アイリスとリコリス

沖月シエル

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第1章/1-36

35-2 ▽裏切り・後編▽

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僕とルシーダは二人だけになって雪山を登り続け、少し開けた場所に到着する。景色がいい。僕は立ち止まる。だいぶ進んで来た。いい塩梅だ。この辺りまで来れば十分だろう。目の届く範囲には、もう誰もいない。

僕とルシーダ。二人きりの世界。雪に覆われた、真っ白な世界。まだ何者にも汚されていない世界。

「…どうした?」

ルシーダも立ち止まる。ルシーダは背後をふり返る。

「…だいぶ登って来たな」

「そうだね」

僕は空を見上げる。さっきまで降っていた雪が、今はやんでいる。厚い灰色の雲の隙間から青い空が覗いて、太陽の光が線状に差し込んでいる。

「…見て」

ルシーダも空を見上げる。

「…晴れたな。綺麗だ」

空気が澄んでいる。音も全くしない。

僕は毛皮のコートの内側のポケットからコルフィナの葉巻を一本取り出して咥え、火をつける。

煙を深く吸い込む。最後の仕上げをこれからの数分の間に行うが、始める前にもうすでに何もかも終わっている。

煙を吐く。雪山の澄んだ空気に煙のダストがキラキラと光を反射させながら溶け込んでいく。

…気分がいい。満ち足りた気分だ。

「…ずいぶんギラギラしたライターだな」

ルシーダが僕の愛用のライターを見て言う。

「気に入ってるんだ」

「似合わないぞ」

「よく言われるよ」

「悪趣味だ」

「ありがとう」

「褒めてない」

「意地悪だね」

僕はルシーダに微笑む。

「…ルシーダ、ちょっと毛皮のコートを脱いでくれないか」

「なんでだ?…まあいいけど」

ルシーダは僕に言われた通り素直に毛皮のコートを脱ぐ。

「…寒いな」

ルシーダは寒そうだ。まあそうだろうな。

「…ふふ、ごめんね。さっきの格好だとうまく狙えないから」

「は?…ああ…」

ルシーダは一瞬意味が分からなそうにしたが、あまり気にしていない様子。

「うん。でもなんだか解放感あって気持ちいいぞ。子供の頃雪で遊んだの思い出すな。なんか清々しい。空気が澄んでいるからかな」

「標高が高いからね」

「リコリス皇鉱石のある場所はまだか?」

僕は返答する代わりに、コルフィナの葉巻に口をつける。

「…深い雪の中に隠された赤い宝石、リコリス皇鉱石か。なんかロマンチックだな」

「…そう思うかい?」

ルシーダは無邪気な少女のような表情をしている。

「ルシーダは、領主として、レンブルフォートをこれからどうしていきたいんだい?」

「なんだ? いきなり。まあそうだな、まずは戦争で国土が疲弊しているから、その建て直しからだな。レンブルフォート人も、敗戦自体はショックみたいだけど、でも前から分かっていたことだし、今はみんな前を向いて少しずつ頑張ってくれているよ」

「そう…」

つまらない話をするな。それが君の見ている世界か。分かった。では今から僕の見ている世界の方を、君に見せてあげよう。 

これはこれで、また違った美しさのある世界だから。

「最後だと思うから聞いておくよ。君と僕の、2つの皇鉱石を使って、悪魔の爆弾を完成させる気はないかい?」

「は?」

ルシーダは僕の急な質問に思わず眉をひそめる。

「…何の話だ。冗談だろ」

「僕は興味があるんだ。とてもね」

「そうか。せっかくだから真面目に答えるけど、生憎だが、俺にそんなつもりは全く無い」

「全く?」

「そう全く。誰の正義にもならないだろ」

「本当にそうかな? 僕の考えは少し違う」

「…おいおい。本当に何の話をしてるんだ? ここまできたんだぞ。今さら悪い冗談はよせ」

「そもそも君の考えは奇妙だ。他人の正義をなぜ君が決めているんだ?」

「俺はこんな所でお前と言い争いなんかしたくないよ…ちょっと勘弁してくれないか」

「ルシーダ。君は本当に悪魔の爆弾を完成させる気は無いんだね?」

「無いと言っているだろう」

「完全に?」

「今さらお前はここで何を確かめたいんだ」

「これで最後の確認だよ。その君の考えは本心だね? 覆らない?」

「そうだ!」

「そう言うと思ったよ」

僕は毛皮のコートの内側から銃を取り出してルシーダの脚を撃つ。

バン!

ルシーダは跪く。あまりにも突然のことに驚いて、声が出なかったようだ。

「…な、なんだ!?」

ルシーダが撃たれた自分の脚に触れる。自分の血で真っ赤になった手を見て叫ぶ。

「アナスタシア!?」

バン!

僕はもう一発脚を撃つ。

「うわああ!!」

ルシーダがその場に倒れ込む。

「…なんでだ!? アナスタシア!!」

僕は銃口をルシーダに向けたまま話す。

「リコリス皇鉱石はここにはない」

「どういうことだ」

「申し訳ないが、君にはここで死んでもらう」

「何のために!? 今ここで俺を殺しても、お前が追い詰められるだけだろう!」

「それがね、そうでもないんだ。もう十分に根回ししてある。王国軍部はほどなくしてレンブルフォートからの撤退を余儀なくされるだろう。君の政権も終わる。レンブルフォートは、僕と、僕に味方してくれるフランタル王国の勢力によって新しく生まれ変わる。僕がレンブルフォートの新しい皇帝になる」

「そんな馬鹿なことが…!!」

「黙れ」

バン!

脚を撃つ。

「…うぅっ…!!」

ルシーダが声にならない声で呻く。

「どうして!…どうしてなんだ!! アナスタシア!!」

ルシーダは整っている顔を痛苦に歪ませる。

「ロマンチックか」

僕は葉巻を咥え、煙を吸い、吐く。

「…さっき君は、深い雪の中に隠された赤い宝石が素敵だと言ったね? 残念だけど、この純白の雪を染めるのは君の血の赤だよ」

バン!

僕は何度もルシーダの脚を撃つ。

バン!

何度も。

何度も。

ルシーダは息も絶え絶えだ。これだけ脚を撃たれればこうもなるだろう。細く美しい手足が痛みと絶望で震えている。

ゾクゾクする。こんな感覚は初めてだ。

もっと欲しい。

バン!

僕はさらに弾をルシーダの脚に撃ち込む。そのたびに言葉にならない快感が僕の背筋を走り抜ける。

「…んぐぅっ…あぁぁぁぁ…!!」

ルシーダが耐えられないといったように叫ぶ。

もっと。

もっと苦しめたい。

「…助けて…お願い…やめ、て…」

もっと怯えろ。怯えるんだ。怯える君は、世界の誰よりも美しい。

快感の波。失神しそうだ。

君はなんて美しく怯えるんだ…! まるで羽が折れて天界から落下してきた天使じゃないか!

カチ。



弾切れだ。まさか全部使ってしまうとは。これじゃ初めてのおもちゃに興奮して夢中になる子供じゃないか。

カチカチカチ。

僕は確かめるように何度も引き金を引く。名残惜しい。まだやりたかったのに…

まあいい。

「…残念だけど、これで終わりだ」

とどめをさすために弾を残しておくつもりだったんだが…まあ同じことだ。この状況ではもうルシーダは死んだも同然。

僕は銃口を下げる。コルフィナを咥え、煙を吸う。口から葉巻を離した時、涎が糸を引いて落ちる。僕は手の甲で涎を拭う。

…僕の体が快楽で弛緩している。ちょっと気持ちよくなりすぎたか。

…なんだか救われないな。

実に救われないじゃないか。君も、そして僕も。今さらながら自分の中にこんな自分がいたことにちょっと驚く。

僕は全てが終わったら神に感謝して祈るつもりだった。だが今実際に復讐を完遂してみて分かったことがある。

神なんていない。

美しい。なんて美しい世界だ。

僕は吸い終わったコルフィナの葉巻を足元に捨てる。

真っ白な雪の上に、ルシーダの真っ赤な鮮血が広がっている。目を瞠る鮮やかさ。こんな美しい血液は見たことがない。

ルシーダ。君は薔薇だ。純白の雪原の上に咲く一輪の真っ赤な薔薇だ。

「…ほどなくして血の臭いを嗅ぎつけた野犬の群れがやって来るだろう。君は彼らに肉を食い千切られて殺される。君の肉を食べれるなんて、なんて運のいい連中だろう」

ルシーダはもう返事できない。息をするのがやっとだ。なんて艶っぽい表情なんだろう。僕のことももう見ていない。これでいい。

「ルシーダ、君は本当によくやってくれた。レンブルフォートのため、僕のため、今後のより良き世界のために。君が処刑されなくて本当によかった。君が処刑されていたら、僕はレンブルフォートの皇帝になることも、そして今こうして快楽に溺れながら君を殺すこともできなかったからね」

僕は銃を毛皮のコートの内側のポケットに戻す。

これでいい。

仕事は全て終わった。帰ろう。

「今までありがとう、ルシーダ。君と一緒に過ごした時間、楽しかったよ」

さよなら。ルシーダ。


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