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第十一話 猜疑
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邸宅にもどったあと、ルーカスはずっと部屋に閉じこもっていた。考え事をするには静かな空間が必要なのだ。ルーカスは使用人たちを追い出して部屋でひとり膝を抱えた。
ルーカスにはカントット人として生きてきた十八年間があった。
それは貧しく、苦しい人生である。しかし、ルーカスのすべてである。バートンの息子としてダン帝国人になることは、それらすべてへの裏切り、ひいてはいまだ敗戦後の混乱の中で苦しんでいるすべてのカントット人たちから後ろ指をさされる行為であるとも感じている。
バートンは祖国を支配しに来た異邦人だ。これからカントット国はバートンによって滅ぼされてしまうかもしれないのだ。そんな男の庇護を受けるなど売国奴だ。赦されない。まして家族になるなど、ルーカスには考えられない。
ルーカスは祖国を裏切るような行為をするべきではない、いますぐ故郷にもどるべきだと思った。
夕刻になると、使用人のひとりがルーカスを呼びに来た。
夕食の時間だという。
ルーカスはのろのろと食堂に向かった。
夕食のメインはダン帝国の煮込み料理だった。料理人がルーカスのために腕によりをかけて昨夜から仕込んでいたものだそうだ。
やわらかそうな肉と根菜から湯気があがっている。鮮やかな色のサラダ、マッシュされたじゃがいも、焼きたてのパンとバターもついていた。栄養豊富なチョコレもついている。
ルーカスは広い食堂の真ん中に座ってそれを睨みつけた。夕食の席にバートンはおらず、食堂にいるのはルーカスと使用人たちだけであった。
ルーカスは食事に手が伸びなかった。空腹感はあるが、やはり食欲がなかった。このふたつはまったく別のものであることをルーカスは思い知った。彼は首を振り「食欲がないんです」と言った。
控えていたロイが言った。
「チョコレだけでもいかがですか」
「ううん。いらない。……僕、いつ家に帰れますか」
「……何かご不便がございましたか」
「僕、カントット人ですから。祖国を裏切って敵に養ってもらおうとは思えません」
ルーカスの苛烈といってもいい言葉に、使用人は言葉をしばし失った。
そして小さな声で言った。
「……バートン様におうかがいしてみます」
ルーカスの言葉はすぐにバートンに伝えられたらしかった。夜更け、バートンは軍服のままルーカスの寝室にやってきた。
ルーカスは使用人たちから靴磨きの道具を取り戻し、それを抱きかかえてベッドで毛布にくるまっていた。食事も風呂も拒否している。ロイはルーカスの傍にへばりついていた。
バートンは手を振ってロイを下がらせると、穏やかにルーカスに話しかけた。
「街で何かあったのかい?」
ルーカスは毛布にくるまったまま答えた。
「何も……」
バートンは言葉を選び直した。
「何を見たんだい?」
「……ダン帝国の旗をいっぱい……」
「それはそうだろう。ここはいまダン帝国の保護領なのだから。帝国の旗のもと、カントット国は保護される」
ルーカスはまた言った。
「……カントット人はみんな、苦しんでいました」
「いまだけさ」
バートンはルーカスのベッドの淵に腰かける。
きしり、とベッドが軋む音がルーカスの耳にも届いた。
バートンは静かに続けた。
「保護領とはいえ、カントット国にはまだカントット国の政府があるし、軍はいないが警察がいる。いまはさすがに戦後直後だからいろいろとよくないこともあるが、そのうちきっとよくなる」
ルーカスは黙ったままだった。バートンは毛布の中のルーカスの手の上にその大きな手を重ねた。
「私がよくするよ。約束する」
そうして、彼はルーカスの小指に小指を絡めた。
ルーカスは、ダン帝国人はカントット国を滅ぼしに来た悪魔の皮をかぶった人間なのだと教わった。
しかし、こうして触れてみると、その肌はやわらかく、人間のものだ。そしてカントット国の未来を考えてくれているという。ルーカスはバートンの小指を見た。カントット人とはちがう、色の白くて、大きな指。
――だまされるな。
脳内で警鐘がなる。敵の罠かもしれない。ルーカスはもう何も考えたくなかった。非常に疲れていて、ただ家が恋しい。
バートンはさらに言い募る。
「カントット国には資源があるし、真面目な国民性で、おまけに地理的条件もいい。すぐに列強に並び立つ国になるさ」
前向きな言葉を並べるバートン。
しかし、ルーカスは絡められた小指を振り払った。
「ごめんなさい……でも、でも僕は帰りたいんです。ここで贅沢な暮らしをしていたら、カントット人として失格な気がするんです」
「なぜここで暮らすことがカントット人失格なんだい? なぜそう思う?」
「だって……バートンさんは、カントット国を滅ぼしに来たんでしょう?」
ルーカスがそう言うと、バートンは天を仰いだ。
それから首を振って、ルーカスの手を取って真摯に言った。
「私はカントット国が大好きだよ。二十年前に来たときからずっと大好きだ」
ルーカスはのろのろと毛布から顔を出した。そしてバートンの顔を見た。彼もまっすぐにルーカスを見た。その瞳には一点の曇りもない。
バートンは胸を張った。
「私がこの国を愛しているから、私は総司令官に選ばれたんだ。ダン帝国はカントット国を滅ぼすことを望んでいない」
ルーカスはバートンを信じてもいいような気がした。しかし、信じてはいけないような気もした。これまで植え付けられたダン帝国人への嫌悪感がルーカスの中に根強かった。
バートンはルーカスの猜疑に満ちた目をまっすぐに見据えた。
ルーカスにはカントット人として生きてきた十八年間があった。
それは貧しく、苦しい人生である。しかし、ルーカスのすべてである。バートンの息子としてダン帝国人になることは、それらすべてへの裏切り、ひいてはいまだ敗戦後の混乱の中で苦しんでいるすべてのカントット人たちから後ろ指をさされる行為であるとも感じている。
バートンは祖国を支配しに来た異邦人だ。これからカントット国はバートンによって滅ぼされてしまうかもしれないのだ。そんな男の庇護を受けるなど売国奴だ。赦されない。まして家族になるなど、ルーカスには考えられない。
ルーカスは祖国を裏切るような行為をするべきではない、いますぐ故郷にもどるべきだと思った。
夕刻になると、使用人のひとりがルーカスを呼びに来た。
夕食の時間だという。
ルーカスはのろのろと食堂に向かった。
夕食のメインはダン帝国の煮込み料理だった。料理人がルーカスのために腕によりをかけて昨夜から仕込んでいたものだそうだ。
やわらかそうな肉と根菜から湯気があがっている。鮮やかな色のサラダ、マッシュされたじゃがいも、焼きたてのパンとバターもついていた。栄養豊富なチョコレもついている。
ルーカスは広い食堂の真ん中に座ってそれを睨みつけた。夕食の席にバートンはおらず、食堂にいるのはルーカスと使用人たちだけであった。
ルーカスは食事に手が伸びなかった。空腹感はあるが、やはり食欲がなかった。このふたつはまったく別のものであることをルーカスは思い知った。彼は首を振り「食欲がないんです」と言った。
控えていたロイが言った。
「チョコレだけでもいかがですか」
「ううん。いらない。……僕、いつ家に帰れますか」
「……何かご不便がございましたか」
「僕、カントット人ですから。祖国を裏切って敵に養ってもらおうとは思えません」
ルーカスの苛烈といってもいい言葉に、使用人は言葉をしばし失った。
そして小さな声で言った。
「……バートン様におうかがいしてみます」
ルーカスの言葉はすぐにバートンに伝えられたらしかった。夜更け、バートンは軍服のままルーカスの寝室にやってきた。
ルーカスは使用人たちから靴磨きの道具を取り戻し、それを抱きかかえてベッドで毛布にくるまっていた。食事も風呂も拒否している。ロイはルーカスの傍にへばりついていた。
バートンは手を振ってロイを下がらせると、穏やかにルーカスに話しかけた。
「街で何かあったのかい?」
ルーカスは毛布にくるまったまま答えた。
「何も……」
バートンは言葉を選び直した。
「何を見たんだい?」
「……ダン帝国の旗をいっぱい……」
「それはそうだろう。ここはいまダン帝国の保護領なのだから。帝国の旗のもと、カントット国は保護される」
ルーカスはまた言った。
「……カントット人はみんな、苦しんでいました」
「いまだけさ」
バートンはルーカスのベッドの淵に腰かける。
きしり、とベッドが軋む音がルーカスの耳にも届いた。
バートンは静かに続けた。
「保護領とはいえ、カントット国にはまだカントット国の政府があるし、軍はいないが警察がいる。いまはさすがに戦後直後だからいろいろとよくないこともあるが、そのうちきっとよくなる」
ルーカスは黙ったままだった。バートンは毛布の中のルーカスの手の上にその大きな手を重ねた。
「私がよくするよ。約束する」
そうして、彼はルーカスの小指に小指を絡めた。
ルーカスは、ダン帝国人はカントット国を滅ぼしに来た悪魔の皮をかぶった人間なのだと教わった。
しかし、こうして触れてみると、その肌はやわらかく、人間のものだ。そしてカントット国の未来を考えてくれているという。ルーカスはバートンの小指を見た。カントット人とはちがう、色の白くて、大きな指。
――だまされるな。
脳内で警鐘がなる。敵の罠かもしれない。ルーカスはもう何も考えたくなかった。非常に疲れていて、ただ家が恋しい。
バートンはさらに言い募る。
「カントット国には資源があるし、真面目な国民性で、おまけに地理的条件もいい。すぐに列強に並び立つ国になるさ」
前向きな言葉を並べるバートン。
しかし、ルーカスは絡められた小指を振り払った。
「ごめんなさい……でも、でも僕は帰りたいんです。ここで贅沢な暮らしをしていたら、カントット人として失格な気がするんです」
「なぜここで暮らすことがカントット人失格なんだい? なぜそう思う?」
「だって……バートンさんは、カントット国を滅ぼしに来たんでしょう?」
ルーカスがそう言うと、バートンは天を仰いだ。
それから首を振って、ルーカスの手を取って真摯に言った。
「私はカントット国が大好きだよ。二十年前に来たときからずっと大好きだ」
ルーカスはのろのろと毛布から顔を出した。そしてバートンの顔を見た。彼もまっすぐにルーカスを見た。その瞳には一点の曇りもない。
バートンは胸を張った。
「私がこの国を愛しているから、私は総司令官に選ばれたんだ。ダン帝国はカントット国を滅ぼすことを望んでいない」
ルーカスはバートンを信じてもいいような気がした。しかし、信じてはいけないような気もした。これまで植え付けられたダン帝国人への嫌悪感がルーカスの中に根強かった。
バートンはルーカスの猜疑に満ちた目をまっすぐに見据えた。
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