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1巻
1-1
しおりを挟むプロローグ
「谷川さん、もしかして緊張してます?」
『株式会社クリハマ』と看板を掲げた大きな建物のエントランスを潜ろうというとき、松田さんが足を止め、わたしの顔を覗き込んだ。
三月のまだ冷たさの残る風が、頬と前髪を撫でていく。その前髪をくしゃりと掻きながら、わたしは顔を上げた。
「えっ、わ、わかります?」
「うん。今深呼吸してましたよね」
言いながら、松田さんが可笑しそうに声を立てて笑った。
頭の片隅で、彼の、二重の大きな瞳を細めた人の好さそうな表情を、可愛いな――なんて思いつつ、わたしは恥ずかしさで「だって」と口にする。
「初めての商談なんですもん、仕方ないじゃないですか。松田さんは懇意にしている会社さんが相手だし、何度も経験あるから手慣れてるでしょうけど……」
「ごめん、そうでしたね」
彼はすまなそうに片手を拝むような形にすると、小さく眉を下げた。
「――いや、谷川さんは普段からしっかりしてるし、なんでもソツなくこなしてくれるから、忘れてました」
「そんなことないですよ。やる気だけは人一倍ですけど」
彼にそう評価されていたのは誇らしいけれど、わたしは首を横に振った。
まったく違う業界から現在の菓子メーカーに転職したばかりのわたしにとって、自分の仕事の内容を振り返る余裕なんてなかった。この数ヶ月ただひたすら、松田さんの下で、やるべきことをがむしゃらにやってきただけに過ぎない。
「そのやる気が一番大事なんですよ、営業って」
「そう、ですかね」
「うん。心配しないでいいですよ、自信持って。谷川さんなら大丈夫」
松田さんは、安心させるみたいに深く頷いて言った。彼の双眸が、確信しているという風に力強くわたしを見据える。
『谷川さんなら大丈夫』
その言葉と瞳の意志で、不思議と妙な身体の強張りが消え、気持ちがスッと楽になった。と同時に、まったく別の意味合いで、ドキドキしてしまう。
彼のような魅力的な男性に褒められるのは、純粋に嬉しい。
スラッとしていてスーツが似合う体形だし、ヘアスタイルも理知的で嫌味のない黒髪のマッシュ。二重の大きな目が特徴的なやわらかい雰囲気の顔立ちなのに、鼻筋は通っていて男らしさも感じる。しみひとつない肌は滑らかで、清潔感に溢れている。
素晴らしいのはもちろん見目だけじゃない。
容姿を抜きにしても、彼は優しくて、とても信頼できる上司だ。ずっとチャレンジしてみたかった仕事に運よく就くことができ、右も左もわからないわたしに営業のイロハを教えてくれ、育ててくれた。それだけに止まらず、こんな風に励ましてくれたり、勇気付けたりもしてくれる。
それが嬉しくて、最近では、彼の存在がさらに頑張りたいという動機にも繋がっているのだ。
彼がいるから、もっと一生懸命に仕事をしようと努力することができる。尊敬する先輩であり、憧れの男性。
わたしにとって、松田さんはそういう、大切な存在になりつつあった。
「ありがとうございます、頑張ります!」
わたしが清々しい気持ちで言うと、松田さんはもう一度頷いたあと――何故か、寂しい微笑を見せた。
まただ。彼は不意に、そんな表情を見せるときがある。わたしは、それが気になって仕方なかった。
まるで、誰かとの別れを惜しむような、目には見えない何かに追い縋るような。名残惜しげな眼差し。
そのあと、彼は決まってわたしから顔を背ける。「どうしたんですか?」と彼の背中に問いかけたいけれど、いつもできずにいた。
こんなことを訊けるほど、まだ松田さんとわたしの関係は打ち解けたものではなかった。
仕事で接する機会は多いのに、どこかよそよそしさが抜けず、一定の距離を保ったままだ。おそらくわたしと彼がこれ以上親密になることはないだろう。わかっている。
わかっているけれど……それでも、もっと彼に近づきたい。彼に信頼してもらいたい。
そして、彼が時折纏う影の理由を知りたい。そう思ってしまうのだ。
「行きましょう。そろそろ約束の時間なので」
「はい」
腕時計に視線を落とした松田さんに促され、わたしも歩き出す。
今はとにかく、目の前の仕事をこなすことを考えよう。
わたしはもう一度深呼吸をしてから、彼に続いてエレベーターホールへと進んでいったのだった。
1
「――では、お手元の資料をご覧ください」
小ぢんまりとした部屋に、松田さんの落ち着いた低音が心地よく響いた。
株式会社クリハマの一部屋で、わたしと松田さん、ふたりでの初商談が始まった。
わたしはページを捲ることも忘れ、わたしのすぐとなりで流暢に内容を読み上げる彼の声音に、しばし聴き入ってしまった。
それまでの優しげな口調とは違う、凛とした語調。ここからはビジネスなのだと線引きするみたいな真剣な横顔に、ドキッとする。やっぱり素敵だ、松田さんは。
「弊社青葉製菓では、来年夏の目玉商品としまして、弊社のメイン購入層に当たる若い女性をターゲットに、夏らしく涼しげで思わず手に取ってしまいたくなるような、インパクトのある商品を発売する予定です。サンプルをお持ちしていますので、是非お試しください――サンプルを」
松田さんはそう言うと、わたしに呼びかけた。
「あっ、はい」
いけない、見惚れてないで仕事に集中しなきゃ。初めての商談、それもあのクリハマさんとなんだから。
商談相手である株式会社クリハマは、大手スーパーやコンビニに太いパイプを持つ、菓子業界では一、二を争う卸売会社だ。
都内の一等地に、七階建ての自社ビルをデンと構えているのはさすがといったところ。ビルの入り口で、わたしの挙動を見た松田さんが笑っていたけれど、最初の商談がこの場所だなんて、そもそも緊張しないはずがないのだ。
わたしたちメーカーは、三~四ヶ月に一回、新商品を開発するごとに、卸売会社に出向いてプレゼンを行う。そこで卸売会社の担当に商品をチェックしてもらい、気に入ってもらえるかどうかで、今後それらが卸売会社と繋がるスーパーやコンビニなどで多く売り出してもらえるかが決まる。
商品の売れ筋は、この段階である程度決まってしまうと言っても過言ではない。
いわば、第一関門だ。ここを上手く乗り越えられれば、その後の商品の動きに期待ができるので、少しでもいい印象を持ってもらわなければ。
わたしは慌てて傍らの椅子に置いていた紙袋の中から、目当てのものを取り出した。
ちょうどわたしの手のひらを広げたくらいの大きさのパッケージは白一色で、黒文字で大きく「2020年夏新商品 Glossy(仮)」と印字されている。
企画段階では、商品パッケージまでは完成されていないことも多々ある。我が青葉製菓は卸売会社での反応を受け、パッケージに反映できそうなアドバイスをもらえたら、積極的に採用しているのだ。
「どうぞ」
わたしは、斜向かいにいる眼鏡の男性――大場さんにサンプルを差し出した。
細身で日焼けした肌が特徴的な彼はそれを受け取り、パッケージを破ると、中に入っている飴玉をひとつ摘み上げ、しげしげと見つめる。
大場さんはクリハマの営業一部の次長で、西東京エリアの責任者。メーカーの間では西東京の顔と呼ばれており、彼に気に入られるか否かで商品の売り上げが大きく変わってくると言われている。
だから、さっき松田さんに紹介してもらいご挨拶をしたとき、情けなくも声が震えてしまった。
大場さんご自身は気さくな方で、わたしの慣れない素振りに笑って「頑張ってね」なんて声を掛けてくれたけれど、結構気難しくて厳しいところもあると聞いている。失態を晒さないように気を付けないと。
「へえ、確かに面白い」
暫く飴玉を観察していた大場さんの目が、眩しそうに眇められる。
「こちらの『Glossy』のコンセプトは、夏祭りです。夏祭りの高揚感あるキラキラした情景を、一粒の飴の中に再現しました」
大場さんの反応にホッとした様子の松田さんが、口元に笑みを湛えて説明する。
『Glossy』という名前の通り、大小様々な大きさのキャンディチップや、ラメのように輝くパウダーが配合された飴玉。
小さいころに憧れた、プラスチックの透明な球体の中に、色とりどりのビーズを詰めたヘアゴムを思い起こさせる、華やかで存在感のあるビジュアルだ。若い女性ならば一目見て「可愛い!」「欲しい!」となりそうな、これまでにはなかった商品ではないかと思う。
「フレーバーはりんご飴やあんず飴のイメージで、アップルとアプリコットの二種類で展開する予定です。パッケージは準備中ですが、やはり夏祭りのイメージに合ったデザインで、小窓を作って実際の商品を覗けるようにしたいと考えています」
「いいんじゃない、こういう商品。最近は、味だけじゃなくて見た目に注目させる菓子も需要があるだろう。ほら、あの、画像投稿アプリだっけ?」
「そうですね。他社さんの商品でも、そこに投稿された写真が火付け役になって品薄になった事例がいくつかありますし。弊社もそのブームに乗っかれないかと、企画部で案を出したみたいです」
「なるほどね」
話しながら、大場さんが飴を口の中に放り込む。
「……うん、味も悪くない」
そして、飴玉が溶け出すまでの少しの間のあと、そう続けた。そんな大場さんを前に、松田さんは嬉しそうに頬を緩める。
「ありがとうございます。大場さんに認めて頂けると自信になります」
「まぁ、こっちも松田くんが持ってくるものなら信頼してるから。心配しなくても推しとくよ。あ、そのうちまたサッカーしような」
「ありがとうございます。また誘ってください」
「もちろん。松田くんが来ると、君目当てにうちの会社の女の子たちがこぞって応援に来てくれるんだよ。イケメンは得だね」
大場さんは言いながら悪戯っぽく笑った。
クリハマさんにはサッカーチームがあって、運動不足解消を目的とした人から、昔ユースチームでプロを目指してた人まで、社内外問わず誰でも参加OK。大学時代にサッカーサークルに所属していたという松田さんは、ちょくちょく呼ばれているようだ。
……でも、他社の女性社員にも人気があるとは思わなかった。確かに松田さんの容姿はかなり目を惹くし、整い過ぎているくらいだ。
容姿とスタイルの良さはもちろんのこと、特に素敵だなと思うのは、彼の手。
いつも丸く短く切り揃えられた爪と、ささくれや皮剥けのない長い指先は、スマホを操作しているときや書類の受け渡しのときによく目にするけれど、思わずじっと見入ってしまう。
ああいう細かな身だしなみを気にすることができる人って、イコール細かいことに気を遣える、気配りができるって意味だと思う。
外見だけじゃなく、中身もイケメンだからこそ、曲者である大場さんの心を掴むことができたのだろう。
「いえ、そんな。そうだ、大場さん、今度呼んで頂く際は谷川もご一緒してもいいですか?」
イケメンと持て囃された松田さんは困ったように笑ってから、わたしのほうへ視線を向けた。
「ん、君、サッカー好きなの?」
「あ、はいっ。見るのもやるのも好きです」
大場さんに訊ねられて、慌てて頷く。
本当のところ、大学の授業以来サッカーボールには触っていない。でも、身体を動かすことは嫌いじゃないし、テレビでサッカー観戦をすることはある。
「いいねー。うちは女子社員だけの試合とかもあるから、よかったら出てよ。女子は人数少ないから、みんな喜ぶよ」
「はい、是非お願いします!」
サッカー好きの大場さんは、わたしの返事に気を良くしたらしい。眼鏡の奥の瞳がぐっと優しくなったように感じられた。
やった。もし本当に呼んでもらえたら、松田さんが活躍する姿をこの目で見られるかもしれない。それはラッキーかも。
……とか、邪なことを考えてしまった。わたしったら、松田さんは仕事に繋がると思って話題にしてくれたっていうのに。
「そういえば松田くん、彼女――谷川さん? 新人って言ってたけど、新卒の時期じゃないよね」
大場さんは、わたしが最初に渡した名刺を見ながら、松田さんに訊ねる。
「ああ、はい。彼女、中途なんですよ」
「二ヶ月前に入社しました。今、二十五です」
わたしが言うと、大場さんは意外そうに目を瞠った。
「落ち着いてるわけだ。新卒の子はどうもオドオドソワソワしてるけど、そう見えなかったから」
「ですよね。僕の二つ下とは思えないくらいしっかりしてますよ」
大場さんの言葉に、松田さんがわたしを見つめながら賛同する。彼の瞳に自分が映っているのが見えて、わたしは慌てて視線を下げて首を振った。
「いえ、全然です。まだわからないことばかりで、松田さんに教えてもらってなんとかなっている状態なので。早く自分でいろいろできるようにならないといけないな、とは思ってるんですけど」
松田さんに褒められるのは嬉しいけれど、まだ何もできない自分にはもったいない評価で恐縮してしまう。
大場さんはやや上を向きながら、大きく声を立てて笑った。
「入って二ヶ月じゃしょうがないよ。松田くんだって今でこそ優秀な営業マンだけど、入ったばっかりのころは俺もあれこれ煩く言ったりしたから」
「大場さんには何から何まで教えて頂きましたよね。本当に感謝してます」
どんな仕事でも首尾よくこなす松田さんも、最初から完璧なわけではなかったということなのだろう。つい親近感を覚えてしまう。
「松田くんの下についてれば、谷川さんもすぐ一人前の営業マンとして活躍できるから焦らなくていい。今後、期待してるよ」
「ありがとうございます!」
わたしは大場さんに身体を向けると、深々と頭を下げた。
――どうやらわたしの人生初めての商談は、好感触のようだった。
◆ ◇ ◆
「お疲れ様でした。上手くいってよかった」
クリハマの自社ビルを出て駅へと向かう道の途中、松田さんが労いの言葉を掛けてくれる。
あのあと、いくつか他商品のプレゼンをして大場さんから要望やアドバイスを頂いた。商品によっては厳しい評価が下ったものもあったけれど、致命的な指摘はなく、その商品も無事にクリハマの取引先へと売り込んでもらえることとなった。
「ほぼ松田さんのお陰でしたけどね。次は、もっと役に立てるように頑張ります」
緊張からの解放と、なんとか無事に済んだという安心感で自然と表情が綻ぶ。
それは松田さんも同じであるみたいだ。
行きよりも表情がやわらかいし、言葉の語尾も妙に軽く弾んでいるように聞こえる。会話の傍らで、いかにも仕事中、というキリッとした表情もいいけれど、自然体の彼も素敵だ――なんて考えてしまう。
「いや、十分な受け答えでした。商談の内容に関しては、今の段階では俺とか同行する人間のプレゼンをよく聞いて、いざというときに自分の言葉で説明できればそれでいいんです」
「そうですかね」
「それに大場さんの噂、あちこちのメーカーから聞いてると思いますけど、それに振り回されず、委縮しないできちんと応対できてましたし」
「ごくごく当たり前というか、無難な返事しかできなかったんですが、あれで正解でしたか?」
「その当たり前の応対もできなくて辞めてく人材も多いんです。人対人の仕事だと、ある程度のコミュニケーション能力がないと成り立たないから。そういう意味でも、今日は上出来でしたよ」
「それなら、よかったです」
もう少し仕事の話にも積極的に参加するべきかとも思ったけれど、段階を踏んでこなしていければいいということであれば、松田さんの言う通り『上出来』だったのだろう。本当、よかった。
我ながらかなり気を張っていたことに気付き、小さく息を吐くわたしを見て、松田さんはそっと目を細めた。
「この時期の新入社員ってことで、大場さんも印象に残ったんじゃないですかね。谷川さんのこと」
「やっぱり珍しいんですかね」
「うちの会社にはあんまりいないかもしれないですね。言われてみれば、中途ってどうしてもじゃなければ採らないような気がします。うち、営業は男ばっかりで離職率低いから、必然的に欠員も少ないし」
「言われてみれば」
会社での様子を思い浮かべて頷く。
わたしたち営業部は、九割が男性と言っていい。となりの経理部は女性が多いから、全体的な比率には差が見えず、あまり気にしたことがなかった。
「女性の営業志望自体が男性に比べて少ないかもしれないですね。体力的にキツいことも多いし」
「そうですね。想像よりもキツかったかもしれないです」
松田さんの言葉に賛同して笑う。
営業という職種はとにかく体力が要る。重たい資料やサンプルを両手に抱えて客先に赴いたり、展示会で歩き回ったり。プレゼンで日帰り出張なんていうのも結構ある。
だから最近は、暇さえあれば体力の回復のため、家に引きこもってひたすら眠りこける――なんて、残念な休日の過ごし方でバランスを取っている状態だ。
「なのに、どうしてうちで営業をやろうって思ったんですか?」
なんでもない、ただの雑談の延長のように思われたけれど、わたしはその問いかけに変な高揚感を覚えた。無意識のうちに足を止めて、松田さんの顔を見上げた。
「あ、ごめん。言いにくいことですか?」
わたしが立ち止まったのを見て、申し訳なさそうな様子で彼も歩みを止める。
変なことを訊いてしまった。松田さんの顔にそう書いてある。
「いえ、全然。そういうわけじゃ」
気まずそうに視線を俯ける彼に、わたしはぶんぶんと両手を振った。
少し意外だったのだ。松田さんは、わたしが訊いたことに対しては真摯に答えてくれるが、彼のほうからわたしに何かを訊ねてくることは、割と、まあまあ、珍しい。
そういう珍しいことが起きると、わたしに興味を持ってくれているんじゃないか、とか、自分勝手に自惚れた期待が湧き上がってしまうけれど、そうではないこともちゃんとわかっている。気まぐれだとしても嬉しいものは嬉しい。
「――その、人生で初めて、ちゃんとやってみたいって思った仕事なんですよね。わたし、それまで印刷会社で総務の仕事をしていたんですけど、あまりやりがいを感じていなくて」
瞼を閉じると、当時の光景がつい昨日のことのように浮かんでくる。
大学生のころ。これといって夢や目標がなかったわたしは、就活に入ると手当たり次第に様々な企業を受けまくった。
けれど、結果は惨敗。このまま就職浪人一直線か――と危ぶんだとき、拾ってくれたのが件の印刷会社だった。
この際正社員として働かせてくれるならどこでもいい。働けるだけマシだ。
そんな適当な気持ちで過ごすうちに、漠然と「これでいいんだろうか?」なんて疑問が頭を過るようになっていった。
たまに会う大学時代の友人は、上司や取引先の悪口なんかを言いつつも、自分の仕事を誇らしそうに話している。そんな姿を、たまらなく羨ましいと感じた。
わたしには、そんな風に一生懸命になれるものなんてない。
このまま、今の会社で何をするべきか、何をしたいかわからずに過ごしていくのだろうか?
考えただけでも不安で、怖いと思った。今でさえそう思うのに、数年後の自分はこの環境をどう思うのだろう。
ならば、今動かなければ。自分の人生を変えられるのは自分だけなのだ。
「それで、うちの会社を受けたんですね?」
「はい」
どちらともなく再び歩き出すと、それまで話にじっと耳を傾けていた松田さんが訊ねる。わたしは頷いて続けた。
「転職活動中に真っ先に目に留まったのが、青葉製菓の求人でした。昔からお菓子が好きで、特に青葉製菓のキャンディやグミをよく買ってました」
青葉製菓の主力商品は、なんといっても飴やグミなどのポケット菓子だ。わたしは特に、グミを気に入っていた。
美味しいのはもちろんのこと、女子がバッグに入れて持ち歩きやすい可愛らしいパッケージのものが多く、寧ろパッケージが気に入ったからとレジに持っていくことすらあった。
「お菓子って、小さな幸せを運んでくれるっていうか、一口食べただけで人を笑顔にできるじゃないですか。そういうの、素敵だなって思ったんです。わたしもお菓子に関わる何かに携わりたいって」
「いいこと言いますね」
松田さんが優しく笑った。わたしはその横顔を盗み見るみたいに、ちらりと視線を向ける。
「そういう並々ならぬ思いがあるから頑張れるってことですね」
「はい。ちゃんと目標ができたからには、それに向かって進んでいかなきゃいけませんから」
「目標?」
「わたしが売り込んだ新商品をヒットさせることです。それが定番商品になれば、こんなに嬉しいことはないじゃないですか」
この業界に入って初めて知ったことだけど、この世にはごまんと菓子が生まれ、それらのほとんどがほどなくして消えてしまう。
いくら販売者側にとって出来が良く、美味しくても、売れなければ生き残れない。
「頼もしいですよ。俺も、企画部がアイデアを絞って、あれこれ試行錯誤してやっと生み出してくれた素晴らしい商品を、ひとつでも多く売り込めるようにって思いながら仕事してるつもりです」
松田さんはわたしよりもその厳しさをよく知っているからか、自分にも言い聞かせるみたいにして同意してくれた。
その重みのある言葉が、彼の誠実な人柄を強く表しているようで、胸に熱いものが溢れる。
「松田さんのそういうところ、素敵ですよね」
意識するよりも早く、わたしは弾かれたように言葉にしていた。
「え?」
「わたしはまだこの仕事を始めて間もないから、今ちょうど気持ちが盛り上がっているところだったりするんですけど、松田さんみたいに、長く営業を続けていて、きちんと結果を残している人が、そうやって初心を忘れずにいられるのって、尊敬します。……好き、です」
言葉の通り、上司としての彼に感じている尊敬の念や、わたしもこうありたい、見習いたいという意図でそう口にした。
「…………」
けれど、松田さんの反応を見るに、明らかに困惑していた。
虚を衝かれたように目を瞠ったあと、さっとわたしから視線を逸らしてしまう。
理由はすぐに思い当たった。
最後の言葉が妙に思わせぶりな調子になってしまったせいか、ともすれば別の類の想いをアピールしているように聞こえてしまったのだろう。
――「好き、です」って。
しまった! そういうつもりじゃなかったのに。
ううん、そういう疚しい感情がまったくなかったかと訊かれれば嘘になる。わたしの中で密かに芽生えていた尊敬とは違う想いが、抑えきれずに彼に届いてしまったのかもしれない。
でも、今のは純粋に、彼の考え方が素敵だってことを伝えたかっただけなのに!
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