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S side 見舞い ep5
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当たり前だが本心では絶対に飯塚の見舞いになんか連れて来たくなかった。
俺が一言駄目だと言えば、その内心がどうあれ律がそれ以上食い下がるとも思えなかった。
でも、このままもし飯塚が死にでもしたら、あいつは律の魂をそのままあの世に持って行くだろう。修復出来ない心の傷を抱えたまま、死んだも同然に生きて行ければ良い方で、後追いして自害するのが容易に想像出来る。
そしてそれが、飯塚が一番面白がるシナリオに思えた。
乗り越えさせたかった。
律に、囚われた人生を少しでも取り戻させたかった。
人の心はそう簡単には変わらない。
人生の殆どを支配されていたのなら尚更。
こんな考えに、俺の驕りが大いに含まれている事は分かっていても。
いつもの事だが、律は本当の限界が来るまで表情には出さない。
その日も普段と同じように、同じ時間に起きて同じように支度を済ませていた。
ルーティンが乱されるのは苦手らしいが、律の日常には異分子の俺が居る朝食も、送迎の車の中でも、いつもと殆ど変わらぬ様子で静かに佇んでいた。
都心からかなり離れた場所にあるの大学病院の特別病棟に飯塚は入院していた。
受付であらかじめ予約していた来客者名簿との照らし合わせが済まないと先には通さない警戒ぶりと中々直ぐに見舞いに行ける場所ではない立地に少し合点が行く。
飯塚が倒れて以降、情報は錯綜していたが確かなものが殆どない。
何せ飯塚はまだ幾つかの財団の理事であり名の知れた企業の会長で、その権利や財産は莫大なものだ。
そしてもし飯塚が死ねばその全てを、ともすればあの凛というIQの低いガキが総取りする可能性がある。
今飯塚の判断能力がどれほどあるのか、もう使えないなら凛を抱き込むのは誰なのか、頭の悪いガキからどうやったら少しでも搾り取れるのか、そういう思惑と飯塚側の弁護士やら会計士やらが水面下で争っているのかもしれない。
俺には全く関係ないが。
俺に関係あるのは飯塚がどの程度の死に損ないなのか。
願わくば律に与えた痛みと同等の苦痛を味わいながら、律が壊れないよう末永く生きながらえて欲しいところだった。
そして律が忘れた頃にひっそり死んでくれたら言うことはない。
これからの面会で望むのは、律が取り乱したり飯塚の支配下に置かれていた頃の精神状態に戻ったりしない事だけだ。
だが病室の飯塚は俺の望みに反して前回会った時とさほど変わらぬ姿だった。
見舞いの花らしいものがこれ見よがしにずらりと並んだ、一人用の病室にしては見た事もないほど広い部屋のベッドに点滴を一本繋いだだけで飯塚は横になっていた。
背後から俺について来ている律の呼吸がほんの少し乱れるのが分かる。
「…お元気そうで」
嫌味でも何でもなく、心からの落胆を込めて呟きながら俺はベッドサイドの椅子に掛ける。
電動ベッドで体を起こした飯塚に律が恐る恐る近寄る様子を、飯塚に頰を触れたら瞬間の律の反射的にな行動を、俺は心臓が冷やされていくような気分で眺めていた。
「…よく、きてくれたね。…桐…」
右側の麻痺。左の血管が切れたか。
暫く待っても俺の名前を最後まで言えない。
言語能力そのものに障害が出たのか、ただ表情筋が動かないだけなのか判断が難しい。
「いえ」
数秒の沈黙の後、これ以上待っても無意味な会話を切り上げる。
飯塚の側に歩み寄った律はその背中を見るだけで、飯塚の病状に戦慄しているのが分かった。
「…りつも……ありがとう」
あのクソガキの誕生日会での出来事など無かったかのような猫撫で声に吐き気がする。
それでも律は一生懸命に首を振ってそれを否定し、泣いているのを俺に悟られまいと必死で息を殺す。
一体誰が邪魔者なんだか分からない。
違うだろ。
さすがに自虐的になりそうになったが、ここに俺の虚しさも悔しさも関係ない。
律が生きて行く為に、前を向く為にこの時間が必要なんだろうが。
「…り…んは、もう、寄り付かなくなってしまってね」
それを聞いた俺はここに居るのは律の為だと自分に言い聞かせたばかりなのに、いい気味で自分が笑ってしまっていないか心配になる。
まぁ簡単に想像は出来る話だ。
飯塚はあのクソガキを本気で可愛がっていたのではなくただただ幼児の体目当てなのは明白だったし、あのサイコパスの凛にも愛とか情とかを理解させるのは無理だろう。
どこを見ているのかさえ虚ろで分からない飯塚が数秒の沈黙の後口を開く。
「すこし…りつと二人だけに…してくれないか」
「お断りします」
何も言わなかった俺の態度が舐められたのか、ニヤついていたのを悟られたのか、そもそも俺の考えになど興味はないのか、とことんこちらを侮辱するような飯塚の言葉に俺は間髪入れずに答えた。
ふざけやがって。
律がこの変態ジジイとガキに殺されかけた事を忘れる訳がないだろうが。
レイプして首輪まで着けて足で踏んで窒息させて、それを全部律の責任だと言わせて、あの後何週間律が錯乱してたか。その後俺にどんな顔で謝罪して自分を責めていたか。
口には出さないように努めながら沸騰しそうな頭の中で暴言を吐いていた時、律が耐え切れなかったらしい嗚咽を漏らす。
金を積んで買った律は、まだ自分を殺しかけた前の飼い主を心から愛していて、今の律にとってこの部屋に必要ないのは俺の方なんだ。
そう言葉にしないまま訴える律の泣き声に胸が抉られる。
これ以上ない侮辱だと思った。
でも、律が前を向けるなら、俺の虚しさもプライドも悔しさも関係ない。
何度も自分に言い聞かせる。
今日は瀬戸から眠剤を出されないと眠れそうにない。
「2分だけだ」
2分以内だけなら、飯塚の呂律の回らないこの状態で物理的にも言葉だけでも、律に決定的な危害を加えるのは不可能に思えた。
それで律は納得するかは分からないが、これが俺の今出来る最大限の譲歩だった。
5分はやらない。
せいぜい120秒で俺への負け惜しみを吠えてろ。
看護師と部屋を出て扉を閉めた瞬間、俺は腕時計の秒針を見詰めてカウントダウンを開始した。
俺が一言駄目だと言えば、その内心がどうあれ律がそれ以上食い下がるとも思えなかった。
でも、このままもし飯塚が死にでもしたら、あいつは律の魂をそのままあの世に持って行くだろう。修復出来ない心の傷を抱えたまま、死んだも同然に生きて行ければ良い方で、後追いして自害するのが容易に想像出来る。
そしてそれが、飯塚が一番面白がるシナリオに思えた。
乗り越えさせたかった。
律に、囚われた人生を少しでも取り戻させたかった。
人の心はそう簡単には変わらない。
人生の殆どを支配されていたのなら尚更。
こんな考えに、俺の驕りが大いに含まれている事は分かっていても。
いつもの事だが、律は本当の限界が来るまで表情には出さない。
その日も普段と同じように、同じ時間に起きて同じように支度を済ませていた。
ルーティンが乱されるのは苦手らしいが、律の日常には異分子の俺が居る朝食も、送迎の車の中でも、いつもと殆ど変わらぬ様子で静かに佇んでいた。
都心からかなり離れた場所にあるの大学病院の特別病棟に飯塚は入院していた。
受付であらかじめ予約していた来客者名簿との照らし合わせが済まないと先には通さない警戒ぶりと中々直ぐに見舞いに行ける場所ではない立地に少し合点が行く。
飯塚が倒れて以降、情報は錯綜していたが確かなものが殆どない。
何せ飯塚はまだ幾つかの財団の理事であり名の知れた企業の会長で、その権利や財産は莫大なものだ。
そしてもし飯塚が死ねばその全てを、ともすればあの凛というIQの低いガキが総取りする可能性がある。
今飯塚の判断能力がどれほどあるのか、もう使えないなら凛を抱き込むのは誰なのか、頭の悪いガキからどうやったら少しでも搾り取れるのか、そういう思惑と飯塚側の弁護士やら会計士やらが水面下で争っているのかもしれない。
俺には全く関係ないが。
俺に関係あるのは飯塚がどの程度の死に損ないなのか。
願わくば律に与えた痛みと同等の苦痛を味わいながら、律が壊れないよう末永く生きながらえて欲しいところだった。
そして律が忘れた頃にひっそり死んでくれたら言うことはない。
これからの面会で望むのは、律が取り乱したり飯塚の支配下に置かれていた頃の精神状態に戻ったりしない事だけだ。
だが病室の飯塚は俺の望みに反して前回会った時とさほど変わらぬ姿だった。
見舞いの花らしいものがこれ見よがしにずらりと並んだ、一人用の病室にしては見た事もないほど広い部屋のベッドに点滴を一本繋いだだけで飯塚は横になっていた。
背後から俺について来ている律の呼吸がほんの少し乱れるのが分かる。
「…お元気そうで」
嫌味でも何でもなく、心からの落胆を込めて呟きながら俺はベッドサイドの椅子に掛ける。
電動ベッドで体を起こした飯塚に律が恐る恐る近寄る様子を、飯塚に頰を触れたら瞬間の律の反射的にな行動を、俺は心臓が冷やされていくような気分で眺めていた。
「…よく、きてくれたね。…桐…」
右側の麻痺。左の血管が切れたか。
暫く待っても俺の名前を最後まで言えない。
言語能力そのものに障害が出たのか、ただ表情筋が動かないだけなのか判断が難しい。
「いえ」
数秒の沈黙の後、これ以上待っても無意味な会話を切り上げる。
飯塚の側に歩み寄った律はその背中を見るだけで、飯塚の病状に戦慄しているのが分かった。
「…りつも……ありがとう」
あのクソガキの誕生日会での出来事など無かったかのような猫撫で声に吐き気がする。
それでも律は一生懸命に首を振ってそれを否定し、泣いているのを俺に悟られまいと必死で息を殺す。
一体誰が邪魔者なんだか分からない。
違うだろ。
さすがに自虐的になりそうになったが、ここに俺の虚しさも悔しさも関係ない。
律が生きて行く為に、前を向く為にこの時間が必要なんだろうが。
「…り…んは、もう、寄り付かなくなってしまってね」
それを聞いた俺はここに居るのは律の為だと自分に言い聞かせたばかりなのに、いい気味で自分が笑ってしまっていないか心配になる。
まぁ簡単に想像は出来る話だ。
飯塚はあのクソガキを本気で可愛がっていたのではなくただただ幼児の体目当てなのは明白だったし、あのサイコパスの凛にも愛とか情とかを理解させるのは無理だろう。
どこを見ているのかさえ虚ろで分からない飯塚が数秒の沈黙の後口を開く。
「すこし…りつと二人だけに…してくれないか」
「お断りします」
何も言わなかった俺の態度が舐められたのか、ニヤついていたのを悟られたのか、そもそも俺の考えになど興味はないのか、とことんこちらを侮辱するような飯塚の言葉に俺は間髪入れずに答えた。
ふざけやがって。
律がこの変態ジジイとガキに殺されかけた事を忘れる訳がないだろうが。
レイプして首輪まで着けて足で踏んで窒息させて、それを全部律の責任だと言わせて、あの後何週間律が錯乱してたか。その後俺にどんな顔で謝罪して自分を責めていたか。
口には出さないように努めながら沸騰しそうな頭の中で暴言を吐いていた時、律が耐え切れなかったらしい嗚咽を漏らす。
金を積んで買った律は、まだ自分を殺しかけた前の飼い主を心から愛していて、今の律にとってこの部屋に必要ないのは俺の方なんだ。
そう言葉にしないまま訴える律の泣き声に胸が抉られる。
これ以上ない侮辱だと思った。
でも、律が前を向けるなら、俺の虚しさもプライドも悔しさも関係ない。
何度も自分に言い聞かせる。
今日は瀬戸から眠剤を出されないと眠れそうにない。
「2分だけだ」
2分以内だけなら、飯塚の呂律の回らないこの状態で物理的にも言葉だけでも、律に決定的な危害を加えるのは不可能に思えた。
それで律は納得するかは分からないが、これが俺の今出来る最大限の譲歩だった。
5分はやらない。
せいぜい120秒で俺への負け惜しみを吠えてろ。
看護師と部屋を出て扉を閉めた瞬間、俺は腕時計の秒針を見詰めてカウントダウンを開始した。
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