レトロな事件簿

八雲 銀次郎

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序章:珈琲喫茶 れとろ

静けさ

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 五月の連休も終わり、今日から、また、仕事や学校に通い始める人は多い。

 しかし、私の午後の予定は『臨時休講』になってしまった。
 なんでも、講師の藤吉先生の体調不良らしい。あの先生にしては珍しい…。とでも言えれば、多少なりとも面白いのだろうが、私もこの大学に入学して、まだ、一月半。先生とは顔と名前が一致するだけで、そんなに親しくもなんともない。

 このまま、自宅に帰ってしまっても問題ないのだが、何となく解せない。
 そこで、前から気になっていた、喫茶店に行くことにした。名前は確か…。忘れてしまった。お察しの通り、私は記憶力があまりよろしくない。しかし、大体の場所は知っているから、近くまで行けば、思い出すだろうと、歩を進める。

 大学から十分も歩けば、最寄り駅の東口に着く。その、反対側の西口の賑やかな通りから少し行った、人がすれ違うのがやっとの細い路地の突き当りに私の目的地がある。なぜ、名前も知らないのに、場所は知っていたか?以前、迷子になったときに、偶然見つけたのだ。当時は、帰宅が最優先だったため、入ることはできなかった。

 今回は、時間もあれば迷子でもない。コーヒー好きの私にとっては、期待に胸を膨らませていた。
 ここだ。名前は『珈琲喫茶 れとろ』。外見は、レンガで出来た倉庫みたいだった。入り口は木製の格子状の引き戸になっている。いかにも大正ロマン風のレトロな建物だ。入り口前の小さい看板に『本日のおすすめ』とでかでかとコーヒーの銘柄が書かれてあった。

 それを確認した後、いよいよ引き戸を開けた。内装も外装と同じで、大正ロマンを感じさせる造りになっている。入ってすぐの右側には、レジとカウンター席が伸び、左側にはテーブル席がいくつか並んでいる。
 カウンターの中には、白髪交じりの髪をオールバックでまとめた、老紳士風のマスターがまさにコーヒーを淹れている最中だった。

 客は、カウンター席の一番奥に若い読書中の男性がひとりだけで、ほかに誰もいない。
 マスターがコーヒーを注ぎ終わり、男性に提供した後に、「いらっしゃいませ、お好きな席へ。」と私に着席を促した。カウンター席にいる男性から二,三席離れて、私もカウンター席に座った。
 「マンデリンを一つ。」
と本日のおすすめを足早に注文した。マスターは「かしこまりました」と私の前にお冷と手拭きを置きながら答えた。

 「………。」

 しかし、実に静かだ。聞こえる音といえば、店内に流れるジャズ音楽と、コーヒーを挽く音、本をめくる音くらいだ。本当に静かな昼下がりだ。

 そうこうしている間に、マンデリンが出来上がった。いい香り…。
 酸味が少なく、苦み成分が強いマンデリンは、シナモンやハーブの様な優しい香りも特徴的な、贅沢な逸品だ。私は高校の時に好物の一つになって以降、コーヒーに関する知識は、一級品だと自負している。

 目の前にある、漆黒の液体にミルクも砂糖も入れず、そのまま、一口すすってみた。
 苦い。マンデリンなのだから当然なのだが、煎り方などでも味は変化する。私も様々な場所で、様々なマンデリンを飲み干してきたが、ここまで苦みの強いものは初めてだ。
 おすすめなだけあって、間違えようのないコーヒー…。

 私の負けだ。

 気にしていたからこそ、注文しなかったのだが、こんな苦みの強いものを出されたら、頼まないのは失礼だと思う。と自分で自分に言い訳をしてみる。

 「すみません、チョコレートケーキも、お願いします…。」
 「お気に召された様で、何よりです。」

 そう微笑みながら答えたマスターは、カウンター奥の厨房へと消えていった。

 改めて、店内を見回した。アンティークな家具に装飾。ステンドグラスの窓。奥の壁にはアップライトピアノが一台置かれていた。

 私は気に入ってしまった。このコーヒーを。この空間を。
 知らなかった、都会の隙間にこんな静かな喫茶店があったことを。

 
 そして、知らなかった。偶然の様な日常がこの日を境に、音もなく狂い始めたことを…。

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