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第26話 決別と帰還

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「ご飯よ」 

  なつかしい声に呼ばれる。 
 目をあけると、見覚えのある天井が見えた。 
 そして鼻をくすぐるのは、味噌汁の匂いだ。 
 目をこすりながら起き上がる。 枕元で充電していたスマホで時刻を確認すると、もう8時をすぎていた。
 俺は慌てて階段を駆け下りる。

「大学、間に合うかしら? 今日、馬のお世話当番の日でしょう?」 

 階下では母が朝食を食べているところだった。 
 彼女はてきぱきと俺の湯呑みに緑茶を注いでくれる。 
 
「駅まで送っていってやろうか」 

 台所から父の声もする。香ばしい香りが漂っている。食後のコーヒーを淹れているようだった。 

 そこまで見渡して、俺はようやく違和感を覚えた。
 ここは、俺の日本の家である。

「あ……」 

 俺は固まる。 
 目の前に出された白米、味噌汁、紅鮭、納豆。 
 俺の胸に懐かしさがあふれる。
 この風景、この匂い、この声。
 忘れたことなんて一度もなかった。
 俺の目から、涙がこぼれた。  

「ええ? ど、どうしたの?」 

 急に泣き出した俺を見て、母が驚く。 
 父も台所から顔を出して、こちらを窺う。 

 「うん、うん。なんでもないよ……ごめん、ごめんなさい」 

 俺は顔を袖でぬぐいながら、何度も両親に謝罪をした。 
 自分の身に起きたことをなにひとつ言葉にできなくて、頭の中がぐちゃぐちゃだった。

 俺の家は北海道の大農園だった。
 にんじん、じゃがいも、にんにくを主力に、その他細々とながら乳牛も育てていた。
 ダイニングの窓の外にはじゃがいも畑が広がっている。
 じゃがいもは白い可憐な花を咲かせていた。
 それを見て、夏真っ盛りであることを知った。

 大学の夏休み。俺が死んだのもこんな日だった。

 夢だったのだろうか。 
 俺が貴族の息子として転生したことも、皇位継承争いに巻き込まれたことも。 
 自分の手を見る。それは農学部の大学生の手だった。 
 出奔して苦労して、畑に一日中出ずっぱりで、いつの間にか農民の手になったあの手ではない。

「ほら、さっさと食べちゃいなさい」

 母の言葉に頷く。
 俺は箸をとる。久しぶりの箸は何だか慣れなかった。
 紅鮭に箸をいれると、身がほろりと崩れた。
 口に入れると塩味と油が広がる。
 俺は感動した。

「おいしい……」
「なあに、寝ぼけてるのかしら?」

 母が笑う。
 ああ、母はこう笑う人だった。
 こんなに多くのことを忘れていたのかと思った。

 お茶碗を持って、湯気をただよわせる白米を見つめる。
 唾液がじわりと出た。
 口に含もうとしてしかし、急に罪悪感が生まれた。

「あ……」
「どうしたの?」
「どうした? 遅刻するぞ?」

 白米。稲からとれる、穀物だ。

「穀物……」

 ずっと五穀を絶って頑張ってきた日々を思い出す。
 国のため、村のため、ハンローレンのため。

「食べていいんだろうか……」

 俺はひとり、誰にというわけでもないが、尋ねる。
 食べていいのか。
 
 体は石像のように動かなくなった。
 食べたら、もう戻れない気がした。
 やさしくて、あたたかい、あのスミレ色の瞳にも、もう会えない気がした。

 スミレ色の瞳を想ったとき、ふとその瞳が赤く染まった。
 俺は弾かれたように立ち上がった。
 脳内に、映画の早回しのように次々と映像が流れる。
 第一皇子、レニュ、塩素ガス、そして俺を救うために地下室に突入してきたハンローレン。

「俺は……食べない……」

 ハンローレン。お前は無事か。
 猛毒ガスの中、助けに来てくれた腕を思い出す。
 あのガスの中で目をあけて俺の元まで来てくれた。
 戻らなくては。

 俺は両親に目を向けた。
 その姿を目に焼き付けなければならないと思った。
 彼らに尋ねる。

「もし、俺がどこか遠くで生きることになっても、応援してくれる?」 
「やりたいことでもできたの?」 
「うん」 
「なら、応援するに決まってるじゃない」 

  これは都合のいい幻なのかもしれない。 
 しかし、幻であったとしても、両親に会えたことが嬉しかった。 
 別れを告げられなかったことが、心残りだったのだ。

「子どもの頃、畑を手伝わせてくれてありがとう。俺の好きなことを勉強させてくれてありがとう」 
 
 両親は静かに笑っている。 
 俺はゆっくりと二人を抱きしめた。 

「俺はキフェンダルとして生きるよ」 

  そう言った瞬間、2人の姿は消えた。そして家も、畑も、日本ののどかな風景も全て消え去った。 
 俺の周りには暗闇だけが残る。 

 ただただ、いまはハンローレンに会いたかった。

「ハンローレン」 

  俺が呼ぶと、返事がある。
 彼の、やさしい声が聞こえる。
 声の方へ走る。 

「すぐに戻るよ」 

 

 

 目を覚ますと同時に、痛みがあった。

「ばっ、がぁ、あっ……」 

 痛みに呻くと、ひどい声が出た。 
 俺は喉を押さえて背を丸めた。

「声を出さないでください。医者によると、喉の奥が焼けていると」 

 声のする方を見上げる。
 そこにはハンローレンが立っていた。
 俺は息を吐く。ひゅうっと胸が鳴った。

 ――戻ってきた。

「お、ま、が、がぁ……」

 言葉にならない声を出す。
 ハンローレンはすぐに紙とペンを差し出した。

 俺はそこに「お前は無事か」と書き込んだ。

「私はなんとも」 

 そう答えつつも、ハンローレンのスミレ色の瞳は真っ赤に充血している。 
 得体のしれない緑のガスによくもまあ目を開けて突入できたものだと改めて感心する。
 さぞかし痛いだろうに、彼はそのそぶりも見せない。

 とはいえ、きっと床に転がっていた俺の方がガスを多く吸い込んで重症なのだろう。
 俺は胸をなでおろしつつも、もうそれ以上何かものを言う体力がなかった。
 
 第二皇子のこと、レニュのこと、聖水のこと、それから塩素ガスのその後のこと。
 気になることは山ほどあるが、いまはもう何も考えられない。

 喉が焼けるように痛く、唾を飲みこむのも一苦労だ。
 また、目の奥もぐじぐじと痛み、耳鳴りもする。
 鼓動は早く、鼓動に合わせて頭痛がした。

 満身創痍。
 まさにその言葉がぴったりだ。

 ふと目をやると俺の髪色が白くなっている。まるで禊のあとのようだった。
 しかし、この喉ではもう祝詞を唱えることもできない。 


「……心配、しました」

 ハンローレンがそうぽつりと言った。
 目だけを動かして彼を見ると、彼はいまにも泣きそうな顔でこちらを見下ろしていた。

「三日も眠っていたのですよ。――あなたを失うと思いました」

 そう言って、彼は顔を伏せた。
 そのまま寝ている俺の胴体にしがみつくように突っ伏すと、それきり何も言わなかった。

 その肩が細く揺れている。
 泣いているらしい。
 俺は手を伸ばして、彼の髪に触れた。

 銀のそれはやわらかく、俺の指はその表面をすべり落ちていく。

 ――ごめん。

 そう思いを込めて、ぽんぽんと頭をなでる。
 好き放題にしても、彼は何も言わなかった。かみ殺した嗚咽がたまに漏れ聞こえるだけだった。

 俺はあの不思議な夢を思い返した。
 居心地のいい、やわらかい夢。
 ずっとその場にいたいと思った。
 そう願えば叶ったような気もした。
 でも、俺は戻ってきた。
 
 ――お前にもう一度会いたくて、戻ってきたんだ。
 
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