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どう考えても一目惚れの理由がおかしくありませんこと!?【前編】
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舞台に幕が下り、盛大な拍手の雨も次第にまばらになっていく。
素晴らしい劇の余韻を胸に席を立とうとした瞬間、ずん、と内側から下腹を圧すものがあった。
まずい……。
長時間に渡る集中が解けた今、封印から解き放たれたかのように急速に尿意が膨張していく。
おそるおそる隣を見上げれば、こちらの事情を知ってか知らずか、数多の令嬢の心を奪ってきたであろう男のきらきらしい笑みが向けられていた。
その整った容姿と近衛騎士に抜擢されるほどの優秀さから、うら若き令嬢の憧れを一身に集めてやまないハルド=レンブロー伯爵。
どんなに魅力的な女性からの誘いにもなびかぬ『鉄壁の騎士』と呼ばれる彼が、なぜ今私の隣でとろけるような眼差しをこちらに寄越しているのか。
それは話せば長くなる。
……いや、長くはかからないかもしれないけれど、私の沽券に関わるので割愛させていただく。
つまるところ彼はとんでもない変態で、ひょんなことから目撃した私の『憚り姿』に一目惚れしたというのだ。
あろうことか、自分には憚りを見る趣味があったようだ、とまで告げて。
見目麗しく、家柄もよく、どんなに優秀であっても、――変態は嫌だ。
ハルドにエスコートされ、劇場の通路をソソソソと小股で歩く。
どうやって憚りに行ったものか。
うかつに『憚りに行きたい』なんて伝えようものなら、『私も同行しましょう』などと言われかねない。
憚りを求めて周囲を見渡せば、こちらに向けられたたくさんの視線に気付いた。
この劇場に着いたときもそうだ。
馬車を降りてから座席に至るまでの僅かな道のりで、一体何人の女性がこちらをふり返ったことだろう。
うっとりと視線で追いつづける人、ポッと頬を染めて俯く人、友人ときゃあきゃあ話しはじめる人。そんな女性たちは皆、この男の本性を知らないのだ。
できることなら私も、知らないままでいたかった――。
「ミリア嬢」
隣を歩いていたハルドが、不意に足を止めてふり返った。
「はいっ?」
急に止まるのはやめてほしい。
勢い余ってちょっぴり漏れたらどうしてくれるのだ。――いや、どうもしないでくださいごめんなさい。
「少々失礼して、襟を整えてまいります」
「え……」
見れば通路の先は二手に分かれ、それぞれ憚りへと続いているようだった。
「あっ、わっ、わたくしもお化粧を直してまいりますわ!」
ハルドも用を足すのか――、なんて当たり前の事実に驚きながら。
駆け足に見えないギリギリの速度で、救いの扉へと飛び込んだ。
ハルドが憚りに向かうタイミングで自分も用を足せばいい。そう気付いてしまえば、このデート最大の問題は解決したも同然だった。
「ハルド様、このあとのご予定は?」
「通り向こうのカフェを予約してあります。そこで劇について語らうのはいかがでしょう?」
「素敵ですわ! その近さなら、歩いても行けますわね」
たった今観た素晴らしい劇の感想を、誰かに話したくてウズウズしていたのだ。
劇場スタッフに御者への伝言を頼むと、閉幕直後の混み合う馬車つき場を横目に徒歩でカフェに向かう。
「ところで、ハルド様はどうしてわたくしがこの演目を観たがっているとご存じでしたの?」
若い女性に大人気の恋愛小説が初の舞台化とあって、劇は連日大盛況。
いち愛読者として絶対に見逃せないと息巻いていた私も、手に入れるどころか目にすることさえできない幻のチケットを前に打ちひしがれていた。
先日は、観に行けたという友人一人を囲んで、他の友人たちと詳しい感想をせがんでいたところだ。
まさか、私とハルドの関係を知らない友人が話を漏らしたとも思えない。
「上演ポスターのタイトルに見覚えがある気がして……以前ウォルダー財務官の話に出てきた、ミリア嬢の愛読書と同じタイトルだと気付いたのです」
「まあ!」
お父様から私の失敗談を聞かされたというのは、私と出逢うより前のことだったはず。
業務になんの関係もない雑談まで記憶しているなんて、こういうところが優秀と言われる所以だろうか。
記憶力を活かして相手の好みを把握し、話したいと思ったタイミングでは見計らったかのようにカフェが予約されている。スマートで行き届いた、完璧なエスコートだ。
「『鉄壁の騎士様』と呼ばれていらっしゃるわりに、ずいぶん女性の扱いに慣れていますのね?」
私のほかにもエスコートする相手がいるのだとしたら、むしろ積極的にそちらにアプローチするべきだと思う。一人ぐらい、恥じらいながら憚りを見せてくれる女性がいるかもしれないではないか。
「ああ、その呼び名は――」
ハルドが答えかけたとき、後方から短い悲鳴が聞こえた。
「スリよ! 誰かその男を捕まえて!」
「えっ」
声がしたほうをふり返ると、正体がバレたことで開き直ったのか、犯人らしき男が人払いにナイフを振り回しながら突っ込んで来るのが見えた。
「どけどけ! 邪魔だー!!」
ここに立っていてはナイフを持った犯人とぶつかる。そう頭ではわかっているのに、鋭い切っ先と犯人の形相に足がすくんで動けない。
もうダメ……!
瞬間、ハルドに手を引かれ、ダンスのターンのようにくるりと位置が入れ替わった。
悲鳴すら上げられずに見開いた目の先で、ハルドが犯人の進行方向へと片の手足を差し出す。ぶつかったかに見えた次の瞬間、ぐるんと縦に一回転した犯人が、ゴガンッと豪快な音を立てて仰向けに倒れた。
……一体何が起こったのだろう??
犯人は石畳の上で伸びていて、ハルドの右手にはいつの間にか犯人のナイフが握られている。
今の私にわかるのは、ハルドが危険から守ってくれたということだけだ。
「ミリア嬢、お怪我はありませんか?」
「え、ええ、おかげさまで。ハルド様は……?」
「この通り、かすり傷一つありません」
何事もなかったかのような、いつも通りの麗しい笑顔が答えた。
遅れて駆けつけた衛兵に犯人の身柄を引き渡し、事情説明も終え、「ぜひお礼を」と言う被害者に軽く手を振って別れる。
「先ほどの話の続きですが……」
乱れた上衣の裾をはたきながら、ハルドが切り出す。
一体なんの話をしているところだったろう。事件が衝撃的すぎて覚えていない。
「『鉄壁の騎士』という呼び名は、戦場でついたものなのです。決して敵を討ちもらさず、誰一人として自分の後方へは進ませない。そんな姿が壁のようだ、と。……女性のエスコートに関しては、姉二人に厳しくしごかれたおかげでしょうか」
そう話すハルドの瞳は、獲物を狙い定めた獣のように真っ直ぐ私だけを映していた。
素晴らしい劇の余韻を胸に席を立とうとした瞬間、ずん、と内側から下腹を圧すものがあった。
まずい……。
長時間に渡る集中が解けた今、封印から解き放たれたかのように急速に尿意が膨張していく。
おそるおそる隣を見上げれば、こちらの事情を知ってか知らずか、数多の令嬢の心を奪ってきたであろう男のきらきらしい笑みが向けられていた。
その整った容姿と近衛騎士に抜擢されるほどの優秀さから、うら若き令嬢の憧れを一身に集めてやまないハルド=レンブロー伯爵。
どんなに魅力的な女性からの誘いにもなびかぬ『鉄壁の騎士』と呼ばれる彼が、なぜ今私の隣でとろけるような眼差しをこちらに寄越しているのか。
それは話せば長くなる。
……いや、長くはかからないかもしれないけれど、私の沽券に関わるので割愛させていただく。
つまるところ彼はとんでもない変態で、ひょんなことから目撃した私の『憚り姿』に一目惚れしたというのだ。
あろうことか、自分には憚りを見る趣味があったようだ、とまで告げて。
見目麗しく、家柄もよく、どんなに優秀であっても、――変態は嫌だ。
ハルドにエスコートされ、劇場の通路をソソソソと小股で歩く。
どうやって憚りに行ったものか。
うかつに『憚りに行きたい』なんて伝えようものなら、『私も同行しましょう』などと言われかねない。
憚りを求めて周囲を見渡せば、こちらに向けられたたくさんの視線に気付いた。
この劇場に着いたときもそうだ。
馬車を降りてから座席に至るまでの僅かな道のりで、一体何人の女性がこちらをふり返ったことだろう。
うっとりと視線で追いつづける人、ポッと頬を染めて俯く人、友人ときゃあきゃあ話しはじめる人。そんな女性たちは皆、この男の本性を知らないのだ。
できることなら私も、知らないままでいたかった――。
「ミリア嬢」
隣を歩いていたハルドが、不意に足を止めてふり返った。
「はいっ?」
急に止まるのはやめてほしい。
勢い余ってちょっぴり漏れたらどうしてくれるのだ。――いや、どうもしないでくださいごめんなさい。
「少々失礼して、襟を整えてまいります」
「え……」
見れば通路の先は二手に分かれ、それぞれ憚りへと続いているようだった。
「あっ、わっ、わたくしもお化粧を直してまいりますわ!」
ハルドも用を足すのか――、なんて当たり前の事実に驚きながら。
駆け足に見えないギリギリの速度で、救いの扉へと飛び込んだ。
ハルドが憚りに向かうタイミングで自分も用を足せばいい。そう気付いてしまえば、このデート最大の問題は解決したも同然だった。
「ハルド様、このあとのご予定は?」
「通り向こうのカフェを予約してあります。そこで劇について語らうのはいかがでしょう?」
「素敵ですわ! その近さなら、歩いても行けますわね」
たった今観た素晴らしい劇の感想を、誰かに話したくてウズウズしていたのだ。
劇場スタッフに御者への伝言を頼むと、閉幕直後の混み合う馬車つき場を横目に徒歩でカフェに向かう。
「ところで、ハルド様はどうしてわたくしがこの演目を観たがっているとご存じでしたの?」
若い女性に大人気の恋愛小説が初の舞台化とあって、劇は連日大盛況。
いち愛読者として絶対に見逃せないと息巻いていた私も、手に入れるどころか目にすることさえできない幻のチケットを前に打ちひしがれていた。
先日は、観に行けたという友人一人を囲んで、他の友人たちと詳しい感想をせがんでいたところだ。
まさか、私とハルドの関係を知らない友人が話を漏らしたとも思えない。
「上演ポスターのタイトルに見覚えがある気がして……以前ウォルダー財務官の話に出てきた、ミリア嬢の愛読書と同じタイトルだと気付いたのです」
「まあ!」
お父様から私の失敗談を聞かされたというのは、私と出逢うより前のことだったはず。
業務になんの関係もない雑談まで記憶しているなんて、こういうところが優秀と言われる所以だろうか。
記憶力を活かして相手の好みを把握し、話したいと思ったタイミングでは見計らったかのようにカフェが予約されている。スマートで行き届いた、完璧なエスコートだ。
「『鉄壁の騎士様』と呼ばれていらっしゃるわりに、ずいぶん女性の扱いに慣れていますのね?」
私のほかにもエスコートする相手がいるのだとしたら、むしろ積極的にそちらにアプローチするべきだと思う。一人ぐらい、恥じらいながら憚りを見せてくれる女性がいるかもしれないではないか。
「ああ、その呼び名は――」
ハルドが答えかけたとき、後方から短い悲鳴が聞こえた。
「スリよ! 誰かその男を捕まえて!」
「えっ」
声がしたほうをふり返ると、正体がバレたことで開き直ったのか、犯人らしき男が人払いにナイフを振り回しながら突っ込んで来るのが見えた。
「どけどけ! 邪魔だー!!」
ここに立っていてはナイフを持った犯人とぶつかる。そう頭ではわかっているのに、鋭い切っ先と犯人の形相に足がすくんで動けない。
もうダメ……!
瞬間、ハルドに手を引かれ、ダンスのターンのようにくるりと位置が入れ替わった。
悲鳴すら上げられずに見開いた目の先で、ハルドが犯人の進行方向へと片の手足を差し出す。ぶつかったかに見えた次の瞬間、ぐるんと縦に一回転した犯人が、ゴガンッと豪快な音を立てて仰向けに倒れた。
……一体何が起こったのだろう??
犯人は石畳の上で伸びていて、ハルドの右手にはいつの間にか犯人のナイフが握られている。
今の私にわかるのは、ハルドが危険から守ってくれたということだけだ。
「ミリア嬢、お怪我はありませんか?」
「え、ええ、おかげさまで。ハルド様は……?」
「この通り、かすり傷一つありません」
何事もなかったかのような、いつも通りの麗しい笑顔が答えた。
遅れて駆けつけた衛兵に犯人の身柄を引き渡し、事情説明も終え、「ぜひお礼を」と言う被害者に軽く手を振って別れる。
「先ほどの話の続きですが……」
乱れた上衣の裾をはたきながら、ハルドが切り出す。
一体なんの話をしているところだったろう。事件が衝撃的すぎて覚えていない。
「『鉄壁の騎士』という呼び名は、戦場でついたものなのです。決して敵を討ちもらさず、誰一人として自分の後方へは進ませない。そんな姿が壁のようだ、と。……女性のエスコートに関しては、姉二人に厳しくしごかれたおかげでしょうか」
そう話すハルドの瞳は、獲物を狙い定めた獣のように真っ直ぐ私だけを映していた。
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