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#33 3月28日 花見/弁当/また来年も
しおりを挟む思わず、それはそれは大きなあくびが出た。
文句のつけようもない晴天の下、公園のベンチの上。春の空気を大量に頬張ってしまって、かみ殺すことも出来ずに間抜けな顔を晒す。
日は昇りきっていて、あくびなんていくらでも許されそうなほど暖かくて穏やかだった。この硬いベンチの上ですら熟睡できそうな気がする。
いつも以上に寝不足なせいで、そんな昼寝もとても魅力的に感じる。今のところ強い眠気はないが、遠からず襲ってくるはずだ。
正面方向にある桜の木の下を、小さな子供がなにか叫びながら走っていく。母親らしき人が早足でその後を追いかける。風が吹いて木の枝が揺れても、咲いたばかりの花びらはほとんど落ちない。
眼の前で漂う景色をぼんやりと眺めていたら、視界の外から足音が近づいてきた。そしてすぐ近くで止まる。
「おまたせしました」
飲み物を買いに行っていた湊咲が戻ってきて、手にしたペットボトルのお茶を手渡してくれる。
「ありがと」
飲み物を忘れるという片手落ちは私たち2人の責任で、湊咲が買いに行っていたのは厳正なるジャンケンの結果である。
私の右隣へ湊咲も腰を下ろす。その側頭部を見て。
「花びらついてるよ」
まだほとんど散っていないのに、器用にくっつけてきたものだ。
「取ってもらえますか」
湊咲は首を傾けて頭をこちらへ向ける。私は細く柔らかい髪を指先で掠めながら、引っかかった花びらを摘んではらりと足元へ落とした。
「お腹空いたし、早いとこ食べようか」
言いつつ、持ってきたトートバッグから弁当を取り出す。弁当箱なんて家に用意していなかったから、使い捨てのパックが3つ。おにぎり、唐揚げ、卵焼き、菜の花の胡麻和え、昨晩の残りだった厚揚げの炒めもの。
厚揚げの炒めもの以外は全て今日起きてから作った。とてもとても珍しいことに、湊咲の指示を受けながら私も一部の調理を手伝った。唐揚げも揚げたし、おにぎりの具の鮭とタラコも焼いた。今朝の起床が早かったのはそのせいだ。
「やっぱり、ここの桜好きだなぁ」
おにぎりに巻いたラップを剥がしながら、湊咲が呟く。
去年も見た桜だけれど、今年は少しだけ開花が遅かった。もうしばらく満開でいてくれるだろう。
「また描いたりするの?」
私は正面の桜へ視線を向けた湊咲の横顔をちらりと眺めながら、唐揚げを一口。
「どうしようかなぁ。また同じの描いてるって言われちゃうかも」
湊咲は苦笑いしつつ、おにぎりをかじった。
「むしろ……こっちかな」
それから私との間、食べかけの弁当を見やる。これで絵になるのか? と疑問だったが、そういえば彼女の作品には見覚えのある食卓も含まれていた。
「熱心だね」
未だモチベーションは薄い、と言っていたけれど。
「なんかもう、勝手に考えちゃうんですよね」
「職業病?」
「そうかも」
会話の合間で私もおにぎりへ手を伸ばす。
「あ、奈緒さんの読書と一緒ですよ」
「確かにそうだ」
本を読む時はいつも、その先でどう紹介するかが頭によぎる。だからといって、読書そのものが好きであることに変わりはない。湊咲にとって、景色を見ることはそういう対象なんだろうか。
という持論をつらつらと述べてみると、湊咲は笑って頷いた。
「そう考えると……ある意味無心でやれるのは、やっぱり料理かもしれないですね。奈緒さんも、また一緒にしましょうよ」
「私は……まぁ、たまになら」
今朝実際にやってみて、湊咲と二人で台所に立つのは悪くなかった。足手まといの自覚がもう少し減れば、もっと楽しいのだろうとも思う。
しかし、それでも。
「でも私、湊咲のご飯が食べたいかな。改めて昨日の晩ごはんも美味しかったんだよね」
何の気なしにそう言って。自分の発言を認識してから、湊咲の表情を確かめてみる。
にんまりと、顔からはみ出しそうな笑顔を浮かべていた。
こういう反応を向けられると、まだ落ち着かないむず痒さを覚える。それはそれで悪くない気分だったりもして。
「あと、湊咲が料理してる音聞きながら本読むのも好き」
「そうなんですか?」
「そうなんです。なんかちょうどいいんだよね」
そんな話もしながら、急ぐこともなく弁当を空にしていく。
明日の私は普通に仕事で、湊咲もバイトがあるという。そして先日の展示は相当に好評だったらしく、その後の展開もありそうだとか。湊咲はこれからも忙しくなりそうだと言っていた。
望むと望まざるとに関わらず、お互いにやるべきことがある。私だって明日やらなければいけない作業は今すぐにでも思い描ける。このささやかな休日の前からその後まで、当たり前だけれど全て地続きだ。
湊咲との再会自体はさすがに特別だったと思っているけれど、こうやって一緒にいる時間はもう限りなく日常に近い。
これからの私たちの間柄がいつまで続くのか、続かないのか。それはまだわからないけれど。
食べ終わった弁当を片付けながら、本当にふと思ったこと。
「あのさ」
その先を口にしようとしたら。
「あっ!」
湊咲が大きな声を上げる。驚いて言葉を止めて彼女の方を見ると、ピンと立てた人差し指をこちらへ向けていた。
「また来年も一緒にお花見したいですね」
湊咲が浮かべた得意げな笑顔と、ちらりと覗いた八重歯。
なんだか悔しいような嬉しいような気分で、私は何も言わずに彼女の顔を見つめ続けてみる。
「……あってます?」
湊咲の表情がほんのりと不安げになってきた。しかし答え合わせをする前に、一つ確認したいことがある。
「唇の端っこにご飯粒がついてる」
「えっ」
「右側の、下唇のところ」
慌てて顔を背けた湊咲の姿に笑ってしまって、吸い込んだ春の空気を一旦吐き出した。
それから、改めて。
「そうだね」
先のことはわからないし、考えるのも苦手だし。
それでも今は、その未来をただ信じていられるような気がした。
世界が淡い色彩に覆われた、春真っ盛りのとある木曜日。
穏やかな昼下がりのことである。
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