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第八話 愛しい子
しおりを挟む「会えてうれしい」というバートンの言葉に嘘偽りはなかった。
彼がルーカスのために用意していたのはルーカスの寝室を含む私室5部屋、衣裳部屋とあきれるほどの衣服、料理人、そしてダン帝国人の使用人3人である。
通された部屋は船よりさらに絢爛豪華で、ルーカスは汚すのが怖くてどこも触ることができなかったほどである。
バートンは広い邸宅の中を自ら案内して周り、ルーカスに不足はないかと何度も尋ねた。バートンは上機嫌で、小柄なルーカスの頭をなでたり、時折抱き上げたりした。ルーカスは美しい彼にされるがままであった。
美というものは人の心を魅了する。ルーカスはいろいろな疑問や戸惑いを忘れて彼の美貌に圧倒され、彼の機嫌を損ねるような行為をとるのをためらった。
一通り案内が終わったあと、二人は広いサロンの革張りのソファに並んで腰かけた。そこでバートンは眉をひそめて言った。
「元気がないね。医師を呼ぼうか」
彼はルーカスの骨の浮き出た手を見て「昼食は何か精の付くものを」と使用人に指示を出す。
丸い眼鏡をかけて髪に油を塗ってかためている使用人は頭を下げて部屋を退出して指示を料理人に伝えに行った。
しかしそれでもサロンにはバートン付きの使用人を含めて5人の使用人がこちらの様子を見逃すまいと目を凝らしている。ルーカスはすっかり委縮していた。
このサロンの足元は大理石が敷き詰められ、鏡のように磨かれている。その上に敷かれている絨毯は毛足が長く、上を歩くと足がぐっと沈み込むのだ。
ルーカスが黙ったままでいると、バートンは使用人に菓子を持ってくるように命じた。するとすぐに銀色の紙に包まれた丸いものとクッキーが皿に乗せられて運ばれてきた。
「チョコレは食べたことあるかい」
そう言いながら、彼は丸い銀色の包みをひとつ摘まみ上げ、紙を開いた。中からは茶色い菓子が出てきた。甘くて、どこか香ばしい匂いがする。
バートンはそれをルーカスの口の中に押し込んだ。ルーカスが目を丸くして固まっていると、やがてそれは舌の上で溶け、芳醇な香りが鼻を抜けていった。そして同時に脳天をつくような甘さがルーカスの口に広がった。
カントット国が食糧難となってから早数十年が経とうとしている。
今年十八歳のルーカスにとって、物心ついたときから甘味は贅沢品である。舌の上でとろける甘さはルーカスにとって衝撃的であった。
ルーカスはゆっくりと喉を動かしてそれを飲み込んで言った。
「おいしい……です」
バートンはうれしそうに笑った。
「それはよかった。さあ、もっとお食べ」
バートンはルーカスの方に皿を押しやる。ルーカスは銀色の包みにおずおずと手を伸ばした。ひとつ、またひとつとそれを口に含む。バートンはその様子をにこにこと見つめた。
「気に入ったかい?」
「はい……」
ルーカスはチョコレ3包みとクッキー6枚を完食した。バートンは皿を使用人に下げさせてから言った。
「ああ、安心した。チョコレは栄養があるからね。気に入ったなら、また昼食のあとに食べようか」
ルーカスはじっとバートンを見た。
総司令官という立派な肩書を聞いたときはどんな人が出てくるのかと怯えたものだったが、実物のバートンは明るい雰囲気をもつ穏やかな人物であった。
ルーカスは勇気を出して尋ねた。
「あの……父さん……ええっと、僕の父のことを聞いても、いい……よろしいでしょうか」
ルーカスのこの質問に、ルーカスは「私も君の父だけど」と前置きしたあと「ノウのことだね? 何を聞きたい?」と言った。
「父と……知り合いだったんですか」
いまここに至って愚問ともいえる問いであるが、バートンは真摯に答えた。
「もちろんだとも」
「ほんとうに……」
ルーカスの口調には疑問が含まれている。
「本当だよ。写真を見るかい」
そう言って、バートンは使用人に分厚い本のようなものを持ってこさせた。古ぼけたそれは何度もめくられたのであろうか、表紙に指の跡がついていた。
バートンはその指のあとにぴたりと指を合わせて、最初のページを開いた。
「私は18歳の頃に外交官だった父に帯同してカントット国に来てね……カルヴァ大学に留学生として在籍したんだ」
開くと、中には写真が整然と貼り付けられていた。
写真と言えば、庶民には手が出ない高級品である。
貴族でさえ、家族の節目に撮る程度である。もっとも、それも戦時中の資源不足、労働者不足により写真屋は街から姿を消していた。
その写真が、数えきれないほど並んでいる。
ルーカスは改めてバートンがとんでもない金持ちなのだと確信した。
バートンが写真の1枚を指さす。
その写真には「カルヴァ大学」と彫られた門の前に立つ若かりし頃のバートンが映っていた。写真の中で、彼はカルヴァ大学の学生であることを示す徽章が付けられたローブを着ている。
――同じだ。あの写真と。
その中のバートンは、まさにルーカスが大事にしている写真とまったく同じであった。
ルーカスは唾を飲みこむ。
汗が噴き出した。
ルーカスの異変に気が付かず、バートンはページをめくる。次のページには見知った顔があった。ルーカスは「あ」と声を漏らした。
バートンは頷いた。
「そう。ノウもカルヴァ大学の学生だったんだよ」
そこには父ノウが同じローブを身にまとって微笑んでいた。ルーカスはかすれた声で言った。
「……父さんが、学生……」
カントット国では7歳から10歳までなら無料で幼民学校へ通うことができる。しかし、次の中等学校からは授業料がかかり、また進学するには推薦が必要で、その次の大学へ進むのにも推薦と試験に合格することが必要だった。進学というのは秀才で、それでいて学費を支払える裕福な家の子にだけ許された特権なのである。
しかも大学は、カルヴァと南のマレの2校しかない。特にカルヴァ大学は国中から集められたαと競い合って勝たなければ入学することができないのだ。
ルーカスは父がそんなに秀才であることをいまのいままで知らなかった。ルーカスは父の写真を凝視した。
バートンはその視線を切るようにページをめくる。
「私たちはあちこちに出かけたよ。戦争はまだ始まっていなかったし、いまよりずっとカントット国はいいところだったからね」
次のページには2人の写真が並んでいた。カフェーでくつろぐ2人、滝の前に立つ2人、カントット国の伝統的な衣装をまとった2人……。
ルーカスは信じられない、と首をふった。
「父は……男ですよね……その……」
ルーカスの言葉を遮って、バートンはルーカスの頬に手を添えて言った。
「私の目を見て」
彼は鼻先がくっつきそうなほどに顔を寄せる。彼の両目はダン帝国人らしく鮮やかな青だ。
しかし、その青の中に赤と黄色と緑の輝きがあった。虹色の光彩。――αの証である。
「α……」
ルーカスが言うと、彼はゆっくりとルーカスから顔を離した。
そして言う。
「そう。私はαだ。αが愛するのはΩだけ。生まれたときの性別は関係ない――もちろん、生まれた国も」
ルーカスはまた首を振った。
バートンの話を理解するのをどこかで拒んでいる自分がいた。
「あなたはαかもしれないけど……父は……ほんとうにΩだったんですか。だって、ずっと僕とふつうに暮らしていて……」
「ノウは発情の回数がふつうのΩよりずっと少なかったんだよ。ある日、こっそり彼にΩだって知らされたときは私もびっくりしたくらいさ」
ルーカスはさらに何か言おうとして「でも」と言ったが、その次の言葉が見つからなかった。
Ωというものはカントット国では「公にできない存在」だった。
――αやその他大勢のβとは異なる劣った存在。
父がその存在であることをルーカスは受け入れられなかった。
沈黙したルーカスを見てバートンは「この国では」と切り出した。
「なぜΩを劣等種だとするのだろうね」
「……えっと……」
「ダン帝国ではΩはαの理解者として尊重されている。私が19歳でダン帝国に帰国するときにね……ノウを、誘ったんだよ。一緒にダン帝国に行こうと」
ルーカスは目を見開く。父がダン帝国に? それは信じられない話だった。ルーカスはすぐに言った。
「でも、父に断られたんですね」
「……そうだね。出発の日に、彼は現れなかった。それを受け入れられなくて、すぐにまたカルヴァに戻ったけれど、そのとき彼はもう大学を退学していた……計算すると、そのときにはもう君を身ごもっていたことになるね。なぜ私に相談してくれなかったんだろう」
バートンは目を伏せて胸を押さえた。その仕草はまるで、彼の胸にまだ痛みが残っているかのようだった。
それから彼は顔をあげ、ルーカスの手をとった。
「君は私の子だ」
美しい人にそう言われ、ルーカスは頷いてしまった。ルーカスの脳裏には先ほど見せられた虹色の光彩が焼き付いていた。ルーカスはどこか本能的な部分で、その光彩に惹かれていた。
バートンは笑った。
「私の家で、好きに過ごすといいよ。愛しい子」
やさしい言葉をかけられて、ルーカスは絶望した。
――僕が恋焦がれていた運命の人が、僕の、父親……。
ルーカスは今にも泣きだしそうだった。
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