東北中學物語

つなかん

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東北中學物語

東北中學物語(5)

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 離れの庭に、野良猫が迷い込んできた。散ってゆく桜の花弁を横目に我が物顔で歩いては、縁側に座る捨人の隣で丸くなる。

 風は冷たいのに、額からは汗が吹き出た。眼鏡を外すと視界が霞み、花びらを追いかけることすらできなくなる。素早く手元の手巾で額を拭い、再び眼鏡をかけた。午睡に興ずる猫に羨望の眼差しを送る。春風が桜を運び、嚔をもたらした。身体が大きく揺れ、膝に置いた画用紙が吹き飛んでゆく。

 捨人は鼻を啜り、小さく身震いをした。風邪という正当な理由で学校を休んでいるのに、どこか居心地が悪い。画用紙に視線を落とすと、すぐ脇に置いた調色板に衝突したようで、水彩の桜は赤く汚れていた。

 絵描く趣味は褒められるものではなく、昔からひっそりと行ってきた。絵の具を買い与えられた当時は嬉しくて、何枚も絵を描いたことを思い出す。

 朱染めの桜を描き散らした画用紙の中に置き、次は猫の絵でも描こうか、と仕方なく新しいそれを取りだした。筆を鉛筆に持ち変えて、紙に走らせる。

 散漫な意識の中、昨日のことを思い出す。あれは、無言の肯定と受け取るべきなのだろうか。存在こそ知っていたものの、自分には関係のないことだと思っていた。一旦意識してしまうと、頭から離れなくなる。

「何事も経験、か」

 宮地の言葉が思い出された。彼の言うことはあながち間違っていないのかもしれない。数ヶ月の差であれ、蔵六も歳上であるので、恋愛対象になっても可笑しくない。堀の深い顔立ちは整っていたし、腕力は強いが見た目は小柄で可愛らしい。

「いや、違う違うッ!」

 頭に浮かんだあらぬ想像を咄嗟に打ち消す。狼狽で手元が狂い、猫の円形がぐにゃりと歪んだ。傍らで眠っていた猫も、捨人の大声で目覚めたのか、じろりと鋭く此方を睨み、のんびりと庭から出ていった。

 一人になった縁側で桜を眺める。はっきりしない自分自身に苛立ちが募った。どうしたら良いのか、どうしたいのか分からない。悪い気がしないのは事実なので、恋仲に発展しても良いかもしれない。

 そこまで考えて、既視感を覚えた。

「あア、そうだ」

 似たようなことが前にもあったじゃないか、と以前の女中血代子が頭をよぎった。

 どうやら自分は、人から好意を寄せられることに、めっぽう弱いらしい。

 昼の陽射しが夕焼けの橙を帯びる。殆ど人の近寄らない離れは物音一つせず、静かに風がさらさらと吹く。温かい陽射しが眠気をもたらすので、持っていた鉛筆で手の甲を突き刺した。

「……あのう、」

 突然の呼びかけにぎょっとした。丸めていた背筋をピンと伸ばし、声のしたほうを見る。全身に緊張が走り、まどろみ、不明瞭だった頭が冴えてゆく。

「久美君?」

 彼の姿に驚愕し、怪訝な表情を浮かべる。自分を恐れ、離れにも滅多にやってこない久美が何故此処に居るのか皆目検討が付かない。小学校はもう終わる時間なのだろうか。

「何か?」

 庭の隅に立っている彼とは距離があり、表情は見えなかった。手招きをすると近寄って、捨人からかなり離れた位置の縁側に腰掛けた。緊張からか、洋袴を強く握っている。

「……おれのこと、嫌いなんですか?」

 画用紙に鉛筆を走らせながら、横目で久美を盗み見る。俯いた姿勢の彼の真意を推し量ることはできない。

「好きではないですね」

 目線を目の前の桜に移して答える。無闇矢鱈に廊下を走り回るような人間を好きになる筈がない。彼に対する嫉妬心も、好きになれない要因だろう。

「こ、この前は、おれも悪かった……です。だから――」

 動揺の口調で言葉に詰まる。チラリと再び横を見るが、彼は相変わらず俯いた儘だ。身体が小刻みに震えているのが分かり、気の毒なことをしてしまったかもしれない、と反省した。

「……久美君」ここは歩み寄らなくてはならない。捨人は意を決して言葉を続けた。「もっと近くに来て」

 驚いた様子で久美は此方を見る。ゆっくりと立ち上がり、捨人のほうへ歩を進める。ばらばらに散る画用紙を避け、浅く縁側に座った。

 距離が近づいたおかげで、久美の表情がよく見える。肌は日に焼けた所為か浅黒く、上目遣いの切れ長はうろうろと動いている。

 やはり年下相手では欲情しない。そもそも、小学生相手にそういう気分になったらそれこそ異常だ。いや、年上だろうと男相手にそのようなことを考えているのも十分問題と言える。

 黙っている捨人に、久美は首を傾げ、戸惑いの瞬きを繰り返した。

「……兄さん?」

 声をかけられ我に返る。兄さん、と呼ばれるのはとても久しぶりであるような気がした。慌ててそれまでの会話を思い出す。

 あアそうだ。仲直り、仲直りだ。

 動揺からか、なぜか身体が熱い。背中を水滴が伝い、気分が悪くなった。涼しい筈の和装をしているというのに、どうしてこんなに気分が悪いのだろう。

 久美が心配そうに顔を覗きこむ。捨人は慌てて言葉を紡いだ。

「僕も、この前は言い過ぎました。……反省してます」

 そう言うと、久美は少しだけ表情を柔らかくした。これでなんとか関係を修復できそうだ。

「あと、これ差し上げます」散乱した画用紙の中から出来の良い水彩画を渡す。「そのう、お詫びというか、そういう……」赤い躑躅の描かれたそれを押し付ける。

 謝罪というのはどうも苦手だ。相手が小学生というのも一役買っているのかもしれぬが、やはり人間関係というものは難しい。

「あ、ありがとう、……ございます」

 ぎこちないが、笑顔を見せた。照れ臭く、落ち着かない気分になる。鉛筆を強く握り、画用紙に目を落とし、背筋を丸くした。

 久美は素早く立ち上がると、無言の捨人に御辞儀をした。庭を横断し、母屋を目指す。

 しかしその歩行は長く続かず、道程を遮る人物を目に留め、数十歩進んだ位置で立ち止まった。

「仲直り、したんだ」

 聞き覚えのある声に捨人は顔を上げる。記憶にあるよりも幾分低いが、彼女のものに間違いない。同時に、久美をここに差し向けたのも彼女だろう、と一人納得した。

「姉さん……!?」

 驚いて立ち上がる。散乱した画用紙を片付けようと、後ろを向いた拍子に蹌踉いた。左足に体重がかかり、そのまま地面に崩れ落ちる。

「ちょっと、大丈夫?」

 姉の葉子が駆け寄ってきたのが分かった。喉に痰が絡まり、大きな咳をする。呼吸が苦しく、目眩がした。

「お気……なさ、……らず」

 咳の合間に返事をしながらなんとか縁側に腰掛ける。隣には葉子が座り、久美は心配そうに前方に立っていた。

 呼吸が楽になってくると、落ち着きが戻る。顔を除き込む葉子に、風邪を感染してはいけないと思い、外方を向いた。

「ひどいようなら少し眠ったら?」

 葉子は画用紙を纏めながら言う。赤色を溢した桜の絵を、まじまじと眺め、「これはこれで趣があるわね」と呟いている。

 久しぶりに見る姉は、どこがどうという訳ではないが、変わってしまった。二つしか変わらないのに、大人になってゆく姉が哀しかった。しかし、相変わらずの優しさに、涙腺が緩む。

「いえ、そういう訳には――」

 そういう訳にはいかなかった。熱に浮かされた状態で眠るのは恐怖に等しい。

「え、なんで?」

「それは……」

 葉子と久美は、不思議そうに捨人を見る。決まりの悪さに、捨人は目を伏せた。

 昨日の晩も、微睡むばかりで碌に眠っていない所為か、満足に頭が回らず上手い言い訳が思いつかない。涙が溢れそうになるのを、久美の手前だからと自分に言い聞かせ、必死に歯を食い縛った。

「捨人君?」

 名前を呼ばれ、郷愁を感ずる。左手に葉子の掌が重なった感触に動揺し、ぽろりと言葉が零れた。

「……怖いんです」

 自分がとんでもなく弱くなった気がした。堪えていた涙が流れ、視界が歪む。

「前みたいに、ならない? 目が覚めたら歩けなくなったりしない?」

 鼻水まで垂れ、最早恥も外聞も無い。久美の前だということも忘れ、眼鏡を外し感傷に浸る。

「大丈夫よ」ほのかに良い匂いが香った。ふわふわと浮遊した気分に包まれる。「大丈夫。」

 抱擁は温かい。断定の口調が安心をもたらした。
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