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第14話 消えた境界

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「和解できて、よかったですね」 

 夜、ハンローレンが俺の部屋を訪れてそう言った。 

「ああ」 

 俺はうなずく。 

「ハンローレンのおかげだよ」 

 続けて俺が言う。
 彼は首を振り、それから尋ねた。 

「部屋に入っても?」 
「いいよ。なんか食べるものとか、キリルさんに持ってきてもらうか?」 
「これでもまだ身分は神官ですから。夜は何も食べません」  

 俺に宛がわれた部屋はマスカード城の最奥の部屋にある。 
 皇都の城に比べて無骨な印象のあるマスカード城だが、内部は上品な貴族好みの内装になっていた。
 白い壁に布類は水色で統一されている。 
 家具は本棚と長椅子二脚とテーブルが一卓あるだけであるが、それらにも精緻な彫刻や金が象嵌してあり、ここが最高級の部屋であることを物語っていた。

 ハンローレンは長椅子の一脚に腰かけた。
 俺はそこでようやく彼の全身を上から下まで見た。 
 俺は首をかしげた。

「寝巻き?」 
「ええ」 
「初めて見た」 

 彼は薄い絹のガウンに、あたたかそうなマントを一枚着ているだけだった。 
 ハンローレンといえば、いつも神官の証である灰色の衣を首元まで締めている。 胸元の開いた服を見たのは初めてだった。 
 いつもは一部の隙もなく結い上げている髪も、いまはほどかれて彼の顔に陰を落としている。

 なんとなく、見てはいけないものを見てしまったような、背徳の感を覚えて俺は目をそらした。 

「そういえば、お互い忙しくて、ゆっくり話すのは久しぶりだな」

 沈黙を恐れて、俺がそう言うと、ハンローレンはくすりと笑った。

「あなたが逃げ回るせいですね」
「なっ! 逃げてない!」
「会いに行ってもすぐに話をきりあげるじゃないですか」

 痛いところをつかれて、俺は黙る。
 実のところ、この幼馴染の神官と婚約したという事実が照れ臭く、またどんな顔をして何の話をすればいいのかわからないのだ。

「お前はなんでそう平然としてるんだよ」

 俺が非難するように言うと、彼はまばたきをした。まるで想定外の返事が返ってきたと言わんばかりだ。

「あなたはどうして平然とできないのですか?」
「知らないよ」

 そうつっけんどんな返事をしてしまう。
 これではまるで俺が反抗期の子どもみたいだ。
 
「キフェンダル様は人を愛したことはありますか」
「人を愛したこと?」

 唐突にそう問われる。彼は神妙な面持ちで、じっとこちらを見つめる。

「ありますか?」

 もう一度問われて、俺は人生を振り返る。今世、そして前世……。脳内を駆けまわるのは畑、田んぼ、野菜、馬ばかりだ。俺は愕然とする。

「……ないかも」
「そうですか」

 俺の恋愛遍歴を聞いてなにが楽しいのか、彼はどこか嬉しそうだ。
 
「もしかして、いまから夜が明けるまで恋愛相談、とか修学旅行みたいなことしないよな?」
「なんですかそれ。……まあ、一部はあっていそうですが」
「え?」
「私、ここで寝ようと思っているんですよ」
「え?」

 ここ、というのが長椅子のことかと思いきや、彼はおもむろに立ち上がると寝室へ続く部屋のドアに手を伸ばした。

「ええ!? ちょ、ちょっと待てよ」
「なにか問題でも?」
「いや、問題というか……なんで?」
「なんでも何も……我々は婚約者ですから」
「形式上はな?」

 そう言うと、ハンローレンは一度ぐっと黙った。しかしすぐに言い募る。

「しかし、我々の仲が悪いとなると兵士の士気にかかわります」

 それはもっともだ。俺たちの婚約でもって彼の皇位が保証されている。それはわかる。しかし。

「貴族って結婚するまで、ほら、純潔を守るとかうんぬんかんぬんあるじゃないか」
「おや、そんなことを気になさるんですね。では、結婚式を挙げるまで何もしません」
「え」

 結婚式をするまで何もしない――それは言い換えれば、結婚式がすめば何かをするということだ。
 ハンローレンは俺のことをどう思ってるんだ?

「ハンローレン、あのさ」
 俺が何か言うよりも先に、彼はさっさと寝室に入ってしまった。
 そして迷いなく外套を脱ぎ捨てると、そのまま薄いガウン一枚で俺のベッドに横になった。

「さあ、寝る前の祝詞をどうぞ」

 彼のスミレ色の瞳はいたって真面目だ。
 こうなった彼はてこでも動かないことを俺は知っている。
 俺は諦めて、床に膝をついて祝詞が記されている聖書を開いた。


 キリルたち侍従は、俺が祝詞の準備を始めると膝の下に敷くクッションを用意してくれた。
 いつもの彼らは俺が唱え終わるまで側に控えているが、今夜、彼らはそうそうに引き上げてしまった。

 部屋には俺とハンローレンだけが取り残される。
 俺は祝詞を唱え始めた。
 
 祝詞はこの国の成立からはじまり、神の加護の永遠を願う言葉でしめられている一連の詩だ。
 俺はゆっくりと、聖書の行を指でなぞりながら、間違えないように唱える。


 途中、俺は目だけを動かして彼を見た。

 ハンローレンはベッドに横たわり、仰向きになって目を閉じ、俺のたどたどしい祝詞を聞いている。
 大神官の彼はこの祝詞を当然暗記しているらしく、俺の祝詞に合わせて時折唇だけが動く。

 その横顔は凛としていて、高い鼻筋の上をろうそくの光が滑り落ちる。
 光をたどると、露わになった鎖骨が見えて、俺は思わず目をそらす。

「よそ見しないで」

 声を掛けられて、俺は顔をあげる。
 ハンローレンを見る。
 彼は目をあけて俺に笑いかけていた。

「……っ」
「ちゃんと聖書を見てください。間違えますよ」
 
 声が上ずりそうになるのをこらえる。
 聖書を持つ手に力を込めて、脳内に浮かんだ勘違いをかき消す。


 なに考えてるんだ、俺。


 俺は自然と早口になって、それでもどうにか祝詞を唱え終えた。




 そのあと、ハンローレンと実に1時間にも及ぶ攻防戦、つまり本当にベッドでいっしょに寝るのかどうかという問題についての議論は、見かねたキリルたちの仲裁もあり、ベッドの真ん中に細長いクッションを挟んで寝る、ということで決着がついた。
 俺は絶対にクッションのこちらには来ないようにと言い含めた。
 ハンローレンは「はいはい」といつになく適当な返事を返した。

「ふりじゃないからな? ふりじゃないからな?」
「わかってますよ。絶対にクッションを乗り越えたりしませんから」


 彼はそう約束した。
 俺は彼のその約束を信じた。
 事実、その約束は守られた。
 ただ、翌朝、ハンローレンと俺の間のクッションは消えていて、それ以来復活することはなかっただけだ。
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