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1章:香り
5 初日
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久々にぐっすり眠れた気がする。部屋のカーテンを開け、自分で挽き、自分で淹れたコーヒーを啜った。
まだ越してきて一か月半とは言え、毎朝見ている風景は見慣れる様で、何も刺激がない。
しかし、昨日九条さんから言われた言葉を思い出すたび、ほっとする。
この見慣れた風景でも、何故か新鮮に感じた。
空っぽになったマグカップを洗い、身だしなみを整え、自宅を後にした。
講義も無事終わり、真由美たちと昨日のバイトの件について話した後、れとろに向かった。
時刻は十三時を少々回ったくらいだった。今日は五月半ばとは思えないほど天気が良く、気温も高い日だった。
ガラガラと格子状の戸を開けると、古川マスターと女性客がカウンター越しに雑談していた。
「おはようございます。」
私は、そう挨拶すると、女性客が『誰?』みたいな顔をしていた。
女性客は黒い長い髪をストレートに伸ばし、革製のジャケットを、袖を通さずに羽織っていた。
「おや、香織様。お待ちしておりました。」
古川マスターがにこやかに答えた。
すると、女性客がパッと明るい顔になった。
「あぁ、この娘が件のバイトの娘?
なぁにぃ?ちょっとカワイイじゃない。九条君も隅に置けないなぁ…。」
女性客はすごく嬉しそうな顔をしていた。
「あ、あの…。」
「あ、ゴメンゴメン。あたし、今井。今井真香。よくここに来るの。よろしくね、香織ちゃん!」
と今井さんが、手を差し伸べてきた。
「か、香織です、よろしくお願いします。」
と今井さんの手を握った。今井さんが更にニヤッとした。
「ぃやーん、手も小さーい。」
とまた、黄色い声を出す。私もカワイイと言われることには慣れていないため、少しこそばゆい感じがした。
「真香様?香織様がお困りの様ですので、そのくらいで…。」
「あ、ゴメンね。あたし“カワイイモノ”に目がないの。」
「はぁ…。」
間の抜けた返ししかできなかった。
「あ、そうそう!これ、忘れないうちに…。」とカウンターの足もとにあった白い紙袋を取り出し、私に渡してきた。
「これ、ここの制服。と言ってもただの黒パンツとワイシャツなんだけどね。」
中にはビニールに入った衣類が入っていた。
「真香様はアパレルショップ・クラウンの社長様です。よくご贔屓にさせてもらっています。」
クラウン。ファッションにはそれほど詳しくないが聞いたことはある。寧々が持っていた雑誌にも特集が組まれていたのは、かろうじて覚えている。
「社長と言っても、こんなんだから、そんなに身構えないで…いけない!そろそろ、戻らないと、マスターお勘定。」
今井さんは腕時計を見ながら慌てだした。
「かしこまりました。香織様、着替えてきてください。」
「はい。」
「じゃあね、香織ちゃん、また来るからね。」
と今井さんがレジに向かった時だった。格子戸が開いた。
九条さんだった。
しかし、目つきが昨日コーヒーを淹れてくれたものとは少し違う。鋭かった。初めて会った時より、更に鋭い。
「あら~九条君!会えると思わなかった~。」
いち早く、反応したのは今井さんだった。
「…。」
九条さんは一瞬、今井さんを睨んだ様に見えた。
すると、
「今井ちゃん、来てたんだ。」
と昨日と同じにこやかな顔に戻った。
「あ、香織ちゃん、今日からよろしくね。忘れ物取りに来ただけだから。」
とカウンター奥のスタッフルームに消えていった。
「じゃぁね、彼にも会えたから、満足。」
と言って、格子戸をあけて出て行った。
「香織様も仕事前に、一杯如何ですか?」
古川マスターがレジにお札を入れながらそう述べた。
「え、でも…。」
「大丈夫です。“賄い”というやつです。それに、一つしかないスタッフルーム、彼が使っていますので。」
と少し、申し訳なさそうに古川マスターが述べた。
確かにそうだ。
「じゃあ、一杯頂きます。」
とカウンター席に腰を下ろした。
コーヒーの香りが店内に広がる。
やはり、いい香り。
「…わかった。データを送ってくれ。じゃあ、よろしく。」
そう声が聞こえた後、九条さんがスマホの画面をいじりながら、スタッフルームから出てきた。
「もう行かれるのですか?」
古川マスターが訪ねた。
「はい、香織ちゃんまた夜ね。」
と格子戸に手を掛けた。
「あ、そうそう。忘れないうちに…。」
そう言って、せっかく開きかけた格子戸から手を放し向き直った。
「香織ちゃん、次の土曜日予定空けといて。」と言い残し、今度こそ出て行った。
しばらくの間、誰もいなくなった格子戸を呆然と見詰めていた…。
ゆっくりと、前を向きなおし、古川マスターと顔を合わせた。
古川マスターは少し、ニヤッとし「行ってらっしゃいませ」と答えた。
「…。」
そういうこと…?
コーヒーの所為かわからないが、顔が少し、火照ってきた気がした。
まだ越してきて一か月半とは言え、毎朝見ている風景は見慣れる様で、何も刺激がない。
しかし、昨日九条さんから言われた言葉を思い出すたび、ほっとする。
この見慣れた風景でも、何故か新鮮に感じた。
空っぽになったマグカップを洗い、身だしなみを整え、自宅を後にした。
講義も無事終わり、真由美たちと昨日のバイトの件について話した後、れとろに向かった。
時刻は十三時を少々回ったくらいだった。今日は五月半ばとは思えないほど天気が良く、気温も高い日だった。
ガラガラと格子状の戸を開けると、古川マスターと女性客がカウンター越しに雑談していた。
「おはようございます。」
私は、そう挨拶すると、女性客が『誰?』みたいな顔をしていた。
女性客は黒い長い髪をストレートに伸ばし、革製のジャケットを、袖を通さずに羽織っていた。
「おや、香織様。お待ちしておりました。」
古川マスターがにこやかに答えた。
すると、女性客がパッと明るい顔になった。
「あぁ、この娘が件のバイトの娘?
なぁにぃ?ちょっとカワイイじゃない。九条君も隅に置けないなぁ…。」
女性客はすごく嬉しそうな顔をしていた。
「あ、あの…。」
「あ、ゴメンゴメン。あたし、今井。今井真香。よくここに来るの。よろしくね、香織ちゃん!」
と今井さんが、手を差し伸べてきた。
「か、香織です、よろしくお願いします。」
と今井さんの手を握った。今井さんが更にニヤッとした。
「ぃやーん、手も小さーい。」
とまた、黄色い声を出す。私もカワイイと言われることには慣れていないため、少しこそばゆい感じがした。
「真香様?香織様がお困りの様ですので、そのくらいで…。」
「あ、ゴメンね。あたし“カワイイモノ”に目がないの。」
「はぁ…。」
間の抜けた返ししかできなかった。
「あ、そうそう!これ、忘れないうちに…。」とカウンターの足もとにあった白い紙袋を取り出し、私に渡してきた。
「これ、ここの制服。と言ってもただの黒パンツとワイシャツなんだけどね。」
中にはビニールに入った衣類が入っていた。
「真香様はアパレルショップ・クラウンの社長様です。よくご贔屓にさせてもらっています。」
クラウン。ファッションにはそれほど詳しくないが聞いたことはある。寧々が持っていた雑誌にも特集が組まれていたのは、かろうじて覚えている。
「社長と言っても、こんなんだから、そんなに身構えないで…いけない!そろそろ、戻らないと、マスターお勘定。」
今井さんは腕時計を見ながら慌てだした。
「かしこまりました。香織様、着替えてきてください。」
「はい。」
「じゃあね、香織ちゃん、また来るからね。」
と今井さんがレジに向かった時だった。格子戸が開いた。
九条さんだった。
しかし、目つきが昨日コーヒーを淹れてくれたものとは少し違う。鋭かった。初めて会った時より、更に鋭い。
「あら~九条君!会えると思わなかった~。」
いち早く、反応したのは今井さんだった。
「…。」
九条さんは一瞬、今井さんを睨んだ様に見えた。
すると、
「今井ちゃん、来てたんだ。」
と昨日と同じにこやかな顔に戻った。
「あ、香織ちゃん、今日からよろしくね。忘れ物取りに来ただけだから。」
とカウンター奥のスタッフルームに消えていった。
「じゃぁね、彼にも会えたから、満足。」
と言って、格子戸をあけて出て行った。
「香織様も仕事前に、一杯如何ですか?」
古川マスターがレジにお札を入れながらそう述べた。
「え、でも…。」
「大丈夫です。“賄い”というやつです。それに、一つしかないスタッフルーム、彼が使っていますので。」
と少し、申し訳なさそうに古川マスターが述べた。
確かにそうだ。
「じゃあ、一杯頂きます。」
とカウンター席に腰を下ろした。
コーヒーの香りが店内に広がる。
やはり、いい香り。
「…わかった。データを送ってくれ。じゃあ、よろしく。」
そう声が聞こえた後、九条さんがスマホの画面をいじりながら、スタッフルームから出てきた。
「もう行かれるのですか?」
古川マスターが訪ねた。
「はい、香織ちゃんまた夜ね。」
と格子戸に手を掛けた。
「あ、そうそう。忘れないうちに…。」
そう言って、せっかく開きかけた格子戸から手を放し向き直った。
「香織ちゃん、次の土曜日予定空けといて。」と言い残し、今度こそ出て行った。
しばらくの間、誰もいなくなった格子戸を呆然と見詰めていた…。
ゆっくりと、前を向きなおし、古川マスターと顔を合わせた。
古川マスターは少し、ニヤッとし「行ってらっしゃいませ」と答えた。
「…。」
そういうこと…?
コーヒーの所為かわからないが、顔が少し、火照ってきた気がした。
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