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7章:廻り
10 寝息
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れとろに着いたのは、正午を少し過ぎていた。車の中で、幾らか仮眠をさせて貰った為、疲れは少し和らいだ。
格子戸の取っ手を触るまで、少し躊躇った。皆もう、揃っているらしい。戸惑っていても、埒が明かないので、思い切って開けた。
「ご、ご迷惑をおかけしました!」
九条さんの話では、皆が必死になって探してくれていた。だから、勢いに任せて、頭を下げた。
だが、誰の返事も帰ってこない。ゆっくりと、頭を上げると、各々がそれぞれのテーブルやカウンターに伏せ、眠っている。
唯一、藤吉先生だけ、奥のカウンター席で、グラスを傾けて煙草を蒸かせていた。
「お帰りの所申し訳ないけど、皆熟睡中だから、このまま寝かせてやってくれ。」
九条さんも限界だったらしく、休憩室に消えて行った。
人が居るのに、静まり返った店内には、何時も掛かっている、ミュージックも豆を挽く音もなく、ただただ、寝息と柱時計だけが、沈黙を破っていた。
藤吉先生が、隣に座る様に促した。
「皆眠っている間に、少し話でもしようか…。」
そう言い、懐から取り出したのは、あの督促状と見たことがない、借用書だった。
「君なら当然、心当たりあるよね。」
「何となくは…。この借用書の字、母親のです…。」
妹が地元では相当有名な、私立の高校に入学したのは、当然知って居た。
それと、家にはそんな高校に通えるお金がない事も。
私が中学を卒業するときには、既にそのことが決定していたらしく、私は公立の高校に通う羽目になった。
更に、私の学費は、本当に最低限しか、提供されず、足りない分は、麻由美の母親が出してくれていた。
多分だが、足りなくなったのだろう。年間100万近く掛かる学費だ、近いうちに底を尽きるのは、知って居た。
しかし、私の名前を使ってお金を借りる意味が解らなかった。
「それだけが、解りませんでした。」
「なるほどな…。だが、俺が引っかかるのは、そこじゃない。
未成年であるお前さんが、どうやって今の住んでる部屋を借りられたのかだ。」
グラスの中の氷が音を立てた。煙草灰を落とし、さらに続けた。
「それが解れば、俺の中で全てが繋がる。だが、どう考えても最悪な答えしか出てこなかった…。
だから、本人から言い出せるまで、待つつもりだった。」
気付いてしまった。さっきまで聞こえていた寝息はいつの間にか、聞こえなくなっており、柱時計の振り子が時間だけを進めていた。
「大丈夫だ、ここに居るやつらは、ぐっすり眠っている。誰も聞こえては無い。」
そう言うと、ジンのボトルを手に取り、懐かしそうに見つめた。
「人は不思議な事に、当たり前の様に感じると、鈍感になる。それがたとえ、異常な事であっても、本人は気が付かない事が多い。
俺も昔、それで大事な人を失った。そいつから、これを貰ったんだ。意味を理解するまで、時間が掛かったよ…。」
「…意味は何だったんですか?」
「ジンに使われる、ジュニパーの花言葉は、『長寿』だそうだ…。『自分の分まで長生きしろ』。そういう意味だろ…。」
愛おしそうにボトルを眺めていた。初めてだった、先生のそんな表情を見たのは。煙草の煙で、誤魔化しているのかもしれないが、その目は、少しだけ赤くなっていた。
九条さんと良い、今井さんと良い、先生と良い、どうしてこの人たちは、私ですら知らない、痛みを抱えているのか…。
「さ、今度は君が話す番だ。君を助けるためには、君の事を知らなきゃならん。だから、話してくれ。」
その時だった。私の隣で眠っている筈の彩が、眠ったまま、私の手を握った。
いつの間にか震えていた。握られるまで、気が付かなかった。これが、『鈍感』なのだろうか…。
私より少しばかり小さかったが、温かさと柔らかさは、まさに『優しさ』そのものだった。
“ひとりじゃない”
そう思えただけで、凄く楽になった気がした。
「…先生のお察しの通り、私は父親に自分を売りました。
それが、部屋を借りる為の、最低条件でした…。あとは、想像通りです…。」
そう述べた直後、休憩室の方で、何かを叩く音が聞こえた気がした。
格子戸の取っ手を触るまで、少し躊躇った。皆もう、揃っているらしい。戸惑っていても、埒が明かないので、思い切って開けた。
「ご、ご迷惑をおかけしました!」
九条さんの話では、皆が必死になって探してくれていた。だから、勢いに任せて、頭を下げた。
だが、誰の返事も帰ってこない。ゆっくりと、頭を上げると、各々がそれぞれのテーブルやカウンターに伏せ、眠っている。
唯一、藤吉先生だけ、奥のカウンター席で、グラスを傾けて煙草を蒸かせていた。
「お帰りの所申し訳ないけど、皆熟睡中だから、このまま寝かせてやってくれ。」
九条さんも限界だったらしく、休憩室に消えて行った。
人が居るのに、静まり返った店内には、何時も掛かっている、ミュージックも豆を挽く音もなく、ただただ、寝息と柱時計だけが、沈黙を破っていた。
藤吉先生が、隣に座る様に促した。
「皆眠っている間に、少し話でもしようか…。」
そう言い、懐から取り出したのは、あの督促状と見たことがない、借用書だった。
「君なら当然、心当たりあるよね。」
「何となくは…。この借用書の字、母親のです…。」
妹が地元では相当有名な、私立の高校に入学したのは、当然知って居た。
それと、家にはそんな高校に通えるお金がない事も。
私が中学を卒業するときには、既にそのことが決定していたらしく、私は公立の高校に通う羽目になった。
更に、私の学費は、本当に最低限しか、提供されず、足りない分は、麻由美の母親が出してくれていた。
多分だが、足りなくなったのだろう。年間100万近く掛かる学費だ、近いうちに底を尽きるのは、知って居た。
しかし、私の名前を使ってお金を借りる意味が解らなかった。
「それだけが、解りませんでした。」
「なるほどな…。だが、俺が引っかかるのは、そこじゃない。
未成年であるお前さんが、どうやって今の住んでる部屋を借りられたのかだ。」
グラスの中の氷が音を立てた。煙草灰を落とし、さらに続けた。
「それが解れば、俺の中で全てが繋がる。だが、どう考えても最悪な答えしか出てこなかった…。
だから、本人から言い出せるまで、待つつもりだった。」
気付いてしまった。さっきまで聞こえていた寝息はいつの間にか、聞こえなくなっており、柱時計の振り子が時間だけを進めていた。
「大丈夫だ、ここに居るやつらは、ぐっすり眠っている。誰も聞こえては無い。」
そう言うと、ジンのボトルを手に取り、懐かしそうに見つめた。
「人は不思議な事に、当たり前の様に感じると、鈍感になる。それがたとえ、異常な事であっても、本人は気が付かない事が多い。
俺も昔、それで大事な人を失った。そいつから、これを貰ったんだ。意味を理解するまで、時間が掛かったよ…。」
「…意味は何だったんですか?」
「ジンに使われる、ジュニパーの花言葉は、『長寿』だそうだ…。『自分の分まで長生きしろ』。そういう意味だろ…。」
愛おしそうにボトルを眺めていた。初めてだった、先生のそんな表情を見たのは。煙草の煙で、誤魔化しているのかもしれないが、その目は、少しだけ赤くなっていた。
九条さんと良い、今井さんと良い、先生と良い、どうしてこの人たちは、私ですら知らない、痛みを抱えているのか…。
「さ、今度は君が話す番だ。君を助けるためには、君の事を知らなきゃならん。だから、話してくれ。」
その時だった。私の隣で眠っている筈の彩が、眠ったまま、私の手を握った。
いつの間にか震えていた。握られるまで、気が付かなかった。これが、『鈍感』なのだろうか…。
私より少しばかり小さかったが、温かさと柔らかさは、まさに『優しさ』そのものだった。
“ひとりじゃない”
そう思えただけで、凄く楽になった気がした。
「…先生のお察しの通り、私は父親に自分を売りました。
それが、部屋を借りる為の、最低条件でした…。あとは、想像通りです…。」
そう述べた直後、休憩室の方で、何かを叩く音が聞こえた気がした。
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