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第1話
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ヴァールハイト国グレン暦八二〇年九月一日 早朝
その日、キルクトーヤは夜明け前に悪夢で目を覚ました。心臓がやかましく脈打っている。キルクトーヤは目を見開いて、自分が悪夢の外に逃れたことを知って息を吐いた。
――また、同じ夢だ。
しばしそのまま天井を見上げて動悸が収まるのを待つ。見慣れた天井のシミが悪夢で見た男の顔になって口角をあげた気がした。キルクトーヤはぎゅっと目を瞑った。暦の上ではまだ秋になったばかりだというのに、彼の指先は凍えているように冷たい。
眠れないまま半刻もすると起きなくてはならない時間になってしまう。重い体を起こして身支度を整える。鏡を覗き込むと、茶色い髪に茶色い目の平凡な十八歳の青年が、落ちくぼんだ目で力なくこちらを見返して来た。青年は両頬を叩いて気合を入れた。
キルクトーヤは魔術師見習いである。魔術師養成のシュタイナー学校の寮に住んでいる。彼は見習いであるが、学校のさまざまな仕事を手伝うことで少しばかりの給金を得ていた。朝は厨で料理人の手伝いをしている。もう起きて行かねばならない。
キルクトーヤはゆっくりと部屋から出た。廊下にはいくつものドアが並んでいるが、いまはどの部屋からも物音ひとつ聞こえない。キルクトーヤは足音をひそめて日の出前の薄暗い廊下を進んだ。
厨ではもう料理人たちが朝食の仕込みをはじめていた。食べ盛りの見習いたちの食事を賄うために、いつも厨は大忙しだ。キルクトーヤは料理人のひとりに声をかけた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。そっちの皿を洗ってくれ」
そう言いながら、キルクトーヤと親しくしている中年の料理人――ポムスがふりかえる。彼は灰色の髪をきっちりとひとつにまとめ、後れ毛一つない。その髪型は細かいところにまで気がまわる彼の性格をよく現わしているといえる。そんな彼はキルクトーヤを見てすぐに顔をしかめた。
「今日もひどいな。大丈夫なのか」
一瞬、何を言われたのかわからず、キルクトーヤは手を止めた。数拍置いて、彼が自分の顔色のことを言っているのだと気が付いた。鏡に映った自分の落ちくぼんだ目を思い出す。キルクトーヤは慌てて袖口で顔をごしごしと擦った。
「少し休んだらどうだ」
ポムスの言葉に、キルクトーヤは首を横に振った。
キルクトーヤは十四歳のときに馬車の事故で両親を亡くして孤児になり、養父に引き取られた。養父は表向きこそキルクトーヤを息子と呼んでかわいがったが、家の中では彼を奴隷のように扱った。
キルクトーヤはそんな養父のもとを飛び出してここに来た。誰の支援もない。彼は学費と生活費を稼がなくてはならなかった。月に二万ガラン。これが、キルクトーヤが魔術師の修行の傍ら稼がなくてはならない額だった。
ポムスは黒い目に怒りをにじませながら続ける。
「まったく、嫌なご時世だよ」そう言ってため息をつく。
「魔術師はヴァールハイト国の宝だっていうのに、その見習いから学費をとろうなんてさ」
「仕方ないですよ。それに、魔術師として一人前になれば学費は返還されますから……」
ポムスは包丁を手に取ると、器用にじゃがいもの皮を剥きながら尋ねた。
「一人前、か。はやく精霊の試練を突破できればいいな。試練はいつ頃になりそうなんだ?」
「先生がおっしゃるには、あと六か月くらいです」
「もうすぐだな」
「……はい」
答えながら、汚れた皿を一枚手に取り、水桶に入れる。水は痛いほどに冷たい。
その日、キルクトーヤは夜明け前に悪夢で目を覚ました。心臓がやかましく脈打っている。キルクトーヤは目を見開いて、自分が悪夢の外に逃れたことを知って息を吐いた。
――また、同じ夢だ。
しばしそのまま天井を見上げて動悸が収まるのを待つ。見慣れた天井のシミが悪夢で見た男の顔になって口角をあげた気がした。キルクトーヤはぎゅっと目を瞑った。暦の上ではまだ秋になったばかりだというのに、彼の指先は凍えているように冷たい。
眠れないまま半刻もすると起きなくてはならない時間になってしまう。重い体を起こして身支度を整える。鏡を覗き込むと、茶色い髪に茶色い目の平凡な十八歳の青年が、落ちくぼんだ目で力なくこちらを見返して来た。青年は両頬を叩いて気合を入れた。
キルクトーヤは魔術師見習いである。魔術師養成のシュタイナー学校の寮に住んでいる。彼は見習いであるが、学校のさまざまな仕事を手伝うことで少しばかりの給金を得ていた。朝は厨で料理人の手伝いをしている。もう起きて行かねばならない。
キルクトーヤはゆっくりと部屋から出た。廊下にはいくつものドアが並んでいるが、いまはどの部屋からも物音ひとつ聞こえない。キルクトーヤは足音をひそめて日の出前の薄暗い廊下を進んだ。
厨ではもう料理人たちが朝食の仕込みをはじめていた。食べ盛りの見習いたちの食事を賄うために、いつも厨は大忙しだ。キルクトーヤは料理人のひとりに声をかけた。
「おはようございます」
「ああ、おはよう。そっちの皿を洗ってくれ」
そう言いながら、キルクトーヤと親しくしている中年の料理人――ポムスがふりかえる。彼は灰色の髪をきっちりとひとつにまとめ、後れ毛一つない。その髪型は細かいところにまで気がまわる彼の性格をよく現わしているといえる。そんな彼はキルクトーヤを見てすぐに顔をしかめた。
「今日もひどいな。大丈夫なのか」
一瞬、何を言われたのかわからず、キルクトーヤは手を止めた。数拍置いて、彼が自分の顔色のことを言っているのだと気が付いた。鏡に映った自分の落ちくぼんだ目を思い出す。キルクトーヤは慌てて袖口で顔をごしごしと擦った。
「少し休んだらどうだ」
ポムスの言葉に、キルクトーヤは首を横に振った。
キルクトーヤは十四歳のときに馬車の事故で両親を亡くして孤児になり、養父に引き取られた。養父は表向きこそキルクトーヤを息子と呼んでかわいがったが、家の中では彼を奴隷のように扱った。
キルクトーヤはそんな養父のもとを飛び出してここに来た。誰の支援もない。彼は学費と生活費を稼がなくてはならなかった。月に二万ガラン。これが、キルクトーヤが魔術師の修行の傍ら稼がなくてはならない額だった。
ポムスは黒い目に怒りをにじませながら続ける。
「まったく、嫌なご時世だよ」そう言ってため息をつく。
「魔術師はヴァールハイト国の宝だっていうのに、その見習いから学費をとろうなんてさ」
「仕方ないですよ。それに、魔術師として一人前になれば学費は返還されますから……」
ポムスは包丁を手に取ると、器用にじゃがいもの皮を剥きながら尋ねた。
「一人前、か。はやく精霊の試練を突破できればいいな。試練はいつ頃になりそうなんだ?」
「先生がおっしゃるには、あと六か月くらいです」
「もうすぐだな」
「……はい」
答えながら、汚れた皿を一枚手に取り、水桶に入れる。水は痛いほどに冷たい。
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