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第17話
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それから基地である洞窟に戻るころには、日が落ち始めていた。
滝のカーテンを潜るオレが視界に入るなり、リリーが駆け寄って来る。
「あっ、ユーキ! 随分遅かったね、何処行ってたの?」
「いろいろあって血の池のほとりまで行ったあと、道に迷って」
血の池で能面女と別れたあと、基地に向かう途中に方向感覚を失って――というのは、建前だ。 本当は、意図的に遠回りをしていた。
『あの男には気を付けて』
能面女の話を聞いたあとでは、余計にアンと顔を合わせ辛かった。
だから、時折必要のない休憩を挟みつつ、ゆっくりと時間をかけて帰ってきたというわけだ。
「心配したんだよ! なかなか戻ってこないから、他の『クリミナル』に捕まっちゃったのかと思った」
リリーは怒っていた。それくらい気を揉んでいたということなのだろうか。
仔リスのような顔立ちをしている彼女には、頬を大きく膨らませる仕草がよく似合う、と頭の片隅で思う。
「そうだったのか、ごめん」
確かに、これだけ時間が経過すれば襲われたと思われても仕方がないか。オレは素直に謝った。
「何もなくて……無事でよかった」
一足遅れてやってきたリタも、ホッとした表情を浮かべている。
「リタさんも、ごめんなさい。心配かけたみたいで」
「そうそうー、みんなで心配してたんだよー? この世界じゃ、何が起きるかわからないからねー」
奥のほうで横になっていた身体を起こし、アンも輪のなかに入ってきた。
「――もう戻ってこないかと思っちゃったよ」
「…………」
彼がくれた一瞥には、瞬間的に言外の意味が含まれているのだと理解する。
夜中に交わしたやりとりが、頭を過った。
『どうしても蜘蛛を集めたいっていうなら止めないし、そうしてくれて構わない。でもその場合は、俺たちと別行動してもらうことになると思う』
考えた末、オレが三人とは違う道を選んだのだと。彼はそう思っていたのだ。
「そんなわけないだろ」
オレはアンの茶色い瞳を見つめ返し、キッパリと言い切ってから、さらに続ける。
「不可侵条約、だっけ。此処でみんなで身体が朽ちるのを待つんだから。何処にも行きようがないよ」
「……そうだね」
アンはオレの言葉にほんの少しだけ驚きの表情を浮かべたけれど、すぐにいつもの、親しみやすい笑みに取って代わった。
そう、遠回りを繰り返しながら考えて、考えて、考えて――決めたんだ。
オレは『蜘蛛の糸』を諦めると。このまま、アンやリリー、リタさんと一緒に、終わりのときがくるのを待つことにしたのだ。
自分自身の記憶を取り戻すことに、未練がないわけじゃない。本音を言えば、自分が何処の誰で、どんな罪を犯してこの世界にやってきたのか、詳しく知りたい。
でも……能面女が話していたように、記憶を取り戻して、もっと絶望したらどうする?
彼女の言葉には説得力があった。かつて『クリミナル』としてこの世界にやってきたとき、幸運にも――いや、不幸にも記憶を持ったままだった彼女が言うのなら、そうなのかもしれないと思うことができた。
運よく『蜘蛛の糸』を掴んだとして、明るい展望のない人生を再び歩む意味があるのだろうか。そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、いっそこのまま……何も知らないまま滅びる道を選ぶほうがいい。
……アンが言った通りの結果になったというわけか。オレはきっと、此処に残る道を選ぶだろうと。
ただひとつ、引っかかるのは――
『あの男には気を付けて』
能面女が最後に放った例の言葉が、どうしても気になってしまう。
アンに気を付けるって……彼は、オレの恩人なのに……?
「でも今後は長時間ひとりで行動しちゃダメだよ? ユーキは隙だらけな上に蜘蛛もよく見える場所にあるから、襲われたら即消滅なんだからね」
「わかったわかった。気を付けるよ、リリー。だからそんなに怒るなって」
噛みつくように説教をしてくるリリーに、オレは片手を拝む形にしながらまた謝った。それを見たリタさんが、にこにこと朗らかに笑う。
「それだけ不安で堪らなかったんでしょう。リリーってば、ずっとキミの帰りが遅いって、そればっかりだったから」
「だっ、だってどうしちゃったんだろうって気になるじゃない……何かあったのかも、とか、いろいろ」
リタさんがオレに告げ口をすると、リリーはきまり悪そうに口ごもった。……もしかして、照れてるんだろうか。ちょっと意外だった。
「まぁ、確かに変なヤツにも会ったけど、どうにか振り切って逃げられたし。それより――顔見知りの『スパイダー』に会って、ソイツと少し話したよ」
言いながら、長いこと歩いていたせいで疲れていたオレは、三人に断りを入れるとその場に座った。
「顔見知りの『スパイダー』って、昨日わたしと初めて会ったときにいた『死神さん』のこと?」
オレのとなりに座ったリリーが訊ねる。他のふたりも円を描くように、それぞれ腰を下ろした。
「死神さん……? ああ、サングラスの――」
黒尽くめの男。なるほど、リリーが考えそうなネーミングだ。
「いや、そっちじゃない。アンと会ったときに一緒だった女の『スパイダー』だ。能面みたいな顔をした」
そういや能面女も黒いスーツを着ていた。『スパイダー』は黒い服を着なきゃいけない決まりでもあるんだろうか。
オレはさりげなく真正面に座ったアンの様子を窺った。微かに眉が跳ねたような気がする。
「ノーメン? 何それ」
リリーは困ったように首を傾げた。まさかとは思うが、能面を知らないのか。……説明が難しいな。
「あー、いや……表情が乏しいヤツなんだ」
わざわざ解説する必要もないだろうと、わかりやすく言い換えてから「それで」と本筋に入る。
「――アンとリリーは、この世界では『クリミナル』は消滅を待つか、蜘蛛を集めて『蜘蛛の糸』を掴むか、その二択だって話をしてたよな」
「うん」
頷いたリリーがとなりのアンに目配せして確認すると、彼も頷きを落とす。
「でもどうやら、選択肢はもうひとつあるらしい」
「えっ!」
弾けるような高い声を放ったリリーが目を瞠った。
「……もうひとつ?」
訊ねたのはリタさんだ。彼女もリリーほどではないにせよ、驚いている様子だった。
「『スパイダー』になって、監視役に回ることだ」
昨日のお礼というわけではないけれど、情報は共有しておいたほうがいいと思った。
能面女が『クリミナル』だったこと。消滅も蜘蛛集めも拒んでいたこと。そのとき出会った『スパイダー』に第三の選択肢を提示されたこと。そうして『スパイダー』になると選んだこと。
オレは、能面女に聞いた話をそのままそっくり伝えた。
「『スパイダー』になれば、消滅しないで生き続けられるってことだよね」
リリーは一筋の光を見出したとばかりに、嬉々として言った。
「ああ。でも、期待させるようなことを言っておいて悪いけど、『スパイダー』になってしまったら、死にたくても死ねなくなる。永遠に監視役をし続けないといけない。……選択肢が増えたとしても、八方塞がりであることには変わらないみたいだな」
「なーんだ。じゃあ意味ないじゃない。こんなところでずーっと生き続けるなんて絶対イヤっ」
「……言い換えれば、永遠に閉じ込められるってことだもんね」
大きなため息を吐くリリーに同調して、リタさんも肩を竦めた。
「…………」
オレはもう一度アンの反応を窺った。彼は口を真一文字に結んで黙っている。
「……アンは、このことを知ってたんじゃないのか?」
アンの瞳が揺れたのを見て、確信した。
驚かなかったということは、既に知っていたのだろう。
「えーっ、知ってたの? なら昨日教えてくれたってよかったのに」
リリーが不機嫌そうにアンを非難する。オレも同感だった。
持っている情報は全て話すと、彼はそう言っていたのに。
「あー、ごめん、そんな情報もあったね。言い忘れてた。でも、どうせ俺たちにはプラスにならない話だし、伝えてなくても一緒かなって」
アンは軽く謝りつつ、後頭部に手を添えながら舌を出してみせた。
彼が主張する通り、あまり有益と言える情報ではない。それを知ったからと言って『スパイダー』になる道を選ぼうと思う感覚の人間は少ないだろう。
でも……。
『あの男には気を付けて』
能面女の言葉が、オレに警笛を鳴らす。
考えろ。忘れていたのではなく、あえて黙っていたのだとしたら、どんな理由が考えられる?
例えば……それがオレたちには知られたくない情報だった?
それは何故か。万が一、オレたちのなかから『スパイダー』になろうとするヤツがいたら困る、とか?
いや、でもそれでアンが困ることなんて何もなさそうだ。仲間とは言え、所詮は他人だ。各々の考えで進む道を選べばいい。彼はそういうスタンスだった。
――――いや、待てよ。まさか……。
ふと思い浮かんだ仮説に、オレは背筋が冷たくなるのを感じていた。
滝のカーテンを潜るオレが視界に入るなり、リリーが駆け寄って来る。
「あっ、ユーキ! 随分遅かったね、何処行ってたの?」
「いろいろあって血の池のほとりまで行ったあと、道に迷って」
血の池で能面女と別れたあと、基地に向かう途中に方向感覚を失って――というのは、建前だ。 本当は、意図的に遠回りをしていた。
『あの男には気を付けて』
能面女の話を聞いたあとでは、余計にアンと顔を合わせ辛かった。
だから、時折必要のない休憩を挟みつつ、ゆっくりと時間をかけて帰ってきたというわけだ。
「心配したんだよ! なかなか戻ってこないから、他の『クリミナル』に捕まっちゃったのかと思った」
リリーは怒っていた。それくらい気を揉んでいたということなのだろうか。
仔リスのような顔立ちをしている彼女には、頬を大きく膨らませる仕草がよく似合う、と頭の片隅で思う。
「そうだったのか、ごめん」
確かに、これだけ時間が経過すれば襲われたと思われても仕方がないか。オレは素直に謝った。
「何もなくて……無事でよかった」
一足遅れてやってきたリタも、ホッとした表情を浮かべている。
「リタさんも、ごめんなさい。心配かけたみたいで」
「そうそうー、みんなで心配してたんだよー? この世界じゃ、何が起きるかわからないからねー」
奥のほうで横になっていた身体を起こし、アンも輪のなかに入ってきた。
「――もう戻ってこないかと思っちゃったよ」
「…………」
彼がくれた一瞥には、瞬間的に言外の意味が含まれているのだと理解する。
夜中に交わしたやりとりが、頭を過った。
『どうしても蜘蛛を集めたいっていうなら止めないし、そうしてくれて構わない。でもその場合は、俺たちと別行動してもらうことになると思う』
考えた末、オレが三人とは違う道を選んだのだと。彼はそう思っていたのだ。
「そんなわけないだろ」
オレはアンの茶色い瞳を見つめ返し、キッパリと言い切ってから、さらに続ける。
「不可侵条約、だっけ。此処でみんなで身体が朽ちるのを待つんだから。何処にも行きようがないよ」
「……そうだね」
アンはオレの言葉にほんの少しだけ驚きの表情を浮かべたけれど、すぐにいつもの、親しみやすい笑みに取って代わった。
そう、遠回りを繰り返しながら考えて、考えて、考えて――決めたんだ。
オレは『蜘蛛の糸』を諦めると。このまま、アンやリリー、リタさんと一緒に、終わりのときがくるのを待つことにしたのだ。
自分自身の記憶を取り戻すことに、未練がないわけじゃない。本音を言えば、自分が何処の誰で、どんな罪を犯してこの世界にやってきたのか、詳しく知りたい。
でも……能面女が話していたように、記憶を取り戻して、もっと絶望したらどうする?
彼女の言葉には説得力があった。かつて『クリミナル』としてこの世界にやってきたとき、幸運にも――いや、不幸にも記憶を持ったままだった彼女が言うのなら、そうなのかもしれないと思うことができた。
運よく『蜘蛛の糸』を掴んだとして、明るい展望のない人生を再び歩む意味があるのだろうか。そんな無駄な時間を過ごすくらいなら、いっそこのまま……何も知らないまま滅びる道を選ぶほうがいい。
……アンが言った通りの結果になったというわけか。オレはきっと、此処に残る道を選ぶだろうと。
ただひとつ、引っかかるのは――
『あの男には気を付けて』
能面女が最後に放った例の言葉が、どうしても気になってしまう。
アンに気を付けるって……彼は、オレの恩人なのに……?
「でも今後は長時間ひとりで行動しちゃダメだよ? ユーキは隙だらけな上に蜘蛛もよく見える場所にあるから、襲われたら即消滅なんだからね」
「わかったわかった。気を付けるよ、リリー。だからそんなに怒るなって」
噛みつくように説教をしてくるリリーに、オレは片手を拝む形にしながらまた謝った。それを見たリタさんが、にこにこと朗らかに笑う。
「それだけ不安で堪らなかったんでしょう。リリーってば、ずっとキミの帰りが遅いって、そればっかりだったから」
「だっ、だってどうしちゃったんだろうって気になるじゃない……何かあったのかも、とか、いろいろ」
リタさんがオレに告げ口をすると、リリーはきまり悪そうに口ごもった。……もしかして、照れてるんだろうか。ちょっと意外だった。
「まぁ、確かに変なヤツにも会ったけど、どうにか振り切って逃げられたし。それより――顔見知りの『スパイダー』に会って、ソイツと少し話したよ」
言いながら、長いこと歩いていたせいで疲れていたオレは、三人に断りを入れるとその場に座った。
「顔見知りの『スパイダー』って、昨日わたしと初めて会ったときにいた『死神さん』のこと?」
オレのとなりに座ったリリーが訊ねる。他のふたりも円を描くように、それぞれ腰を下ろした。
「死神さん……? ああ、サングラスの――」
黒尽くめの男。なるほど、リリーが考えそうなネーミングだ。
「いや、そっちじゃない。アンと会ったときに一緒だった女の『スパイダー』だ。能面みたいな顔をした」
そういや能面女も黒いスーツを着ていた。『スパイダー』は黒い服を着なきゃいけない決まりでもあるんだろうか。
オレはさりげなく真正面に座ったアンの様子を窺った。微かに眉が跳ねたような気がする。
「ノーメン? 何それ」
リリーは困ったように首を傾げた。まさかとは思うが、能面を知らないのか。……説明が難しいな。
「あー、いや……表情が乏しいヤツなんだ」
わざわざ解説する必要もないだろうと、わかりやすく言い換えてから「それで」と本筋に入る。
「――アンとリリーは、この世界では『クリミナル』は消滅を待つか、蜘蛛を集めて『蜘蛛の糸』を掴むか、その二択だって話をしてたよな」
「うん」
頷いたリリーがとなりのアンに目配せして確認すると、彼も頷きを落とす。
「でもどうやら、選択肢はもうひとつあるらしい」
「えっ!」
弾けるような高い声を放ったリリーが目を瞠った。
「……もうひとつ?」
訊ねたのはリタさんだ。彼女もリリーほどではないにせよ、驚いている様子だった。
「『スパイダー』になって、監視役に回ることだ」
昨日のお礼というわけではないけれど、情報は共有しておいたほうがいいと思った。
能面女が『クリミナル』だったこと。消滅も蜘蛛集めも拒んでいたこと。そのとき出会った『スパイダー』に第三の選択肢を提示されたこと。そうして『スパイダー』になると選んだこと。
オレは、能面女に聞いた話をそのままそっくり伝えた。
「『スパイダー』になれば、消滅しないで生き続けられるってことだよね」
リリーは一筋の光を見出したとばかりに、嬉々として言った。
「ああ。でも、期待させるようなことを言っておいて悪いけど、『スパイダー』になってしまったら、死にたくても死ねなくなる。永遠に監視役をし続けないといけない。……選択肢が増えたとしても、八方塞がりであることには変わらないみたいだな」
「なーんだ。じゃあ意味ないじゃない。こんなところでずーっと生き続けるなんて絶対イヤっ」
「……言い換えれば、永遠に閉じ込められるってことだもんね」
大きなため息を吐くリリーに同調して、リタさんも肩を竦めた。
「…………」
オレはもう一度アンの反応を窺った。彼は口を真一文字に結んで黙っている。
「……アンは、このことを知ってたんじゃないのか?」
アンの瞳が揺れたのを見て、確信した。
驚かなかったということは、既に知っていたのだろう。
「えーっ、知ってたの? なら昨日教えてくれたってよかったのに」
リリーが不機嫌そうにアンを非難する。オレも同感だった。
持っている情報は全て話すと、彼はそう言っていたのに。
「あー、ごめん、そんな情報もあったね。言い忘れてた。でも、どうせ俺たちにはプラスにならない話だし、伝えてなくても一緒かなって」
アンは軽く謝りつつ、後頭部に手を添えながら舌を出してみせた。
彼が主張する通り、あまり有益と言える情報ではない。それを知ったからと言って『スパイダー』になる道を選ぼうと思う感覚の人間は少ないだろう。
でも……。
『あの男には気を付けて』
能面女の言葉が、オレに警笛を鳴らす。
考えろ。忘れていたのではなく、あえて黙っていたのだとしたら、どんな理由が考えられる?
例えば……それがオレたちには知られたくない情報だった?
それは何故か。万が一、オレたちのなかから『スパイダー』になろうとするヤツがいたら困る、とか?
いや、でもそれでアンが困ることなんて何もなさそうだ。仲間とは言え、所詮は他人だ。各々の考えで進む道を選べばいい。彼はそういうスタンスだった。
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