正しい風呂の入り方

深山恐竜

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1話

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 ハゾルは今日こそ、公衆浴場に行けると思った。今日は日差しが明るすぎず暗すぎず、風が強くもなく弱くもなく、暑すぎも寒すぎもしない。おまけに20日ぶりの休みである。こんな日は公衆浴場に入るのが正しい。


 ハゾルは足の踏み場もないほどに散らかった自室を突っ切って、小さいベッドの下に手を差し入れた。そこにはこの狭い下級労働者の部屋には似つかわしくない上等なトランクが隠されている。
 彼は神聖な儀式のように厳かにトランクを開け、丁寧に畳まれているシャツとズボンを取り出した。シルクでできたそれらには金ボタンが縫い付けられ、襟や裾には見事な刺繍が施されている。
 ハゾルはそれに着替えると、最後にトランクの底から革の財布を取り出した。中には彼のへそくりが入っている。毎月わずかずつではあるが確実に貯めた金は、今夜一晩夢を見るには十分な額になっている。
 ハゾルは髭を剃り落とし、赤毛の髪を撫でつけて整えると、意気揚々と公衆浴場に向かった。


 風呂は良い。特にこの公衆浴場というものは天上の喜びを与えてくれる。ハゾルは齢40、細工師の工房の下働きでありながら、少ない日銭をこつこつと貯めて公衆浴場に通っている。それくらい、風呂が好きなのだ。

 この公衆浴場はもともとは東方の風習であったらしい。それが、8年前の東方遠征で、遠征軍の総帥を務めた皇太子が気に入り、技師ごと持ち帰ってきた。
 当初は貴族たちが自身の館の敷地内に浴場を作ったが、5年前ついに庶民向けの公衆浴場ができた。庶民、といってももちろん、金のある庶民だ。

 公衆浴場の入り口は東方風のドラゴンや、丸い顔立ちをした神の石像が飾られている。その門をくぐる者たちは、皆一様に美しいシルクの服を着て、傷一つない靴を穿き、日に焼けたことのない白い肌をしている。

 ハゾルは堂々と付き人を従えて歩くそれらの人々の視線を避けながら、いそいそと入館料を支払った。受付の男はハゾルの節くれだった手を見て眉をしかめたが、彼の袖に縫い付けられている金糸の刺繍を見て、金を受け取った。

 公衆浴場は、庶民のために建てられたが、その実、身なりの汚い者は門前払いなのだ。この国にはもともと風呂に浸かる習慣がない。庶民はせいぜい井戸水で体を清拭したり、川まで出向いて行水するのがやっとだ。そういう者たちが公衆浴場に入ると、浅黒い皮膚のカスがぼろぼろと落ちる。従って、庶民のための公衆浴場は庶民の中でも小奇麗で、家に水浴び用の盥があるような者しか利用できないように見張りが立っているのだ。

 当然、ハゾルもそれらしいふりをして受付をやりすごす必要がある。ハゾルが着ているシルクの衣服一式は、働いている工房から貸し与えられたもので、本来は工房で作った細工を貴族に届ける際に着るはずのものだ。それをこっそり持ち出したのだ。
 ただの庶民は、風呂に入るにも一苦労だ。

 花の形の取っ手を握り、扉を開ける。ハゾルはこの瞬間が好きだった。
 中から湯気があふれ、独特の香りに包まれる。そして灯りをともされた浴場。ハゾルは感嘆のため息をもらした。
 高い天井は白く塗られ、びっしりと彫刻が施されている。東方の植物たちが四方に配置され、ドラゴンの口や、天使が捧げた甕から滔々と湯が流れている。床は素足でも痛くないようによく磨かれ、人の影が映るほどだ。
 彼はここに通ってもう5年になるが、それでも入場する度にその美しさに心を奪われる。
 ハゾルは湯気を胸いっぱいに吸い込んだ後、隅で体を洗い始めた。





 湯を堪能し、ハゾルは籐の椅子で一息ついていた。このあともう一度湯につかったら、今日の風呂は終わりだ。
 ハゾルはここまで一点の失敗もないすばらしい風呂に一人満足して目を瞑っていた。

「こんばんは」
 声を掛けられて眼だけを動かすと、長身の男が2つの盃を持って近づいてきていた。男は盃のひとつをハゾルに渡すと、片目を瞑って挨拶をした。
「お近づきのしるしに。よく来られていますよね」
 ハゾルはただの庶民であり、金がない。
 彼が公衆浴場へ来るのは年に3度もあればいい方だ。なので、男にこう声をかけられて大いに驚き、同時に人違いだと思った。

「……そんなに来ていません」
「ふふ、前は、2か月前、でしたかね?」
 言い当てられてハゾルは驚いた。ハゾルが盃を受け取るより前に、男は隣に腰を下ろした。
 盃を寄せられたが、ハゾルは首を振って断った。
「酒はお好きではないですか?」
「……風呂では飲みません」

 ハゾルは礼儀作法というものを知らない。彼はいつか貴族の屋敷で漏れ聞いた「正しい風呂の入り方」を忠実に守っていた。
 それは以下のようなものである。

 まず、風呂に入るには日差しが明るすぎず暗すぎず、風が強くもなく弱くもなく、暑すぎも寒すぎもしない日でなければならない。
 そして湯に入ったら、じっくりと温まる。そして100を数えたら濡れた体のまま窓辺の籐の椅子に横たわり、ぬるい風にゆるゆると吹かれながら、体の火照りが引くのを待つ。窓からほどよい明るさの月を見て、なんとも心地がよくなってきたら、また湯に入り、また椅子に……。

 実際、そのようにして入浴している貴族は少なかったが、ハゾルはその正しい風呂の入り方しか知らない。なにか粗相をしてしまってはいけないと警戒して、彼は「正しい風呂の入り方」の通りにしていた。
 貴族であったのなら、氷菓子や冷たい酒が必要だろうが、ハゾルは庶民だ。そんなものは必要ない。彼にはただ湯と月と風があればいい。彼はこの「正しい風呂の入り方」を気に入っていた。

「あまりにも気持ちよさそうに入られているので、つい声をかけてしまいました。お気を悪くされましたか?」
 そう言われて、ハゾルは男をまじまじと見た。
 彼は黒髪を短く切りそろえて、切れ長の黒い目をしていた。この国ではハゾルのような赤毛が多いが、東方の方にはこのような黒髪の人間が多いと聞く。そう思うと、濡れたような黒い瞳も東方のもののような気がした。

 しかし、ハゾルにとって大事なことは、男の容姿ではなく、男が自分と同じように風呂を楽しむ仲間であるこということだ。
「……とても気持ちいいですね、ここは」
 そう答えると、男はにっこりと笑ってこう言った。
「ええ、本当に。……屋根がなかったらもっといいと思いませんか」
「屋根、ですか」
 ハゾルは考えた。この公衆浴場は完璧だと、いまのいままで思っていたが、もっとよくするとなると、何が足りないだろうか。

 例えば、男の言うように、屋根を取り払ったとしたらどうだろう。ハゾルはそれを想像し、首を振った。
「屋根は必要でしょう」
「なぜ?」
「香りが……ここはとてもいい香りがしますから、屋根はあった方がいいかと」
「香り……」
「どうせなら、ここから外に出る扉を作って、その先に屋根なしの風呂を作って、ふた通り楽しめる方がいいと思いませんか」

 ハゾルはその風呂を夢想した。湯気の香りが立ちこめる室内を出たら、木々に囲まれた風呂があるのだ。その風呂は熱い湯を張るのがいい。秋にそこで長風呂をするのは、きっと気持ちがいいだろう。木の揺れる音と、冷たい風と、冴えた月を楽しめる風呂だ。この上ない。

「ああ、それは良い案ですね。私はタアツと申します。お名前を伺っても?」
「ハゾルといいます」
「ハゾルさん、次はいつ来られますか?」
「……そんなに来ません」
 ハゾルはそこでようやく自分の本当の身分を思い出した。湯気に包まれて忘れていたが、自分はしがない職人見習いで、いま隣に座っている男は公衆浴場に足繫く通えるような立場の人間なのだ。
 顔を伏せて、日焼けした頬を見られないようにした。己の職業は恥じてはいないが、分相応ではないところに出入りしていることを恥じ入った。

 タアツは、何もかも分かっているという口調でこう提案した。
「では、私から割り札を差し上げましょう」
 割り札とは、この公衆浴場の招待状のようなものだった。ハゾルは当然、そんなもの見たこともなかった。ハゾルはこの提案に驚いた。
「……なぜですか?」
「風呂について語れる友が欲しいのです」
 そう言われて、ハゾルは深く納得した。彼もまた、そのような友人がほしいと思っていたからだ。


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