大正上京放浪記

つなかん

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大正上京放浪記

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 東京へ向かう列車の中、栄人は、新しい生活に期待していた。高校への進学を機に、東京へと出ることになったのだ。

 東京には三つ年上の幼馴染み白井が居る。栄人は長いこと彼に憧れていた。見た目も良く、勉強も運動もよくできた。今年から帝大生というのだから恐れ入る。実家は地主で、金持ちときているのだから非の打ち処がない。

 そんな完璧な幼馴染みは、目立つことのない地味な自分によく構ってくれた。初めは兄のように慕っていたが、次第に尊敬や憧れの感情が変化していった。

 そう、ずっと好きだった。

「でも気持ち悪いしな。普通にしよう普通に」

 もうすぐ白井に会えるという逸る気持ちを抑え、そう一人で呟くと、窓から外を見た。

 そろそろ着きそうだ。手早く、そう多くもない荷物を纏めた。

 ホームに降りる。地元の駅より遥かに多い人に戸惑いながら、切符を手に、改札を目指す。

 人込みに流されながらやっと改札を出ると、聞き慣れた声が聞こえた。

「栄人」

 声のしたほうを見ると、白井が立っていた。三年ぶりだがあまり変わっていない。以前より少し伸びた髪を後ろに流していた。

「白井! 久しぶり!」

 よッ、と片手を上げる。

「栄人……背、伸びた?」

「そりゃ三年もすれば伸びるだろ」

 見上げるほどだった白井の顔が、そう高くない位置にあることに気付く。それでも白井のほうが身長があり、なんだか悔しい。

「そう、だね」

 一瞬少し寂しそうな表情を見せ、白井は口を開く。

「荷物、貸して」

「あア、悪いな」

 日用品の入った大きな鞄を白井に渡す。

「わざわざ迎えにこなくてもよかったのに」

 特に連絡をしなかったのに、どうして今日、駅まで来たのだろうか?

「そうなんだけど、心配で……」

 その言葉に、まだ自分は白井に構って貰えているのだと感じる。それが嬉しかった。

「じゃあ行くか」

 そう言って、歩き出す。正直な話、道が分からないので白井が居てくれて助かった。

「栄人は、寮に入るの?」

 不意に白井が言う。何故そんな当たり前のことを訊くのだろう。

「そりゃそうだろ。全寮制なんだから」

「駄目」

「は?」

「絶対駄目」

 訳が分からない。あまりにも理不尽で、反論の言葉を口にした。

「白井だって寮だったんだろ? 何が問題なんだ? 別に、いいだろ?」

「おれは、いい」

 何故だろう。ますます訳が分からない。

「特に、あそこは危険」

 強めの口調で、更に言葉を続ける。

「あそこは埃っぽいし、栄人は肺が悪いんだから、もっと、自覚しないと」

 肺が悪いのは事実だ。しかしだからといって寮に入らないというのは気が引ける。

「いや、でも――」

「とにかく、医者の診断書を持ってきて」

 診断書を持って学校と掛け合うつもりなのだろうか。そんなことはしたくない。普通に過ごしたいのだ。

「あ、あのさ。僕は普通でいいんだよ」

「診断書、貰おう?」

 全く聞く耳を持たない白井。対処の仕方が分からない。

「無理だよ。そんなお金ないし……」

「お金なら、あげる」

 白井はそう言いながら財布から金を取り出した。医者へ行く以上の額を出す。貧しい農家出身の栄人には目眩がする金額だ。

「いいって! 悪いよ」

 こんなに貰う訳にはいかない。全力で首を振って拒否をした。

「いいから、余ったら、他のことに使ってもいいし」

 なかば強引に金を握らされる。白井は財布を仕舞うと歩き出し、栄人はそれに付いていった。

「今日は、寮まで送るけど、あんまり、同室の奴と仲良くしないで。荷物は、できるだけほどかないで」

「なんでだよ、そんなの僕の勝手だろ?」

 白井の言葉に、思わず反駁する。すると白井は黙ってしまい、沈黙が訪れた。足音と町の喧騒が嫌に煩い。

「……そう、だね。でも、心配で」

 しばらく経つと、白井は答えた。前方を向いている所為で、後ろからでは表情が見えない。

「大丈夫だって」

 安心させるように言って、また歩を進めた。


   ***


「お疲れ」

 声を掛けてきたのは、給仕の雪子だった。アルバイトの珈琲屋で、栄人は皿洗いをしていた。家事の類いは苦手ではなかったが、それなりの量の皿を洗うのは骨が折れた。

「お疲れ様です」

 返事をすると雪子は近くに来て椅子に座った。

「大丈夫? 大変だよね。厨房は」

「いや、まあ……そうですね」

 答えると、咳が出始めた。厨房の煙が肺に入り込み、余計に酷くなる。

「大丈夫?」

 咳は段々と酷くなる一方だ。こうなるとモウ止まらない。

「大丈夫です、すいません……そろそろ帰りますね」

 なんとかそう言うと、逃げるように店を後にした。

 外に出ると、だいぶ良くなった気がしたが、まだ治まらない。とりあえず薬を飲もう。鞄を漁ってそれを探す。

「……栄人」

 知った声がするが、そちらを見る暇はない。鞄の中を、引き続き探した。

「栄人、どうしたの!」

 足音が近付いてくる。白井は肩を掴んで大きく揺すった。

「医者に行こう、来てもらってもいいし……」

 呼吸が苦しく、上手く酸素を取り込めない。返事ができないまま、やっと見つけた薬を吸い込んだ。

「平気、だから」

 薬の効果か、時間が経つと咳は治まっていった。やっと普通に呼吸ができるようになると、白井が口を開いた。

「こんな遅くまで、何してたの?」

 責めた口調で、どこか怒っているようでもあった。

「遅くってまだ夕方だろ」

 寮の消灯時間までまだ余裕がある。空もまだ明るいし、出歩くのは問題ないはずだ。

「寮にいないから、心配して探したからいいけど……どうして?」

 寮にも行ったのか、そんなに過保護になる必要はないのに。

「それは――」

 言葉に詰まる。アルバイトのことを言ったら反対される気がした。

「ねえ、教えて?」

 手首を強く掴んでくる。想像以上に強い力で痛い。

「離せよ! 関係ないだろ!」

 強く言うと、あっさりと手を離した。

「まあいいや。とりあえず、医者に行こう……診断書も、ついでに貰おう」

「モウ大丈夫だって。消灯時間もあるしさ」

 消灯時間に間に合わないと、寮長や先生にも迷惑を掛けることになる。怒られるのも嫌だが、それが心苦しかった。なにより、普通に過ごすという目標からも、かけ離れてしまう。そもそも白井は、金のない栄人に、寮以外どこに住めというのだろう。

「大丈夫、それはおれが、言っておくから」

「いや、でも――」

「心配、だから」

 お願い、と泣きそうな顔をする。これ以上反対しようがなかった。

「分かったよ」

 そう答えると、白井は満足そうに頷いた。

   ***

「綿貫は寮出て、どこに住んでるの?」

 訊ねたのは、同じクラスの藤澤だ。東京出身なので、頼りになる。

「知り合いの家だよ」

 白井は、大学に入ってから一人暮らしを始めたらしい。白井の口利きで、なぜか栄人は白井の家に住むことになっていた。

「ふうん」

 藤澤は興味無さげに返事をし、そして再び口を開いた。

「これからカフェーに行くんだけど、綿貫も来ない?」

 突然のことに驚いた。お酒を出す店に行ったことなどない。

「え……いや、僕はいいよ。お酒飲めないし。お金ないし」

「いいだろ、行こうぜ。奢ってやるからさ」

 そういえば白井に借りた金もまだ返していない。藤澤にまで金を借りるのは悪い気がした。

「それは悪いって」

「いいからいいから」

 そう言って藤澤は大丈夫だって、っと笑う。曖昧に返事をしていると、なぜか行くことになってしまった。

「じゃあいいよな、行こう」

 藤澤は栄人の腕を取り、繁華街のほうへと歩き出した。

   ***


 疲れた手で家の戸を開ける。中に入ると、まだ奥の部屋に灯りが点いていることに気が付いた。

 まさかまだ起きているわけじゃないだろう。白井のことだ、灯りをつけたまま眠ってしまったに違いない。

 できるだけ足音を立てないように廊下を進む。すぐに着替えて眠ろうと考え、真っ直ぐ寝室へ向かった。

「……遅い」

 寝室の扉を開けると、低い声が栄人を出迎えた。どこか責めるような瞳が、射抜くように見つめてくる。

「ご、ごめん。一寸……」

 白井が起きていることに驚き、また怒っていることに戸惑った。

「誰と、一緒に居たの?」

「ええっと、それは、友達」

「名前は?」

「……藤澤」

 答えると、白井はゆっくりと立ち上がって此方に近付いてきた。

「ふうん。お酒、飲んだ?」

「な、なんだよ! 別に、いいだろ」

 反論の言葉を口にするが、白井の耳には入っていないようだ。おそらくどこに行っていたのか見当は付いているのだろう。咎められるのが、鬱陶しかった。栄人に近付いて肩を掴み、無理矢理に敷いてある布団に誘導した。

「よせ! 離せ!」

 上に乗られ、あまり抵抗のできない状態になる。

 そうこうしているうちに、白井は栄人の首元を舐め始めた。ぬるぬるとした感覚が気持ち悪い。

「……痛ッ」

 不意に痛みが走る。数秒後、首を噛まれたのだと理解した。

 それは昔遊びで行っていた噛む行為とは全く違った。鋭い痛みと共に、生暖かい液体が首元を流れているのが分かる。

「何すんだよッ……離せ!」

 押し退けようとしても、体重を乗せられている所為か、上手くいかない。

「いた、い……本当に、止めろよ」

 自然と涙が溢れ、視界が歪む。

「痛く、してる」

 無表情で言う白井に、恐怖を感じた。東京に来てから、嫌に過保護になったとは思っていたが、これは常軌を逸している。

「ふざけん、な」

「モウ、遅くならない? 他の女とも、話さないで」

 暴れる手首をあっけなく押さえ付けられ、再び歯で傷口を抉られる。

「いたッ……分かった、分かったから」

 痛みでまともな思考ができない。早く解放されることだけを考えいた。

「約束、できる?」

「約束するから、よせ……痛い」

「……そう」

 やっと噛むのを止めた白井は、なぜか拘束を解かなかった。

「白井? どうした? なんか、変、だぞ……」

 じんじんと痛む首に顔を歪めながら、白井のほうを見る。

 白井は呼吸を荒くして、どこか熱っぽい瞳で此方を見つめていた。

「しばらく、じっとしてて」

 耳元で優しく囁かれ、一瞬抵抗を止める。白井はそっと押さえつけていた手を離すと、制服の洋袴に触れた。

「はぁ? な、なんだよ?」

 服を脱がされて、再び抵抗を始める。訳が分からなくて、混乱して、強く拒むことはできなかった。あっさりと、下肢を曝け出す状態になる。

「……ごめん」

 白井はそう言って、今度は自分の服を脱ぎ始めた。

「何してんだよ!」

 拘束している手が退いたのをいいことに、栄人は起き上がろうとする。

「じっとしててって、言った」

 すぐさま栄人を押さえつけると、白井はまだ血の乾いていない傷口を爪で引っ掻き始めた。

「いッ……た」

 痛みでまた、涙がじわりと溢れる。恐怖で身を固くしていると、太腿に硬いものが触れた。

 それが何なのか、すぐに見当はついた。幼馴染みなのだし、白井のそういった反応は見たことはあった。しかし、その欲望が自分に向けられたのは初めてのことで、混乱と戸惑いが栄人を支配する。

「……栄人」

 指で髪を梳きながら名前を呼ぶ。閉じていた栄人の足に、それを挟み込んでくる。後頭部に手を回すと、唇を重ねる。

 何をするのか分からない。怖くて思わず目を閉じる。

 やがてゆっくりと動きだし、足の間にぬるぬるとした気持ち悪い感触が広がった。

「目、開けて」

 逆らえない雰囲気に呑まれ、そっと瞼を持ち上げる。

「おれだけを、見て」

 そう言うと、べろりと眼球に舌を這わす。首のものほどではないが、鈍い痛みが走る。

 足の間はの動きは、段々と早くなってゆく。此方は全然気持ち良くないというのに、白井はそろそろ、といった感じだ。

「あぁっ、えいと、好き、だよ」

 色っぽい声を上げると、白井は果てたようだった。


   ***
 窓帷|《カーテン》の隙間からの光で目を開ける。時計を見ると朝の六時。いつもより少しだけ早い。しかしいつも通りの風景。昨日のことが嘘に思えた。

「……夢、か」

 残念なような、ホッとしたような、複雑な気分だ。

「……痛ッ」

 起き上がろうと身体を動かすと、首に痛みが走った。間違いない。昨日のものだ。

「夢、じゃない」

 そして、ぼんやりとして曖昧だった記憶が鮮明に蘇る。好意を気付かれていたのか、ただの遊びなのか。白井が最後に言った、好きという言葉。あれは本当なのだろうか。状況的に、あまり信用できる言葉ではない。

 とりあえず首の痛みを無視して起き上がる。部屋の様子も、布団もいつも通りで、昨日のことが嘘のようだ。

「栄人」

 白井は既に起きていて、台所から顔を出した。

「今日は、早いね」

 そう言って栄人のほうへと近付いてくる。

「あ、あの……白井」

 昨日のことの真意を訊こうと、口を開くが、それより先に白井が言葉を発した。

「栄人、好きだよ」

「え?」

 十分に近付いてきた白井は屈み込み、栄人を抱き寄せる。

「だから、栄人もおれを好きになって」

 耳元で囁かれて、ぞくりとする。

「それは、僕も……。僕も、好き。白井のこと」

 栄人が答えると、白井は嬉しそうに頬に口付けをした。

「そう、そうだよね。おれはこんなに栄人のこと、好きだもん」

 また強く抱擁をする。

「それから、あの女。珈琲屋の……あんまり親しくしないで」

 低い声で言う。怒っているのだろうか。表情が見えない所為で、分からない。

「あの女って……雪子先輩のこと? なんで、知って……?」

 アルバイトのことも言っていないはずだ。なぜ知っているのだろう。

「知られたら、まずいの? アルバイト、とか?」

 アルバイトのことを言われ、どきりとする。

「ねえ」

 動揺から答えられないでいると、冷たい声がした。

「いや、別にいいけど……先輩には何もするなよ」

「なんで?」

 冷やかに言い放つ。

「なんでって……女の子だし」

「女だから、何?」

 白井が何を考えているのか分からない。少し恐い気もした。

「あんまり物騒なことするなって言ってるんだよ。もっと、優しく――」

「おれが優しくするのは、栄人だけだよ」

 そう答えて優しく微笑んだ。

   ***


 夏が近付き、試験も秒読みとなっていた。アルバイトで忙しい栄人は、進級が悩みの種になっていた。

「大丈夫。俺が教えてやるって」

「本当に? それだと助かる」

 藤澤と話しながら歩く。すると、まだ学校の敷地内だというのに白井が現れた。

「白井!」

 驚いて思わず名前を呼ぶ。白井は栄人ではなく、藤澤のほうを向いた。

「君が藤澤君? 話は聞いてるよ」

「は、はあ」

 突然のことに、固まる藤澤を尻目に、白井は栄人の腕を掴んだ。

「悪いけど、栄人はおれと帰るから」

「え……白井、困るよ」

 栄人は抵抗するが、有無を言わさない強さで白井は歩き出す。

 腕を強く引かれ、裏路地のほうへと連れられる。まだ日の高い時間なので、店はほとんど閉まっている。人気がなく、昼間だというのに薄暗い場所。

「なあ、どうしたんだよ」

 沈黙に耐えきれずに口を開くと、白井は立ち止まり、振り返った。責めるような瞳で栄人を見下ろし、肩を掴んできた。

「ちょ……痛ッ」

 反論する暇もなく、混凝土の壁に押し付けられる。ひんやりと冷たい感覚が背中に触れる。

「い、たい」

「勉強なら、おれが教えられるし、あんなやつに、頼まないで」

 会話を聞いていたのだろうか。酷く怒っているようだ。とにかく怒りを鎮めないと。

 肩を強く掴んで責める。もう片方の手で、壁に手をついた。

「あいつのほうが、そんなにいい?」

 掴まれた肩が、打ち付けた背中が痛む。栄人は痛みに堪えながら、白井の怒りを収めることを考えた。

「藤澤は、友達だよ。白井とは違う」

 そう言って白井の首に両手を回す。背伸びをして、口付けた。

「こういうこと、白井としか、しない」

「……そう」

 少し満足気に笑みを浮かべて栄人の髪に優しく触れた。

 よかった、これで少しは怒りも収まっただろう。

「帰ろう」

 手を取って歩きだす。手を引かれながら少し後ろを歩く栄人に聞こえない声で、ぼそりと呟いた。

「でもやっぱり、あいつはいらないなあ……」

   ***
「ちょ……何してんだよ」

 それは白井の住む貸家の裏だった。物音がするので玄関に入る前に其方を覗いたら、とんでもない光景が目に映った。

「見つかっちゃったかあ」

 藤澤にペーパーナイフを向ける白井の姿があった。どうしてこんなことになったのか、きっと自分の所為なのだ。とにかくこの状況をなんとかしなければならない。

「何してんだよ! 物騒なことするなって言っただろ?」

 落ち着かせるように、声を抑えて言う。ゆっくりと近付いていき、白井の様子を伺う。藤澤は喉元に刃先を当てられている所為か、声を発しない。

「女の子には、ね。男なら、いいでしょ?」

 藤澤から目を逸らさずに答える。

「おれは、栄人のためなら、人も、殺せるよ。他の奴なんて、邪魔でしょ」

「やめろよ!」

「あははっ、はははははっ!」

 恍惚とした表情で高笑いをする。藤澤から視線を逸らし、栄人のほうを向く。刃先が藤澤の首から少し離れた。

「おれのこと、心配してくれるの? 嬉しい。でも大丈夫、絶対、露見ないように、するから」

 晴れているのに雷が鳴った。唐突に雨がザアザアと降り出す。

 その瞬間、白井に隙ができた。すかさず利き手ではない左側で、ペーパーナイフの先を握る。

「痛ッて……」

 掌が痛い。藤澤は目を大きく見開いて、栄人を見ていた。

「栄人、何して――」

 白井は吃驚した顔をして、ペーパーナイフを離す。

「こういうこと、モウするなよ」

 雨が髪を濡らす。じんじんと痛む掌を握り締める。

「分かった」

 白井が返事をする。

 雷が鳴り、雨が酷くなり、思わずくしゃみが出た。


   ***

 医師の診断書、家賃の半分四カ月分、カフェー代。春先に白井に持たされた金はなんとか返したが、これだけの額はそう簡単に払えない。

 無事試験も終わり、夏休みに入った。正直、ホッとしている。白井のおかげで藤澤を始め、友人が栄人から距離を置くようになっていた。あんなことがあった後なのだから仕方がないが、それでも寂しかった。

 それにしても頭が痛い。この前雨に濡れてから、試験中もずっと調子が悪かったが、今日ほど酷いのは始めてだ。この頭痛は、きっと朝から金勘定をした所為だけではない。

 身体が重くて起きれ上がれない。今日はアルバイトがあるから昼には起きないとまずい。やっと掌の怪我が治って復帰したばかりなのだ。そう簡単に休むわけにはいかない。

「……栄人」

 いつの間にか白井が近くに座っていた。驚く栄人の額に手を当てる。

「栄人、凄い熱、だよ。今日は、休んでよう」

 悲しそうな表情を見せる。

「気付かなくて、ごめんね」

 愛おしそうに頬を撫でて、ゆっくりと瞬きをした。

「でも今日はバイトが――」

「そんなの、行かなくていい。あの女にも会わないで欲しいし。栄人は身体が弱いんだから、余計なこと、しなくていい。辞めるって言っておくから、栄人は何も心配しないで」

「でも――」

「おれが、嫌い? だから逃げるの? おれは、こんなに栄人のこと、好きなのに」

 痛む頭を押さえて起き上がる。くらくらと目眩がしたが、なんとか表に出さないようにした。

「嫌いなわけないだろ……。しかも逃げるって……そんなんじゃないし……」

「で? 足、折る? 靭帯、切る? どっちがいい? 切り落としても、いいんだけど、それはちょっと大変かな」

 話が突然変わり、意味が分からない。白井の言っていることを理解できないのは、頭痛の所為ではないはずだ。

「は? 何言ってんだよ、意味分かんねえよ」

「モウ外に、出なくていい」

「なんでだよ! バイトしないと駄目だろ!」

「言ったよね、おれだけを見てって。そんなにあの女がいいの?」

 足を関節の曲がらない方向に捻られる。本気の目をした白井が恐ろしかった。

「痛い痛い! よせ、やめろ! ……分かったから。今日は休むから!」

「なに? 手も、いらない? いいよ。おれが、なんでもしてあげる」

「言ってねえよ馬鹿!」

 やっと足から離れた手に安心し、ため息をつく。

 気を抜いたのが悪かったのか、突然接吻をされた。

「お前何して……伝染るぞ!」

「伝染したら治るって、聞く」

 白井は冷静な声で話す。伝染しても良いというのだろうか。

「白井はどうすんだよ」

「おれは、栄人のなら、いい。むしろ、嬉しい……栄人のものがおれの中に入るんだよ!」

 少し興奮した様子の白井に呆れ、外方を向く。しかし白井は栄人から離れない。むしろ密着してきた。覚えのある硬いものが太腿に触れる。

「何だよ、この前やっただろ?」

 正直頭痛が酷く、それどころではない。早く横になりたかった。

「あれより、もっと……」

 少し躊躇って、それから言葉を続ける。

「もっと凄いこと、したい」

「待てよ、あれ以上どうするっていうんだよ?」

「それは、おれに任せてくれれば、いいよ」

「嫌だよ」

 首を噛む以上のことだ、きっと痛い。嫌な予感がした。

「じゃあ、我慢する。その代わり足、折らせて」

 お願い、と言う。もうその手には乗るものか。

「絶対嫌だ!」

 強めの口調で断る。

「今日は、片方だけでも、いいよ」

 今日はという言葉が引っ掛かる。明日もう片方を折るつもりかもしれない。

「嫌だって言ってるだろ」

「栄人は、おれのこと、好きじゃないの? 嘘、ついたの?」

 うっすら涙を浮かべて、しかし責めることを忘れない目線で問う。

「それは、ちがッ……いたッ、やだ、足はよせッ!」

 また足が捻られる。本当に折れてしまう気がして、冷や汗が流れた。

「じゃあ、いい?」

「……分かったよ。……でも、噛むなよ」

「……分かった、噛まない」

 仕方なく了承したのに、白井は嬉しそうだ。軽々と栄人を膝の上に乗せると、唇を重ねた。肩に手を回すと、体勢が安定する。

「ん……ッふ」

 塞がれた唇から吐息が漏れる。舌を絡め取られ、満足に呼吸ができない。

「ふ……あッ」

 唇が離れても、余韻で気持ちが良い。夏の薄い寝巻きは、簡単に脱がされてしまう。

「しらい、……お前も、脱いで」

 どちらのものとも言えない唾液を乗せた唇で言う。頭が朦朧として、身体が熱い。

「うん、そうだね」

 そう言って、白井は袂から小さな瓶を取り出してから、上を脱いだ。どろりとした液体のように見える。

 それを指に付け、白井は栄人のそこに触れた。

 指が中に入った瞬間、痛みが走った。

「痛い、本当に、痛い。やめろ……」

「泣かないで」

 嗚咽混じりの栄人の訴えを無視して行為を続ける。目尻に浮かんだ涙を舐め取った。

「あと少し、我慢して」

「むり、だって……だって、モウ、いた、いし……」

 自分が何を言っているのか、筋道を立てて話すことができない。

 しばらくその行為に耐えていると、次第に初めの痛みはなくなっていった。それでも違和感は消えない。じっとしていると、指が抜けた。

「しらい?」

 熱に浮かされた、ぼんやりとした頭で、考える。なぜ行為を止めたのか……。

 ふと下を見て、すぐに視線を逸らした。戦慄した。指ですらあれだけ痛むのだ。……いや、想像したくない。とにかく嫌な予感しかしない。

「白井、怖いよ……だって……」

「大丈夫、ゆっくり、するから」

 腰を引き寄せられ、密着する。肩に乗せていた手を首に巻き付けた。

「しら、い。これ、こわいよ」

「おれに任せてくれれば、いいから」

 腰を掴んでそこに密着させる。ゆっくりと押される。押し拓かれる感覚。自分の体重で、次第に深くなってゆく。

「いた……、も、むり」

 白井のほうを見上げると、眉に皺を寄せ、息を荒くしていた。

栄人の視線に気付き、険しい顔に笑顔を浮かべて見せた。

「栄人。おれだけを好きって言って、おれだけを見て……」

 息が詰まる。言葉を発する余裕すらない。

「唇、噛まないで」

 言われてみると、口の中に血の味が広がっている。慌てて噛むのを止めた。

「息、吐いて……そう、ゆっくり」

 息を吐き、力が抜けると奥まで痛みと異物感が襲う。やっと動きが止まると、なんとか話せるようになり、口を開いた。

「しらい、好き、だよ」

 そう言うと、直後に首をべろりと舐められた。以前噛まれた場所。

「ひッ……」

 まだ痕はついているのだろうか。またあの痛みが蘇ってくるようで、身を固くする。

「大丈夫、噛まないよ」

 白井は栄人の考えが分かったのか、安心させるようにそう言うと、首筋を舐めた。

「ごめんね、この前、痛かった、よね」

 そして首から唇を離すと、ゆっくりと出し入れをしながら栄人を揺すった。白井のものを受け入れることに慣れたそこは、痛みをあまり拾わない。

「んッ……しらい、そこ、もっと」

 痛いだけではない感覚が芽生えてきて、自分からも動く。

「はッ……きも、ち……」

「えいと、おれも気持ち良いよ」

 好きだよ、と言って動きを速くする。

「ふッ……ああッ、んッ」

 栄人は速い動きでも快感を感じ始めた。白井は栄人の様子を伺いながら、同時に彼のものを扱き始める。

「しらい、僕、も……むり」

「いいよ、出して。おれも、そろそろ、限界」

 動きをさらに速くする。快感が達し、熱いものを感じながら栄人は果てた。

   ***

 盆になったので、白井と栄人は実家に帰っていた。田舎で、土地は広いので、貧乏な農家の栄人でも部屋を持っていた。白井を家に招いたときは、妹の千代と三人で話していたが、栄人が席を立ち、戻ってくると、千代は部屋にはいなくなっていた。

「千代は、どうした?」

 部屋に残っていた白井に訊ねる。

「ああ、宿題をするって、言ってたよ」

「そっか」

 座布団に座り、これまでのことを思い出す。

 結局アルバイトは辞めさせられ、迷惑をかけてしまった。落ち込んでため息をつく。

「どうしたの?」

「いや、バイト先に迷惑かけちゃったなあ、と思ってさ」

「そう……なんで、さっきから他の奴の話ばかりなの? やっと千代ちゃんも、いなくなったのに!」

 突然声を荒げる白井に、吃驚する。

「栄人、栄人、他の奴とおれと、どっちが大事?」

 ゆっくりと距離を詰めてくる。後ろに下がるが、さらに次第にこちらに近寄ってくる。

「他の奴なんて、いらないよね」

 壁際まで後退すると、もう下がれない。

「千代に何か言われたのか?」

「……なんでもないよ。栄人は、気にしないで」

 笑顔を見せるが、目が笑っていない。何を言われたのか分からないが、おそらく栄人がいない間に、千代をここから追い出したのだろう。

「気になるだろ、言えよ」

「……苛々した。『お兄ちゃんを取らないで』って、でも、栄人の妹だから、我慢した」

「子供の言うことなんだから真に受けるなよ」

 呆れて言う。しかし白井の目は真剣だった。

「分かった。明日は、おれの家に、来て」

 そう言って栄人を抱き締めた。

   ***


「白井――あ、いえ。幸三、さんは?」

「ああ、あいつ? 今は出掛けてるよ」

 白井の家に行くと、彼の兄の勇二が栄人を出迎えた。仙台の大学生で、やはり帰省中だという。

「そう、ですか。じゃあ、また来ます」

 頭を下げて踵を返す。

「いいっていいって、上がっていきなよ」

「えっと、でも……」

 あまり勇二とは親しくない。昔から、社交的な彼は苦手なタイプの人間だった。

「昔の写真とか、見てればいいよ」

「いえ、でも……」

「いいから、ほら」

 躊躇っていると、家の中へと連れられた。

 改めて見ると凄く立派な屋敷だ。以前は広くてよく迷ったことを思い出す。

「俺の部屋、行こう」

 手を引いて、奥の部屋まで案内される。部屋は普通の六畳間で、栄人の部屋と大差ない。あまり物が置かれていない、殺風景な部屋だ。

「あの、写真は……?」

 座るように促された座布団の上で、おずおずと切り出す。

「うん、あとでね」

 莞爾と笑って、栄人の手首を掴む。

「えっと……勇二、さん?」

 なんだか普通ではない状況だ。振りほどけない強さだが、痛みはない。勇二を見上げると、まだ笑っていた。

「もう幸三とやったの? 付き合ってるんでしょ?」

 笑顔のまま訊ねる。段々と顔も此方に近付いてきて、恐い。

「は……やった? なにを……?」

「嫌だなあ、分かるでしょ?」

「やめて、ください」

 腕を動かすが、離れない。

「一回くらいいいでしょ? 俺、他人のものだと欲しくなっちゃうんだよね」

 言っている意味が分かって青冷める。危険を察知して身体が震えた。

「やだッ、離せ! いい加減に――」

 瞬間、息が詰まった。頭を床に打ち付けて痛い。手首は解放されたが、その代わりに両手が首を絞めていた。

「静かにしないと、うっかり殺しちゃうかも」

 苦しい、苦しい。頭がぼんやりして、視界が霞んだ。声を出そうにも、それができない。

 襖が開く音がした気がした。

「栄人!」

 その声と共に、息ができるようになる。咳が中々止まらない。

「あーあ、モウ帰って来ちゃったかあ」

「兄貴、栄人は肺が悪いんだよ」

 咳込む栄人を尻目に、白井と勇二は火花を散らす。

「ふうん、それは悪かったね」

 悪びれずに笑顔のまま勇二は答えた。

「栄人、行こう」

 やっと呼吸が安定したところを白井に立たされ、部屋を出る。さらに廊下を進んだ、白井の部屋へと招かれた。

「なんで兄貴に付いて行ったの?」

「ごめん」

 項垂れるしかない。言い訳のしようもなかった。

「まあどうせ、兄貴が無理矢理連れ込んだんだろうけど……でも、駄目だよ」

「……はい」

「栄人、怖かった、よね」

 近付き、抱き寄せる。その温かさに泣きそうになるが、みっともないので堪える。

「兄貴に、何かされた?」

 優しい口調で訊ねるが、抑揚はなく、冷たい。

「え、いや……なんか、言われた。他人のものだと、欲しくなるって」

「そう、しばらく、兄貴には近寄らないで。おれが、すぐに始末したいけど、あいつは手強いから」

 栄人の髪を撫でて、優しく話し掛ける。

「おれも、栄人の首、絞めたかった。でも我慢してたんだよ、栄人は、肺が悪いから」

 そう言いながら、首に手を触れる。

「……おれにも、やらせて」

 小声で、しかし有無を言わせない強さで言う。

「嫌だよ。死ぬかと思ったし……」

「栄人が死んだら、おれも死ぬよ。だから、大丈夫」

 何が大丈夫なのか分からない。とにかくまた苦しい思いをするのは嫌だった。

「嫌だってば……」

「どうしても?」

「苦しいんだよ、頼むよ」

「栄人……お願い」

 涙を見せ、懇願するようにすがり付く。

「泣くなよ……ちょっとだけ、だぞ」

「分かった」

 涙は既に引っ込み、嬉々として栄人の首に手を掛ける。

「……ッう」

 先ほどとは異なり、頸動脈を絞められ、だんだんと脳に酸素がいかなくなる感覚。

 次第に苦しいだけではなく、くらりとした浮遊感を得た。

 白井は瞳を覗き込んで、満足気な顔をする。

「そう、そうやって、おれだけを映して」

 荒い息が顔に掛かる。

 意識が遠のきかけ、限界が近い。ちょっとだけと言ったのに、どれだけ絞めれば気が済むのだろうか。

「栄人、好きだよ」

 白井はそう囁くと、やっと首から手を離した。愛おしそうに名前を呼んで、頬を撫でる。

 ひゅッと喉から音がして、空気が入ってくる。しばらく咳き込みながら、大きく息を吸った。

「明日、東京に帰ろう?」

「え、なんで……」

 突然のことに、驚きを隠せない。

「兄貴の近くに居ると、危険だし……千代ちゃんだって……」

 言い辛そうに言葉を濁す。

「とにかく、席も取ったし、一緒に帰ろう」

「いや、でもさ……」

 返事を渋っていると、白井は強く栄人を掴んだ。

「おれのこと、好きだよね? 他の奴等より、大事だよね?」

「そりゃ、そうだけどさ」

「じゃあ、いいでしょ?」

 凄い形相で、東京行きを迫る。

「ま、まあ」

 やむなく了承すると、パッと手を離す。

「栄人、好きだよ」

 囁いて、ふわりと笑う。

「僕も、好き」

 二人は見つめ合って、唇を重ねた。
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