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S side 愛するということ ep4
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腹立たしい程、雲一つない空は晴れ渡っている。
まだ暑さが残る季節に、畏まった礼服が心底煩わしい。
あんな事があった後で、俺はまだ何も考えたくなかった。
結局俺は、律の事を何も分かってやれてはいなかった。
律が一人で抱え込んでいた、禍々しい程の闇と孤独の一端も、俺は理解していなかったと痛感する。
自死すると決めた時の律の、心底安心した表情。
律が最後に見出した希望が死ぬ事だったのは、頭で理解出来ても心が苦しくて追い付かない。
飯塚の事が好きで堪らなかった律。
後から瀬戸に聞いた話だと、律は一度も実際には観劇した事のないオペラについて異様に知識が深かった。
飯塚に性的に相手にされなくなった後、飯塚の趣味に合わせて独学で勉強していたらしい。
そんな事が笑えるほど無駄なのは、律が一番良く分かっていた筈だ。
食事制限の反動で、小さな飴や菓子を食べずに隠すように集めておくのをやめられなかった。
瀬戸が貸したノートパソコンに、体の傷を消す為の方法を延々と探している検索履歴が残っていた。
一言も口には出さない律の苦悩。
律を救ってやるだなんてどれ程烏滸がましい事だったのか。
係員に促され、まだ人気の疎らな教会の祭壇が見える位置に腰掛ける。
「愁哉さん」
隣に掛けた律が、穏やかに俺に話しかけた。
「…結婚式に出席するの、僕、初めてです」
いい加減、桐山様と呼ぶのをやめろと言われてから、ああでもないこうでもないと散々悩んだ挙句、律が一番しっくりきた俺の呼び名だが、誰にもそんなふうに呼ばれた事がないせいで未だに妙な気分になる。
あの日、律が振り下ろしたナイフは咄嗟に庇って出た俺の右手の手のひらを貫通し、律の腹部をほんの少し傷付けた。
パニックに陥って発狂するか気を失うかと思った律はその光景を見て、意外にも冷静に、震えながらも瀬戸を呼びに走って部屋を出て行ったのだった。
瀬戸の病院も近かったし処置も早かったが、鋭利なナイフで思い切り貫かれた手は、俺の中指と人差し指の神経を断絶したらしく、感覚をを完全に失い今も全く動かない。
まぁ、律が死ぬ事を思えば、俺の指二本で済んだのは幸運だった。が、あの後律は酷くそれを気に病んでいるようだった。
でも俺への罪滅ぼしなのかあの日以降、律が自分から死のうとする気配はなくなった。
その代わり、何かに吹っ切れたように、瀬戸の指示通り断薬し、外出に慣れようと努力して、自分を変えようとし始めたのだった。
そして律の腹の傷が治った頃、内容は分からないが、律は飯塚へ長い手紙を書き、凛にはそれ以上に長い長い手紙を書いて送ったらしい。
飯塚への気持ちをどう処理したのか、約束したであろう俺の殺害をどうするつもりなのか、結局本当のところは律以外には分からない。
「金持ちの道楽になんか付き合ってられねぇな」
最初から泣いている父親に連れられて入場し、バージンロードを歩く美月を横目に俺が呟いたが、涙目でそれを見ている律には聞こえていない。
それを迎える瀬戸のいつもの間抜け面は、親友ながらシュールに思えて仕方ないが、聖書を引用して長々と神父が説教を垂れる様子に律は釘付けだった。
まぁ律は瀬戸と美月を本当に信頼しているし、新しい経験になるならそれで良い。感動して泣くのを我慢しているなんて、律がこんな感情を持てるようになっただけでも嬉しかった。
「病める時も健やかなる時もーーー…」
お決まりの台詞を神父が唱え始め、宣誓も終盤に差し掛かってきた時、手の甲に何か触れた気がして視線を落とす。
見ると、律が俺の感覚を失くした指二本を握り締めていた。
「…ーーー愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
抑揚を抑えた神父の声。
律の目が、こちらを見ている。目を逸らしたくなる程の真っ直ぐさで。
「……なん…」
「誓います」
瀬戸の声とほぼ同時に、声を出さずに律の唇が同じ台詞を紡ぐ。
ああ。
これが律の嘘でも策略でもそれで良い。
こんな日が来る事を願って願って、この十年近くを生きて来たんだから。
俺が心底助けたいと思った、一目惚れした子供頃の律が、隣の律の姿に重なる。
知らなかった。お前はこんな風に、笑うんだな。
俺は、もう、死んでも構わない。
まだ暑さが残る季節に、畏まった礼服が心底煩わしい。
あんな事があった後で、俺はまだ何も考えたくなかった。
結局俺は、律の事を何も分かってやれてはいなかった。
律が一人で抱え込んでいた、禍々しい程の闇と孤独の一端も、俺は理解していなかったと痛感する。
自死すると決めた時の律の、心底安心した表情。
律が最後に見出した希望が死ぬ事だったのは、頭で理解出来ても心が苦しくて追い付かない。
飯塚の事が好きで堪らなかった律。
後から瀬戸に聞いた話だと、律は一度も実際には観劇した事のないオペラについて異様に知識が深かった。
飯塚に性的に相手にされなくなった後、飯塚の趣味に合わせて独学で勉強していたらしい。
そんな事が笑えるほど無駄なのは、律が一番良く分かっていた筈だ。
食事制限の反動で、小さな飴や菓子を食べずに隠すように集めておくのをやめられなかった。
瀬戸が貸したノートパソコンに、体の傷を消す為の方法を延々と探している検索履歴が残っていた。
一言も口には出さない律の苦悩。
律を救ってやるだなんてどれ程烏滸がましい事だったのか。
係員に促され、まだ人気の疎らな教会の祭壇が見える位置に腰掛ける。
「愁哉さん」
隣に掛けた律が、穏やかに俺に話しかけた。
「…結婚式に出席するの、僕、初めてです」
いい加減、桐山様と呼ぶのをやめろと言われてから、ああでもないこうでもないと散々悩んだ挙句、律が一番しっくりきた俺の呼び名だが、誰にもそんなふうに呼ばれた事がないせいで未だに妙な気分になる。
あの日、律が振り下ろしたナイフは咄嗟に庇って出た俺の右手の手のひらを貫通し、律の腹部をほんの少し傷付けた。
パニックに陥って発狂するか気を失うかと思った律はその光景を見て、意外にも冷静に、震えながらも瀬戸を呼びに走って部屋を出て行ったのだった。
瀬戸の病院も近かったし処置も早かったが、鋭利なナイフで思い切り貫かれた手は、俺の中指と人差し指の神経を断絶したらしく、感覚をを完全に失い今も全く動かない。
まぁ、律が死ぬ事を思えば、俺の指二本で済んだのは幸運だった。が、あの後律は酷くそれを気に病んでいるようだった。
でも俺への罪滅ぼしなのかあの日以降、律が自分から死のうとする気配はなくなった。
その代わり、何かに吹っ切れたように、瀬戸の指示通り断薬し、外出に慣れようと努力して、自分を変えようとし始めたのだった。
そして律の腹の傷が治った頃、内容は分からないが、律は飯塚へ長い手紙を書き、凛にはそれ以上に長い長い手紙を書いて送ったらしい。
飯塚への気持ちをどう処理したのか、約束したであろう俺の殺害をどうするつもりなのか、結局本当のところは律以外には分からない。
「金持ちの道楽になんか付き合ってられねぇな」
最初から泣いている父親に連れられて入場し、バージンロードを歩く美月を横目に俺が呟いたが、涙目でそれを見ている律には聞こえていない。
それを迎える瀬戸のいつもの間抜け面は、親友ながらシュールに思えて仕方ないが、聖書を引用して長々と神父が説教を垂れる様子に律は釘付けだった。
まぁ律は瀬戸と美月を本当に信頼しているし、新しい経験になるならそれで良い。感動して泣くのを我慢しているなんて、律がこんな感情を持てるようになっただけでも嬉しかった。
「病める時も健やかなる時もーーー…」
お決まりの台詞を神父が唱え始め、宣誓も終盤に差し掛かってきた時、手の甲に何か触れた気がして視線を落とす。
見ると、律が俺の感覚を失くした指二本を握り締めていた。
「…ーーー愛をもって互いに支えあうことを誓いますか?」
抑揚を抑えた神父の声。
律の目が、こちらを見ている。目を逸らしたくなる程の真っ直ぐさで。
「……なん…」
「誓います」
瀬戸の声とほぼ同時に、声を出さずに律の唇が同じ台詞を紡ぐ。
ああ。
これが律の嘘でも策略でもそれで良い。
こんな日が来る事を願って願って、この十年近くを生きて来たんだから。
俺が心底助けたいと思った、一目惚れした子供頃の律が、隣の律の姿に重なる。
知らなかった。お前はこんな風に、笑うんだな。
俺は、もう、死んでも構わない。
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最後に書いたお手紙は、決別の言葉がかけていたのなら、私は救われる。
次の続編が読みたいです。待ってます。
律君が、桐島様にやっと心が向くようになれて、良かったです。この作品に、私は取りつかれていました。