レトロな事件簿

八雲 銀次郎

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2章:想い

1 飽和

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 時間が経つのはやはり早いもので、私がれとろでアルバイトを始めてから一ヶ月は過ぎていた。
 流石に、一ヶ月も通っていれば仕事も覚えるし、お客さんから顔を覚えられても来た。当然九条さんのこともある程度知れてきた…。
 この喫茶店やバーをやっているときは、大体の確率で船瀬さんだということ。大学で会うときは九条さん。それ以外の時は、一条さんであること。そこそこ、区別がつくようになってきた。

 そして今日は、講義も午前中で終わり、午後の一三時前から、私はカウンター内に立って、仕事をしていた。どうも、この間静岡でブレンドしたコーヒーが受けたらしく、毎日のようにオーダーが入る。ちなみに、香りをメインに楽しめる様に、キューバ産のクリスタルマウンテンを基調とした、爽やかな逸品になっている。もっとも、クリスタルマウンテンは希少種なため、価格設定も多少高めになっている。

 しかし、今日は一四時ころに今井さんが休憩しに来た以降はずっとヒマだった。九条さんも、午後から休講だったらしく、喫茶店の方を手伝いに来てくれた。が、今では、一番奥のテーブル席で、自分で淹れたコーヒーを啜りながら、ファッション誌を読んでいた。
 古川マスターは店先にある観葉植物の手入れをしている。
 私はというとコーヒーゼリー用のコーヒーを作っていた。
 相変わらず静かな店内は今日もジャズ音楽が際立っていた。

 「最近、何かと物騒だね、これでひったくり事件も五件目だ…。場所はここからそう遠くないね…。」
 雑誌を読んでいたはずの九条さんがいつの間にか新聞に変わっていた。
 「香織ちゃんも気を付けてね。」
 「九条さんもですよ?」
 「はは。僕はバッグとかリュックとか使わない主義だから。」
 九条さんが笑いながら答える。
 「そういえばそうでしたね。スマホとか財布は全部ポケットでしたね。」
 「そ、にしても、暇だね…。」
 「私はゼリー作らないといけないので暇ではないですが。」
 「香織ちゃん真面目だからね…。人来ないときは休んでても問題ないのに。」
 九条さんが柱時計を見た。私も釣られて時計を見た。時刻はまだ一五時前だった。

 「そういえば香織ちゃんって、ピアノ弾ける?」
 ゼリー用のコーヒーをタッパーに小分けし、冷蔵庫に入れていた時に九条さんが質問してきた。
 「弾けないわけではないですが、素人もいいところの腕ですよ。九条さんは弾けるんですか?」
 「僕は弾けないよ。だけど、弾くことはできるよ。」
と言い、九条さんが今まで流れていたジャズ音楽を止め、店の端の方にあるアップライトピアノの前に座った。そして、目を閉じた。

 五秒位だろうか、静かな店内が更に静まり返る…。ゆっくりと目を開け、鍵盤に指を置いた。
 すると、今まで店内で流れていた様なジャズミュージック弾きを始めた。私は、音楽にそんなに詳しいわけではないが、一度聞いただけで分かる。

 上手い…。
 
 弾いていた時間は、三分もなかったと思うが、その間、思わず聞き入ってしまった。
 「うん、久々のわりには上出来…。」
 九条さんだった人がそう呟いた。この話し方は、私の知っている、一条さんでも船瀬さんでもなかった。

 「やはり貴方でしたか、柳さん。」
 いつの間にか、古川マスターが店内に戻ってきていた。
 「お久しぶりです、古川さん。えっと、確か君は…。」
 私の方を見て、少し眉を顰めた。
 「あ、香織です。宮本香織。」
 「あぁ、君が香織さんか。私は柳京一。よろしくどうぞ。」
 柳さんが握手を求めてきた。それを握り、
 「こちらこそ、よろしくどうぞ…。」
 そう返した。
 「彼は、音楽の知識と才能に恵まれた人格らしく、取り扱えない楽器はないとのことです。私個人的には、十人の中で一番紳士的かと。」
 「いや、何を仰います。古川さんの方が一番紳士じゃないですか。」
 しばらくこんな感じの会話が続いた…。

 「それにしても、すごいですね。私は弾けないわけではないですが、あんなに上手くはできないです。」
 「私は、音楽は上手い下手より、自由が一番だと思うんですよね。香織さんも、別にそこを拘る必要はないと思いますよ。」
 柳さんが優しく諭すように答えた。その時、柱時計が一五時を告げた。
 「おっと、もう時間ですか…。」
 柳さんがそう言うと、目を閉じた。しかし、今回は違った。まるでスイッチが切れたように、椅子にもたれかかった。

 「え?」
 私は、思わず声を上げた。
 古川マスターはさも当然の様に、さっきまで座っていたテーブル席に彼を抱え、移動させた。
 「できないことを、できるようにするには本来なら少なからず、練習や訓練が必要です。彼の身体は音楽をする用にはできていません。
 ですが、柳さんの様な才能ある人格を使えば、一時的に不可能が可能になります。逆を言えば、普段使わないような筋肉や脳などを強制的に使わせられます。そうすると、当然それなりにダメージが残ります。」
 「それ、大丈夫なんですか?」
 「ご心配なさらず、五分ほど休めばまた元気になります。」
 そういい、古川マスターはまた外に出て行った。

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