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1巻

1-3

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「あんたの猫?」

 続けてたずねられたので、私は姿勢を元に戻し、首を横に振った。
 彼が意外そうに眉を上げる。

「じゃ、自分の猫じゃないのにわざわざ会いに来てるわけか」
「そうだけど……。私のマンション、ペット禁止だから」
「ふーん」

 イケメンの表情は、微笑みというよりも小馬鹿にしたような薄笑いに変わる。

「そんなに寂しいの? 人生」

 ……はい?
 耳を疑った。この美しい顔から、そんな辛辣しんらつな言葉が飛び出てくるなんて。

「だってそうだろ。金曜の夜だってのに、飼ってもいない猫に会いに来るなんて。よっぽど満たされてないんだなと思って」

 まったく無防備だった後頭部を、バットでスコーンとかっ飛ばされた気分だった。

「な、なっ……」
「お、図星すぎて何も言えない感じ? あんたみたいな人、よくいるんだよね。ぽっかり空いた心の隙間を、動物で埋めようってパターン」
「…………」
「でも人肌恋しさって、やっぱ人間同士でしか補えないもんだよ。残念だけど、さ」

 頭のなかで、何かがブチっと切れる音がした。
 我慢の限界。何なの、こいつ! 失礼にもほどがあるんですけどっ!?

「――いいかげんにしてよっ。黙って聞いてれば勝手に決めつけてくれちゃって!」

 私は怒りのままに、声をあららげて噛みついた。

「さ、寂しいとか、満たされてないとか、そんなのあなたの勝手な想像でしょ!」

 イケメンだからって、しざまな態度が許されるわけじゃないはずだ。
 そもそも初対面の人間に、どうしてそんな言われ方をされなきゃいけないの!?

「想像? じゃ、あんたは寂しくもないし、満たされてるわけだ。リア充ってヤツ?」
「え」
「ならそんなムキになることなくない?」

 思ってもいなかった返しに、きょかれた思いだった。
 憎らしいイケメンは、ふてぶてしいくらいのにこやかな笑みを浮かべている。

「猫相手に仕事や私生活の愚痴ぐちなんか吐いたりすること、ないんだろ? こんな雨にもかかわらずフラッとここに立ち寄ったのは、ただの気まぐれってことだよな。そんなリア充なら、俺が言ったこと気にもならないよな」
「っ……」

 今度は、のぼせ上がったみたいに顔が熱くなるのを感じた。
 この人、私が普段そうしてるのをわかってて、あえて言ってるの?

「何でっ……」
「ん?」

 恥ずかしさで眩暈めまいすら感じつつ、やっとのことでたずねる。

「何で知ってるのっ……? だ、誰にも話したことないのにっ……」

 この公園に通っていることは、他の誰にも打ち明けていない。
 猫に生活の愚痴ぐちをこぼしながらやされている――なんてことは、他人にはあまり知られたくないし、この目の前のいけ好かないイケメン風に言えば、周囲から「そんなに寂しいの? 人生」と思われかねない。
 そんなトップシークレットを易々やすやすと言い当てられてしまったことが恥ずかしいやら情けないやらで、私の声は雨音にかき消される程度のか細いものになっていた。
 イケメンは一瞬きょとんとした顔をしてから、ぷっと噴き出した。

「な、何がおかしいのよっ」
「いや、別に。やっぱり図星だからそんなムキになってんだと思って」
「っ……!」

 結果的に、自分が寂しくて満たされてない人間であると認める形になってしまった。

「別にいいでしょっ、放っておいてよ。あなたに迷惑かけてるわけじゃないんだし、誰でもいいから聞いてほしいって思うことだってあるのよっ……い、言わせないでよ、こんなことっ」

 彼氏や、ごく近しい気心の知れた親友がすぐそばにいたなら、そういう人たちに聞いてもらうこともできるのかもしれない。
 ……でもいないんだから、しょうがないじゃない。私の場合は、アメリに受け止めてもらうしかないの!
 私は半ば開き直ってわめいた。
 そして視線を下げて、小さな水たまりができはじめている砂利じゃりの地面を恨みがましくにらむ。

「――誰でもいいなら、聞いてやろうか」

 ビックリして思わず顔を上げた。
 聞こえてきたのは、またも予想外の台詞せりふ。しかも、今回は先ほどと違い、いい意味での。
 何かの悪意が隠れているのではないかと彼の表情を観察するけれど、さっきのようなニヤニヤ笑いはなく、不快な感じもしなかった。
 でも、そう言いだした彼の意図がわからない。返事をしかねている私に、彼が言葉を重ねる。

「俺が、あんたの愚痴ぐちを聞いてやるって言ってる」
「どうしてあなたが」
「たまたまここで会ったからっていうんじゃ、理由にならない?」
「な、ならないでしょ。そんなの……悪いって思うもん。その、あなたに」
「どうして?」
「誰だって、他人の愚痴ぐちなんて聞きたくないじゃない。そりゃ、仲良い人ならアリかもしれないけど、そうじゃなければ負担になるだけだし」

 さっきまであれだけバカにしていたくせに――とも思いつつ、かといって親切にされるのも気が引ける。

「遠慮してんの?」
「そりゃ、まあそれなりに」

 いかに失礼な相手とはいえ、たった今出会ったばかりの人。そんな彼に愚痴ぐち聞き役を押しつけるのはあまりにひどいと思う。それに、私だってどこの誰とも知らない男性に、自分の悩みをオープンにするのは勇気が要る。
 それでも、イケメンは引かなかった。彼は、土管を椅子代わりに腰を下ろす。

「猫より人間相手のほうが、話した気になるだろ。いいから、話してみろって。誰でもいいから聞いてほしいと思うくらいの、理不尽な出来事があったんなら」
「…………」

 このまま口を閉ざし、その場を去ることもできる。
 冷静に考えれば、ずぶ濡れで猫を構っていた彼は不審極まりないし、無礼な物言いも頭にきて仕方がない。
 だけど、どういうわけか――私は、この場に留まり、思うところを吐き出すほうを選んでしまった。
 多分、戸塚とのことが、本当に私を悩ませていたのだろう。
 上司と同僚に言いくるめられ、明日、無理やりデートさせられそうになっていること。
 その同僚は恋愛対象外で、どうしても前向きになれないこと。
 同僚にデートを諦めさせるには、出まかせに口にしてしまった「彼氏」を連れていかなければならないこと。
 今現在、特定のパートナーを望んでいないこと、などなど。
 私は時折、傘のを握る手に力をこめながら、ここぞとばかりに吐き出した。
 その間、雨はすこし弱くなったり、逆に強くなったりもした。にもかかわらず彼は、じっと私の話に耳を傾けてくれる。ただ公園で偶然出会っただけの、知らない女のとりとめのない話を。

「……聞いてもらっただけでも、だいぶスッキリした」

 本当だった。周囲の景色とは裏腹に、心のなかの雷雨はすっかりおさまり、日の光すら差してきそうな気配さえ感じる。

「あと……ごめんなさい。これ、今さらだけど」

 言いながら、差している傘をイケメンの前に出した。
 ストレスを吐き出しだいぶ落ち着いてきたら、雨宿りもせずに耳を傾けてくれるイケメンに申し訳なくなったのだ。

「本当に今さらだな」

 イケメンのほうも、「なぜ今?」とでも言いたげに、喉を鳴らして笑った。
 面目めんぼくない。自分のことしか考えていなかった。

「でももう全身ずぶ濡れだし、気にすることない」
「気にします。その、風邪引いちゃう」
「だとしても、あんたのせいじゃないし」

 彼は私を責めるような節は微塵みじんも出さず、もはやシャワーでも浴びていたのではと思うくらいの前髪をかき上げながら首を横に振った。それどころか、

「濡れないように、ちゃんと差しておきな」

 と、私の傘を押し返すような仕草をする。

「でも、やっぱり悪いですって」
「平気」
「そう言わずに――」

 私のせいで濡れっぱなしだったっていうのに。そのまま自分だけ平然と雨を避けるなんてできなかった。半ば強引にイケメンへ傘を押しつけようとしていると、肩にげていたトートバッグがずり落ちてしまう。

「あっ」

 雨に砂利じゃり。こんな状況で荷物をぶちまけようものなら最悪だ。
 しかし幸いにも、中身をいくつか落としただけですんだ。

「ほら――こんなことしてると汚れるぞ」

 やれやれという風に肩をすくめると彼は立ち上がって、地面からボールペンを拾ってくれる。

「…………」
「あの?」

 彼は拾ったボールペンをじっと見つめていた。
 その行動を不審に思い私がたずねると、彼は「いや」と首を横に振った。

「俺はいいから、自分は濡れないようにして」

 ボールペンを「はい」と言いながら突き返してくる彼。

「……じゃあ、お言葉に甘えて」

 私は彼に譲ろうとしていた傘を、自分のほうに引き寄せた。そして、ボールペンをバッグにしまってから小さく頭を下げる。

「気にしないでいいって。それより――」

 彼はひらりと手を振って、ここからが本題だとばかりに声の調子を変えた。

「あんたの目下もっかの悩みってのは、好きでもない同僚の男とデートさせられそうになってる――ってことだろ?」

 私はうなずいた。

「それを解決するいい方法がある」
「えっ」
「教えてやろうか?」

 にっこりと邪気のない笑みを浮かべて、たずねてくるイケメン。

「ぜひ! 教えて!」

 私は一瞬も迷うことなく、そう言っていた。
 明日のデートを回避できる方法があるなら、ぜひとも知りたい!
 すると彼は、その笑みのまま続けた。

「俺をあんたの彼氏ってことにするんだ。それで明日、その同僚とやらに紹介する」
「……?」
「そいつはあんたに言ったんだよな? 『彼氏がいるなら連れて来い』って。だから実際に目の前に現れて、デートをやめさせる。どうだ、いい案だろ?」

 ……え、ちょっと言ってることがよくわからない。
 初めて会った、名前も知らない目の前の彼を、彼氏として紹介する?

「えっと……それはつまり、あなたに恋人のふりをしてもらうってこと?」
「そう」

 イケメンは再び土管に腰を下ろして、大きくうなずく。

「そ、それはさすがに……」
「何か問題ある?」
「というか……」

 むしろ問題しかない。私は困惑しながら答えた。
 そりゃあ、これだけカッコいい人が「彼氏です」なんて出てきたら、たいていの男は戦意喪失して逃げ出すんだろうけど……

「これは私の問題で、そこにあなたを巻きこむのって抵抗あるし」

 目の前のこの奇特なイケメンは、見も知らぬ私の愚痴ぐちを雨に打たれながら辛抱強く聞いてくれた。
 それだけでも希有けうな話だというのに、さらには彼氏のふりをして戸塚とのデートを回避する手伝いをしてくれるなんて。
 そんな、私にだけ得があるようなことがあっていいのだろうか?

「その代わりと言っては何だけど、俺のお願い、ひとつ聞いてくれる?」
「お願い?」
「俺、今夜泊まる場所なくなったんだ。だから、一晩泊めてよ。あんたの家に」
「は!?」

 もしかしたら、部長に戸塚との約束を取りつけられたときよりもおどろいたかもしれない。

「そ……それはマズいでしょ」
「どうして」
「だって私、ひとり暮らしだし」

 私としては、これが断りを入れる一番正当な理由だと、いっそドヤ顔になる勢いで自信を持って言ったつもりだった。それなのに――

「なおさら都合いいじゃん。同居人がいないなら、誰に気兼ねすることもないんだし」

 イケメンは私の意図をまったく理解せず、むしろ好都合とばかりに白い歯を見せて笑う。
 この反応には絶句するしかなかった。
 いやいや、ダメでしょう。いい歳した男女、それもたった今会ったばかりのふたりが、一晩限りとはいえひとつ屋根の下?

「無理。無理無理。そういうの、絶対無理」

 私は早口に言って、高速で首を横に振る。

「いや、そりゃ、こうして愚痴ぐちに付き合ってもらったりして、あなたにはすごく感謝しているけど、だからって家に泊めるっていうのは、いくらなんでも非常識すぎる」
「そう?」
「『そう?』って、あのねぇ……」

 初対面。男。そのふたつのワードだけで、家に招くゲストの条件としては完全にアウトだ。説明の必要なんてない。
 わざわざそんなことを解説しなきゃならないのかと思うと、むしろ怒りがこみ上げてきた。

「知らない男を泊められるわけないでしょ。普通に考えて」

 私が安易に男を家に招き入れそうなタイプに見えた? だから、相手にそう言わせてしまったとでもいうのだろうか?
 だとしたら心外だ。

「私の愚痴ぐちを聞いたのも、それが目的?」

 もともとこのイケメンが、よからぬことを考えていたのだとしたら。
 最初から、女性とそんな風に関係を持つのが目的で、私に近づいてきたのだとしたら――そういう説もあり得るような気がした。だけど彼はとんでもないとばかりに目をみはる。

「俺ってそんな感じに見えてんの?」
「見えるも何も、泊まりたいなんて言われたらそう思われるんじゃない?」
生憎あいにくだけど、女には一切困ってないから。そんな下心ないよ」
「……」

 一切、と言い切れるのがすごい。まぁでも、冷静に考えればそうかもしれない。なにせこの恵まれた容姿だ。
 女の子のほうからいくらでも寄ってくるだろう。
 自分で言うのも悲しいけど、私は目をいて可愛いとか、美人とか、そういうタイプではなかった。とすれば、そっちの心配は必要ないのかもしれない。

「あんたにとっても悪い話じゃないと思うんだけど」

 私が考えこんだことに気付いたのか、イケメンが語気を強める。

「いいか。さっきあんたは、しばらくパートナーはいらない、って話してたよな。でも――」

 彼はまじまじと私の顔を見つめながら続ける。

「パッと見、アラサーってところのあんたの周囲には、必ずあんたの男関係を気にするおせっかいなやからが存在する。ソイツらは決して悪いヤツじゃないが、男の影が見えなければ心配し、かといって短いスパンで男を変えても心配する。思い当たるだろ」
「……まあ、確かに」

 部長、両親、結婚した友達――
 すぐに思い浮かぶだけでこれだけいるのだから、彼の言っていることは間違いない。

「そういう人間には、今とりたててパートナーを欲していないという話をしたところで、なかなか理解も納得もされない」
「……うん」
「欲しいのにできない、という風に解釈されるからだ」

 悔しいけれどその通りだ。――私にも経験がある。いくら本当に欲していないと訴えても、相手はそうは捉えない。
 やせ我慢をしていると思われてしまうのだ。不本意にも。

「ところがヤツらは意外と単純で、おせっかいを焼いていた相手に、彼氏の存在を確認した途端に安心する。そして、一度安心してしまったら、これまでのようにはしつこく詮索せんさくしてこない」

 つまり――とイケメンは軽く人差し指を立てて、さらに続けた。

「あんたを取り巻く人間に、もう特定の誰かがいますってことを知らしめてやれば、今後そういう話題に振り回されることもなくなる。明日デートするとかいう同僚に報告するだけで、少なくとも社内のかかわりある人間には何となく知られるようになるだろ」
「……そんなに上手くいくかな」
「人の噂は勢いよく流れていくものだからな。恋愛に関しては、どういうわけかことさら広まりやすいようにできてる」
「なるほど……」

 確かに、あまり社内でも絡みのない人の恋愛事情を、人づてに聞くっていうのはよくある。
 偽彼氏を紹介して、相手がいますってアピールするのは悪くないのかもしれない。
 いや、でも、待てよ――

「あなたに協力してもらうことのメリットはわかった。でも、だからって家にあなたを泊めるっていうのはちょっと」

 危ない危ない。このイケメン、妙に説得力があるものだから、ついYESと言いそうになってしまったけれど。今までの話と私の自宅に一晩泊まるって話は、別問題だ。
 善人か悪人かも判断つかない彼を泊めるのは、やっぱり危険だ。何か被害に遭ったあとに後悔しても遅いのだし。

「何、俺のこと、信用できない?」
「逆に、信用できると思う?」

 たった今会ったばかりの相手を家に連れて帰れるほど、私はお人好しじゃない。
 いや、そもそも、そんなの私に限ったことじゃないだろう。世の女性はおおむねそうであるはずだ。

「はは、そりゃそうだ」

 自分でたずねたくせに、彼はおかしそうに笑っている。
 ということは、非常識な提案をしているという自覚はあるのだ。

「わかってるなら、どうしてそんなこと」

 怒るというより、もはや呆れる。

「あんたに困った事情があるように、俺にも困った事情があるの」
「はぁ?」
「あんたを助けてやるかわりに、俺の頼みも聞いてよってこと」
「……答えになってないんですけど」

 何だそれ。適当な返事してくれちゃって。

「にゃあ」

 この無茶苦茶なイケメンにどう答えたものかと困惑していると、土管のトンネルから顔を出したアメリがひと鳴きした。
 雨のしずくが顔にかかったからだろうか、ぶるりと頭を振る。

「アメリ」

 私が名前を呼ぶと、彼女は「ん?」という顔をして、緑色の瞳でこちらを見つめた。
 彼女の視線に合わせて、その場にしゃがみこむ。

「あんたがつけたの、名前?」

 イケメンは腰掛けていた土管から立ち上がりトンネルの入り口に回りこむと、私と同じようにその場にしゃがんだ。

「そう」
「自分の猫じゃないのに?」
「多分、どこかの飼い猫だとは思うけど、愛着湧いちゃって」
「名前の由来ゆらいは?」
「アメリカンショートヘアに似てるから」
「ふーん。ずいぶん安直だな」

 自分ではまあまあなセンスだと思っていたものを、否定されるとイラッとする。
 たとえそう感じたとしても、口に出さなければいいものを。

「お前の名前、アメリっていうのか」
「にゃあ」

 それでもイケメンは、私が勝手につけた名前で彼女を呼んだ。
 返事をするみたいにアメリが鳴く。それを聞いたイケメンがトンネルのなかに手を伸ばし、アメリの白いあご先をちょいちょいと人差し指でなでつけた。

「いつの間に手なずけたの」
「ついさっき」

 トンネルのなかからは、ゴロゴロと機嫌よさそうな喉音が聞こえてきた。
 おどろいた。私がアメリと打ちけるには、半年もかかったっていうのに!
 このイケメンは、たった一度この場所を通りかかっただけで、アメリの警戒心をいてなつかせてしまったというのか。

「私、すごく時間かかったのに」
「昔から動物には好かれるんだよ」
「何だか負けた気分」

 すっかり気を許し、夢見心地とばかりに目を細めるアメリを見て、思う。
 ――いったい何者なのだろう、この人は。
 私のなかで、急速に彼に対する好奇心が膨らんでいった。

「そろそろ、俺を連れていく気になった?」
「ま、まさか」

 イケメンがアメリを構いつつ私のほうを向いたので、立ち上がって首を横に振る。
 そこまでは考えなかったけれど、彼に強い興味を抱きはじめていることがバレてしまったように感じ、思わず強めに否定した。

「こんなにズブ濡れの俺を置いていくつもり? 散々愚痴ぐちを聞いてやったのに」
「そ、それはっ……」
「あーあ、風邪引いて熱でも出たら大変だなー」
「う、うぐっ……」

 さっきは平気だと言っていたくせに、そこを責めてくるのは卑怯ひきょうだ。というか、脅してるのと一緒じゃないか。
 彼に対して申し訳ない気持ちは、確かに存在する。
 動物がなつく人に悪い人はいないとか言うし、お世話になったし。これでこのまま別れて体調崩されたりしても後味悪いし。――それに。
 猫を構う彼の横顔が、今朝夢で見た、あの天才ピアノ少年に重なる。
 ――ああ、そういうことか。
 見覚えがある気がしたのは名波くんに似ているからなんだ、とようやく私のなかで合点がてんがいった。
 正確に言うと、名波くんが成長して大人になったら、きっとこんな風になっているんだろうな、という想像図ではあるけれど。
 出会いがしらのあの懐かしい感情の正体に気付いてしまった今、私はどうしても彼にマイナスなイメージを抱くことができなくなってしまっていた。
 一晩だけならいいだろうか? 知らない男の人を泊めても。
 いや、そんなの普通にダメでしょ。ダメに決まってる!
 ふたつの異なる意見がせめぎ合い、頭がくらくらする。
 自分でも自分の気持ちがよくわからない。彼を突き放したいのか、連れて帰りたいのか。
 思考回路に異常をきたしたかのように、正常な判断がつかなくなってしまっている。

「ペット禁止のマンションでも、人間ならOKだろ」

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