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1~10話
甘いもののあとには、しょっぱいもの【下】
しおりを挟む椅子を下りて絨毯の上を進んでいると、くぐもった話し声が聞こえてきた。
今は壁から離れているのでよく聞こえないけれど、また家主と誰かが話しているらしい。
なんとなくそばだてた耳に、ガチャッと大きな音が届いた。
「!!」
家主だ!
慌てて残りの距離をダッシュして、ローテーブルの陰に身を隠す。
「はぁっ、はぁっ……」
やわらかな地面の上を走るというのは想像以上にきついもの。いつか陸上部の合宿でやった『砂浜ダッシュ』の記憶が甦る。
あれはしんどかった……。
どうにか呼吸を落ち着けながら様子を窺っていると、相変わらず険しい表情をした家主はやはり何も気にする素振りなく、ゴロンとソファに寝そべった。
驚いたけれど、家主が来たのならちょうどいい。このまま『手当て』もしてしまおう。
家主の寝付きのよさは何度も目にしたものの、念のためゆっくり十数えてからソファによじ登る。
静かな空間に足音を響かせないようそろりそろりとクッションの上を進み、深いシワを刻む眉間に手を触れて……
「いつもそうして触れていてくれたのか?」
「!?!!?」
五十センチは跳び上がったと思う。
一目散に座面を転がり下りて、ソファの陰に背を貼り付ける。
「はっ、はっ、はっ……」
バクン、バクン、バクン、バクン、
心臓が破裂しそうだ。
一体何が起こった!?
家主に触れたと思ったら、寝ているはずの家主が突然声を発して――――。
そういえば触れる直前、いつものうなり声は聞こえていただろうか?
ギシッと音をさせ、家主が上体を起こして座りなおした。
「驚かせてしまってすまない……。どうか姿を見せてはもらえないだろうか」
家主の声がする。
低くよく通る、穏やかな声。
対面に話し相手がいるでもなく、その言葉は独り言のように宙に投げかけられている。
私はパニックに機能停止しそうになる頭を、なんとか奮い立たせて状況把握に努めた。
えーと、えーと、えーと、家主が、家主で、喋ってて、別の人間はいなくて……。それはつまり、ここにいる誰かに話しかけてるってことで、でも私以外には誰もいないから、だから……。
そんなのもう、どう考えたって『話し相手』は私じゃないか!
どどどど、どうしよう!?
初めて姿を目にしたとき、この部屋に踏み入ってすぐに私の潜むドールハウスを見つめて「ネズミか」と言い放った家主だ。
きっと今私の隠れている場所だってお見通しだろうに、強引に暴こうとするでもなく、ソファに座ったままじっとこちらの反応を待ってくれている。
「決して危害は加えないと誓う。礼がしたいんだ」
「…………」
どうすれば正解かなんてわからない。
わからないけれど……この人は、信用できる気がする。
直感は大事だ。特に追い詰められた状況では。
鋭く研ぎ澄まされた本能が、直感的に正しい選択へと導いてくれる。
はち切れそうな緊張に、ゴクリと喉を鳴らす。
大きく息を吸い込んで、ゆっくりと長く吐き出して。
いずれにせよ存在がばれている以上、このまま家主から隠れ通すことは不可能なのだ。
それならば、いつ見つかったって同じこと。
――それが、たった今だろうとも。
……よっし!
ぺちんと両手で頬を打ち、気合いを入れてソファの陰から進み出る。
まだこちらの動きに気付いていない家主の足元まで行くと、ズボンの裾を掴んでクイッと強く引いた。
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