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第三章 運命は動き出す(1)

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 アルシオーネが子犬のヴェルと暮らし始めて一週間ほどが経過した日のことだった。
 未だに露店での売り上げは地を這うような状態だった。
 若返りの薬草茶は、売れるには売れているが、特定の客がいつも買っていくという状況で、借金返済にどれほどかかるのかといった状況だった。
 いつものように夕食を食べた後、ソファーに座って、膝の上に乗せたヴェルを撫でながらアルシオーネは、ヴェルに相談するかのように悩みを口にしていた。
 
「ルーちゃん。わたしには、商売の才能がないみたいです。領地を出る前までは、わたしの作った薬でバンバン稼ごうという未来が見えていたのですが……。現実はそう甘くないということが身にしみてわかりました」

 項垂れるようにそう言うアルシオーネを慰めるようにヴェルが小さく鳴いて、彼女の指先をペロリと舐めた。
 指先を舐められたアルシオーネは、そのくすぐったさに可愛らしい微笑みを浮かべたて、ヴェルをぎゅっと抱きしめてその柔らかいミルクティー色の毛に顔を埋めた。
 
「ルーちゃん。ありがとう。こんなダメダメなわたしを励ましてくれる優しいルーちゃんが大好きですよ」

 アルシオーネに抱きしめられているヴェルは、ぷいっと顔を背けてから、ぷにぷにの肉球でアルシオーネの頬を突くようにした後に「わん」と鳴いた。それはまるで、「別にそんなんじゃない」とでも言うかのような仕草だったが、アルシオーネには一切伝わっていなかった。
 それよりも、柔らかい肉球の感触に頬を緩めて、「ルーちゃん、大好きです」と更にぎゅっと抱きしめる力を強めたのだった。
 
 ヴェルも一見嫌そうにしているような仕草をするものの、その実彼の尻尾はとても素直だった。
 ヴェルの意思に反して、彼の尻尾は嬉しそうにぶんぶんと振られていたのだ。
 それを知っているアルシオーネは、「素直じゃないところも可愛いですよ」などと考えていることなど知る由もないヴェルだった。
 
 
 ヴェルとの就寝前のスキンシップをしながら、アルシオーネは、あることを閃いたと口を開いたのだ。
 
「そうだわ。売れないとただ待っているだけでは駄目なのよ。そうよ、需要がありそうな場所に売りに行けばいいのよ。うん、とてもいい考えだわ」

 そう口にしたアルシオーネは、「一体どうするつもりだ?」という表情をしているヴェルに向かって、輝くような笑顔でとんでもないことを口にしたのだ。
 
「明日は露店はお休みして、花街に行くわよ! そうと決まれば今日はもう寝ましょう」

 そう言って、呆気に取られているヴェルを抱き上げてベッドに向かったのだ。
 ヴェルはというと、混乱している内にアルシオーネはさっさと眠ってしまい、明け方まで色々と考えていて眠ることが出来なかったのだった。
 
 
 
 そして明け方、すやすやと眠る可愛らしいアルシオーネの寝顔を肉球で突きながら、ヴェルは「お前のような可愛らしい娘が花街などとんでもない。何としてでも止めなければ」といった顔つきで決意していたことをアルシオーネは知る由もなかった。
 
 
 そして、朝食を済ませたアルシオーネは、いつもの田舎娘の姿に変装して、マジックバックに様々な薬を詰め込んで準備を整えた。
 今日行く場所は花街の為、ヴェルを連れて行くことはできないと考えたアルシオーネは、しゃがんでヴェルに言い聞かせるように言ったのだ。
 
「ごめんね。今日行く場所には、ルーちゃんを連れていけないかな。だから、寂しい思いをさせてしまうけど、いい子で待っていてくださいね」

 そう言って、ヴェルの頭を一撫でしたアルシオーネは、立ち上がった。
 しかし、アルシオーネを引き留めるかのようにヴェルが吠えながらワンピースの裾を引っ張ったのだ。
 その必死の様子に、アルシオーネは眉を寄せてどうしようかと悩んだ結果もう一度しゃがんでいた。
 
「どうしたの? いつもはとてもいい子なのに……。やっぱり一人でお留守番は寂しくて嫌ってことよね……。うーん。困ったなぁ」

 眉を八の字にして、そう口にするアルシオーネだったが、ヴェルは「違う、そうじゃない」とばかりに吠え続けた。
 
 結局、宥めても鳴き止むことのないヴェルを置いて行くことも出来なかったアルシオーネは、その日は出掛けるのを止めて、ヴェルのご機嫌取りに一日を費やすこととなった。
 
 しかし、これまで王都に出てきてからというもの働きづめだったアルシオーネにとって、それは久しぶりの休日となったのだ。
 
 一日、ヴェルを可愛がり、久しぶりにお菓子作りもして、休日を有意義に過ごしたのだった。
 その過程で、ヴェルが甘いお菓子が好きだという事実に気が付いたアルシオーネは、いいことを思いついたとばかりに、お菓子のストックをせっせと作ったのだった。
 
 
 のんびりとした時間を過ごすうちに、ヴェルの機嫌も良くなり、アルシオーネは、ほっと息を付いたのだった。
 一方、機嫌を損ねていたはずのヴェルは、アルシオーネののんびりとした様子に胸を撫でおろすかのような表情をしていたのだ。
 そして、このまま花街に行くことを諦めてくれればいいと思っていたのだが、事態はそううまく運ぶものではないのだと翌日知ることとなったのだ。
 
 
 そして翌日、再び田舎娘の姿になったアルシオーネが、前日と同じように出掛けようとした時、機能とは違ったことがあったのだ。
 それは、甘いお菓子の存在だった。
 ヴェルが前日と同じように吠え出すと、マジックバックから取り出した甘いお菓子を目の前に差し出して、こう言ったのだ。
 
「ルーちゃん、いい子でお留守番出来たらこのあまーくて、美味し―お菓子を上げますよー」

 その言葉を聞いたヴェルは、ガクりと肩を落とした。
 そして、怒ったような表情で「お菓子で釣られる訳ないだろうが!!」とばかりに吠えたのだ。
 なんとなく、ヴェルの気持ちが伝わったのか、アルシオーネは、苦笑いで「そうよね。さすがにお菓子で釣られる訳ないわよね……」と乾いた笑いを浮かべたのだった。
 
 結局、ヴェルを抱っこしたアルシオーネは、「大人しくしていてくださいね?」と言いながら花街に向かうことになったのだった。
 アルシオーネの腕の中のヴェルとしては、アルシオーネが行くことをやめてくれないのなら付いて行くしかないと、そして、何かあったらすぐにアルシオーネを助けるつもりだったのだ。
 この行動が、アルシオーネとヴェルの運命の瞬間を加速させることとなったなど一人と一匹は、知る由もなかったのだ。

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