東北中學物語

つなかん

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東北中學物語

東北中學物語(2)

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「どうしたんですか! びしょ濡れですよ!」

 一時間ほどの距離を、二時間近くかけて歩いた。四月から佐倉家にやって来た女中の冥子が、お玉杓子を片手に玄関で狼狽える。

「知ってます」

 眼鏡の水滴を拭いて、掛けなおす。冥子は大きく足音を立てて奥の廊下へ消えてゆき、玄関には捨人だけが残された。

 髪から流れる雨水が気持ち悪い。下を向くと、革袋が鮮明になった視界に入ってきた。今年の春、父親が義弟に買い与えたもので、十円近くするという代物だ。最近は、仕事にかまけてろくに帰って来ないが、以前は養子である彼を可愛がっていたことを思い出す。

 捨人にとって、この義弟の存在は億劫だった。身体が弱く、いつ居なくなるか分からない自分の代わりなのだと考えると、とんでもない寂寥に襲われる。

「あの、これどうぞ!」

 戻ってきた冥子はまだ幼さの残る頬を高揚させ、手拭いを差し出す。肩で息をして、時折咳き込む。頭に着けた三角巾がしおれていた。

 そんなに急がなくても良いのに、と思いながら差し出された手拭いを受け取ろうと手を伸ばす。指先が触れそうになり、彼女は途端に手を引っ込めた。洗いたての白色が、はらはらと床に散る。

「すいません、すぐ新しいのを持って来ます」

「いいですよ、これで」

 拾い上げたそれで髪や制服の水滴を拭く。

「迎えに行ったらよかったですよね、すいません」

 皺くちゃの割烹着を、さらに皺を増やすように掌で握る。下を向いていて顔が見えないというのに、彼女がひどく緊張していることが分かった。

「いえ、冥子さんも忙しいんだから、気にしないで」

 できるだけ落ち着いた様子で答えたが、内心は穏やかでなかった。

 以前の女中、血代子なら絶対に来ただろう。傘を忘れなくとも、なにかと捨人の世話を焼き、ちやほやと構っていた。懇ろの仲になるまでに、さして時間はかからなかったが、田舎町の悲しき性故に、近所中に知れ渡る速度は、それ以上に早かった。ひどく父に叱られ、勘当されかかったことを思い出す。部屋まで離れの物置に帰る徹底ぶりにはため息をつくことすらできない。

 冥子には何の恨みもないが、鈍くさく、腫れ物に触るような態度で自分に接する彼女の様子には些か苛立ちを感じていた。

「……あの」

 立ち去ろうとする後ろ姿に声をかける。

「はい! なんでしょう?」

 くるりと身体を反転させる様子も、どこかぎこちない。

「そんなにぴりぴりしなくても……僕、年下には興味ないので大丈夫ですよ」

 失言だったかもしれない、とすぐに悟った。しかし彼女を安心させ、自分に接するときの緊張状態を改善させるには仕方がない言葉だ。

 冥子の頬はみるみる朱が差し、怒りの表情できつく捨人を睨み付けた。

「ゆ、夕飯。もうすぐできます」

 踵を返し、廊下を走り去る冥子に困惑する。髪から冷たい水が垂れ、小さく嚔をした。

 離れにある自室までの距離は遠い。滅多に人が入ってこないのは良いが、こうも急いでいるときは、煩わしく感じてしまう。濡れた服の所為で気分が悪く、一刻も早く着替えたかった。無意識に、歩く速度は上がるが、それでもなかなか進まない。

 冷たい風が前方から吹くと、渡り廊下が近い。寒さに耐え、歩を進める。

「わあッ!」

 一瞬の衝撃に蹌踉めく。鞄から手が離れ、若干の水分を含んだ教科書が床に散乱した。尻餅をつき、自身が衝突したであろうものを見上げる。

「廊下は走るなって、学校で教わらなかったんですか?」

「ご、ごめんなさい」

 慌てて頭を下げるのは、捨人の忌避する相手だった。数年前に養子としてやってきた久美は、明るく元気な性格で、よく廊下を走り回る。父や母だけでなく、今は結婚して出て行った姉の葉子にまで可愛がられていたほどで、ここ最近、捨人の憂鬱の原因でもあった。

 なぜこんなときに会わなければならないのだろう、と思った。冥子との会話で苛々していたこともあり、嫌味の一つでも言ってやろうという気分であった。

 薄暗い廊下に散らばる教科書やら、参考書やらを拾う。鞄は、濡れないよう懐に仕舞って歩いたおかげで、被害は最小限に留まったようだ。殆ど問題のない様子にホッと息をつく。

「あの、ほんとうに……すいません。おれ、つい――」

 “英単一千語”を手渡す彼の掌は、微かに震えていた。

 捨人は、随分嫌われたものだなア、と苦笑しながらそれを受け取る。

「子供のうちは、外で走ったりして遊ぶのが良いとルソオも言っていましたし、健康的ですよ」一拍置き、あくまで穏やかなまま、言葉を続ける。「いいご身分、ですよね」無理矢理に、嫉妬を秘めた笑みを浮かべて見せた。

 対する久美は、歯を食い縛り、苦々しい表情で、拳を白くなるほどに握っていた。

「……すいませんでした」

 久美は挑発するように上目遣いで捨人を睨む。肩を竦めて返すと、歯軋りをして脇下を通り抜けていった。

 彼が視界から消えると、頭が冷え、反省の念が芽生えた。言い過ぎたかもしれない。素直に謝っていたのだから、こちらも謙虚に返せばよかった。これでは嫌われるばかりだ。これ以上家族と軋轢を生むのは避けたい。小学生相手に、何を向き(ムキ)になっているんだろう。

「あア、」鞄の中身を全て確認して絶望する。「やっぱり財布、ない」

 空虚な気分であった。白いため息が見え、春の始まりを実感する。渡り廊下の風が、一段と冷たく、横をすり抜けていった。
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