い侵攻であった。退却の後、義龍の死が漏れ聞こえており、長井通利の後見を得て後を若干14歳の竜興が継いだとの報が伝わってきた。
美濃の土豪や小領主は動揺しはじめたが、長井や稲葉などの一色家重職が早急に引き締めを図り沈静化する。ひとまず付け入る隙なしとの結論で、いったん兵を収めた。
そして秀隆にとっては青天の霹靂となる話が飛び込んでくる。信長から妻を娶れとの命であった。
尾張南東部の安定を最優先し、北に目を向けるためでもあった。
永禄3年。清州城。
秀隆による兵站の講義が行われていた。参加者は柴田、丹羽、森、林、佐久間など織田家重鎮の歴々。ほか、勘十郎や三十郎、犬山信清などの一門衆、連枝衆らも加わる。
「腹が減っては戦はできぬと申します。また、矢玉なくば、刀槍がなければ、戦にはなり申さぬ。権六殿、そこは根性で乗り切るという手はならぬ。権六殿は稀にみる勇士ゆえそれでも何とかなるが、末端の兵はそうはいかぬ」
引き合いに出された権六は、希代の勇士と呼ばれ、髭面を赤らめて照れる。実に朴訥な男である。
「はっきりと認識していただきたいことは、知恵も勇気もその気になればいくらでも湧いてくる。だが金と米は何をどうやっても無いところからは出てこぬ。兵も同じです」
丹羽五郎左が我が意を得たりとばかりに頷いている。物資や兵糧の調達を行うことが多い彼は家中で米五郎左とあだ名され、不可欠の存在であると評される。
「逆に、城攻めで水の手を断てば勝敗は決する。敵の食料を焼き払えば退かざるを得なくなる。お歴々には何を当たり前と思われるやもしれませぬが、自軍の被害を抑えて勝つということを心掛けていただきたいのです」
下座の木下兄弟は目を爛々と輝かせて話に聞き入る。秀隆の取り立てにより、末席ながら士分となった。そして信長の出した布告。下剋上の推奨である。力ある者が上に行くのは当然である。才を発揮せよ、されば報われると宣言した。非常に過激ないいようである。
多忙な政務の合間に馬を駆り、刀、槍を振るう信長の姿に、馬廻の武者どもは先を争って己を鍛えた。また、都から高名な学者を招き、学問を奨励した。ここで意外な特技を発揮したのが、先日帰参のかなった前田犬千代であった。見事な手さばきで算盤をはじき、正確に計算をこなしたのである。この出来事から、武芸だけできればよいものではないと家風が変わっていった。
「孫氏に曰く、十なれば即ちこれを囲み、五なれば即ちこれを攻め、倍なれば即ちこれを分かち、敵すれば即ちよく闘い、少なければ即ちこれを逃れ、しかざれば即ちこれを避く。故に小敵の堅は大敵の檎なり、といいます。意味が分かる者は?」
「敵より有利な兵力があれば、包囲、攻勢に出てよい。敵より兵力で劣れば可能な限り戦いを避けよ。これでよろしいか?」
佐久間右衛門尉が得意満面の顔で解説してくる。
「そうです。なれば右衛門殿、さらにこの言の本質を皆に教えていただけますか?」
「ふむ、そうですな…敵より多くの兵をそろえることが肝要。勝てない戦はするな、というところでしょうか?」
「素晴らしい。さすが織田家の柱石を担う方です」
秀隆が満面の笑みで答える。面目を施した佐久間も上機嫌であった。
秀隆の基本方針は褒めることである。何とかもおだてればというが、ビシバシとやり込められれば学ぶ意欲そのものが失せる。よって、まず各々の得意分野で質問をしほめたたえる。そのうえで話を聞き入れる態勢にしてから話せば頭に残る可能性は高い。
重臣の子弟らもこうした講義に参加させ、家臣の質の向上を図る。これは織田家の10年後を見据えた試みだった。
鳴海方面が平定され、後ろの憂いがなくなった滝川左近は兵を起こし北伊勢の国境を越えて軍事行動を開始した。長島へは手出しせぬとの約定を結び、相互不可侵とする。そのうえで桑名あたりの土豪に戦を仕掛け斬り従えていた。服部左京は滝川勢に敗れ、一向宗の伝手をたどり願正寺に保護されていた。これにより、尾張全土が完全に織田の支配下にはいった。
尾張が統一されたことで兵力の集中がなされ、外征への戦力を抽出することができるようになった。今川との最前線であった地域などはまだ荒れているが、国内の砦などを整理して必要のないものは破却し経費削減を図る。同時に領内の治安を引き締めるため一銭切りの布告を出した。盗みを働いたものは斬刑に処すという苛烈な内容であるが、信長は良民に対しては善政を敷いており、むしろ好意的に受け止められたのである。
永禄5年。水面下で進んでいた松平党との和睦が成立した。
松平家康が清州城に赴き、同盟の誓詞を交わしたのである。家康自身は三河半国を何とか平定し、東三河の要衝、牛久保を何とか攻略に成功していた。今川氏は義元亡き後混乱が続いており、後を継いだ氏真は祖母の後見を受け何とか体勢を維持していた。
今川に見切りをつけ、自立した松平党は様々な因縁を飲み込んで織田との同盟に踏み切った。所謂清州同盟である。
「竹千代、いや、今は家康殿か。立派になられた」
「吉殿もご健勝で何よりです」
「ここに盟を結んだからには、儂は日ノ本の西を、御身は東をすべて切り取られよ」
「はっ、上総殿のご武運をお祈り申す」
「かたじけない。だがな、武運は祈るものではなく、つかみ取るものよ」
「で、ありますか。桶狭間の戦を思い出すと含蓄があり申す」
「はっはっは、言うようになったのう。もはやお互い童ではない。わが背中、おぬしに預けた」
「はい、我らはこれより三河一統を目指します」
「うむ。よろしく頼む」
家康が清州を辞去する際に一人の家臣を呼び寄せた。見送りに来ていた信長の顔が驚愕する。
家康と全くうり二つの男が横に控えていたのである。
「これなるは世良田元信。種違いながら、わが弟にござる」
「お、おう。御舎弟か」
そこで我に返る。信長がこれほど驚くことは珍しかった。
「兄者を助け、よき働きをしてくだされ。家康殿は我が友ゆえにな」
「はっ、ありがたきお言葉。元信、肝に銘じまする」
声までそっくりであった。さすがに今度は驚きを表に出さなかったが、いたずらを成功させたような顔で笑う二人は、竹千代のころの笑みそのままだった。
清州同盟が結ばれ、三河との国境の兵を治安維持に関わる人数を残して一切合切引き挙げた。それにより投入できるようになった労力を用いて、信長は小牧山に城を築き始めた。
秀隆の講義で、本拠と前線の距離は兵にかける負担が加速度的に大きくなる。清州は尾張の中心部であるが、美濃を狙うには国境より遠すぎた。それゆえ山上から美濃国境を望むことができるこの地に本拠を移したのである。
清州からの移転に伴い、諸将の屋敷なども移された。木下兄弟も武家屋敷を賜り、禄も増えたので母をはじめとした親戚などを引き連れ移住した。藤吉郎はこの引っ越しを機に妻を娶り、織田家の足軽であった義父とその長子を自身の家臣とする。野鍛冶をしていた加藤某、織田の足軽であった福島某などを配下にさせて自身の手勢を早い段階で持たせたのは秀隆の助言であった。
川並衆を通じて美濃の動静を探る。一色左京太夫義龍が重病であるとのうわさが届いた。信長に報告を上げると、犬山経由で2000を率いて加治田郡堂洞城に攻め入った。近隣の土豪が援軍を出すが、指揮系統の整わない野合であったため、分断されて各個撃破の憂き目にあって潰走した。岸伸周は城を枕に討ち死にしたが、稲葉山や関から援軍が差し向けられ、支えきれずに退却した。
率いた兵が少なかったこともあり、威力偵察の側面が強い侵攻であった。退却の後、義龍の死が漏れ聞こえており、長井通利の後見を得て後を若干14歳の竜興が継いだとの報が伝わってきた。
美濃の土豪や小領主は動揺しはじめたが、長井や稲葉などの一色家重職が早急に引き締めを図り沈静化する。ひとまず付け入る隙なしとの結論で、いったん兵を収めた。
そして秀隆にとっては青天の霹靂となる話が飛び込んでくる。信長から妻を娶れとの命であった。
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