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第20話

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「おい、気を付けろよ」
「大丈夫。人の気配はなさそうだから」
 彼女が言う通り、木の壁が剥がれかけた廃屋のなかはがらんとしている。およそ六畳程度のスペースに家具らしきものはなく、誰かが住み着いている様子はまるでなかった。
 その理由はすぐにわかった。建物の左側の屋根には破損のためかぽっかりと穴が開いている部分があり、外から様子が窺えてしまうからだろう。長く身を潜めるには向いていないのだ。
「……何だよリリー。こんなところに連れてきて」
「…………」
 様子が変だ。リリーは建物の中心で立ち止まると、緊張した顔でオレを見つめる。
 そして、抱えていたねこちゅーをオレに突き出した。……持ってろってことか?
 それを左手で受け取った直後――あろうことか、彼女は自身のワンピースの左側の肩ストラップについたくるみボタンを外し始めた。
「ちょっ――リリー!?」
 ストラップを外してしまうと、今度はその下に着ていたらしい同色系統のブラウスの第一ボタンと第二ボタンを外す。てっきり、長袖のワンピースだと思っていたけれど、実際は長袖のブラウスとジャンパースカートを組み合わせていたものだということがわかる。
 ……って、冷静に観察してる場合じゃなかった!
「ヤバいって。何考えてるんだよ」
「ヤバいって、何が?」
 第三ボタンに手をかけようとする彼女の動作を制するけれど、リリーは理解できないとばかりに首を傾げる。
 何がって……いや、こんな人目につかないところで服を脱ぎだすなんて、どう考えたってヤバいだろう。説明するまでもない。
 もしかして、現状を悲観しすぎてどうかしてしまったとでもいうんだろうか。別の刺激で気を紛らわせようとか、そういう……?
 だとしたら、なおさら止めないと!
「ヤケになるなよ。もっと自分を大切にしないと」
「は? ユーキ、何か勘違いしてない?」
「……え?」
 リリーはジト目でオレを見てから、呆れた様子でため息を吐いた。
「わたしが見せたかったのは――コレだもん……」
 そう言って、彼女は胸元から左肩にかけてを大きく割り開いた。透き通る白い肌が、惜しげもなく晒される。
 おいおい! だからヤバいって……!!
 見てはいけないと目を瞑るより先に、露わになった彼女の左の鎖骨の下と、肩口の部分のそれぞれに――蜘蛛のタトゥーを見つけてしまった。
 ……え? これって――
「わたしの蜘蛛はね、二匹、ここにあるの」
「二匹……?」
 アンが言っていた。この世界の『クリミナル』は、身体の何処かにひとり一匹蜘蛛を飼っているのだと。
「リリーは誰かから、蜘蛛を奪ったってことなのか?」
「…………」
 静かに問うと、彼女は俯いて微かに頷いた。
「……でも、信じてほしい。奪いたかったわけじゃなくて……結果的に、こうなってしまっただけで」
 茶色のようで緑色のような大きな瞳が、涙で潤んでいる。オレは混乱しつつも、何かを訴えかけようとする彼女に、じっと耳を傾ける。
「血の池のそばで目を覚ましたとき、知らない女の人に声をかけられたの。年上っぽい女性で、戸惑うわたしにこの世界のことを教えてくれるって言って……すごく親切な人だなって思って、話を聞くことにしたの」
「…………」
 その時点で嫌な予感がする――とは思ったけど、口にはしなかった。
 オレ自身、何度か危ない目に遭ったからこそ警戒することを覚えたわけで。何の予備知識もない上に不安でいっぱいなときに手を差し伸べられたなら、オレもきっとその手を取ってしまうだろう。
「……それで、『自分の身体の何処かに蜘蛛がいて、それを三匹集めたらもとの世界に返れる』って話を聞いたときに、その女性はわたしの蜘蛛を探してくれるって言ったの。背中やお尻とかにあると、自分ではわからないだろうからって……わたし、バカみたいに素直に調べてもらっちゃったのね。で、ここに見つけて――」
 彼女はここ、と言いながら肩口にある蜘蛛をそっと手のひらで覆った。
「そしたら、女性は急にわたしの身体を押さえつけて、『蜘蛛をよこせ!』って叫んだの。よくわからなかったけど、本能で危ない状況だってわかっちゃったんだよね。必死で抵抗した。彼女の手がわたしの肩の蜘蛛に伸びたとき、身体に電流が走ったみたいな激しい痛みが襲ってきて……このままじゃ死んじゃうってパニックになった」
 蜘蛛を奪われるときの痛みは、オレにも経験があるから理解できる。思考の全てが痛み一色に染まるくらいの強烈さがある。
「とにかく痛みから逃れたかった。そのとき、わたしに覆いかぶさっていた女性のシャツの胸元が撓んで、蜘蛛のタトゥーが見えた。それで無我夢中で手を伸ばして、その蜘蛛に触れて念じたの。『奪われるくらいなら、わたしが奪ってやる!』って」
 リリーは右手に視線を落とした。その手が小刻みに震えている。
「女性の顔が苦痛に歪んで、ケダモノみたいな声を上げたと思ったら……砂になって消えてしまった。一瞬、何が起きたのかわからなかった。女性を砂に変えてしまったのが自分だと思うと、怖くて身体がガタガタ震えて、涙が止まらなくて……」
 彼女の震える手が、ゆっくりと自身の鎖骨の下――胸元に刻まれた蜘蛛の模様に触れた。
「いつの間にか、左胸にも蜘蛛のタトゥーが入ってた。これが何を意味するのか、そのときはわからなかったけど……そのすぐあとに出会った『スパイダー』にすべてを聞いて、わたしが女性から蜘蛛を奪って――消滅させてしまったことを知ったの」
 そこまで言うと、リリーはブラウスのボタンを上に向かってひとつずつ留めていく。そして、肩ストラップのボタンも留め終わると、オレに頭を下げた。
「黙っててごめんね。でも、誤解しないで。わたしは蜘蛛を集めているわけじゃないし、今後も集めるつもりはない。……だからこそ、アンにもリタにも言ってないんだよ」
「蜘蛛を最初から奪う気だったと思われるのが怖かった……ってことか?」
「そう」
 彼女の頬をぽろりと涙が伝った。その一滴を桜色のマニキュアが施された指先で拭いながら、リリーが頷く。
「わたしが故意に蜘蛛を奪ったって思われたら……みんなが離れて行っちゃう」
「リリーはそんなこと考えるようなヤツじゃないって、アンもリタさんもわかってるよ」
 泣いている彼女が可哀想で、オレは右手で彼女の頭をそっと撫でた。
「――だから泣くな。ふたりとも話せばわかってくれると思うけど、無理にそうしなくてもいいと思うし。話す必要が出てきたときに説明したらいい」
「……ありがと、ユーキ」
 オレの言葉に、リリーはホッとした表情を浮かべると双眸を細めた。
「ユーキは優しいね」
「……そうか?」
「うん。証拠のないわたしの言い分を信じてくれたのもそうだし……さっきだって『自分を大切にしないと』って――」
「あ、あれは……だって、急に服脱がれたりしたら。そう思うだろ」
 彼女は狼狽したオレの様子を思い出したのか、声を殺しながら笑っている。
「わたしがこんなムードのないところにユーキを連れ込んで、そんなことすると思う? 女の子はね、フンイキを大事にするんだよー」
「変な想像して、すみませんでした」
 ……今となっては、勘違いしてしまったのがすごく恥ずかしい。オレは小さくなって謝った。
 そんなオレをおかしそうにひとしきり笑ったあと、リリーの表情がきゅっと引き締まる。
「……おにいちゃんも、そんな風に優しかったみたい」
 まるで遠い記憶を手繰り寄せるみたいに、リリーが睫毛を伏せ、小さな声でぽつりとこぼした。
 
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