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「もし邪な気持ちを抱いていらっしゃるのなら、私は旦那様を軽蔑しますよ」

 あからさまに、びくりとしながらローレンツは後ろに視線を向けた。
 そこには、食事のワゴンを引くアリスともう一人、壮年の男性が立っていた。
 いつの間に、とアリーシアは思う。

「いくらノックをしても反応がないので、まさかと思い部屋の扉を開けてみれば……旦那様、あなた様はもう平民ではないのですよ。貴族です。何度も言いましたよね?」
「分かっている、もう言うな」

 心底嫌そうにローレンツが眉をひそめた。
 力関係でいえば、壮年の男性の方に軍配が上がるようだ。

「ご婦人の前であれこれ言いたくはないので控えますが、帰ってきたら一から貴族の義務と権利とマナーの勉強をしなければいけませんね」
「頭の中には叩き込んでいる……」
「それは結構。ではテストをしましょう」

 壮年の男性の格好で執事なのは分かったが、その姿勢からは貴族のようにも感じられた。

「挨拶が遅れまして申し訳ありません。私はこの邸宅を統括しております執事のアンドレと申します。何か不都合がありましたら、何なりとお申し付けください。声が出しづらいでしょうから、こちらを準備いたしました」

 そう言って手渡されたのは紙とペンだ。
 とてもありがたい気づかいだった。

 少なくともこれで意思疎通は取れる。

「ところで旦那様、もう出発の時刻はとうに過ぎておりますが、一体こちらで何をされていたのですか? まさか本当に不埒なマネをするためにこちらにいらっしゃったわけではございませんよね?」
「だから違うと言っている。ザックといい、お前といい、俺をなんだと思っているんだ。そもそもザックもいるんだからそんな事はしない」
「つまりオレがいなかったらするって事か?」
「揚げ足とるな!」

 二人の様子に、アンドレがじろりと睨む。

「お二人とも、こちらはご婦人の部屋ですよ。騒がしいのはほどほどにしてください」
「お前も大概だと思うが……」

 ローレンツの言葉に、アンドレはにこりとほほ笑み黙殺する。
 そして、さっさと出かけると言わんばかりに、二人を部屋から追い出しにかかった。

「とにかく、お二人は早く出発してください」

 さすがにこれ以上遅れることは出来ないのか、ローレンツは立ち上がった。

「悪いが、今日はもう会えないと思う。アンドレに任せておけば大体の事は問題ないから、君はとにかくゆっくり休んで身体を癒してくれ」
『ありがとうございます』

 アリーシアはアンドレに渡された紙に早速文字を書くが、どこかぎこちなく、文字がぶれる。
 とにかくお礼を言いたかった。
 まだ何もアリーシアは自分の事を話していない。
 そんな相手にこんなに親切にしてくれる相手に、礼を尽くしたかった気持ちだけは伝えたかった。

 謝罪よりもこの言葉の方が、相手はきっと喜んでくれると思ったが、その通りで、どこかうれしそうに頷いた。

「アンドレ、アリス後を頼む」
「行ってらっしゃいませ、旦那様」
「お任せください」

 二人の言葉を聞くと、ローレンツとザックは足早に部屋を出て行く。
 その姿を見送ると、アリスはワゴンに乗せていた食事を準備していった。

「旦那様はああ見えて懐の広い方です。何も気遣う必要性はないですよ……ところで、このような事は失礼だとは思いますが、なんとお呼びすればよろしいでしょうか?」

 アリーシアは戸惑った。
 家名で答えるのが当然だが、あんな目にあわされてその名を名乗る気にはなれない。
 だからと言って、実家の姓を名乗るわけにはいかなかった。

 アリーシアは少し考えて、こう書いた。

『シアとお呼びください』

 と。

「シア様――でよろしいでしょうか?」

 敬称は不要だが、そう言ったところで受け入れられない気がした。
 なんとなく、そういう確固たる信念のようなものが彼から感じられる。
 
 アリーシアは、あえて言いあうことはせず、今度ローレンツに会った時に相談しようと心に決めた。
 そして、その時にはきちんと自分の身の上も話そうと。

「えっと……シア様! お食事の準備が整いました」

 ローレンツの言葉を信じるのならば、アリーシアは数日間眠っていた。
 そのためか、食事は病人食の様なものだ。
 しかし、その器から香る匂いは食欲をそそる。
 スープからは湯気が立ち、病人用に野菜は煮崩してあったが、うれしくなった。

 こんな温かな食事はいつぶりだろうか。
 
 アリーシアはいただきますと祈りを捧げて、カトラリーを取り、ゆっくりスープを口に運ぶ。

「いかがですか? 旦那様は食事にはうるさくて、旦那様の舌を満足させる料理人を探すのには苦労しました」

 アンドレが、微笑みながらアリーシアを見守る。
 口の中で広がる複雑な味わい。
 様々な野菜の味。あっさりとしているのに、しっかりと味がついている。
 
「シ、シア様!」

 いつの間にか、アリーシアの瞳からは涙が溢れていた。
 気付いたときには、料理の味がしなかった。
 おいしいとも不味いとも感じなかった。
 だから、アリスに問われ、一度は食事は遠慮した。
 その味の感想を聞かれても困るから。

 それなのに……。

――おいしい……

 おいしくて、身体が温まって。
 素直にそう思えた。

 感動しているのか、悲しいのか、うれしいのか……。すべての感情が溢れて涙が止まらなかった。
 そんなアリーシアを非難することはせず、アリスはそっと涙をぬぐってくれた。



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