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1巻
1-2
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佐木さんが厨房に戻ったそのとき、店のドアベルがチリンと鳴った。
「――あら~、泰生くん、いらっしゃい」
扉に視線を送ると、買い物袋を抱えた奥薗さんが帰ってきたところだった。カウンターに泰生の姿を見つけると、うれしそうに空いたほうの手を振る。
「お邪魔してます。ペアリングのワイン、相性抜群でおいしいです」
「気に入ってもらえてよかった~。そのピノ・ノワールってブドウの品種はね、トマトソース全般と合うから、パスタやピザにもおすすめよ」
奥薗さんは買い物袋を近くの座席に置き、泰生のそばにやってきた。自身のペアリングを褒められ、胸の前に両手を合わせてよろこんでいる。
奥薗さんは五十歳前後だけど、見た目がもっと若く見えるのは、雰囲気に合ったナチュラルメイクと茶色のボブヘアのせいだろうか。白いシャツに黒いパンツというシンプルな格好だからこそ、細身であることがよくわかる。
彼女もまた、父のリストランテ時代の同僚だった。当時はソムリエの資格を取るための勉強をしながらホールの仕事をしていたらしいけれど、父が独立する噂を耳にして、佐木さん同様「雇ってください」と熱望したと聞く。ソムリエになったのは『フォルトゥーナ』に籍を移してかららしい。
彼女の提案するペアリングのおかげで、庶民的な店ながら、冠婚葬祭などのかしこまった場での宴に利用してくださるお客さまもいて、とても助かっている。
「へぇ、勉強になるなぁ」
自身の会社で飲食を扱っている泰生は、自身が食べることが好きなのもあり、興味をそそられたようだ。感心したようにうなずく。
「会社のメニューでも真似していいよ。イタリアンの居酒屋チェーン、ゼノフーズで持ってたでしょ?」
「じゃあアイデアもらっときます」
奥薗さんと泰生がにこやかに笑っていると、厨房のほうから「あっ!」と佐木さんの叫び声が聞こえた。それから、彼が再びカウンターに出てくる。
「律子、言い忘れてたけどカッサータがないから頼む」
律子とは、奥薗さんの名前だ。佐木さんがバツが悪そうに額を掻いて言うと、奥薗さんが信じられないという風に目を剥いた。
「えー! しゅうちゃん、そういうの買い物行く前に言ってよ。オレンジピール切らしてたんじゃなかったっけ……。だいたい、仕込むのに時間かかるのに」
しゅうちゃん、という愛称は、佐木さんの名前である修一から来ている。
「どうせひと晩かかるんだから、今夜は間に合わないだろ」
カッサータとは、チーズクリームにナッツやドライフルーツなどを合わせたイタリアのアイスクリーム。奥薗さんはホールや調理補助もこなしてくれていて、ドルチェの一部は彼女が仕込んでいる。カッサータもそのうちのひとつだ。
数時間タイミングが違ったところで結果は変わらない。そう言いたげな佐木さんに、奥薗さんが「あのねぇ」と反論する。
「――だとしても、買い物は行ってこなきゃいけないじゃない。私にまたスーパーまで往復させる気?」
「俺は厨房から出るわけにいかないんだから仕方ないだろ」
「仕方ないだろって……あなたっていつもそうっ」
テンポのいいかけ合いの途中、泰生がふたりを眺めながらふっと笑う。
「なにがおかしいの、泰生くん?」
奥薗さんがちょっと不服そうに泰生を一瞥した。すると泰生は、悪気はなかったとばかりに顔の前で拝むような仕草をする。
「あ、いえ。おふたりとも、相変わらずこのワインと料理みたいに相性抜群だなって。そうやって仲良さそうなところを見てると、『元』夫婦って感じがしないな」
「だね」
私も同感なので相槌を打った。口ゲンカしつつも、彼らの間には、長年連れ添った夫婦特有のリラックスした空気感がある。
実は奥薗さんと佐木さんは十年ほど前まで夫婦だったのだ。『フォルトゥーナ』の経営が安定し始めたときに結婚してお店でパーティーをしたのを、子どものころのことだが覚えている。
離婚理由は『家でも仕事の話になって気が休まらないから』。お互いに仕事人間なので、一緒にいるとお店の話をしてしまうらしい。ふたりともお店を辞める気はなかったから、それなら私生活で距離を置きましょうということにしたようだ。
離婚後もふたりに別のパートナーができたとは聞かないし、定休日にはふたりで食事していることもある。私から見ればいつも仲良しなので、復縁したらいいのにと勝手に思っている。
「相性抜群なら離婚しないで済んだわよ」
奥薗さんは照れ隠しなのか皮肉っぽくそう言ったけれど、それを自身で笑い飛ばして続ける。
「っていうのは冗談として。……まぁ別に、嫌いで離婚したわけじゃないからね。でしょ?」
彼女が佐木さんに振ると、彼もいつもは鋭い瞳を優しく細めて、豪快に笑う。
「そうそう。俺たちは今くらいに適度な距離感があったほうが上手く行くんだよな」
「これで四六時中一緒だったら、私もっと突っかかって大ゲンカになってると思うわ」
奥薗さんがいたずらっぽく言うと、みんながおかしそうに笑った。
「――ただ、先代と伽奈子さんは別格だ。あのふたりはいつも一緒だったけど、ケンカしてるところは一度も見たことなかった」
佐木さんがちょっと遠くを見つめて、懐かしそうにつぶやく。伽奈子というのは、私の母の名だ。
「ですね。母は控えめで父の決めたことに反論しませんでしたし、父もそんな母の意見をできるだけ汲もうと、丁寧に言葉を交わしていた記憶があります」
両親は常にお互いを想い合っており、穏やかだった。私もふたりが言い合いをしている様子は記憶にない。思春期、傍から見ると少し恥ずかしくなるくらいに仲睦まじかったけれど、今となっては自慢の両親だ。
「瀬名さんも伽奈子さんも人柄がいいから、お客さまも自然とそういう方々が集まってくださるんですよね。本当、素敵なご夫婦だったわ」
今度は奥薗さんが瞼を閉じて言う。きっと父と母の姿を思い浮かべているのだろう。
「……そう言っていただけて、両親もよろこんでいると思います」
父と母とともに、この店をずっと支えてきてくれた佐木さんと奥薗さん。大学在学中の私が、ふたりに「この店の経営者になる」と決めたことを話したとき、いやな顔ひとつせずに応援してくれた。
父が亡くなったことで離れてしまったお客さまもいるけれど、それでもなんとか黒字をキープできているのは、彼らがそばで支えてくれていたから。このふたりには、感謝の念が絶えない。
――そして。感謝しなければいけない人はもうひとり、私の目の前にもいた。カウンターで、私たちの昔話に耳を傾けている彼。
泰生とはもともとなんでも言い合える友達だったけれど、悠生くんがいなくなってからはずっと支えてもらいっぱなしだ。最初のころは現実を受け止めきれない私に毎晩のように電話をくれたし、少し落ち着いてからはこうして様子を見に来てくれる。
軽口を叩きつつも、その実は私のことを深く心配してくれているのがわかった。私は本当にいい親友を持ったな、と思う。
彼のほうからしてみれば、自分の兄の不義理をフォローしているだけなのかもしれないけれど。それでも泰生が話し相手になってくれることで、地の果てまで落ち込んだ気持ちが楽になったし、つらくとも少しずつ現実を受け入れて前を向かなくてはいけないという思いにさせられた。
そのとき、またドアベルが鳴った。今度は正真正銘、お客さまだ。ふたりとも初めて見るお顔なので、新規の方だろう。
「いらっしゃいませ~」
私と奥薗さんの声がユニゾンし、佐木さんは厨房に戻る。私がカウンターの外に出て奥薗さんの置いた買い物袋を裏へ引っ込めているうちに、奥薗さんがお客さまを席へ案内する。
「そうだ日和。二週間後の夜、空いてる?」
カウンターに戻った私に、思い出したように泰生が訊ねた。
「二週間後? って、いつ?」
「十一月二日」
――あ。……私の、二十六回目の誕生日。
「……えっと、昼か夜どっちかなら……」
「あらあら、その日は丸一日お休みのはずじゃなかったですか、日和さん?」
私が少し躊躇しながら答えると、早々とオーダーを取り終わった奥薗さんが戻ってきて、口をはさんでくる。お客さまと会話をしつつ、私たちの会話にも聞き耳を立てていたらしい。
「あ、でもそれは――」
悠生くんとデートするために空けていただけで。彼との予定がなくなったなら、どちらかだけでも働こうという気持ちになっていた。でも。
「泰生くん。日和さんは一日フリーなのでよろしくお願いします」
「えっ、奥薗さんっ?」
奥薗さんがかしこまった所作で、泰生に頭を下げた。その意図がわからなくて混乱する。
「平日ですし、昼も夜もブッチが入ってるんで心配しなくて大丈夫ですよ。お任せください」
ブッチ――小淵くんの名前を出した奥薗さんは、泰生の肩をつんと突きながら、いたずらっぽく小首を傾げる。
「――泰生くんだって、そのほうがいいものね?」
「っ……奥薗さん」
泰生が慌てた風に奥薗さんの名前を呼んだ。彼にしては珍しく、心なしか少し照れているように見える。……なんだろう?
「てわけで、日和さんは気にせずお出かけしてきてください。せっかくなので、泰生くんに豪勢なランチやディナーでもごちそうになったらどうです?」
奥薗さんは小声でそう言うと、厨房のほうにくるりと方向転換して、声を張り上げる。
「――オーダー入ります~、グラスシャンパンが二つと前菜の盛り合わせ、漁師風トマト煮込み」
「ベーネ!」
佐木さんが歌うように答えるのを聞き届けると、彼女は仕事モードに入ったと言わんばかりに、黙々とシャンパンの準備を始めた。
「……まぁ、なんだ。奥薗さんもああ言ってくれてるし、兄貴の罪滅ぼしってわけじゃないけど、日和さえよければ出かけよう。一日空いてるなら、その日の予定は俺に組ませてもらえる?」
泰生はほんのちょっとだけ気まずそうに視線をさまよわせたけれど、小さくかぶりを振り、反応を窺うように私の顔を覗き込む。
――うーん、どうしよう。
私と悠生くんが婚約していたことは、お店で働くみんなも知っている。彼が姿を消した直後は彼らにも心配をかけてしまったけれど、極力仕事に影響させたくはなかったので、お店ではできる限り普段通りに振る舞っているつもりだ。みんなも私の思いを汲んでくれたのか、そのことについては触れず、温かく見守ってくれているのがありがたい。
そんな奥薗さんが妙に私を休ませたがるのは、たまにはお店を忘れてリフレッシュしたほうがいい、と、遠回しに元気づけようとしてくれているからなのかもしれない。
お店を離れていると余計なことを考えてしまいそうで、そっちも心配なんだけど……
……ううん。でもせっかくだし、やっぱり行こうか。
泰生もまた、私を元気づけようとしてくれているのだろう。罪滅ぼしなんて言うけれど、泰生はちっとも悪くないし私も彼を責めるつもりはない。だから責任感の強い彼に甘えすぎてはいけないと自戒しつつ、誘われたのは素直にうれしかった。
今年の誕生日は、久しぶりにひとりで過ごすことになるだろうと思っていたから、それだけで気持ちが明るくなる。仲のいい泰生が相手ならなおのこと。
「う、うん……じゃあ、お願いします」
熟考の末に私がうなずくと、泰生の表情に安堵の色が浮かぶ。
「楽しみにしてる」
「……私も」
――泰生とふたりで出かけるなんて、いつぶりだろう。
遥か遠い記憶に想いを馳せながら、私は彼が食事を終えるまでの間、他愛のない会話を楽しんだのだった。
◆◇◆
――二週間後。私の誕生日まではあっと言う間だった。
待ち合わせは午前十一時に『フォルトゥーナ』の前。お店の二階が、私の住居になっているからだ。
「たまには悪くないじゃん、そういう格好も」
「……そ、そう?」
私は少し照れながら首を傾げる。「日和が持っている中で、いちばんきちんとしている服で」という指定を受けていたので、ベージュのニットワンピースにブラウンのジャケットと、黒のショートブーツを合わせた。カジュアルめな格好が多い私にとっては大人っぽい組み合わせだ。
「うん。似合ってる」
「そ、それはどうも」
気恥ずかしくて視線を逸らしながらお礼を言った。
彼の装いは、黒いジャケットに白いバンドカラーシャツ、ダークグレーのスキニーパンツ。足元は革靴。普段のスーツ姿と似ているようで、ほどよく肩の力が抜けたファッションだ。彼は昔からなにを着てもさまになって羨ましい。悠生くんも、「泰生は得だよね」とよく褒めていたっけ。
泰生の車で向かった先は都心にある、若者に人気のおしゃれなカフェだ。都会的なビルが立ち並ぶ中に突然現れる赤い屋根のお店は、鉄板で焼くふわふわのパンケーキが人気で、テレビやSNSで話題になったので知っている。
普段は食いしん坊の私だけど、「昼は軽めにしておいて」と言う泰生に従い、リコッタチーズのパンケーキを三段にしたいところ、二段で我慢した。それにミルクたっぷりのカフェラテ。
泰生はブラックコーヒーと、フレッシュクリームのパンケーキを二段。そうだった。彼は兄と違って甘党なのだ。
男性とお茶をしていて、一緒に甘いものを食べてくれるのが新鮮で、それだけで楽しい。「かわいいし、おいしい」とパンケーキの感想を言い合った。
食後に連れていってくれたのはアクアリウム。カフェからほど近いそこは、光と音の演出が巧みで、カップルのデートスポットとして定評がある。私も興味があったので悠生くんを誘ったことがあったけれど、人混みが苦手な彼はあまり乗り気ではなかったから、残念に思いつつも諦めていた。
そういう話を、泰生に直接伝えたことはないはずなのだけど……思いがけず、来られてよかった。
訪れるお客さんのいちばんの目当てだというイルカショーを見たあと、ひとつひとつの水槽をきっちり見て回る。その途中で少し休憩しようという流れになり、私たちは建物内にあるカフェスペースに立ち寄ることにした。
ライトの演出を際立たせるために周囲は薄暗く、丸テーブルとイスの白さがやけに鮮やかに映る。
「カップルが多いけど、家族連れも多いね」
歩き回って少し暑いと感じたので、椅子の背もたれにジャケットをかけて椅子に座った。それから、クラゲ模様のプラカップに入ったホットレモネードを片手に、きょろきょろと辺りを見回してみる。
「子どもって海の生き物が好きみたいだな。さっきのイルカショーも、前列はほとんど小さい子だったし」
テーブルの向かい側に座る泰生は、ここでもブラックコーヒーをチョイス。手の中のカップには、エイが描かれている。
「やっぱりショーは迫力あったね。イルカも当然かわいかったけど、音楽とライトの使い方が素敵で、つい見入っちゃったな」
先刻のショーを思い出し、私はいつになくはしゃいで言った。
出かけるのは久しぶりだったし、家にいるとなんだかんだ悠生くんのことを考えてしまうから、一時でもそれを忘れて心から笑えたのは、泰生のおかげだろう。
「――ありがとね、泰生。ここ来てみたかったから、連れてきてもらえてうれしい」
「ならよかった」
泰生が私を見つめて穏やかに微笑む。
兄弟だから、彼の面差しは悠生くんに似ている。悠生くんも、よくそうやって目を細めて私を見つめてくれた。左目の下のほくろが、彼がかつての恋人ではないと認識させてくれる。
当の本人は今ごろ、私ではない誰かに、その微笑を向けているのだろうな――
「彼女さんのジャケット落ちてますよ」
ついつい、消えてしまった恋人のことをまた考えていると、後ろの席の女性がそう話しかけてきた。
「あ――ありがとうございます」
一瞬ぽかんとしてしまったけれど、すぐに私のことを言っているのだと気が付いた。慌てて振り返り、教えてくれた女性に頭を下げる。それから、気付かぬ間に床に落ちていたジャケットを拾って、椅子の背もたれにかけ直した。
――彼女さん、だって。周りからはそう見えてるのか。まぁ、私たちくらいの年の男女がふたりでいれば、そう思われても仕方がないのかもしれないけど……。自分ではあまり考えたことがなかったので、少しドキドキする。
今さらになって、泰生が異性であることを思い知らされたような気がした。と同時に、彼の運転する車の助手席に乗ったことや、いかにもカップルが訪れそうな場所を回っていること、そもそもこんな風に丸一日一緒にいる予定でいることさえも、特別感があるように思えてくる。
――って、違う違う。泰生はただの幼なじみなんだから、意識する必要なんてないのに。
きっと、泰生の周りには私と代わりたいと思っている女性はたくさんいるのだろう。けれど、私と彼に限ってそんな展開になるはずがない。
「――そ、そうだ。今さらだけど、今日仕事は? 大丈夫だったの?」
……わかっているのに、なんだろう、この気持ちは。心の裏側がくすぐったいような心地に無視を決め込み、話題を変えた。
「スケジュールはある程度自分で調整できるから。なにも問題ないよ」
「そう。それならいいんだけど」
私が内心で動揺しているなんて露ほども知らない様子で、泰生は涼しげに答えた。
彼みたいに会社勤めをしている人は、平日のお休みを取るのは大変なのではと思ったりしたのだけど、普通の社員とは立場が違うのだから愚問だったか。
「それと――わざわざ服装の指定をしてきたのはどうして?」
泰生はいつも相手の服装には無頓着な印象があるから、密かに引っかかっていた。私が続けて訊ねると、彼はコーヒーをひと口飲んでからいたずらっぽく笑う。
「ま、すぐにわかるよ」
「え?」
訊き返してみたけれど、それ以上は答えてくれなかった。まるで、なにが起こるかはお楽しみ、とでも言うように。
「少しのんびりしたら、残りを見て回ろう。日和が見たがってたアザラシ、この先にいるみたいだし」
「あっ、そうだったね。楽しみ!」
――そうそう、アザラシ。丸いフォルムがかわいらしいのに、水に潜ると意外に素早かったりする。動物園では見たことがあるけれど、館内の案内図でここにもいると知り、楽しみにしていたのだ。
私たちはつかの間の休憩を挟んで、順路に戻った。
心待ちにしていたアザラシは、悲しいことに展示のガラスが曇っていてあまりよく見えなかったけれど、それを泰生と笑い合って、結果楽しかったのでよしとする。
アクアリウムを出ると、さらに車で移動した。途中、イチョウ並木がトンネルみたいになっている場所を通り、視界いっぱいに広がる鮮やかな黄色が美しくて、夢中で写真を撮った。
夕刻、私たちの乗った車は海沿いにあるフレンチレストランに到着した。都会の喧騒から離れ、ポツンと一軒だけそこにあるような白い正方形の建物。車を駐車場に停め、石の階段を上がると、厳かな門が現れる。そこをくぐって中に入ると、給仕服に身を包んだスタッフが、折り目正しく挨拶をしてくれる。
ダウンライトの落ち着いた照明が辺りを照らす店内を、私たちは窓際のソファ席に案内された。
「すごーい。こんな素敵なお店、来ちゃってよかったの?」
スタッフがワインリストを取りに行ったのを見計らい、泰生に耳打ちする。彼は、恐縮する私を見ておかしそうに笑ったあと、大きくうなずいた。
「もちろん。そのために予約したんだから」
「緊張しちゃう。こういうレストランに来るの、久しぶりだから」
彼が「きちんとした服」と指定したのは、最後にここで食事をするためだったのだ。
私は左胸に手を当てながら言った。同じ飲食店を営む身ではあれど、雰囲気が違いすぎる。
「兄貴が連れてきたりしなかったの?」
「うん……私、意外と気後れしちゃうから、いつももう少しラフなお店にしてもらってた」
格式の高そうなお店は緊張が先に立ってしまう。だから普段のデートでは、気軽に入れる庶民的なお店を選んでもらっていた。
「――あっ、でもこういうところも好きだよ! 勉強になるし、やっぱりお料理がおいしいところが多いから」
私は付け足すように言った。雰囲気に慣れないだけで、決して苦手なわけじゃない。
ただ、泰生がこういう雰囲気のお店を選んでくれたのは意外だった。直接言葉にはされていないけれど、今日が私の誕生日であるのは知っているはずだから、そのお祝いとしてここを選んでくれたのだろうか。もしそうなら、その気持ちがなによりもありがたい。
「泰生は? こういうところ、女の子と来たりする?」
「だから相手がいないって。この間も言ったろ」
「じゃ、泰生も久しぶりなんだ。なのにごめんね~、相手が私で」
彼がその気になれば、好みのかわいい子を誘うくらい訳ないだろうに。失恋した幼なじみのフォローなんてさせてしまって、申し訳ない。
「いいんだよ。俺は日和と来たかったんだから」
あははと笑いながら冗談っぽく言った私に対して、泰生は間髪を容れず、いやに真面目なトーンでそう答えた。
「……あ、ありがと」
こちらに向けられた真摯な瞳に、また心臓がどきんと高鳴る。
今日の私はどうかしている。そこに深い意味はないとわかっていても、私の目には妙に泰生が優しく、頼りがいのある男性に映ってしまう。
実際、友人としての彼は間違いなくそうなのだけど――今日に限っては、そういう意味合いではない。
自分で自分の感情に戸惑っているうちに、スタッフがワインリストを持ってきてくれた。すかさず泰生が「帰りは運転代行を頼んでるから、ワインを選んで。俺より詳しいだろ」と言ってくれたので、変な間ができずに済んだ。
詳しいというほどではないにしろ、奥薗さんから日々レクチャーを受けているから、普通の人よりはわかっているのかもしれない。食前酒も兼ねてシャンパンのブリュットと、メインの肉料理に合わせて赤のメルローを選んでみた。気に入ってくれるといいのだけど。
ほどなくして、スタッフが持ってきた細長いグラスに、華やかな薄黄色の液体が満たされた。軽くグラスを掲げて乾杯してひと口嚥下すると、喉奥に爽やかで心地いい刺激がほとばしる。おいしい。
追いかけるように前菜がやってきた。オイルサーディンとラディッシュのサラダ、馬肉のタルタル。栗とさつまいものムース。色合いが美しくて、それだけで食欲がそそられる。
「店はどう? 順調?」
「おかげさまでね。ほとんど佐木さんと奥薗さんのおかげだけど」
三種それぞれを口に運びつつ、泰生の問いにうなずく。やっぱりどれもおいしい。特にムースは秋らしさが全面に出ているし、佐木さんに相談してうちのお店でも出してみたいくらいだ。
「いい人たちだよな。お店のこと、すごく大事にしてくれてるのがわかるし」
泰生も顔を綻ばせているところを見ると、料理を気に入ったのだろう。
「うん。私は本当に周りの人に恵まれてると思う」
父と一緒に仕事をしていたのが、彼らで本当によかった。たまに店の手伝いをする程度の大学生だった私が、こうして曲がりなりにも店の経営者になれたのは、ふたりの協力あってこそだ。本当なら、父が亡くなった時点で辞められてもおかしくはなかったのに。
「泰生のほうこそ、仕事はどうなの? 今はずっとゼノフーズなんでしょ?」
「アグリとは内容も勝手も違うけど、食らいついてる。店やらメニューやら、覚えることがいっぱいって感じ」
「お店もメニューも多種多様だもんね。……大変そう」
ゼノフーズが展開する店舗は、ファミリーレストラン、ファストフード、居酒屋、カフェなどなど多岐にわたる。そのすべてを把握するのは骨が折れそうだ。それぞれのメニューまで含めたらなおのこと。
「フーズはこれから泰生が継いでいくとして、アグリはどうするの?」
「――あら~、泰生くん、いらっしゃい」
扉に視線を送ると、買い物袋を抱えた奥薗さんが帰ってきたところだった。カウンターに泰生の姿を見つけると、うれしそうに空いたほうの手を振る。
「お邪魔してます。ペアリングのワイン、相性抜群でおいしいです」
「気に入ってもらえてよかった~。そのピノ・ノワールってブドウの品種はね、トマトソース全般と合うから、パスタやピザにもおすすめよ」
奥薗さんは買い物袋を近くの座席に置き、泰生のそばにやってきた。自身のペアリングを褒められ、胸の前に両手を合わせてよろこんでいる。
奥薗さんは五十歳前後だけど、見た目がもっと若く見えるのは、雰囲気に合ったナチュラルメイクと茶色のボブヘアのせいだろうか。白いシャツに黒いパンツというシンプルな格好だからこそ、細身であることがよくわかる。
彼女もまた、父のリストランテ時代の同僚だった。当時はソムリエの資格を取るための勉強をしながらホールの仕事をしていたらしいけれど、父が独立する噂を耳にして、佐木さん同様「雇ってください」と熱望したと聞く。ソムリエになったのは『フォルトゥーナ』に籍を移してかららしい。
彼女の提案するペアリングのおかげで、庶民的な店ながら、冠婚葬祭などのかしこまった場での宴に利用してくださるお客さまもいて、とても助かっている。
「へぇ、勉強になるなぁ」
自身の会社で飲食を扱っている泰生は、自身が食べることが好きなのもあり、興味をそそられたようだ。感心したようにうなずく。
「会社のメニューでも真似していいよ。イタリアンの居酒屋チェーン、ゼノフーズで持ってたでしょ?」
「じゃあアイデアもらっときます」
奥薗さんと泰生がにこやかに笑っていると、厨房のほうから「あっ!」と佐木さんの叫び声が聞こえた。それから、彼が再びカウンターに出てくる。
「律子、言い忘れてたけどカッサータがないから頼む」
律子とは、奥薗さんの名前だ。佐木さんがバツが悪そうに額を掻いて言うと、奥薗さんが信じられないという風に目を剥いた。
「えー! しゅうちゃん、そういうの買い物行く前に言ってよ。オレンジピール切らしてたんじゃなかったっけ……。だいたい、仕込むのに時間かかるのに」
しゅうちゃん、という愛称は、佐木さんの名前である修一から来ている。
「どうせひと晩かかるんだから、今夜は間に合わないだろ」
カッサータとは、チーズクリームにナッツやドライフルーツなどを合わせたイタリアのアイスクリーム。奥薗さんはホールや調理補助もこなしてくれていて、ドルチェの一部は彼女が仕込んでいる。カッサータもそのうちのひとつだ。
数時間タイミングが違ったところで結果は変わらない。そう言いたげな佐木さんに、奥薗さんが「あのねぇ」と反論する。
「――だとしても、買い物は行ってこなきゃいけないじゃない。私にまたスーパーまで往復させる気?」
「俺は厨房から出るわけにいかないんだから仕方ないだろ」
「仕方ないだろって……あなたっていつもそうっ」
テンポのいいかけ合いの途中、泰生がふたりを眺めながらふっと笑う。
「なにがおかしいの、泰生くん?」
奥薗さんがちょっと不服そうに泰生を一瞥した。すると泰生は、悪気はなかったとばかりに顔の前で拝むような仕草をする。
「あ、いえ。おふたりとも、相変わらずこのワインと料理みたいに相性抜群だなって。そうやって仲良さそうなところを見てると、『元』夫婦って感じがしないな」
「だね」
私も同感なので相槌を打った。口ゲンカしつつも、彼らの間には、長年連れ添った夫婦特有のリラックスした空気感がある。
実は奥薗さんと佐木さんは十年ほど前まで夫婦だったのだ。『フォルトゥーナ』の経営が安定し始めたときに結婚してお店でパーティーをしたのを、子どものころのことだが覚えている。
離婚理由は『家でも仕事の話になって気が休まらないから』。お互いに仕事人間なので、一緒にいるとお店の話をしてしまうらしい。ふたりともお店を辞める気はなかったから、それなら私生活で距離を置きましょうということにしたようだ。
離婚後もふたりに別のパートナーができたとは聞かないし、定休日にはふたりで食事していることもある。私から見ればいつも仲良しなので、復縁したらいいのにと勝手に思っている。
「相性抜群なら離婚しないで済んだわよ」
奥薗さんは照れ隠しなのか皮肉っぽくそう言ったけれど、それを自身で笑い飛ばして続ける。
「っていうのは冗談として。……まぁ別に、嫌いで離婚したわけじゃないからね。でしょ?」
彼女が佐木さんに振ると、彼もいつもは鋭い瞳を優しく細めて、豪快に笑う。
「そうそう。俺たちは今くらいに適度な距離感があったほうが上手く行くんだよな」
「これで四六時中一緒だったら、私もっと突っかかって大ゲンカになってると思うわ」
奥薗さんがいたずらっぽく言うと、みんながおかしそうに笑った。
「――ただ、先代と伽奈子さんは別格だ。あのふたりはいつも一緒だったけど、ケンカしてるところは一度も見たことなかった」
佐木さんがちょっと遠くを見つめて、懐かしそうにつぶやく。伽奈子というのは、私の母の名だ。
「ですね。母は控えめで父の決めたことに反論しませんでしたし、父もそんな母の意見をできるだけ汲もうと、丁寧に言葉を交わしていた記憶があります」
両親は常にお互いを想い合っており、穏やかだった。私もふたりが言い合いをしている様子は記憶にない。思春期、傍から見ると少し恥ずかしくなるくらいに仲睦まじかったけれど、今となっては自慢の両親だ。
「瀬名さんも伽奈子さんも人柄がいいから、お客さまも自然とそういう方々が集まってくださるんですよね。本当、素敵なご夫婦だったわ」
今度は奥薗さんが瞼を閉じて言う。きっと父と母の姿を思い浮かべているのだろう。
「……そう言っていただけて、両親もよろこんでいると思います」
父と母とともに、この店をずっと支えてきてくれた佐木さんと奥薗さん。大学在学中の私が、ふたりに「この店の経営者になる」と決めたことを話したとき、いやな顔ひとつせずに応援してくれた。
父が亡くなったことで離れてしまったお客さまもいるけれど、それでもなんとか黒字をキープできているのは、彼らがそばで支えてくれていたから。このふたりには、感謝の念が絶えない。
――そして。感謝しなければいけない人はもうひとり、私の目の前にもいた。カウンターで、私たちの昔話に耳を傾けている彼。
泰生とはもともとなんでも言い合える友達だったけれど、悠生くんがいなくなってからはずっと支えてもらいっぱなしだ。最初のころは現実を受け止めきれない私に毎晩のように電話をくれたし、少し落ち着いてからはこうして様子を見に来てくれる。
軽口を叩きつつも、その実は私のことを深く心配してくれているのがわかった。私は本当にいい親友を持ったな、と思う。
彼のほうからしてみれば、自分の兄の不義理をフォローしているだけなのかもしれないけれど。それでも泰生が話し相手になってくれることで、地の果てまで落ち込んだ気持ちが楽になったし、つらくとも少しずつ現実を受け入れて前を向かなくてはいけないという思いにさせられた。
そのとき、またドアベルが鳴った。今度は正真正銘、お客さまだ。ふたりとも初めて見るお顔なので、新規の方だろう。
「いらっしゃいませ~」
私と奥薗さんの声がユニゾンし、佐木さんは厨房に戻る。私がカウンターの外に出て奥薗さんの置いた買い物袋を裏へ引っ込めているうちに、奥薗さんがお客さまを席へ案内する。
「そうだ日和。二週間後の夜、空いてる?」
カウンターに戻った私に、思い出したように泰生が訊ねた。
「二週間後? って、いつ?」
「十一月二日」
――あ。……私の、二十六回目の誕生日。
「……えっと、昼か夜どっちかなら……」
「あらあら、その日は丸一日お休みのはずじゃなかったですか、日和さん?」
私が少し躊躇しながら答えると、早々とオーダーを取り終わった奥薗さんが戻ってきて、口をはさんでくる。お客さまと会話をしつつ、私たちの会話にも聞き耳を立てていたらしい。
「あ、でもそれは――」
悠生くんとデートするために空けていただけで。彼との予定がなくなったなら、どちらかだけでも働こうという気持ちになっていた。でも。
「泰生くん。日和さんは一日フリーなのでよろしくお願いします」
「えっ、奥薗さんっ?」
奥薗さんがかしこまった所作で、泰生に頭を下げた。その意図がわからなくて混乱する。
「平日ですし、昼も夜もブッチが入ってるんで心配しなくて大丈夫ですよ。お任せください」
ブッチ――小淵くんの名前を出した奥薗さんは、泰生の肩をつんと突きながら、いたずらっぽく小首を傾げる。
「――泰生くんだって、そのほうがいいものね?」
「っ……奥薗さん」
泰生が慌てた風に奥薗さんの名前を呼んだ。彼にしては珍しく、心なしか少し照れているように見える。……なんだろう?
「てわけで、日和さんは気にせずお出かけしてきてください。せっかくなので、泰生くんに豪勢なランチやディナーでもごちそうになったらどうです?」
奥薗さんは小声でそう言うと、厨房のほうにくるりと方向転換して、声を張り上げる。
「――オーダー入ります~、グラスシャンパンが二つと前菜の盛り合わせ、漁師風トマト煮込み」
「ベーネ!」
佐木さんが歌うように答えるのを聞き届けると、彼女は仕事モードに入ったと言わんばかりに、黙々とシャンパンの準備を始めた。
「……まぁ、なんだ。奥薗さんもああ言ってくれてるし、兄貴の罪滅ぼしってわけじゃないけど、日和さえよければ出かけよう。一日空いてるなら、その日の予定は俺に組ませてもらえる?」
泰生はほんのちょっとだけ気まずそうに視線をさまよわせたけれど、小さくかぶりを振り、反応を窺うように私の顔を覗き込む。
――うーん、どうしよう。
私と悠生くんが婚約していたことは、お店で働くみんなも知っている。彼が姿を消した直後は彼らにも心配をかけてしまったけれど、極力仕事に影響させたくはなかったので、お店ではできる限り普段通りに振る舞っているつもりだ。みんなも私の思いを汲んでくれたのか、そのことについては触れず、温かく見守ってくれているのがありがたい。
そんな奥薗さんが妙に私を休ませたがるのは、たまにはお店を忘れてリフレッシュしたほうがいい、と、遠回しに元気づけようとしてくれているからなのかもしれない。
お店を離れていると余計なことを考えてしまいそうで、そっちも心配なんだけど……
……ううん。でもせっかくだし、やっぱり行こうか。
泰生もまた、私を元気づけようとしてくれているのだろう。罪滅ぼしなんて言うけれど、泰生はちっとも悪くないし私も彼を責めるつもりはない。だから責任感の強い彼に甘えすぎてはいけないと自戒しつつ、誘われたのは素直にうれしかった。
今年の誕生日は、久しぶりにひとりで過ごすことになるだろうと思っていたから、それだけで気持ちが明るくなる。仲のいい泰生が相手ならなおのこと。
「う、うん……じゃあ、お願いします」
熟考の末に私がうなずくと、泰生の表情に安堵の色が浮かぶ。
「楽しみにしてる」
「……私も」
――泰生とふたりで出かけるなんて、いつぶりだろう。
遥か遠い記憶に想いを馳せながら、私は彼が食事を終えるまでの間、他愛のない会話を楽しんだのだった。
◆◇◆
――二週間後。私の誕生日まではあっと言う間だった。
待ち合わせは午前十一時に『フォルトゥーナ』の前。お店の二階が、私の住居になっているからだ。
「たまには悪くないじゃん、そういう格好も」
「……そ、そう?」
私は少し照れながら首を傾げる。「日和が持っている中で、いちばんきちんとしている服で」という指定を受けていたので、ベージュのニットワンピースにブラウンのジャケットと、黒のショートブーツを合わせた。カジュアルめな格好が多い私にとっては大人っぽい組み合わせだ。
「うん。似合ってる」
「そ、それはどうも」
気恥ずかしくて視線を逸らしながらお礼を言った。
彼の装いは、黒いジャケットに白いバンドカラーシャツ、ダークグレーのスキニーパンツ。足元は革靴。普段のスーツ姿と似ているようで、ほどよく肩の力が抜けたファッションだ。彼は昔からなにを着てもさまになって羨ましい。悠生くんも、「泰生は得だよね」とよく褒めていたっけ。
泰生の車で向かった先は都心にある、若者に人気のおしゃれなカフェだ。都会的なビルが立ち並ぶ中に突然現れる赤い屋根のお店は、鉄板で焼くふわふわのパンケーキが人気で、テレビやSNSで話題になったので知っている。
普段は食いしん坊の私だけど、「昼は軽めにしておいて」と言う泰生に従い、リコッタチーズのパンケーキを三段にしたいところ、二段で我慢した。それにミルクたっぷりのカフェラテ。
泰生はブラックコーヒーと、フレッシュクリームのパンケーキを二段。そうだった。彼は兄と違って甘党なのだ。
男性とお茶をしていて、一緒に甘いものを食べてくれるのが新鮮で、それだけで楽しい。「かわいいし、おいしい」とパンケーキの感想を言い合った。
食後に連れていってくれたのはアクアリウム。カフェからほど近いそこは、光と音の演出が巧みで、カップルのデートスポットとして定評がある。私も興味があったので悠生くんを誘ったことがあったけれど、人混みが苦手な彼はあまり乗り気ではなかったから、残念に思いつつも諦めていた。
そういう話を、泰生に直接伝えたことはないはずなのだけど……思いがけず、来られてよかった。
訪れるお客さんのいちばんの目当てだというイルカショーを見たあと、ひとつひとつの水槽をきっちり見て回る。その途中で少し休憩しようという流れになり、私たちは建物内にあるカフェスペースに立ち寄ることにした。
ライトの演出を際立たせるために周囲は薄暗く、丸テーブルとイスの白さがやけに鮮やかに映る。
「カップルが多いけど、家族連れも多いね」
歩き回って少し暑いと感じたので、椅子の背もたれにジャケットをかけて椅子に座った。それから、クラゲ模様のプラカップに入ったホットレモネードを片手に、きょろきょろと辺りを見回してみる。
「子どもって海の生き物が好きみたいだな。さっきのイルカショーも、前列はほとんど小さい子だったし」
テーブルの向かい側に座る泰生は、ここでもブラックコーヒーをチョイス。手の中のカップには、エイが描かれている。
「やっぱりショーは迫力あったね。イルカも当然かわいかったけど、音楽とライトの使い方が素敵で、つい見入っちゃったな」
先刻のショーを思い出し、私はいつになくはしゃいで言った。
出かけるのは久しぶりだったし、家にいるとなんだかんだ悠生くんのことを考えてしまうから、一時でもそれを忘れて心から笑えたのは、泰生のおかげだろう。
「――ありがとね、泰生。ここ来てみたかったから、連れてきてもらえてうれしい」
「ならよかった」
泰生が私を見つめて穏やかに微笑む。
兄弟だから、彼の面差しは悠生くんに似ている。悠生くんも、よくそうやって目を細めて私を見つめてくれた。左目の下のほくろが、彼がかつての恋人ではないと認識させてくれる。
当の本人は今ごろ、私ではない誰かに、その微笑を向けているのだろうな――
「彼女さんのジャケット落ちてますよ」
ついつい、消えてしまった恋人のことをまた考えていると、後ろの席の女性がそう話しかけてきた。
「あ――ありがとうございます」
一瞬ぽかんとしてしまったけれど、すぐに私のことを言っているのだと気が付いた。慌てて振り返り、教えてくれた女性に頭を下げる。それから、気付かぬ間に床に落ちていたジャケットを拾って、椅子の背もたれにかけ直した。
――彼女さん、だって。周りからはそう見えてるのか。まぁ、私たちくらいの年の男女がふたりでいれば、そう思われても仕方がないのかもしれないけど……。自分ではあまり考えたことがなかったので、少しドキドキする。
今さらになって、泰生が異性であることを思い知らされたような気がした。と同時に、彼の運転する車の助手席に乗ったことや、いかにもカップルが訪れそうな場所を回っていること、そもそもこんな風に丸一日一緒にいる予定でいることさえも、特別感があるように思えてくる。
――って、違う違う。泰生はただの幼なじみなんだから、意識する必要なんてないのに。
きっと、泰生の周りには私と代わりたいと思っている女性はたくさんいるのだろう。けれど、私と彼に限ってそんな展開になるはずがない。
「――そ、そうだ。今さらだけど、今日仕事は? 大丈夫だったの?」
……わかっているのに、なんだろう、この気持ちは。心の裏側がくすぐったいような心地に無視を決め込み、話題を変えた。
「スケジュールはある程度自分で調整できるから。なにも問題ないよ」
「そう。それならいいんだけど」
私が内心で動揺しているなんて露ほども知らない様子で、泰生は涼しげに答えた。
彼みたいに会社勤めをしている人は、平日のお休みを取るのは大変なのではと思ったりしたのだけど、普通の社員とは立場が違うのだから愚問だったか。
「それと――わざわざ服装の指定をしてきたのはどうして?」
泰生はいつも相手の服装には無頓着な印象があるから、密かに引っかかっていた。私が続けて訊ねると、彼はコーヒーをひと口飲んでからいたずらっぽく笑う。
「ま、すぐにわかるよ」
「え?」
訊き返してみたけれど、それ以上は答えてくれなかった。まるで、なにが起こるかはお楽しみ、とでも言うように。
「少しのんびりしたら、残りを見て回ろう。日和が見たがってたアザラシ、この先にいるみたいだし」
「あっ、そうだったね。楽しみ!」
――そうそう、アザラシ。丸いフォルムがかわいらしいのに、水に潜ると意外に素早かったりする。動物園では見たことがあるけれど、館内の案内図でここにもいると知り、楽しみにしていたのだ。
私たちはつかの間の休憩を挟んで、順路に戻った。
心待ちにしていたアザラシは、悲しいことに展示のガラスが曇っていてあまりよく見えなかったけれど、それを泰生と笑い合って、結果楽しかったのでよしとする。
アクアリウムを出ると、さらに車で移動した。途中、イチョウ並木がトンネルみたいになっている場所を通り、視界いっぱいに広がる鮮やかな黄色が美しくて、夢中で写真を撮った。
夕刻、私たちの乗った車は海沿いにあるフレンチレストランに到着した。都会の喧騒から離れ、ポツンと一軒だけそこにあるような白い正方形の建物。車を駐車場に停め、石の階段を上がると、厳かな門が現れる。そこをくぐって中に入ると、給仕服に身を包んだスタッフが、折り目正しく挨拶をしてくれる。
ダウンライトの落ち着いた照明が辺りを照らす店内を、私たちは窓際のソファ席に案内された。
「すごーい。こんな素敵なお店、来ちゃってよかったの?」
スタッフがワインリストを取りに行ったのを見計らい、泰生に耳打ちする。彼は、恐縮する私を見ておかしそうに笑ったあと、大きくうなずいた。
「もちろん。そのために予約したんだから」
「緊張しちゃう。こういうレストランに来るの、久しぶりだから」
彼が「きちんとした服」と指定したのは、最後にここで食事をするためだったのだ。
私は左胸に手を当てながら言った。同じ飲食店を営む身ではあれど、雰囲気が違いすぎる。
「兄貴が連れてきたりしなかったの?」
「うん……私、意外と気後れしちゃうから、いつももう少しラフなお店にしてもらってた」
格式の高そうなお店は緊張が先に立ってしまう。だから普段のデートでは、気軽に入れる庶民的なお店を選んでもらっていた。
「――あっ、でもこういうところも好きだよ! 勉強になるし、やっぱりお料理がおいしいところが多いから」
私は付け足すように言った。雰囲気に慣れないだけで、決して苦手なわけじゃない。
ただ、泰生がこういう雰囲気のお店を選んでくれたのは意外だった。直接言葉にはされていないけれど、今日が私の誕生日であるのは知っているはずだから、そのお祝いとしてここを選んでくれたのだろうか。もしそうなら、その気持ちがなによりもありがたい。
「泰生は? こういうところ、女の子と来たりする?」
「だから相手がいないって。この間も言ったろ」
「じゃ、泰生も久しぶりなんだ。なのにごめんね~、相手が私で」
彼がその気になれば、好みのかわいい子を誘うくらい訳ないだろうに。失恋した幼なじみのフォローなんてさせてしまって、申し訳ない。
「いいんだよ。俺は日和と来たかったんだから」
あははと笑いながら冗談っぽく言った私に対して、泰生は間髪を容れず、いやに真面目なトーンでそう答えた。
「……あ、ありがと」
こちらに向けられた真摯な瞳に、また心臓がどきんと高鳴る。
今日の私はどうかしている。そこに深い意味はないとわかっていても、私の目には妙に泰生が優しく、頼りがいのある男性に映ってしまう。
実際、友人としての彼は間違いなくそうなのだけど――今日に限っては、そういう意味合いではない。
自分で自分の感情に戸惑っているうちに、スタッフがワインリストを持ってきてくれた。すかさず泰生が「帰りは運転代行を頼んでるから、ワインを選んで。俺より詳しいだろ」と言ってくれたので、変な間ができずに済んだ。
詳しいというほどではないにしろ、奥薗さんから日々レクチャーを受けているから、普通の人よりはわかっているのかもしれない。食前酒も兼ねてシャンパンのブリュットと、メインの肉料理に合わせて赤のメルローを選んでみた。気に入ってくれるといいのだけど。
ほどなくして、スタッフが持ってきた細長いグラスに、華やかな薄黄色の液体が満たされた。軽くグラスを掲げて乾杯してひと口嚥下すると、喉奥に爽やかで心地いい刺激がほとばしる。おいしい。
追いかけるように前菜がやってきた。オイルサーディンとラディッシュのサラダ、馬肉のタルタル。栗とさつまいものムース。色合いが美しくて、それだけで食欲がそそられる。
「店はどう? 順調?」
「おかげさまでね。ほとんど佐木さんと奥薗さんのおかげだけど」
三種それぞれを口に運びつつ、泰生の問いにうなずく。やっぱりどれもおいしい。特にムースは秋らしさが全面に出ているし、佐木さんに相談してうちのお店でも出してみたいくらいだ。
「いい人たちだよな。お店のこと、すごく大事にしてくれてるのがわかるし」
泰生も顔を綻ばせているところを見ると、料理を気に入ったのだろう。
「うん。私は本当に周りの人に恵まれてると思う」
父と一緒に仕事をしていたのが、彼らで本当によかった。たまに店の手伝いをする程度の大学生だった私が、こうして曲がりなりにも店の経営者になれたのは、ふたりの協力あってこそだ。本当なら、父が亡くなった時点で辞められてもおかしくはなかったのに。
「泰生のほうこそ、仕事はどうなの? 今はずっとゼノフーズなんでしょ?」
「アグリとは内容も勝手も違うけど、食らいついてる。店やらメニューやら、覚えることがいっぱいって感じ」
「お店もメニューも多種多様だもんね。……大変そう」
ゼノフーズが展開する店舗は、ファミリーレストラン、ファストフード、居酒屋、カフェなどなど多岐にわたる。そのすべてを把握するのは骨が折れそうだ。それぞれのメニューまで含めたらなおのこと。
「フーズはこれから泰生が継いでいくとして、アグリはどうするの?」
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