直の唄

Yuki2030

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直の唄

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 「私しゃ大島 荒浜育ち 色の黒いは 親譲り
私しゃ大島 荒浜育ち 浪も荒いが 気も荒い
沖を通るは ありゃどれ丸だ 外じゃあるまい 主の船
船がかすむと 磯から言えば 磯がかすむと 船で言う」
 直は父の傍で「漁師の歌」を歌う。父から教えてもらった歌だ。ここ大島は日本の南方に位置する離れ小島だが、東京都に所属している。つまり、直は都民なのである。年齢を重ねれば都知事選だって投票できるし、出馬もできる。
 直の父、和は生粋の漁師だった。和の父も漁師だったし、そのまた父も漁師だった。大島の生活は海とは切っても切り離せない。大島では、伊勢海老、とこぶし、サザエ、海苔などの海産物が有名である。今日は、直の4歳の誕生日、和は娘に伊勢海老を食わしてやりたかった。伊勢海老を捕まえるには、昼間のうちに伊勢エビが棲んでいる岩礁地帯に「刺し網」を仕掛ける。そうすると、夜中に伊勢海老が引っかかるので、早朝に引き上げるのである。
「直!見てみろ!大漁だ!今日は伊勢海老が食べれるぞ!」
「うぉ~、父ちゃん!すげ~!いちぇえび食べた~い!」
 和は、一番でかいのをより分けると、残りを市場に売りにでかけた。直の幼少期はこうした環境で過ごした。海の匂い、海の音、波飛沫、市場の喧騒、漁師達の笑い声。そうした一つ一つが直を形作っていった、ドレミの和音として。直も大きくなったら、伊勢海老をたくさん取りたいと思った。できれば、ペットとして一匹水槽で飼いたいと思った。何故なら、伊勢海老は貴重な資源であり、夏場は禁猟期間だからだ。だから、直は毎年夏が来ると少し、寂しかった。でも、それに代わる大きな楽しみがあった。それは観光客の到来である。日本全国からはもちろん、海外からも観光客が訪れる。そんなとき直は、得意の歌を披露するのである。そうすると、観光客は直に飴玉などのお菓子をくれたり、一緒に写真を撮ってくれたりした。島の子は島の宝。それは昔ながらの考え方であったが、大島の過疎化が進むことでより浸透していった。だから、観光客と接する直の姿を島民は温かい目で見守っていた。それに、直が客の呼び込みをしてくれることもあった。決して豊かな生活ではなかったが、島民達はそんなかけがえのない日常を大切にしていた。
 大島のお祭りにはカラオケ大会があり、直が4歳になったということもあり、父親がカラオケ大会に連れて行った。マイクを渡された直に対して、漁師達を中心に歓声があがる。そして、直は躊躇なく歌い出すのだった。父から教わった「漁師の歌」を。すると、会場は息を呑むように静寂に包まれた。子供とは思えない低い声を出した重厚な歌いっぷりは大人達の舌を巻いた。
「直ちゃんは、将来歌手になるしかねぇな」
「うちの息子のお嫁さんに来てくんねえかな」
 拍手喝采の後、皆口々に褒め称える。直は皆に褒められて嬉しかった。このカラオケ大会は、勝敗を競うものではなかったが、商店街から直に大島牛乳が2本贈られた。大島は明日葉などの青草が1年中繁茂しており、気候も適していることからホルスタインの楽園だった。牛乳2本を貰った直は、その場で1本一気飲みをして、ゲップをした。もちろん、マイクは音を拾っている。これがまた、地元のおじさん達の心をくすぐった。
「大島牛乳たくさん飲んで、オッパイ大きくすんだぞ」
「バカヤローその前に身長だ」
 そして冬が来た、雨が降る日に緑のポンチョを着た大人が大島を訪れていた。季節外れの観光客だろうか。火山口の方向を聞かれたので、直は「あっち」と方角だけ指さした。
「ありがとう、お嬢ちゃん」
 そう言って、その大人は種をくれた。
「その種から黄色い花が咲いたら、何でも願いを1つだけ叶えてくれる」
 そう言うと大人は去って行った。直には分からなかった、何故その大人が目をつぶっているのかを。
 直はその日早速庭に種を植えて水をあげた。そして、その夜、夢を見た。種からにょきにょきと目が出て、葉が出て、黄色い花が咲いた。直は願った。「ずっと直の歌でみんなが楽しく過ごせますように」と。
 翌日、目が覚めて、慌てて庭を見に行ったが、そこには何もなかった。直は毎日水をあげた。しかし、1年経っても花はおろか、芽も出てこなかった。直は興味を失い、水やりをしなくなった。水やりは母の恵の仕事となった。
 直は6歳になり、小学校に入学した。直は勉強や宿題というものと初めて出会った。それは直にとっては未知との遭遇でもう二度と出会いたくないと思ったが、同い年の子供たちがたくさんいるのが嬉しかった。直はすぐクラスに馴染めた。何故なら、直緒はカラオケ大会で有名人だったからだ。
「あの、もしかして歌が上手い直ちゃん?カラオケ大会、毎年見てたよ。仲良くしてね」
 女の子の友達はすぐできた。しかし、直がクラスの人気者になって面白くなかったのは男子たちである。特に漁師の息子達は、父親から直の自慢話を嫌というほど聞いて育ってきた。ここで、どっちが格上かを示す必要があった。
「おい、直。オレ達の鬼ごっこに入れてやってもいいぞ」
 直は快く参加した。鬼は直からだった。男の子達は挑発する。
「や~い、こっちこいよ」
 挑発された直は全力で走る。男の子達は全力で逃げる必要もなかった。直は絶望的に走るのが遅かった。まるで生まれて初めて走ったかのようだった。これは追いつくことはない、アキレスと亀のパラドックスのように。直は走り出すとそのまま家に帰って、大島牛乳を飲んだ。後ろから罵倒が聞こえたような気がしたが、直は意に介さなかった。
 学年には1クラスしかなく、20名程度であった。直は男子とは折り合いが悪かったが、女子と話すのは楽しかった。もう1つ大きな出会いがあった。それはピアノである。自分より正確に音を奏でるものがあるのかと驚いた。音楽の授業でピアノと出会ってから、直は音楽室に通うようになった。そして、いつも恵が一緒に連れて帰っていた。
恵は元小学校の先生であり、今は役場で働いていた。直は幼いときは、漁師になりたかったが、漁師は男の職業であるということを感じて、母のように学校や役場で働きたいと思うようになってきた。しかし、直は一向に文字を読んだり、書けるようにはならなかった。もちろん、楽譜も読めない。直は、授業やカラオケ大会などで聞いた音楽をピアノで再現していたのである。それは物凄く非効率な作業であった。直は「ド」の鍵盤が「ド」の音を鳴らすと理解して、音を鳴らしているのではない。この位置の鍵盤はこの音を鳴らすということを音と空間の認識で理解していた。もしかすると、直は楽譜が読めるようになったら、それを絵として表現できるかもしれなかった。そんな「共感覚」に似たものを直は後天的に身につけつつあった。
 そんなある日のこと、直は恵にピアノの音がおかしいと訴えた。恵は該当箇所を弾いて聞いてみるが、確かに少しおかしいかもしれないと思った。そこで、先生に確認をお願いした。結論として、ごく僅かであるがずれているという結論になった。しかし、調律を頼むのはお金がもちろんかかるし、定期メンテナンスはもうすぐだということで、少しの間我慢してもらうことになった。
 そこで、直はそのズレを利用して、曲のアレンジをし始めた。複数の鍵盤を同時に押すと気持ちが良いということは既に感じていたが、そのハーモニーの中で時折、そのズレた音を入れるとなんとなく面白い。このハーモニーのことは「和音」として知られているが、直はもちろんそんなことは知らない。直は和音をずらしながら、そのノイズをいろんな箇所に入れて遊んでいた。いわゆる「転調」をして遊んでいたのである。
 直は音楽の時間の合唱が好きだった。直のパートはソプラノだった。しかし、直はまだ楽譜が読めなかった。直は教科書の曲を全然歌えず悔しかった。そこで恵にお願いして、放課後にピアノで何回か弾いてもらった。それによって、まだ楽譜は読めないものの、直はその曲をピアノで弾けるようになった。これでいよいよと思ったところ、新たな壁が立ちはだかった。それは直の周りの子達の音が微妙にずれているのである。なんだか気持ちが悪い。そこで、直は音がずれたピアノを思い出し、自分の口を調律し直した。すると、直の周囲だけ絶妙なハーモニーが生まれた。しかし、今度は周囲の生徒に直ちゃんは音がずれてると思いがけない批判を受けることになってしまった。これには、直もかちんときて、喧嘩になってしまった。
 直は家に帰って、恵に泣きついた。直が唯一誇りに思ってる、音楽の力を馬鹿にされたのである。そこで、恵は諭した。
「直、よく聞きなさい。あんたは、勉強もできない、運動もできない。でも、音楽だけは誰にも負けない力を持ってる。他の人の言葉に惑わされず、自分を信じるのよ」
 恵は翌日、音楽の先生に事情を話した。そこで教師達は隊列を変えることで調整を行った。これによって、直も正しい音を奏でられるようになったし、他のメンバーも歌の間違いを自覚できたことで、全体として合唱の品質を上げることができた。
 直は4年生になり、クラブ活動に所属することになった。吹奏楽クラブは楽譜が読めないので止めた。直は、美術クラブに入った。直は、「漁師の歌」を思い出して、音から浮かび上がる図を描いてみた。クラブの顧問は直が描いた抽象画を絶賛したが、今後は他の生徒が分かるものを描くようにと指導した。それ以降、直は下手くそな静物画を描き続けた。
 直は放課後はピアノの練習を続けていた。相変わらず楽譜が読めなかったが、誕生日プレゼントにCDを買ってもらい、それを聞いて覚えた。バッハ、ショパン、ベートーヴェンなど誰がどんな人生を送って、どんな気持ちでこの音楽を作ったかなど全く興味がなかったし、分からなかったが、新しい曲を聴くたびに新しい発見があり、音楽に無限の可能性を感じていた。この素晴らしさを他の人にも感じて貰いたいと思い、直はクラスの女子を「放課後演奏会」に招待した。
 カラオケ大会で有名な直ちゃんが演奏会を開くということで、他学年も含めて20人くらいの男女の生徒が集まった。そこで、直は得意気にベートーヴェンの「運命」を弾きだした。この圧倒感。飲み込まれる子が多いはずだ。そう思って弾き終えると、パチパチとまばらな拍手が迎えてくれた。あれ?なにか足りなかっただろうか?そこで、同じクラスの由香が話しかける。
「直ちゃん、お歌は歌わないの?」
歌。歌が必要なのか。ピアノを弾きながら歌を歌ったことはない。
「ごめん、歌は準備できてない」
そう答えると、ぽつぽつと人がいなくなってしまった。残ったのは、由香を含むいつものグループだ。
「直ちゃん、最近の曲は弾けないの?コレサワとかヨルシカとか」
 直は漁師の父と同じ生活を送っていたので、夜は20時頃に寝てしまう。18時頃までは学校でピアノを弾いているし、宿題をやる時間を考えると、テレビはほとんど見ていなかった。
「ゴメン、あんま詳しくないや」
「じゃぁ、直ちゃん、今度うちに遊びに来て。直ちゃんに歌って欲しい曲がたくさんあるの」
 鈴木由香とは、いつも一緒にいる。直はいつも由香に勉強を教わっていた。子供達の中では、由香が直の一番のファンであった。
 早速翌日、直は由香の家に遊びに行った。由香の家は島の病院を経営している。
「あらカラオケ大会で有名な直ちゃんじゃない。いつも、由香と仲良くしてくれてありがとうね。由香はいっつも直ちゃんのことばかり話してるのよ」
「もう、止めてよお母さん。恥ずかしい」
「今年は何歌うの、直ちゃん?」
 直は「漁師の歌」や校歌、あとはカラオケ大会で大人達が歌う歌を真似して歌っていた。大人と言ってもカラオケ大会に参加する大人は年配の方が多く、若者は運営側で忙しく裏方の仕事をしていた。それが直が若者向けの曲を知らない現状に拍車を掛けていた。
「今度は、由香のリクエスト曲を歌うよ」
 直は深く考えずそう答えた。これから最近の曲を学ぶのでそこから歌うのもいいなと思ったのだ。
「本当?直ちゃん?じゃぁ、直ちゃんにいろいろ聞いてもらわなきゃ!」
 由香は俄然張り切りだした。由香は手始めに、録画してある男性アイドルユニットSMAPのパフォーマンスを見せてくれた。その次は男性アイドルバンドTOKIOを見せてくれた。さらにその次はV6を見せてくれた。感が鈍い直もそこで由香を静止した。
「由香、この人達も面白いんだけどさ、もっといろいろ見たいんだ」
「何言ってるの、直ちゃん!SMAPもTOKIOもV6も全然違うのよ!いい、まずSMAPの名前の由来だけどね……」
 こんな調子なものだから、直が流行りに乗っかるには幾分かの時間が必要だった。由香の家で音楽を頭に入れた次の日は、由香達の前で弾き語りをした。直があっという間に吸収するものだから、直は代わる代わる同級生の家を訪問しては音楽を吸収し、小学校で弾き語りをするようになった。直は大島一のジュークボックスと化していた。
 しかし、良いことばかりではなかった。過度の演奏のせいで、ピアノの調子が目に見えて悪くなってきたのだ。犯人は誰だか明白だった。調律にかかる金銭的な問題はもちろん、音楽の授業に大きな影響をもたらした。そのため、学校はピアノの私的な利用を禁止にした。一部の人には人気で、別の小学校にも噂が広まりつつあった直の放課後演奏会は廃止された。しかし、話はそれだけでは済まなかった。音楽の授業中、ピアノの弦が遂に切れてしまったのである。そこで、もうピアノは修理せざるを得なくなった。金額は数万程度のものだったが、東京から調律師に出張してもらうまでの間、音楽の授業はピアノなしで行うことになった。「カラオケ大会で有名な直ちゃん」は「ピアノを壊した直ちゃん」として学校中に悪名高い存在となった。
 そこで幅を効かせて来たのは男子である。この年頃の島の男子が好きなものは、海とスポーツと漫画だった。直の演奏会に来てた男子は僅かだった。つまり、直は分かりやすい害悪であり、からかう対象としてうってつけであった。
「佐藤、お前、役場に母親がいるくせにピアノ壊すってどういう神経してんだよ」
 大島小学校のガキ大将の健吾が罵った。
「僕たち善良な生徒に謝ってほしいですね」
 腰巾着の塚田がそれに乗じる。
 男子達が寄ってたかって、直を糾弾する。
「……ごめんなさい」
 直は謝るしかなかった。「カラオケ大会で有名な直ちゃん」が自分達に謝っている。低学年の時には自分達に見向きもしなかった直が謝っている。これは男子達の支配欲求をくすぐるものだった。男子は毎日からかってきた。クラス内ではもちろん、登校時も、廊下ですれ違う時も、下校時も、男子達の嫌がらせは続いた。直は謝るしかなかった。この状況を見かねたのが音楽の先生と児童会副会長になった由香である。2人は校長に朝礼で直が謝罪する機会を設けてくれるよう頼んだ。そして、同時に直に対する嫌がらせを止めるよう訴える許可を頂きたいと頼んだ。校長は、それが直にとって最も負担が少ない行動であるなら認めると2人に伝えた。そこで、放課後。3者会談をすることになった。
「直ちゃん、校長先生から許可もらったよ。朝礼で謝れば、いじめないでって訴えていいって」
「佐藤さん、これがずっと続くのも辛いでしょ?ケジメをつけましょ」
 直は歌うのは得意だったが、喋るのは得意ではなかった。上手く謝れるだろうか、と不安だった。そのことを2人に伝えると、
「直ちゃん、私も直ちゃんにいろんな曲を弾かせた責任があるから当然一緒に謝るわ。ううん、私だけじゃない。いつものメンバーにもステージに上がるよう説得するわ」
「私も教職員として謝罪するわ」
 こうして直連合が体育館で行われる朝礼で謝ることになった。まず、音楽の先生がことの事情を分かりやすく説明し、ピアノの管理体制に問題があって全校生徒に迷惑をかけたことを謝罪した。その後、由香達が直にいろんな曲を聞かせて犯行を教唆したのは自分達であることを詫びた。最後に、直がピアノを私物化したことを謝ればおしまいのはずだった。しかし、直からなかなか言葉が出てこない。事前に打ち合わせした台詞を言えばいいだけだった。練習もした。しかし、直はその言葉に気持ち悪さを感じていた。これでは、気持ちが伝わらない気がした。
 そこで、直は歌いだした。大島小学校の準校歌である「友達の唄」を。
「誰でもどこかが  違うよね
暖かさだって    違うよね
心の音が      綺麗だね
いろんな愛が   伝わって
開いてみよう   心の扉
覗いてみよう   相手の扉
照らしてみよう   明日の扉
ここから始まる   大島小学校」
直が歌いだすと、一瞬周囲はざわついたが、直の綺麗な歌声にすぐに周囲は優しい表情になった。直はメロディを歌い終えると、2回目はベース音を奏でだした。すぐに由香が気づきメロディを歌いだす。続けて他の女の子も歌いだす。恵も小さい頃からの馴染みの歌を歌いだした。ステージからの斉唱に、フロアの生徒や教職員達も歌い始める。その同調圧力に直を非難していた男子達は居心地が悪くなる。歌が終わり、直のベース音だけが鳴り続ける。直は健吾を見つめていた。健吾もまた直を見つめていた。直が後奏を終えると、周囲が静寂に包まれた。恵や由香達はアイコンタクトを取り合い、この場を収めようとしていたとき、1人の声があがった。
「偉そうなんだよ!」
 健吾の声だった。
「歌が上手いのがそんなに偉いのかよ。特別扱いなのかよ」
 健吾と直は距離こそあるものの、互いに見つめ合っていた。そして、直は呟いた。
「うちはもう歌わん。すまなかった」
 その一言で朝礼は終わった。恵や由香達の声かけも虚しく、直の決意は硬かった。放課後演奏会はもちろん、音楽の授業でも直は歌わなくなった。由香はよく泣いていた。恵も密かに泣いた。和は家ならいいだろと何度も直を誘ったが、直は頑として歌わなかった。代わりに直は再び黄色い花の種に水をあげ始めた。まるでそれが自分に課された刑であるかのように、まるでそれが唯一の希望であるかのように。
 直はカラオケ大会も出なくなり、毎年それを楽しみにしていた地域の人々も悲しくさせた。噂は勝手に広がるもので、健吾達男子生徒も窮屈な思いをし、それがまた一層直への反抗心を煽ることとなった。
やがて直達は卒業式を迎えた。直は卒業式の校歌も歌わなかった。こうして、直の小学校生活は悲しい終わりを告げ、生徒はそのまま公立の大島中学校に入学する。
「わぁ、直ちゃん。セーラー服可愛い。普段からそういう女の子っぽい格好すればいいのに」
 由香が直の格好に歓声を上げる。直は初めてスカートというものを履いた。小学校のときは動きやすいように短髪でTシャツとズボンという格好が多かった。直は歌を止めたときから、短髪にするのを止めていた。髪は肩まで伸びていた。それは直が自分の殻に閉じ篭っていることを象徴していた。さすがに男子からの嫌がらせはなくなっていたものの、歌もピアノも失った直は生きがいを失っていた。
「直ちゃんは、何部入る?私はバドミントンやってみたかったんだけど、無いんだよね。テニスにしようかな?」
 直はもう平日の朝早く、和の船には乗っていなかった。学校の勉強も大変になり、夜は母が勉強の面倒を見ていたからだ。直の楽しみは土日に和の船に乗ることと、放課後に由香達から借りた音楽を聴くことだった。その中には海外の音楽もたくさん含まれていた。
「うち、『音楽を聞く部」に入りたい」
「ヤダな~直ちゃん。そんなの無理だよ」
 中学校に入ると、大きな発見が2つあった。1つ目は英語を勉強しなければならないことだった。直は、漢字はおろか平仮名、片仮名の習得にも時間がかかった。習得できたのはもちろん、恵の涙ぐましい努力と忍耐のたまものである。今でもよく間違える。それが今度はアルファベットなる文字と発音記号という50音以外の読み方が直の前に立ちはだかった。これは大変なことだ。そして、2つ目は……。
「新入生の皆さん、こんにちは。生徒会役員副会長2年の山清水里菜でございます。この新入生歓迎会の司会進行を務めます。どうぞよろしくお願いします」
小柄で眼鏡をかけたお下げ姿の少女がステージ脇から挨拶をした。
「『白雪姫』ね。やっぱり生徒会役員になったのね」
 隣の由香が囁く。「白雪姫」……名前は聞いたことがあるし、姿も見かけたことがある。同じ中学校だったのか。山清水里菜は由香の前任の児童会長だった。その常に冷静な表情と思考から、「雪のように冷たく、眠っているかのように崩れない表情」と評され、「白雪姫」と密かに呼ばれていた。
 その白雪姫が進行を続ける。
「では、初めに、生徒会長の月ノ下輝夜(かぐや)から祝いの挨拶を差し上げます」
 輝夜とは、珍しい名前だ。直はてっきり女の子かと思ったが、詰襟を着た白髪の男子生徒が現れた。髪もさることながら背が高い。中3の男子とはこんなに背が高いものなのか。どこからか「王子~!」と歓声があがる。それも複数箇所だ。王子はステージの真ん中に立つとこう叫んだ。
「1年生のみんな、こんにちは!」
 静寂が湧く。さすがに入学して昨日の今日で、公の場で発言出来る子はいなかった。ただでさえ、小学校とは違う、礼儀の厳しさに怯えているのだから。しかし、どこからかまた「王子~頑張って」と声がする。
「1年生のみんな、こんにちは!」
 王子が再び訴えてくる。誰も返事をしない。「王子~諦めないで」と声がする。これは新入生歓迎会であって、王子を励ます会ではないはずだ。白雪姫からも、
「会長、時間の都合上、最後の1回でお願いします」
 と、冷徹な追い討ちをかける。1年生は早くも団結しないといけないという強迫観念に囚われた。
「1年生のみんな、こんにちは!」
「……こんにちは」
 半数ほどが挨拶を返した。
「みんなの声が聞けて嬉しいよ。時間が押してるから大切なことだけ話すね。あ、この髪はね。アルビノって言って病気じゃないんだけど、体質なんだ。だから、髪の脱色はやめてくれよな。それで、今日の新歓なんだけど……」
「以上で、生徒会長、月ノ下輝夜の挨拶を終えます。会長、退任、いえ、ステージから退場してください」
「みんな選挙に立候補してね……」
 悲しそうに王子が退場した。どこからか「王子~元気出して」と声がする。
「なお、本日からの1週間が部活動のお試し期間となります。1年生は必ずどこかの部活動に所属してください。新しい部活を作る場合ですが、5名以上の生徒と顧問として教員1名が必要となります。それでは、部活動紹介に移ります。まずは、野球部から3分間以内の発表をお願いします」
 おそらく王子がするはずだった事務連絡を白雪姫が代行したのだろう。そこからの部活動紹介はそれぞれ趣向が凝らしてあった。野球部はバットを振ったり、サッカー部はリフティングをしたり、吹奏楽部は演奏をしていた。音楽という点では、吹奏楽部が一番近かったが、歌を歌ったり、ピアノを弾いてるものは誰もいなかった。
「以上で部活動紹介は終了になります。各自気になった部活に足を運んでみてください。なお、補足ですが、本校は『ないち』からの練習試合などの交流を受け入れたり、『ないち』に赴くことがあります。大島の代表であるという自覚をもって臨んでください。以上、解散です」
 今日、一番の衝撃だった。この島を出る日が来るのか、しかもこんなに早く。
「直ちゃん、どこ行く?私はやっぱりテニス見に行こうかな。直ちゃんは、吹奏楽部でも見に行ってみたら?」
「うちは……、今日は帰る」
「ええっ、大丈夫かな?怒られたりしない?」
「聞かれたら、生理来たって言っといて」
「直ちゃん、生理来ても普通に泳いでるじゃん……」
 直は中学校を後にすると、港に向かった。そこで、船の往来をただただ眺める。訪問者は、天候によって船が到着する港が2種類あるということもあって、大抵周囲を見渡し、地図を何度も確認する。元町港は最大の繁華街だった。しかし、風や波が激しいときは、船は元町港に入ることはできない。そのときは、岡田港に入船する。観光客のことを考えれば岡田港を最大の商店街にすべきだった。しかし、それでは元町の人達の生活はどうなるのか。この2港体制は潮流の問題と商店街の都合が折り合わないことで生まれた妥協の産物だった。
 直は小さい頃から、観光客の相手をしてきた。年々、自分とは違う言葉を話す人々の割合が増えてきた。歌が歌えないなら、そういう人達を支えられるような力を見につけたい。そこで、恵に相談してみた。
「あら、直。観光案内の仕事がしたいの?」
「分からんけど、外国人がいっぱい来たら大島も盛り上がるよね?」
「そうだね~。でも、観光案内ならこの島のもんなら誰でもできそうだし、確実なのは町役場だろうけど、直の頭じゃね~」
「英語喋れるようになったらどうだろう?」
「日本語も不安な直が英語喋れるかね~」
「放課後も勉強したらどうだろうか?」
「放課後は部活でしょ?」
「やりたい部活がないんだよ」
「じゃぁ、英語部でも作ったら?」
「部活って作れるの?」
「明日、由香ちゃんに聞いてみたら?」
「直、父ちゃんは金色で目の青い男のとこには嫁に出さねぇかんな!」
 和は自分も勉強してこなかったので、直の勉強には一切口出ししなかったが、嫁については毎度毎度同じことを繰り返すのだった。
「はいはい、漁師か役場の男と結婚したらいいんでしょ」
「そうだぞ。昔は大島牛乳も良かったんだ。最近はケーキやらビスケットなんかちゃらちゃらしたもんを作るようになっちまって……。大丈夫だ!直は母ちゃんに似て美人だから、大丈夫だ!」
事実、髪が長くセーラー服姿の直は小学校時代に比べてぐっと女らしくなった。胸も僅かに丸みを帯びてきた。ただ、直はまだ恋というものを知らなかった。船に乗ったり、ピアノを弾いたり、歌を歌う方が好きだった。しかし、今でも忘れられないのは、幼い時に会った緑色のポンチョを被った盲目の大人であった。男か女かも分からない。直はいつものように黄色い花の種に水をやって眠りに就いた。
 翌日、直は由佳に合うと、開口一番に英語部を作りたいと伝えた。歌を失って抜け殻になっていた直が何かをやりたいと訴えてくれて、由香は歓喜した。部活を作るには、5名の生徒が必要である。残り3名を6日間以内に集めなければいけない。当然、2、3年生は青田刈りに走るので勧誘は迅速に行わなければならない。
「直ちゃん、分かったわ!由香一肌脱ぐわ!具体的には何をやりたいの?」
「喋れるようになりたい」
「中学生なのに本格的ね!さすが、直ちゃん!ってことはディベートかしら、いや難しすぎるわ。じゃぁ、お芝居はどうかしら?」
「お芝居?」
「ディズニーとか子供向けのアニメーションのお芝居をするのよ、これなら楽しそうだし、真似すればいいだけだから、そんなに難しくないわ」
「真似するのは得意だ」
「じゃぁ、決まりね」
 それから直と由香は休み時間にクラスの皆を1人1人回って勧誘した。
「こんにちは、鈴木由香です。私と佐藤直は英語部を作ります。内容は、楽しい英語劇を文化祭で発表すべく、練習することです。1年生だけなので、気楽にできますよ」
「英語なんて勉強したことないけど、大丈夫なの?」
「お芝居は真似するだけだから、大丈夫です」
「お芝居もしたことないんだけど?」
「私達もお芝居したことないので、大丈夫です。一緒に練習しましょう」
「先生は良いって言ったの?」
「人数が集まれば先生にお願いしにいきます。そういう手続きはこちらでやるので、加入意思だけ示してくれたら大丈夫です」
「怖い先輩がいないなら、私入ろうかな」
「じゃぁ、私も」
 20人のクラスから2人の候補が集まった。
「やったね、直ちゃん。もう、4人だよ。簡単だね」
「ありがとう、由香のおかげだよ」
 しかし、当たり前の出会いがあった。鰐淵健吾がいた。やっぱり野球部に入るのか、坊主頭をしていた。それがとても綺麗な坊主頭だったもので、思わず直はぷっと吹いてしまった。それが良くなかった。健吾の琴線に触れた。
「お、『ピアノ壊しで有名な直ちゃん』じゃねぇか。また、なんか企んでるのか?」
 険悪な雰囲気が流れる。それでも、それを払拭しようと由香は懸命に演説する。しかし、それ以上にクラスの生徒達には恐れるものがあった。
大島小でも有名だった直×由香のFamousコンビに関わると、鰐に目をつけられるのではないかと皆は怯えているのだ。ちなみにこのFamousコンビというのは、苗字が佐藤と鈴木で既にFamousなのにそれを越えるFamousを持っているという意味だった。直はカラオケとピアノで、由香は児童会長とその明晰な頭脳で、子供達の間では有名だった。由香はポスト「白雪姫」とも評されていたし、直は大島の「セイレーン」と噂されていた。
 白雪姫とセイレーンが合わさっても鰐には勝てないのか、そんなとき1人の少女から質問があがった。
「お芝居ってキスシーンとかあるんですか?」
 周囲がざわつく。
「そ、それはですね。メンバー内で調整したいと思います」
 由香お得意の役人答弁がでるときは大抵困っているときだ。
「そうなんですか。せっかくFamousコンビのキスシーンが見られると思ったのに」
 少女が仰々しく残念がる。
「Famousコンビのキスシーンはあります。そのための英語部です。王子を直ちゃんが、姫を私が演じます」
 何の取り決めもしてないのに由香が即答する。
「だったら、はいりま~す」
「お名前は?」
「草花百合子です」
 どこからか「ちっ」と舌打ちする声が聞こえた。
 これで6名が揃った。あとは顧問の先生がいればいい。英語部なのだから、英語の先生に声をかけるべきだろう。英語の先生は2人いた。中年女性と若手男性だ。中年女性は何だか怖そうだったので、若手男性に声を掛けることにした。
「先生、1年の鈴木と申します。英語部を作るために、6人集めました。顧問になって頂けないでしょうか」
「えっ、君たち入学していきなり部活作るの?というかまだ英語習ったことないでしょ?」
「はい、勉強とは独立して英語劇を演じることで実用的な英語を学びたいと思います」
「そうか~。なんか感動したな、僕でよければ……」
 若手男性が判子を取り出す。そのとき、
「聞き捨てなりませんね」
 中年女性が別の机の列からぐるっと回ってこちらへやってきた。
「貴女達、私達の授業が実用的でないというのかしら?矢崎先生、あなたは既にテニス部の顧問になっていますでしょう。英語部を見てる余裕はないんじゃないでしょうか」
「谷川先生っ!……良かったら顧問やられますか?」
「私がやるはずないでしょう。大島が誇る水泳部のための時間を1秒足りとも割けませんわ」
 そこで、由香が言い返す。
「それでは、谷川……先生は、英語部を作るなと仰いたいんですか?生徒の自由を奪うんですか?」
 正義を振りかざすのは由香の得意技だ。
「いえいえ、作ったらいいと思いますわ。でも、それはまず英語の授業を受けてからです。英語が何かを分かるまでは他の部に入ったらどうです?」
「先生はそれまでにどのくらい時間がかかると思われますか?」
「そうね。生徒によるから一概には言えませんけど、最低でも1年は必要じゃないかしら?」
「そんな、そしたら文化祭での発表が下手したら中学校生活で1回しかできないじゃないですか!」
「少なくとも英語科としては協力しませんので、悪しからず」
 そう言って谷川先生は去って行った。
「はは、そういうことみたいだから、ごめんね、君達」
 矢崎先生は申し訳なさそうに頭を下げた。大人の世界は厳しい。この雰囲気で公に顧問を探すことは流石に難しいと思い、職員室を後にした。
「直ちゃん、私、完全に頭にきたわ。ローラー作戦よ。誰が何部を顧問しているか表を作って、負担が少ない先生に形だけの顧問をお願いしましょ」
 そして6日目、いろんな先生に職員室の外でインタビューをして表が完成した。裏付けもしてある。
「ワトソン君、この表を見ると、多くの教師が部活動を担当していないね。少子高齢化で、先生余りになってるのだね。それでも、大島にこれだけポストが許されてるのは大島は人気だということかな。さぁ、誰がいい? ちなみに田中先生は私達の担任だよ」
「うちは直だが……」
「雰囲気よ、直ちゃん。お芝居は始まってるの。やっぱり担任と変な軋轢があるとやりにくいかしら?とりあえず授業の終わりに各先生を口説いてみましょ」
「それより由香、あのアルファベットというやつがちんぷんかんぷんなんだが、大丈夫だろうか?」
「大丈夫よ、直ちゃん。私は大文字、小文字、発音、筆記体も押さえたわ。うちに泊まりに来てくれたら、一から教えるから」
 そしてFamousコンビは美術の授業後、華椿先生の元へ駆け出した。
「あの、英語部を作るんで、顧問になってもらえませんか?」
「ああ、谷川先生から話は聞いてます。確かに英語を学んでからの判断がいいと思いますよ」
 Famousコンビは一蹴されてしまった。どの先生も同じ対応だった。そして、数学の授業の後、
「流生斗(るうと)先生、一生のお願いがあるの!英語部の顧問になって下さい!」
 由香は頼み込んだ。
「お願いします!」
 直も頭を下げた。
「ふむ、私は教師側の情報は全部握っているが、そのお願いは意味のあるものかな」
「それは……」
「言い方を変えよう。私が君達のお願いを聞くべきであることを証明してくれ」
「そんな……私達はまだ証明問題を教わっていません、あっ」
「そういうことだ。君達も習っていない英語の部活を作ろうとしている。同じだとは思わないかね」
 由香が悔しそうな顔をしている。
「じゃぁ、サービスで時間をあげよう。放課後に私は数学準備室にいる。そこで答を聞かせてくれ」
 そう言って流生斗は去って行った。
「由香、無理を言ってすまなかった。ここまでされたら勝てないよ。諦めよう。私は美術部に入るよ」
「まだよ!まだ放課後まで1時間以上ある。それまでに答を出してみる」
 その後の授業は、由香は黒板を見ないで、ずっと何かを書いていた。直はただそれを見守るしかなかった。
 放課後、Famousコンビは数学準備室を訪れた。
「失礼します」
 由香が神妙な面持ちをしている。
「ようこそ。ここに来たということは、『答』を持ってきたということだね。披露してごらん、採点してあげよう」
「まず、教師は生徒の教育をすべき存在です。それでお給料を貰っています」
「その通りだ、続けて」
「部活動で英語を勉強することは、教育に資する行為です。そのため、英語部の開設は認められるべきです」
「そうだね。でも、『今』、『流生斗が』、すべきことなのかな?」
「転部で人数を集めることは困難です」
「来年の1年生を勧誘すればいい」
「それじゃ……直ちゃんとの思い出が減っちゃう……」
 由香の目から涙が零れた。
「え?どうしたんだ、由香。私と由香はずっと一緒だろ?」」
「今の会話からも分かる通り、この子は頭が良い。それも、とてつもなくね。鈴木由香さん、君の存在は入学前から中学校としても認識していた。学校としては、君を『ないち』の高校に進学させるつもりだ。今、泣いているということはご両親もそのつもりなんだろうね。中学校の青春が大事なお友達との最後の思い出だったというわけだ」
「そこまで分かってるならどうして?!」
「設問を思い出して欲しい。『あなた』の感情を伝えよ、というものではなく、『わたし』の行動する根拠を証明せよ、というものだった。50点。不合格だ、鈴木さん」
 流生斗は眼鏡をくいと上げ、視線を落とす。終末期の患者の前で哀れみを演じる医者のようだった。
「先生、私、勉強する」
 流生斗も由香も驚いて直の方を向く。
「これからの数学のテスト、私は80点以上取り続ける。だから、英語部の顧問になってくれ。生徒が勉強することが教師は1番嬉しいんじゃないのか?小学生のときはそうだったぞ」
「なるほど。これはとんだ所に伏兵がいましたね。確かに回答になっています」
「ちなみにうちは算数が苦手だ、そもそも数字がよく分からない」
「それは信頼性に欠ける情報ですね。私はあなたの数学能力をまだ知らない」
「先生、それは私が保証します。6年間算数の面倒を見てきました。小学校に問い合わせて下さい。そして、私は100点を取り続けます」
「ほう、前半はともかく、私の作る問題を3年間1度もミスしないと言ってるんですか」
「生徒にここまで言わせて、断ったりしませんよね?」
 由香が念を押す。
「はっはっはっ。分かりました。引き受けましょう。2人合わせて80点の回答ということにしましょう。合格です」
「本当ですか?!良かったね、直ちゃん」
「うう、うちは丸暗記だけは得意だから、円周率だって由佳より多く言えるんだ。3.1415926535897932384626433832795028841971……」
「何ですか、あなたは。お名前は?」
「佐藤直」
「佐藤直……さんですか。2人のことはよく覚えておきます」
 そう言って、流生斗は書面に判子を押した。
「やったね、直ちゃん。あとは生徒会に出しに行こう」
 7日目。Famousコンビは2年生の教室を訪れた。
「あの、しらゆき、じゃなかった。山清水先輩、英語部開設の書面を受理して下さい」
「あら、貴女は児童会の。生徒会はどうかしら?貴女が入ってくれると助かるわ」
「はは、児童会でもうコリゴリというか、満足したというか……」
「残念ね。この部活はどういうことをするのかしら?」
「文化祭で英語劇を発表するために練習します」
「それだけ?」
「ええ、今のところは……」
「そう、なら私も入りますわ」
「え?今なんと?」
「ですから、私も英語部に入りますわ」
「え?先輩今の部活辞めるんですか?」
「吹奏楽部はこのまま続けますわ。お芝居の暗記なら1週間前から始めれば十分です。もちろん、主役など奪うつもりはないので、ご心配なく」
「えっと、ちょっと確認したいことがあるので、出直してきます」
 白雪姫が加入となったら、クラスの子が抜けてしまうのではないかという由香の不安は的中した。ただ、草花百合子だけは残ってくれた。
「Famousコンビのキスシーンもいいですけど、白雪姫も気になりますねえ!」
 Famousコンビは白雪姫を再度訪れ、泣きついた。
「先輩!1人足りないんですけど、何とかなりませんか?」
「まぁ、じゃぁ暇そうなのを追加しておくわ。部長はどちらがやるのかしら」
「それは、直ちゃんで!」
「え?由香じゃないのか?」
「ほら、直ちゃんが言いだしっぺだし。私は副部長やるよ」
「分かりましたわ。後日、正式な名簿を渡しに行きます。活動はそれからということで」
「じゃぁ、直ちゃん、メンバーが揃うまでは自主練ってことにしましょ。勿論、直ちゃんはうちに来ていいのよ」
「ああ、アルファベットが読めないから、音で教えてくれ」
 数日後、直の元に名簿が送られてきた。
「正式に英語部の活動が認められました。この島には英語部が存在していなかったので、他校や町役場から何か依頼があるかもしれませんが、部長と顧問が中心となって運営して下さいませ。なお、私ともう1人は兼部という形で基本的には参加しませんので悪しからず」
 直と由香は、名簿を確認した。練習場所や部員の緊急連絡先などが書いてある。肝心のもう1人が誰かを確認すると、そこには3年月ノ下輝夜と書かれていた。
「ええっ?!最悪のシナリオだよ。まさかとは思っていたけど……。白雪姫と同じように直前から練習に参加するのかな。でも、学校中の注目集めるから、いいかも!ああ、それはそれで緊張するわ!」
 由香は頭の回転が早すぎて、たまにおかしくなる。
「いずれにしても、まずはお芝居の題材を決めるところからね。今日の放課後、百合子ちゃんと、第1回目の部活動をしましょう」
 放課後、パソコン室に4人が集まった。
「じゃぁ、部長の挨拶の後に、自己紹介、最後に先生から一言頂いて始めましょう」
 先生がいるのに、由香が場を仕切った。挨拶と言われて、直は困ってしまった。
「えっと、いろんな人と仲良くなるために英語を学びたい。みんなで協力して楽しもう」
 由香が拍手する。
「佐藤直です。勉強は苦手ですが、英語は頑張りたいです。じゃぁ、由香……」
「はい、副部長の鈴木由香です。小学校のときはテニスクラブでしたが、中学生になったので新しい試みをしたいと思い、英語部に加入しました。よろしくお願いします。じゃぁ、百合子ちゃん!」
「えっと、草花百合子です。趣味は恋愛系の漫画を読むことです。よろしくお願いします。じゃあ、先生」
「数学を教えてる流生斗解です。基本的な英語は私も分かるので、何かあれば数学準備室まで。パソコン室の消灯と施錠は徹底すること。文化祭は楽しみにしている、以上」
 そう言って、流生斗はパソコン室を出て行った。
「じゃぁ、英語の授業はそれぞれ頑張って勉強するとして、題材を決めないとね。何がいい?直ちゃん?」
「うちは、国語の教科書以外本を読んだ覚えがないからな……あとは昔話とか………」
「う~ん、百合子ちゃんは?」
「わたしは、『クズの本懐』かな」
「ん?どういう話?」
「えっと、仮面カップルがそれぞれ本当は別の先生が好きって、話。ヒロインは友人の女の子とキス以上の関係になっちゃったり……」
「百合子ちゃん!それを文化祭でやるにはあらゆる抵抗勢力と戦う事になるわ!そもそも海外の話じゃないと!あと、貸してね!」
「ちなみに由香は何か当てはあったのか?」
「私はね、定番だけど、ディズニーがいいかなって。直ちゃんにガラスの靴を拾ってもらったり、氷になった直ちゃんに守ってもらったり……」
「『シンデレラ』と『アナと雪の女王』だね。ん~3人でやるには、難しそうだけど……。『美女と野獣』だったらできるんじゃないかな?野獣とベルとその父親がいればストーリーができるんじゃない?先輩方にはお城の賑やかしをしてもらうっていうことで。負担も少ないだろうし」
百合子が提案した。
「私、野獣になった直ちゃんに襲われるの?!」
「いや、野獣から王子になるのよ」
「うちはゴリラかなんかになるのか?」
「でも、いいかもしれないわね。百合子ちゃんナイスよ」
 冷静に由香が咀嚼する。
「直ちゃんにストーリーを簡単に説明するわね。商人が道に迷って、ある城に辿り着くの。そこには綺麗な薔薇が咲いていてね。商人は娘のベルのために薔薇を一輪持ち帰るの。それが城の主の野獣に見つかってしまうの。商人は監禁されてしまうのだけれど、探しに来たベルが代わりになって、それから野獣とベルの共同生活がスタートするわ。野獣のことを嫌ってたベルだけど、本好きで頭の良かったベルは、次第に教養の高い野獣に惹かれていくの。そんなとき、ベルは魔法の鏡で父親が病気で苦しんでいる姿を見つけるの。野獣に父の看病へ行かせてくれと頼むと野獣はしぶしぶ許可を出したわ。父の看病が終わって、魔法の鏡を見ると、今度は野獣が死にかけていたの。野獣は薔薇の花びらが散るまでに『真実の愛』を見つけなきゃ死ぬ呪いにかかっていたのね。ベルはもちろん、父親と昔のような生活を送り続けることができたわ。でも、彼女は城にかけつけて瀕死の野獣にキスするの。すると、呪いが解けて、野獣は王子様の姿に戻るのよ。とってもロマンティックでしょ?」
「すごいな。大体脚本の筋はできたね。あとは、英語にするだけだ」
 百合子が由香のまとめる力に驚く。
「えっと野獣は喋れるのか?衣装はどうする?」
「直ちゃん、野獣はもちろん喋れるわ。衣装に手を出すのは難しいわね。衣装は最悪制服でやりましょ。直ちゃんと百合子ちゃんが学ラン着るくらいね。じゃぁ、早速動画配信サイトで『美女と野獣』を見ましょう」
 それから3人は放課後、「美女と野獣」を日本語吹替と日本語字幕で見た。しかし、課題が浮き彫りになった。それは英語字幕がないと不便だということと、文化祭当日日本語字幕がないと聴いてる中学生が分からないということだった。
「英語字幕については、英語教材用のDVDを買えば付いてると思うけど、英語部には予算がないわ。そして、日本語字幕はプロジェクターかしらね…。裏方が必要だわ。あるいは王子か白雪姫にやって頂くしかないわね。とりあえず私は日本語の台本のたたき台を作るわ。その間、直ちゃんは流生斗先生との約束を守るために数学の勉強をしてもらおうかな。百合子ちゃんはどうしようか……」
「私はパソコンでYoutube見たり、ブログ見たりして気ままに英語の勉強しとくよ。放課後にまで教科書開くの嫌だしね」
 こうして、3人はパソコン室でバラバラの作業を始めた。直は不得意な算数が数学になったことで分からないことだらけだったため、しょっちゅう流生斗の元を訪れた。流生斗は嫌な顔一つせず直に教え続けた。出来ない子が出来るようになることは教師の誉れである。
 ゴールデンウィークを迎え、由香の脚本は完成した。それは場面ごとに最低限必要な映画の台詞を抜き出した簡素なものであった。
「いろいろ考えたんだけど、決めるのは台詞だけにしたわ。私達はお芝居の素人だから、細かい動きを指定しても不自然になるだろうし、私達は何回も映画を観たわ。動きは自然な流れでいいと思うの。ただ、書いてて思ったんだけど、場面転換が多いわ。場面を思い切って削った方がいいかも。あと、場面転換をどうやって行うかね。ステージのライトを消すならその係も必要……」
 由香が暗い表情になる。今日は由香の家で集まっているのだ。
「ん~面白くないね、これ。美女と野獣の本当のストーリー知ってるから、尚更面白くないのかも。大島の設定にしちゃうとか?薔薇は椿でしょ?ドレスの代わりにあんこの着物着て、野獣は御神火様にするとか?」
「うちは、御神火様になるのか?!」
「百合子ちゃん、それ面白いわね。創作意欲が沸いてきたわ!でも、英語を暗唱すればお芝居はできるという当初の目論見からずれるわね。困ったわ。私、明日から家族旅行なの。ちょっと考えてみるわね。2人は今の台本でイメージトレーニングしておいて。それじゃ、みんなで嵐の曲でも聴きましょ」
「私、ジャニーズはあんまり好きじゃないんだよね。ボーカロイド聞こうよ」
「なんだ、ボーカロイドって?」
「歌うパソコン……かな?」
「パソコンが歌うのか?!」
「正確に言うと、パソコンでプログラムを設定して歌を歌わせるのよ、直ちゃん」
「じゃぁ、完璧な歌を歌えるのか?」
「それがそうでもないんだよね。だけどかえって人間臭くていいと思うけど」
「プログラムの設定が難しいみたいね」
「でも、練習すれば上手くなるんだな」
「人間と一緒ね、直ちゃん」
 由香が優しい表情で直を見つめる。この歌を奪われた少女は、また歌に関心を持ってくれたのだろうか。その日はもう直が口を開くことはなかった。
 ゴールデンウィークが終わると、普通はみなどうやって過ごしたかをお喋りする。でも、由香のように家族旅行をするものは少なかった。理由は2つある。1つ目は、経済的に余裕のある家庭が少ないことである。そして2つ目は、大島は観光の街であることだ。長期連休はかき入れ時なのである。そのため子供達の日常は変わらない、あるいは親の手伝いをする。
 直達は、台本について話し合っていた。
「百合子ちゃんの言う通り、『美女と野獣』を『あんこと御神火様』にするのはいいと思うわ。台本もイメージはついてるけど、英語の台詞を修正する必要があるわね。流生斗先生に頼んでみる?直ちゃんと百合子ちゃんは台本は頭に入った?」
「うん、うちは丸暗記は得意だから大丈夫だぞ」
「私もこれくらいの量なら。ナレーションはどうするの?」
「百合子ちゃん、ナレーションは白雪姫に頼もうと思うの。情報量が1番多くて正しい英語を伝える必要があるから、ここは裏方と違って大事なところね」
 放課後3人は流生斗を訪れたが、流生斗の返事はイエスでもノーでもなかった。
「皆さん、私が英語の台本を作ることは可能ですが、英語のプロではない私が作った台本で皆さんは本当に満足できるのですか?よく考えてみてください」
 直と百合子は、それでも自分達が作るより遥かにましだと思ったが、負けん気の強い由香は考え込んでしまった。白雪姫へのナレーションの依頼はと言うと、
「あら、ナレーションだなんて大役を頂けるのね、鈴木さん。私はてっきりエキストラか裏方に使われるかと思ってましたわ。ちなみにあの放け者、いえ会長には何の役をやらせるのかしら。ほう、プロジェクターの操作か照明の切り替えね。貴女達、新入生なのに生徒会の副会長と会長を顎で使うなんて、相当肝が据わってますわ。なんだか英語部を抜ける未来が見えてきましたわね」
「っ!山清水副会長、それは困ります」
「それで、鈴木さん。どうやって止めるつもりかしら」
 山清水の提案は、由香が生徒会役員に立候補することだった。生徒会役員の活動は、行事の運営やボランティア活動、公約の実現など多岐に渡るが、これらはもちろん授業中に行うわけにはいかない。放課後の部活の時間を削って行われるのだ。これは由佳にとって、直との思い出が削られる耐え難いものであった。しかし、ここで断れば英語部は解体してしまうかもしれない。
「副会長、しばらく考えさせてください」
「鈴木さん、役員選挙は文化祭の後よ。ゆっくり考えてちょうだい」
 流生斗と白雪姫から宿題をもらって由香は悩み始めてしまった。月末には中間テストがある。3人はお芝居を合わせては日本語の台本を修正していく日々を送った。そして、テスト週間に入ると、3人は由香の家で英数を中心に勉強した。
 大島中学校のほとんどの生徒は大島高校に進学する。そして、大島高校は受験すればほとんどの生徒が合格する高校である。大島の教育は都会のような詰め込み教育ではないのである。そのため、由香達のように問題意識をもって勉学に励めば中1の最初のテストで高得点を取るのは難しくない。
「直ちゃん、数学のテストどうだった?」
「由香のおかげで85点だったぞ。由香はどうだった」
「全部100点だったわ。このペースでいけば流生斗先生との約束も守れそうね」
「流石だな!ただ、他の教科は追試があるから、すぐに部活再開は難しそうだ……」
「直ちゃん……。じゃぁ、百合子ちゃんと先に練習してるわ」
「由香ちゃん、私も追試があるんだ……」
「百合子ちゃんも?!じゃぁ、放課後は3人で勉強しましょ」
 こうして追試を乗り切ったあとは、英語の台詞を練習し始めた。直は、耳で覚えて再現することができたが、他の2人はそれが難しいため、直が発生を片仮名で書き下した。
由香:「テイクミーインステッ」
直:「ユー?ユーウドゥテイクヒズプレイス?」
百合子:「ベル、ノー!ユードノウファッチュアドゥーイン」
由香:「イフアイディドゥ、ウジュレッヒムゴ?」
「このへんは何となく分かるわね、発音もしやすいし、細かいところは分からないけど」
「動詞は1個って習ったけど、よく分からないね」
「大丈夫、書いてる本人は何も分からない」
 こんな要領で3人の練習は続いていった。そして期末テストを迎えた。
「由香、今回の数学テストは80点だった。危なかった。由香はどうだった?」
 由香は机の上の1枚の紙を凝視したまま動かない。
「……由香?」
 由香の机の上の紙には99という数字が見える。
「そんな?!うちは、由香が間違えたところは見たことがないぞ!これは何かの間違いだ!」
 直は奮起して立ち上がった。
「佐藤さん、静かにしてください。テストの内容についての疑義は放課後職員室で受け付けます」
 流生斗が嗜めた。直は黙って着席した。
 放課後、3人は職員室の流生斗の元を訪れた。
「先生、由香の回答はあってるはずだ。これは1じゃない、7だ。途中式も、えっと……」
「(-1)×(-7)と書いてるんですから、1になるわけないじゃないですか。この答は7ですよ」
 直と百合子がこぞって流生斗に嘆願する。
「これは私には1に見えますね。どうですか?鈴木さん?」
「私は……7と書いたつもりです」
「しかし、鈴木さん。このテストにおける筆跡を見ると、この答は7より1に近いですね。相手に伝わらなければ、言葉は意味を持ちません。良い社会勉強になったと思って、自戒してください。以上です。約束通り、私の英語部の顧問はここまでです」
職員室に静寂が訪れる。その静寂の中、由香の小さな嗚咽だけが聞こえる。
「直ちゃん……ごめんね」
 由香の口から上擦った声が漏れる。直は気持ちの昂ぶりを抑えきれなかった。
「谷川先生!聞いてくれ!うちらは短い間でちゃんと英語の勉強をしたんだ!認めてくれ!英語部の顧問になってくれ!」
 直は声をあげると、美女と野獣の台本を全て暗唱した。
「佐藤さん、間接疑問文も仮定法も習ってないのに。どうやって?」
 矢崎先生が驚いた表情で声をかける。
「うちは何回も聞けば、英語を音として覚えられる。由香は頭がいいし、部活をまとめられる。百合子がいれば台本はもっとおもしろくなる。残りの2人は生徒会長と副会長だ。英語部で演劇をしていくことは十分可能なんだ。頼む、英語部の顧問になってくれ」
「谷川先生、生徒の努力を認めてあげたらいかがでしょうか?」
 矢崎先生から同情の声が挙がる。
「矢崎先生、無責任な発言は謹んでいただけますか?英語部を皮切りに数学部、国語部と生まれたらどうですか?私達の授業では心許ないのかと保護者を心配させます。ましてや、当校は1学年1クラスしかありません。新しい部活を作ると、他の部活から人を奪うことにつながります。例外を認めるということはそれ相応の理由が必要です」
 矢崎先生は何も言えなくなってしまった。そこに百合子が声を挙げた。
「では、先生。英語部ではなく、演劇部だったらどうでしょう?先程の直の暗唱は『美女と野獣』から抜粋したものです。それを大島風にアレンジします。『あんこと御神火様』です。それを英語で行います。文化祭はもちろん、椿祭りなど町のお祭りでも演じます。これは大島を訪れる外国人にも良いアピールになるのじゃないでしょうか。ただ、欠けてるものが1つあります。それは谷川先生です。先生の指導がなければ『あんこと御神火様』を英語で演じることは不可能です。よろしくお願いします」
 職員室に再び静寂が訪れる。誰もが谷川先生の次の言葉を固唾を呑んで見守っていた。
「はぁ~、随分馬鹿にされたものね……。流生斗先生、あなた試験の点数をいじっていいと思ってるの?教職員としてあるまじき行為だわ。それと、鈴木さん泣き真似は止めなさい。草花さん、あなたは演劇をするんだったら、台詞にもう少し気持ちを込めた方がいいわね」
 百合子がバツの悪そうな顔で傾く。流生斗先生も黙っている。
「えっ?なんだ?どういうことだ?」
「やっぱり佐藤さんは知らされてなかったみたいね。貴女からは本気が伝わったわ。簡単に大人を騙せると思わないことね」
 直はまだ状況を掴めなかった。
「谷川先生、お願いします。『あんこと御神火様』を作りたい気持ちは本当です。谷川先生の指導がなければ作れません。それと、流生斗先生は私の稚拙な答案に適正な点数をつけただけです。先生は悪くありません」
「本当にお騒がせな人達ですね。これは私の目が届くところに置いておかなければいけませんね。演劇部、ということであれば引き受けましょう。英語の指導は可能ですが、来年の新入生などの他の生徒に貴女達のような無茶な英語の勉強を強要しないこと。いいですね」
「先生!ありがとうございます!」
「流生斗先生、貴方については教頭先生に厳重に注意してもらいましょう。ね、教頭先生」
「えっ。いや、そうですね……。では、流生斗先生の人事評価も100点満点ではなく、99点満点ということで、どうですかね?谷川先生?」
「本当にここの教員は甘いんだから。私が新人の頃過ごした足立区なんて酷かったんですからね……」
「まぁまぁ谷川先生、その話は置いといて。えっと君達は部活の顧問が代わるから、山清水さんに届出出しといてね。もう部活に行っていいですよ」
 教頭先生に促されて、3人は職員室を後にした。
「由香、どういうことだ?わざとテストで間違えたのか?」
「やだな直ちゃん、人聞きが悪いわ。流生斗先生の言ったとおり私が書いた7が1に見えたのが悪かったのよ」
「由香、私は由香は嘘をつかないって信じてるからな」
「も~直ちゃん、そんなこと言わないで。直ちゃんは純粋だからお芝居は難しいかなって思ったのよ。百合子ちゃんには台詞覚えてもらったけど、流生斗先生には怒られるかもと思ったから打ち合わせはしてないの。露骨に間違えると取り返しがつかないから、7を1に書いてみたの。そしたら流生斗先生は間違いだと認めてくれたわ。谷川先生を説得できなかったとしても、流生斗先生に間違いじゃないと押し切る目論見だったのよ。まっさきに谷川先生に啖呵切ってくれて嬉しかったわ、直ちゃん」
「そうだったのか。でも、由香のことだ。うちの行動も計算のうちだったんじゃないのか?うちらは友達だろ。何でも私に相談して欲しい」
「分かったは直ちゃん、ごめんね。今度からは相談するわ。百合子ちゃんも台詞アレンジしてくれてありがとうね」
「ちゃんと練習したのに、谷川先生に気持ちが入ってないって言われて悔しいな~。部活名も演劇部になるし、お芝居の練習しっかりしよう」
 百合子がぶつくさ呟いている。
「そうね、百合子ちゃん。演劇部になるから、お芝居頑張りましょ。ね、直部長」
「お芝居ができないうちが部長なんかやっていいのか……」
「もう、お芝居をする大義名分があれば、直ちゃん大丈夫よ。御神火様になるのよ、直ちゃん」
「うちが御神火様……」
「さ、谷川先生がバックについたんだから、英語は一安心ね。脚本を大島風に脚色するわよ!」
 そして、夏休みが訪れた。英語部、改め演劇部は午前中に由香の家で夏休みの宿題をし、午後はパソコン室で英語劇の練習をした。こういうスケジュールになったのは谷川先生が顧問を務める水泳部の部活を涼しい午前中にやりたかったからだ。谷川先生には、部活の後はまっすぐ家に帰るように言われたが、3人は観光客で賑わう大島をぶらぶら歩いた。商店街や海岸に集まる人々を見ると、いつもの街が活気づいて見えて直はなんだか嬉しかった。中にはサマーキャンプなのかたくさんの子供達で来ているグループもあり、お土産を買ったりシュノーケリングをしたりして喜んでいた。直も百合子も人見知りする方で積極的に話しかけられなかったが、社交的な由香は話しかけて大島のことを説明していた。そんな由香は高校から大島を出てしまうのだ。ないちから来たお金持ちの子供達と同じ存在になってしまうのだ。そう考えると、直は寂しかった。
 いつも通り由香の家で宿題といいつつ、音楽を聴いていると、由香が2人に提案してきた。御神火様に登って、三原神社に文化祭の成功をお祈りしようというのだ。御神火様はもちろん2人とも登ったことがあるが、大人不在で登ったことはなかった。山頂入口まで自転車で行こうという計画だったが、直は自転車を持ってなかった。そこで直は和と恵に頼んだ。
「父ちゃん、母ちゃん。うち自転車が欲しい」
「なんだ直、どこか行きたいなら父ちゃんが車出すぞ。自転車は母ちゃんのを使うってこともできる」
「自分のが欲しい」
 直は自転車を持っていなかった。自転車は母の自転車で練習して乗れる様になっていたが、直の移動は徒歩か父の軽自動車だった。和に文化祭祈願のことを話すと、伊勢海老の禁猟期間で幾分暇な和は快く車を出すと言ってくれた。こうして、和の引率の元、演劇部は御神火様へ参ることになった。
「直、ミス大島になれるように祈るんだぞ!」
 和が大きな声で直を焚きつける。観光業が主産業である大島にとって、ミスコン優勝者は大島の女性の仕事の花形であった。和、由香、百合子が富士山を仰ぐ三原神社の鳥居の前で熱心に拝んでる横で、直は何を祈ったら良いのか分からなかった。確か小さい頃も似たようなことがあった気がする。ふと火口の方を見やると、火口付近に黄色い花が何輪か咲いていた。この大島ではあまり見ない花だと思った。何より火山地帯は植生に適しない環境であり、育つのは僅かな希少種である。直が黄色い花に近づいていくと後ろから和の声がした。
「直、あんまり火口に近づくんじゃないぞ。落ちたら大変だからな」
 引き止められた直は、和達と共に下山していく。頭から離れないのは黄色い花。直が毎日水をやっている種からもいつかあんな黄色い花が咲くのだろうか。
 夏休みが終わり。文化祭まで2週間となった。由香は、白雪姫と王子に台本を渡し、何回かリハーサル練習に付き合ってくれるように頼んだ。
「流石、谷川先生監修なだけあって、英文がしっかりしていますね。ナレーションなら暗記する必要もないですし、1度下読みすれば私はいつでも準備できますわ」
「僕の方はパソコンのエンターキーでプロジェクターの画面を変えていくだけだね。この月ノ下輝夜、全力で取り組ませて頂こう!」
 2人の承諾を得て、照明の切り替えはもう少しわけないが谷川先生にやって頂くことにした。演劇というのは思ったより人手がいるものだ。来年の新入生の勧誘はしっかり行わなくてはと直は思った。
 こうして遂に文化祭当日に漕ぎ着けた。日本語と英語の台本の元、練習も十分行ったし、衣装も準備した。しかし、想定外の事態が起きた。由香が発熱したのだ。朝、由香の母親から電話があり、謝罪と共に由香からのメッセージを伝われた。「あんこは王子に」。悍ましいメッセージだったが、確かに他に頼れる人はいなかった。
 直は、当校して王子の元へ直行しようと思ったが、念の為に白雪姫に相談した。
「なるほど。事情は分かりました。解決策としては最も的確でしょうが、結果は覚悟しておいてください。この件は、佐藤さんから不届き者、いえ会長に直接頼まれた方が良いでしょう。プロジェクターの業務は他の生徒会役員に頼んでおきます」
 意味深な台詞を聞き、不安を隠せないまま、直は王子のもとを訪れた。
「やぁ!直さん、今日は初めての文化祭だね!緊張しているかい?」
「会長、おはようございます。実は由香が病欠なので、あんこの代役をお願いできませんか?」
「直君、容易いことさ!この月ノ下輝夜に任せたまえ!ただし、僕からのお願いも聞いてくれるかな?」
「なんでしょう?」
「君も生徒会役員に立候補してくれ」
「えっ?いやいや、由香なら小学生のときからやってるから分かるけど、うちはリーダーとかそんな柄じゃないぞ」
「なに、生徒会長になれと言ってるわけじゃない。次の会長は山清水君だろう。そのサポートをしてくれればいいのさ。立候補しても落選すれば問題ないしね」
「そうか……。じゃぁ、お願いします」
「了解さ。じゃぁ、我々は生徒会として文化祭の準備があるから後でね、アディオス」
 こうして演劇部はキャスティングの変更があったとは言え、無事開幕を迎えることができた。吹奏楽部の演奏の後、白雪姫の落ち着いたトーンのナレーションが始まる。ここまでは順調だ。そして現れたヒロイン、つまり王子はセーラー服を着ていた。
「キャー、王子~!」
 歓声が挙がる。そして、王子が台詞を話し、始めない。しかし、誰かの声は聞こえる。王子は口を動かし、手を動かし、本好きで物静かなヒロインとは対照的なキャラクターを演じている。その動作に合わせて白雪姫がアフレコしていたのだ。これが白雪姫の言っていた覚悟か。
 そしてついに見せ場であるダンスシーン。あんこ姿の王子と御神火様姿として茶色のハイウエストのスカートと赤いトップスを着た直が伊豆大島の踊りを踊る。そしてラストシーン。椿の花びらの最後の一枚が落ちて、御神火様が倒れこむ。そこにあんこがキスのポーズをする。
ここで照明が暗転して、直が学ラン姿で登場してフィナーレのはずだった。しかし、谷川先生が再度照明をつけたとき露わになったのは、王子を張り倒して、茶色いロングスカートがずり落ちた直の姿であった。赤いトップスが大きく見え、まるで御神火様が噴火したような格好だ。
「こうして、あんこの郷土愛により御神火様は活気を取り戻し、大島を守ってくれるのでした」
 白雪姫がアドリブで話を締めくくり、閉幕した。これ以降、佐藤直は「王子に噴火した直ちゃん」として中学校でも一躍有名になった。
 生徒会役員選挙では、この影響もありFamousコンビは難なく当選した。そもそも立候補者が少なく、信任不信任の選挙であったことが大きい。生徒会役員の体制は、白雪姫が生徒会長、由香が副会長、そして直が会計ということになった。そのため、スライド人事で百合子が演劇部部長となった。
 この「あんこと御神火様」は教職員にも好評であり、日本語と英語を交えた形で1月の椿祭りでも披露された。見せ場のダンスシーンではミス椿を始めとするあんこ達がこぞって参加し、見ごたえのあるものとなった。
 そして、春が来た。直、中学2年生。王子が卒業したため、演劇部の人数は4人になってしまった。王子の卒業式の挨拶は、全部白雪姫が考えたものであるということはここだけの話だ。本当になんであの人が生徒会長をやってたんだ。
 新歓の司会は由香が行う。演劇部の出し物もあるが3分で何を伝えたらいいのだろうか。そこで由香が考案したのは、給食の時間の放送の枠だ。この放送は放送委員会の権限の元、生徒のリクエスト曲を流す。そのリクエストの一貫として演劇部の枠を貰ったのだ。給食の時間は1時間弱ある。音源を事前に用意しておけば、それを放送委員会にかけてもらうだけだ。演劇部は椿祭りのときに撮影した動画の音源を流した。それは効果を奏して、新入生から3名が演劇部に入部した。これによって演劇部は7名になった。全校生徒は役90名なので、2週間に1回程度は演劇部の時間をもらえる計算だ。新入生3人と部長の百合子には早速自由な日本語の劇を録音してもらい、給食の時間に放送した。全校に対して早速お披露目のある新入生は周りから羨ましがられた。そして、さらに2名が兼部という形で演劇部に入部した。演劇部はいまや部員9名という大派閥になった。
 これに面白くなかったのは健吾である。野球部のエースとなった健吾は男子に対する影響力が強かった。しかし、もう騒ぎ立てるだけの馬鹿な健吾ではない。健吾は、由香と直に対して生徒会役員の辞職を求めた。理由は、昼食の放送ジャックをしたということであった。署名は野球部全員の名前が記されていた。
 由香は元々やりたくなかったことなので未練はないと言ったが、健吾の卑劣なやり方に直は頭がきた。この議題は6月の生徒総会で議論されることになった。
 生徒総会の司会は基本的に由香が行うが、議題が直と由香の辞職に移ると、白雪姫が司会に変わった。
「では、議題No.3。2年の鰐淵健吾さんからの意見です。鰐渕さん、お願いします」
 健吾が前に出る。
「演劇部は、自分たちの活動を聞きたくもない他の生徒に無理やり聞かせています。これはズルい行為です。たとえば、全校生徒に野球部の練習試合に応援に来てくれと言ったら、嫌がりますよね。それが吹奏楽部や水泳部など他の部活もやりだしたら、みんな自分の時間がとれなくなります。演劇部だけ自分の活動を垂れ流すのはズルいです。こんなズルい演劇部を生徒会役員にしておくわけにはいきません。私は、いえ、私達は演劇部が生徒会役員を務めることを許せません」
 健吾の演説の後に、生徒達から「そうだそうだ」とヤジが飛び交う。
「続いて生徒会副会長鈴木さん、答弁をお願いします」
「鰐渕さん、ということは私と佐藤だけではなく、山清水の辞職も求めているのでしょうか。それは当然、代わりになる人材もあてがあっての発言だということですよね?」
「鈴木さん、対象者は貴女の言う通りですが、選択肢は辞職だけとは限りません。演劇部を辞めることだってできるはずです。演劇部は大きい部活です。3人いなくなっても部活は存続します。特に山清水生徒会長については、吹奏楽部に専念できて好都合なはずです」
 周囲がざわつく。由香が苦虫を噛み潰したような顔で壇上に立つ。
「今回の取り組みについて皆さんを不快にさせてしまった点については心より謝罪申し上げます。私達は生徒会役員も演劇部も全力で取り組んでおります。今後は、昼休みの放送の時間の使い方には放送委員と各部長を交えて決めていきたいと思います」
「鈴木副会長、これは信頼の問題なんですよ。謝罪して頂きましたが、この不信感は拭えません。そうだろ?みんな?」
 ほとんどの男子がこの発言に応じる。由香は生徒会の活動なんてどうでも良かったが、事前に教職員からこのタイミングでの再選挙や代理指名はできないと言われていた。とは言え、演劇部も辞めたくない。
「では、山清水は演劇部を辞め、私と佐藤は生徒会を辞めるという形で対応したいと思います。生徒会役員は空席という形で運営を進めさせて頂き、必要であれば人的労力をその都度有志で募るという形を取らせて頂きます」
「空席なんてそんなこと許されると思うんですか。明日から大島の副町長が空席になってもいいっていうんですか?」
「結局、私達から演劇を奪いたいだけなんでしょ。あなた直ちゃんから歌を奪ったときから何も変わってないわ!」
「副会長、私的な非難は謹んで下さい」
 白雪姫が由香を注意した。由香は壇上で黙り込んでしまった。その時、直が挙手した。
「佐藤さん、どうぞ」
 白雪姫が壇上へ促す。直は壇上に上ると、生徒の方ではなく健吾の方を向いた。
「健吾、お前、うちのこと好きなのか?今回のことを許してくれたら、付き合ってやってもいいぞ」
 生徒達がざわつく。直は壇上から降りると健吾に壇上に上がるよう顎でしゃくった。
「いや、別に好きじゃねぇよ……。会長!こんな話をする場じゃないだろ?!」
「なら、付き合わなくてもいいんだな?!」
 直がその場から大きな声で健吾に訴えかける。
「え……いや、おまえが付き合いたいなら、付き合ってやってもいいけど……」
「聞いたかみんな!こいつはうちが好きだから、ちょっかい出してるだけだ。会長、今一度この男に賛成する人数を確認したい」
「では、議題No.3に賛成する方は挙手をお願いします」
 白雪姫の声に反応する者は誰もいなかった。
「では、本件の重要性は著しく低いと考え、先の鈴木の回答、すなわち昼休みの放送の使い方を関係者で検討するという答弁で終了と致します」
「直ちゃん!流石ね!大好き!」
 由香が直に抱きついてくる。健吾はバツが悪くて生徒の中に入れずもじもじしていた。
「鰐渕さん、元の位置に戻って下さい。次の議題に移ります」
 白雪姫がここぞとばかりに冷徹な声で命じる。健吾は顔を真っ赤にして2年生の列に戻っていった。
 その日の放課後、生徒会役員は部活ではなく、生徒総会の議事録を作成した。直と由香が帰路に着こうと昇降口を出ると、後ろから健吾に声を掛けられた。
「お前らのせいでさんざんだ。覚えてろよ」
 直が振り向いて答える。
「小さい頃から女々しいやつだな。もっとハッキリ言ったらどうだ」
「直ちゃんはあんたなんかと絶対に付き合わないからね!」
「いや、付き合ってやってもいいぞ」
 直の台詞に2人は驚いて、直を凝視する。
「もう、その手には誤魔化されないぞ」
「いや、本当だその代わり、私に歌を返してくれ」
「まだそんなこと気にしてたのかよ。子供の時の話だろ?勝手に歌えよ」
「歌っていいんだな。もう私達に迷惑をかけないと誓うか?」
「分かったよ」
「じゃぁ、付き合おう」
「嘘つくんじゃねぇぞ!由香も聞いたな?!」
 そう言うと健吾は笑顔で校門に走っていった。
「直ちゃん、良かったの?あんな奴と?」
「ああ、ところで付き合うってなんだ?」
由香はやっぱりとため息をついた。
「付き合うっていうのはね。デートしたり、チューしたりするのよ」
「ええ?!デートはともかくチューは嫌だな。デートの時は由香も来てくれ」
「話は無かったことにした方がいいんじゃない?直ちゃん」
「うむ。とは言っても健吾のこともあまり知らんからな。良いところもあるかもしれない」
「大人ね、直ちゃん」
 この件で佐藤直は、「全校生徒の前で男を振る直ちゃん」と名付けられ、それは2人の交際が明らかになった後も通り名としてしばらく呼ばれるのだった。そして、直のファンはさらに増え、女2人、男1人が演劇部に入った。もちろん、男1名とは健吾のことである。
 総勢10名になった演劇部は次の文化祭で「白雪姫と7人のあんこ」を題目とした。英語が苦手なものは7人のあんこを行うということでオーディションを行った。生徒会長の花道ということでヒロインの白雪姫は「白雪姫」に担ってもらおうと直達は考えていたが、吹奏楽部の演目の練習もある中、受験勉強の時間も取りたいということで固辞された。白雪姫はナレーションとなり、直が白雪姫、健吾が王子、由香が博士としてのあんこ、百合子は白雪姫の継母となった。直はこのキャスティングを嫌がったが、百合子に関わらず思春期真っ只中の中学生は中学校公認カップルのキスシーンを望んでいた。
部員の人数が増えてきたので、部活動の練習は新入生や編入生の指導を中心として行い、いつものメンバーは由香の家で練習した。そして迎えた文化祭当日。
ナレーションが始まり、白雪姫の美貌に嫉妬した継母が手下に殺害を命じるが、不憫に思った手下は白雪姫を大島行の船に乗せた旨を説明する。右も左も分からない白雪姫の元に7人のあんこが現れて、大島での過ごし方を手ほどきする。しかし、平和な生活は束の間。魔女に扮した継母は大島を訪れ、裏砂漠の礫を美味しい果物だと言って白雪姫に食べさせる。それによって、白雪姫は眠ったように死んでしまうのであった。
ここでいよいよ健吾扮する王子様の登場である。健吾はなんとか直と交際できてはいたもののキスはまだであった。これは千載一遇と健吾はこの日が来るのを待ち侘びていた。大切なのは勢いだ。健吾は自分に言い聞かせた。健吾は勢いよく飛び出し、台詞もそぞろに眠っている白雪姫にダイブした。これは直もキスを防げまいと思っていたが、何だかおかしい。健吾が目を開けると、そこには鬼の形相をした白雪姫、つまり白雪姫扮する「白雪姫」が健吾の顔を鷲掴みにしていた。
「な、なんで?」
「Go to fire!!」
 王子様は御神火様の火口に放り込まれた。それは本来ならハッピーエンドの後に魔女が投げ込まれるはずだったものだ。そこでナレーションの由香は慌ててこう締めくくった。
「眠っている女性を襲った暴漢は御神火様の力で地獄に落ちました。それを見た継母は心を入れ替え、大島で7人のあんこと白雪姫と共に幸せに暮らすのでした」
 そう、今年は直が病に倒れたのである。生まれてから一度も病気にかかったことのない直をみて、和と恵は御神火様が噴火するんじゃないかと怯えながら看病していた。そんなことはちょっと気を配っていれば気づきそうなものだが、熱に浮かれていた健吾は直が来ていないこともキャストの変更にも気づかないままだった。こうして、健吾の肩身はますます小さいものとなった。
 文化祭が終われば、生徒会役員選挙である。由香は白雪姫から生徒会長を継いでくれるよう口を酸っぱく言われていた。実際、由香の安定した事務処理能力は白雪姫だけでなく、他の生徒会役員や教職員からも評価が高かった。直は1年やったし、後は由香生徒会長に任せようと思ってたが、由香から思いもかけないことを言われた。
「直ちゃん、もう1年生徒会役員やって欲しいの。副会長をやって私を支えてくれない?」
「えっ、そんなことを言ってもうちこの1年ほとんど活動してないぞ。会計の作業だって、由香がほとんどやったようなものじゃないか」
「違うの。直ちゃんが傍に居てくれると安心するのよ。それに実際、私がピンチのときはいつも直ちゃんが助けてくれたわ。お願い!直ちゃんはいるだけでいいから」
「由香……。卒業したら、ないちの高校に進学するんだろ?別れのときは来るんだ……」
「直ちゃん、そんなこと言わないで。中学の間だけだから。高校からは自立するから」
「分かった。由香の頼みなら断れないな。もう1年一緒にやろう」
 こうして由香が生徒会長、直が副会長になった。生徒会と演劇部のパイプは強くなり、椿祭りで「白雪姫と7人のあんこ」を披露するなど、役場とのパイプもできてきた。この三位一体により演劇部は大島中の顔となった。顧問の谷川先生はというと、
「大島で過ごす上で必要な水泳部と大島の風土を伝える演劇部は大島中学校の誇りですわ。教頭先生、もっと予算を下さってもいいんですよ」
と高慢さに拍車が掛かっていた。
 3年生になり、Famousコンビを最後の文化祭が待ち受けていた。題目を何にするか由香は考え続けたが、新入生が入ってきても答はまだ出なかった。由香はゴールデンウィーク明けまでに考えるといい。生徒会室に篭もり、部活動には顔を出さなかった。その間、演劇部は過去の題目や英語の映画などを見たり、短い演劇を作らせてみたりした。部長の百合子はもともと読書好きのせいか、演劇部を精力的に引っ張ってくれていた。脚本を作るのが由香だとすれば、百合子は監督だった。そして、ゴールデンウィークが開けたときに由香の口から出た提案は驚くべきものだった。
「みなさん、今回の題目は『ともだち』です。日本語で行います。脚本はこちらです」
 みなでざっと目を通したが、読書家の百合子がいち早く反応した。
「由香ちゃん、本当にこれをやるの?そもそもこれは事実なの?」
「何度も調べたわ。ネットだけじゃなく、当時の新聞や本にも載ってることなの。大人達は私達にこれを隠してきたのよ。だから谷川先生にも相談できない。英語にできない理由よ」
 状況が分かってきた生徒達がこぞって暗い顔をしている。泣き出すものもいた。
「由香、キャスティングは?」
 直が尋ねる。
「私と直ちゃんのダブル主演よ。もっとも群像劇の要素が強いけどね」
 それから『ともだち』の練習が始まった。と言っても英語ではないので、難しい要素はない。あとはいかにクオリティーをあげるかどうかだった。百合子は部員に何をするかは任せた。演技の練習をするものもいれば、小道具作りをするものもいた。
 そして文化祭当日。演劇部の演目はいまやトリを飾るものになっていた。ナレーションが始まる。
<1933年、大島には畑も田んぼもなく、もっぱら化物のような芋を齧り、アシタッパと言う雑草を栄養補給のために喰み、この滋養のあるアシタッパを食べて育った濃い牛乳を飲んでいました。そんなとき、都内の学校に通う2人の女学生が大島を訪れます>
「由香、本当にやるのか?今ならまだ引き返せるぞ」
「直ちゃん、私は本気よ。三原山の噴煙を見たら私だと思って頂戴」
<2人は三原山の頂上を目指します>
「直ちゃん、行きづまったわ。駄目、駄目!」
「何を言うんだ。お互いにこれからじゃないか。生きてこそ人生だ」
「直ちゃん、この歌。ねえ、知ってるでしょう?花の色はうつりにけりないたずらに、我身世にふるながめせしまに。これどう思う?小野小町が乞食のようにうらぶれて、88まで生きた、その生き恥の歌よ、女として醜態の極みと思わない?」
<2人は遂に頂上の火口に辿り着きます>
 由香は火口の端にしばらく佇んでいた。直はそれを一歩後退して見守っていた。そして、客席の方を向いて心の中の台詞を吐き出す。
「大丈夫だ。由香はそんな子じゃない。噴煙が立ち込める火口を見て、死ぬことがいかに怖いことか思い知るはずだ。そしたら大島を観光して帰ろう。クラスのみんなにお土産も買おう」
 その油断した一瞬だった。由香の動きに変化があった。
「いけない!由香!いけない!」
 直は由香の裾にすがったが、もう遅かった。由香は封筒を放り投げると、
「クラスの皆さんによろしく」
 と言い残して火口の中へと消えていった。直は膝から崩れ落ちる。そこに健吾が駆けつける。
「何をやってるんだ、お前ら!」
「由佳が、うちの親友が火口に投身自殺してしまった……」
<封筒の中には2つの封筒が入っていました。1つは親友の百合子へ。もう1つは母親がいない由香の面倒をよく見てくれた百合子の母親へ>
「私のもっとも嫌っている私といふ人間を殺して了います。それが他方の私の最善だと思われてなりません」
 由香が再び現れてつぶやき、照明が暗転する。照明が点くと、舞台は取調室となっており、警官と直の姿があった。
「佐藤さん、どうしてこんなことをしたんだ?」
「実は……今回で2人目なんだ。1人目とは5年間秘密にすると約束したんだが、由香にばれてしまって私も連れていかないとばらすと脅されたんだ」
<この連続投身自殺の案内人として世間から批判を浴びた直は、自宅に引きこもり、由香が亡くなった3ヶ月後急死しました。これが大島に大きな変化をもたらすのです>
 照明が切り替わると、再び火口が現れ、演劇部の部員がそれぞれ思い思いの台詞と衣装で飛び込んでいった。それはある種のショーのようであった。そして暗転。
<三原山の火口で自殺することが一大ブームになりました。自殺者の数は1000人弱が確認されています。これに自殺立会人、自殺未遂者、見物客を数えると大量の人間が大島を訪れたことが想像できます。これは大島の経済を潤しました。宿屋は儲かり、椿油は飛ぶように売れました。なぜこれほどの自殺を止めることができなかったのでしょうか。大島にいる僅かな警察官も全力を尽くしました。御神火様の見張り番は24時間監視していました。それでも自殺は止められませんでした。メディアはこの現象を『三原病』と名づけました。この現象は、第二次世界大戦へと移行する世界情勢の混迷の中で収まっていきます。皮肉にも死を制するのもまた死だったのです>
 照明がつき、火口と百合子が現れる。
「たくさんの人が亡くなった三原山ですが、奇跡的に生存者もいました」
 すると、火口から直が這い上がってきた。
「はぁはぁ、由香!あとちょっとだ、がんばれ」
 その後ろから由香が顔を出した。
「はぁっ……怖かった……火口の途中で引っかかって、目を覚ましたとき、熱気と地鳴りと振動と、何より目の前に迫り来る『死』が……怖かった。直ちゃんが目を覚ましてくれなかったら、3時間も崖を登ることなんてできなかった……」
「この2人は抱き合って飛び降り心中を試みたのです。1人では死ぬことすらできないけど、誰かがいれば死ぬことができる。けれどもそれは同時に1人では生きていくことができなくても、誰かがいれば生きていくことができるということでもあります」
 演劇部員が1人1人集まって手と手をつないで列になる。
「私も生きます」
「私も」
「私も」
 照明が切り替わる。火口の端に由香が、その広報に直がいる。
<もし、貴方が後1歩相手に近づけばその人を救えるかもしれません>
 直が由佳に1歩近づく。
「クラスの皆さんによろしく」
 由香が火口へ1歩踏み出す。
「いけない!由香!いけない!」
 直が由香の手を掴む。
「クラスの皆と話そう」
 幕が下りる。
「以上で文化祭が終了になります。1年生から順に教室に戻って下さい」
 由香が場を締めくくった。
 その放課後、由香、直、百合子は校長室に呼び出された。同席しているのは、教頭先生と谷川先生だ。
「谷川先生、これはどういうことですか?!何故あのようなデリケートな内容のお芝居をさせたのですか?」
 校長先生が机をバンと叩く。演劇部の3人がビクッとする。
「ええ、校長先生。私はこれまでの演劇部の実績を鑑みて、活動を生徒の自主性に任せていました。創作とは言え、このような死を扱う内容を多感な中学生に聞かせてしまったことにお詫び申し上げます」
 谷川先生が頭を下げた。
「谷川先生はご存知ないようですが、これは創作ではないんです。実際にあった出来事なんです」
 教頭先生がいつもの笑顔をどこかに忘れてしまったようで、真面目な顔をしている。
「えっ?!」
 谷川先生が絶句する。
「このことを思い出と知ってる方は、もう後期高齢者か亡くなっていることでしょう。でも、インターネットで調べればすぐに辿り着くことができます。この大島は観光の街です。その観光経済が大量の自殺者によって支えられたという闇は、教育方針として積極的に教えないことになっています。教えるのであれば、それ相応のフォローをしなければならない。大島は人の流出、減少が止まらず過疎化が進んでいます。学生の皆さんが大島に誇りを持てるような教育をしなければいけません」
 教頭先生が事の経緯を丁寧に説明した。
「いずれにしても緊急集会と緊急保護者会を開きます。緊急集会は谷川先生の監督の元、生徒会役員が運営してください。緊急保護者会は私の監督の元、教頭先生に運営をお願いします。この演目は封印すること、いいね、君達」
 校長先生がぴしゃりと話を締めくくった。その時、由香が手を挙げた。
「どうしました、生徒会長?」
「校長先生は、大島を愛するために、良くするために、大島の闇を封印しようとしています。しかし、私は大島と一生付き合っていくためにこの闇と向き合っていく必要があると思います。後鳥羽上皇が沖に流されたことを歴史の授業で学ぶより、大島に流された人物を学ぶべきです。この島がないちの慰みものになってることを私達は認識して、そこからの脱却に光を当てるべきです」
「演説ありがとう。では、皆さんは私の言う通り動いて下さい。以上です」
「まだ私の話は終わっていません。私達は椿祭りでこの演目をやる予定です。町長の許可は得ています」
 由香達は、この演目をやると決意してからこの瞬間が訪れることを予測していた。水面下での交渉の時間は十分にあった。何より由香の父親は大島唯一の病院の院長だ。
「父親の力を利用したというわけですか。何がそんなに気に入らないんですか?知らぬが仏という諺もご存知でしょう?」
「校長先生はインターネットの力を過小評価しています。アダルトサイトや課金アプリと違って、大島の闇が掲載されているニュースサイトやブログなどは子供の利用を制限することが困難です。予測できない脅威を残しておくよりはリスクを教育と捉えて前向きに捉える方が望ましいです。いわば性教育と同じです。タブーにするのではなく、避妊や性交渉との正しい付き合い方を教えるべきです」
「分かりました。演目の是非についてはこれから町長と相談してきます。いずれにしても集会は行いますので、教頭先生の指揮の下準備してください」
 その発言でその場は解散となった。
「やったな、由香。校長先生を丸め込むとは大したもんだ」
「うふふ、流生斗先生とディスカッションの練習をしたかいがあったわ。証明問題って楽しいわね」
「演目の了承をもらったら、大島高校でも私は演じていくわ」
 百合子は大島高校に進学予定だった。部活はやはり演劇部に入るらしい。由香は都立と私立の進学校を受験予定だ。そして、直は……。
「直も一緒に大島高校行こうよ」
「うちも大島高校行くだろ?百合子」
「定時制じゃん。全日制のうちとはすれ違いだよ」
「うちはお金無いからな。昼間働ける定時制に行くよ」
「せめて部活だけでも……?」
「良かったら椿祭りのとき呼んでくれ」
 町長と校長の話し合を受けて、緊急集会ならびに緊急保護者会が行なわれた。大島全体の意向を踏まえて町議会が行われ、演目を封印することはしないが校長と町長の許可を得られた場合のみ上演できることになった。次の椿祭りでは既に周知されていることもあり、校長と町長がまだ変わらないことから、上演が認められることになった。Famousコンビの最後の晴れ舞台だ。
 椿祭りで「ともだち」の演目を終えた後、三原山への登山者が増えた。大島の端で綺麗な海とお土産を楽しむだけだったはずのものが、内陸に位置する自殺の名所となった御神火様にも強い関心を持ったのだ。
 受験は無事に終え、3人とも希望の進学ができた。直は、昼は繁華街である元町のお土産屋さんの販売員として採用された。給料は少ないが、高校を卒業して別の仕事に就くまでの足がけである。大島高校に進学する健吾には、会える時間が少なくなるから別れたほうがいいんじゃないかと直は話を降ったが、健吾は慌てて首を振ったという。
 椿が咲き終わり、直の新生活が始まった。直は、就職と進学祝いとして、遂に自転車を和に買ってもらった。直は家から自転車で元町に通って、椿油や明日葉茶、大島牛乳でできたクッキーなどを売った。その後、夕焼けの中大島高校へ足を運んで授業を受け、夕食として給食を間に挟んでまた授業を受け、満天の星空の中家への帰路についた。
 入学して分かったことだが、直の学年は1人しかいなかった。つまり、直だけである。他はどうかというと、0人の学年もあれば2人の学年もあった。これは勉強が苦手な直にとって好都合であった。先生とのマンツーマンの授業で直は質問し放題だった。高校卒業後進学するつもりはなかったので、受験勉強をする必要もない。直は定時制高校という世間体の良くない立場におかれて初めて勉強の喜びを知ることができた。
 また、驚くべきことに部活もあった。21時過ぎに30分だけのことであったが、直は再び青春を取り戻せたような気がして嬉しかった。直は他の生徒がいる部活を選んで他生徒と交流をすることもできたが、音楽部を作って1人で活動した。直は、自分の好きな歌を練習して、スマートフォンに録音した。これは恵が和に内緒で直に買ってもらったものだ。いろんな人に聞いてもらいたいと思って、Youtubeにアップしたが再生回数は数回程度でまったく話題にならなかった。ただ、コメントは必ずついていたのでそれを励みに歌い続けた。
 直が新生活で手にしたものは自転車とスマホだけではなかった。由香がないちに行く前日に、直と百合子と何故か健吾が呼ばれて「お別れ会」を行った。直は由香のために作詞作曲したオリジナルソングを披露した。由香は感激して、スマホに録音するからとアンコールをせがんだ。百合子は読書家だけあって、カバーに包まれた文庫本を由佳に差し出した。
「由佳ちゃん、いまは読んじゃダメよ。ないちに行ったらゆっくり読んでね」
 そして健吾はというと、やはりプレゼントを用意するといった気の利いたことはできていないようでバツの悪い顔をしていた。
「健吾くん、いいのよ。その代わり直ちゃんのことをよろしくね。じゃぁ、私からのプレゼントね」
 由香はそう言うと2つのチューブを取り出した。
「CCクリームよ。2人とも高校生になるんだから、お化粧も勉強しないとね。特に直ちゃんは社会人デビューでもあるんだから必須よ。といっても校則では禁止だろうから、このクリームを頬にぬるといいわ。下地、色の補正、保湿効果があるの。それと眉ね。今形を整えてあげるから毎朝自然に書くのよ。これなら、直ちゃんでも続けられるでしょ。じゃぁ、ちょっと健吾君は出てくれる?」
 健吾はそう言われてしばし部屋から追い出された。健吾はずっと男の中で育ってきたので、どうすれば女が喜ぶのか分からなかった。そもそも直のことが気になったのもその男らしさからだった。そこらへんの男より直は、いや健吾よりも男らしかった。直を喜ばせることができたら……直にもっと好きになってもらえたら……健吾は直の唇を手に入れることができるかもしれない。その先も。そんなことを妄想していると、部屋の中から由香が呼ぶ声が聞こえた。
「健吾君、いいわよ~」
 健吾が言われてもないのにノックしてから入室した。そこには言わずもがな化粧をした直と百合子がいた。直はもともと悪く言うと男らしい、一重で眉の太い彫りの深い顔立ちをしていた。それが二重になり、眉が自然で整い、肌も透明感を増していた。何よりその唇は……。
「健吾君、直ちゃん可愛いでしょ?いえ、綺麗と言ったほうがいいかしら?健吾君、どう?惚れ直した?健吾君?」
「え、いや化粧しすぎだろ?なんか直じゃないっつうか……」
 直の出で立ちは、まるでランウェイを歩いている海外モデルのようだった。その唇がルージュに光を帯びる。健吾はその唇を見ていると吸い込まれそうだった。
「ちょっと!私も可愛くなってるんですけど!そういうとこよ、健吾君」
 百合子の口から不満が漏れる。
「これでプレゼント交換が終わったわね。さて、今日の直ちゃんは特別仕様よ。健吾君、直ちゃんを連れてデートしてきていいわよ」
「えっ、今日は由香のお別れ会じゃないか!」
「直ちゃん、今まで十分一緒にいてくれたわ。私の我が儘に付き合って生徒会役員も2年も付き合ってくれて嬉しかったわ。百合子ちゃんも無理やり演劇部、あの頃は英語部だったわね。そこに入ってくれて、部長としてずっと引っ張ってくれたわ。本当にありがとう。健吾君、本当に貴方には悩まされたわ。直ちゃんに捨てられないように頑張るのよ。明日は港にお別れに来なくていいからね」
 こうして由香がいない生活が始まった。でも、直は寂しくなかった。平日は直が夕方大島高校に着くと、帰宅する百合子がよく正門で待っててくれた。土曜日は仕事だったが、日曜日は健吾の家で百合子も交えて一緒に宿題をやった。直は唯一の生徒だったため、学校は宿題を極力週末にまとめてくれるという便宜を図ってくれたのだ。百合子はときどき気を利かして「勉強会」を固辞したが、そんなときは決まって健吾は直を求めてきた。しかし、直は由香のお別れ会の日以降、健吾にキスすら許していなかった。健吾は一度キスをしてから火が付いてしまったようで、度々キスをしようとしてきたが、直はそれを許していなかった。
 百合子はというと演劇部の先輩と程なくして付き合いだした。百合子は、彼氏と共謀して台本に音楽の演出を求め、それを直に外注した。直は台本を読んでそのシーンに合うようにスマホで作曲し、必要があれば歌も歌った。ただ、作詞の心得がなかったので、そこは読書家の百合子にお願いした。直は大島高校の文化祭を見ることは叶わなかったが、百合子がスマホで撮影してYoutubeにアップしてくれたので、高校でも演劇を楽しむことができた。
 由香とはほぼ毎日メールをしていた。話す内容がない時でも「おはよう」や「おやすみ」を送りあった。由香は初めて勉強の難しさに直面して悩んでいた。医学部へ進んで家業を継ぐか、看護師になってお婿さんを捕まえてくるかのどちらかだ。大島の病院の歴史は浅い。戦後に大島の医療体制の構築のため、英断した医者が渡島し、親族経営でこれまで成り立ってきた。由香はその重責を背負っているのだ。
 そんな毎日を過ごし、直は定時制高校の4年間を終え、卒業した。新しい仕事は「椿の里」という特別養護老人ホームで介護員をやることである。本当は観光客を相手にする仕事を行いたかったが、役場の観光課に入れるほど頭は良くなく、町から認定ガイドに選ばれている方はごく僅かでベテランの方ばかりだった。島の外で働くことなんて考えもつかない直はこの仕事を選んだ。子供の頃、カラオケ大会で年配の方から賞賛を浴びたように、お年寄りの介護の中で歌の力で良いコミュニケーションができればと直は考えていた。
 健吾は在学中に浮気をしたため、直は未練なく別れた。卒業後は水産会社に就職したと百合子から聞かされた。その百合子はというと、町役場に就職した。芸術家肌の彼女はお芝居をプロデュースすることから、人々の生活をプロデュースすることに興味を持ったのだ、というのは彼女の面接のときの台詞で、実態は趣味の創作を行う上で人々の生活に触れられ、安定してお給料を貰える役場を志望したのだ。
 由香は医学部に落ち、千葉大学の看護学部に進んだ。初めて挫折を味わった彼女だが、ちゃっかり千葉大学医学部に進学した彼氏をゲットしていた。由香の高校の1個上の先輩で1浪の末の進学だ。じっくり僻地医療の重要性を説いて洗脳するというから末恐ろしい、いや既に恐ろしい女だった。もっとも由香とくっつけば院長の座は確保されており、白い巨塔のような派閥争いと無縁というのは医者にとっても好都合かもしれない。
 直、19歳。椿の里での介護の仕事が始まった。介護の仕事は忙しく、資格を持ってない直は資格を持った介護士や看護師の指示の下、雑用や入浴介助などの力仕事に明け暮れた。しかし、重労働である入浴介助の際も歌を歌いながら行うと楽しかった。利用者さんの間でも直の歌は評判になった。
 そんなとき、利用者さんの川端さんの容態が急変した。看護師の判断で救急車を呼ぶことになったが、看護師が同乗すると施設に常駐する看護師がいなくなってしまう。そこで直が同乗して病院に付き添うことになった。川端さんは入院することになった。
 通常、直は休みの日には、百合子と遊んだり、自然に触れながら創作の世界に思いを馳せた。しかし、直が入所して初めての入院患者ということで、直はお見舞いに行った。お見舞いに行くと川端さんはゆっくり歌を楽しめる機会だと踏んで、直に歌を求めてきた。4人部屋ということで当初躊躇した直だが、入院患者というのはこぞって孤独なもので退屈を殺してくれる何かに飢えていた。直は大島の民謡から最新のJ-POPまで何でも歌えた。病室は直のライブ会場になった。それから直は休みの日が楽しみになった。次は何を歌おう?どうやってアレンジしよう?そうやって考えながら1週間を過ごすのが好きだった。
 しかし、あるとき若手男性医師から直は注意を受けた。
「君!病室で歌うのは止めてくれ!ここは君の歌を披露する場ではない。良い迷惑だ!」
 若手男性医師はぶっきらぼうに直を非難するだけして非難して仕事に戻っていった。直は何がいけないのか分からなかった。音楽は人を喜ばせるものではないのか。川端さんに聞いてみると、
「直ちゃんね。あんまり貴女の歌が素敵なものだから、他の病室の患者さんが嫉妬してるのよ。なんでうちの病室には歌いに来ないんだって。病院のサービスと勘違いしているのね」
 ここは由香の家の病院なので、由香にメールを送って手を回せば済む話だったが、直はそんな強権的なやり方は好まなかった。そこで百合子に相談して、直の歌声がアップされた情報が書いてあるチラシを作ってもらった。チラシには直が選んだ曲リストとその短縮URLとQRコードが記載してある。入院患者がスマホを持っていなくても、見舞い客がスマホを持っていれば聞けるようになっている。これなら各々がイヤホンで曲を聞けば、他の患者の迷惑にならない。
 この百合子のチラシは好評で、2枚目、3枚目が作られた。味を占めた百合子は、チラシの裏に小説の連載を始めた。このチラシは「芸術大島」と命名され、数十枚溜めてAmazonから1冊の本として出版することを目標に直と百合子は活動し続けた。
 この活動は、当然病院の医師や看護師だけでなく、町内でも徐々に話題になっていった。そんなある日、椿の里に電話がかかってきた。電話対応は勿論、下っ端の直の仕事だ。
「はい、椿の里です」
「大島病院に勤務している医師の木村と申します。責任者の方はいらっしゃいますか?」
「少々、お待ち下さい。施設長の木戸に代わります」
 こんな電話は初めてのことだ。直は何だか胸騒ぎがした。
 程なくして施設長から施設長室に呼び出された。
「佐藤さん、君は病院で何やら活動をしているそうだね」
「は、はい。患者さんに音楽を届けておりますが。特に迷惑をかけてはいないと思いますが……。チラシが鞄の中に入っているので取ってきましょうか?」
「あ、いい、いい。それでだね。病院から正式に依頼が来たんだ。音楽療法の一貫として佐藤さんに仕事をして欲しいということだ。給料も出るそうだ。佐藤さんはピアノは弾けるのかな?」
「はい、弾けます。是非やらせて下さい」
「それで、ここから何だが、音楽療法といっても月に2回程度のものらしい。うちの仕事と並行してやってもらうことになると思うが、うちの業務に穴を開けないで欲しいんだ。佐藤さんの方でうちの業務と音楽療法の業務のスケジュールの調整ができるかな?当然、君の休む時間や自由になる時間が減ると思うが大丈夫かな?」
「は、はい!よろしくお願いします!」
「では、当施設としては佐藤さんの副業を認めます。当施設と病院のパイプが太くなるように頑張って下さい。業務に戻っていいですよ」
 その日の仕事終わり、直は早速大島病院を訪れた。受付に木村医師をお願いすると、しばらく待合室に待たされた。ようやく出てきた医師は、先日直に注意をした若手男性医師だった。
「君、アポイントメントも無しに来るなんて非常識だな」
「え、アホウドリですか?」
「何だ?面白くないぞ。まぁ、いい。こっちにピアノがあるから君の力を見せてくれ」
 病院の2階が入院患者の病室になっているが、その中央部にちょっとした広間があり、グランドピアノが置いてあった。
「古い物だが、何か弾いてみてくれ」
「先生は何がお好きですか?」
「そうだな。ショパンの『別れの曲』はどうだ?」
「えっとどんなのでしたっけ?」
「君、本当に大丈夫か?貸してみろ、こういう曲だ」
 そう言うと、木村は別れの曲の盛り上がる1節を弾いた。
「あれ、先生もピアノ弾けるんですね」
「昔、少しな……。さぁ、弾いてみてくれ」
 直は別れの曲を弾き始めた。しかし、この先生はピアノを弾ける。普通に弾いただけでは認めてもらえないかもしれない。それなら……。直は想いを乗せてピアノを弾ききった。
「何だこれは?」
「えへへ、どうでした?」
「まずピアノが荒い。ちゃんと譜面通りに練習したのか?それと途中から曲が変わった。これはヴィヴァルディの『春』か?」
「いや~うち、譜面を読めなくて……。音で覚えて弾くんです。作曲もスマホで音の出し方覚えたら、音を想像しながら作るんです。でも、この荒々しさは先生を想像して創りました。そして、先生が気持ちよくなれるように明るい曲をつなげてみました」
「譜面が読めないのか?!それでいて、いま作曲し直したというのか、それも『別れの曲』と『春』をつなげて。『春』は転調されていた……」
「ちょっと難しいことは良く分からないですが、合格ですか?」
「私に対して音楽療法をしたというのなら不合格だ」
 木村は冷たく言い放った。
「そうですか。確かにうちは音楽療法とかよく分かりません。久しぶりにピアノが弾けて楽しかったです。あと、このピアノ調律が必要です。いくつか鍵盤が機能してませんでした」
「まだ話は終わってない。私としては不合格だが、病院としては合格だ。調律は明日にでも依頼する。契約書を郵送するから、連絡先と住所を教えてくれ」
「本当ですか?!ありがとうございます!あの、『芸術大島』は、チラシも続けてもいいですか?」
「業務に支障が出ないなら構わない」
 それから直のダブルワークの生活が始まった。直は小学校の頃のようにピアノをまた弾けるようになったのだ。大きなブランクはあったが、元々天舞の才を発揮していた直のパフォーマンスは今も尚健在だった。演劇部で培った英語を覚える力を活かして、直は洋楽の弾き語りもできるようになった。直の音楽は民謡であり、ポップであり、クラシックでもあった。そしてすべてが直のインスピレーションに基づく即興のものであり、ジャズの様相も呈していた。「芸術大島」には、好評なこの直のライブ音楽も掲載されることになり、島民は世界で無二の音楽が生まれる瞬間を楽しんだ。
そして1年が過ぎた。芸術大島のYoutubeチャンネルは登録者数が1000人を超えた。これは島民の8人に1人が登録している計算である。直の活動に反して芸術大島はほとんど売れなかった。情報に無料でアクセスできる時代に本を売るのは難しい。直ですら、患者さんからお金を貰っているわけではなく、あくまで病院からお金をもらっているのだ。そんなアマチュア時代で燻っている2人だったが転機が訪れる。
ある日の音楽療法の後、木村から夕食に誘われた。
「今日、空いてるか?夕食を食べに行こう」
「え、今日ですか?」
「そうだ。今日が無理なら明日でもいい」
「母が料理を作ってると思うので……。珍しいですね、先生がアホウドリを捕まえないでお誘いをするとは」
「アポイントメントだ。わざとやってるな?それだけ緊急かつ重要だということを察しろ」
「それなら、先生うちに来ますか?」
「ご両親は私がお邪魔しても問題ないかな?」
「ええ、うちは誰も気にしません。やっぱり先生はないちの人ですね」
「では、私の車で向かおう」
 直は男の人の車の助手席に座るのは初めてだった。この20年間で付き合った男は健吾だけであり、直はまだ恋というものを知らなかった。ないちの人はどんな恋愛をするのだろうか。そんなことを思っていると、車が佐藤家に着いた。
「おかーさん、ただいま!お客さん連れてきたよ」
「おかえりなさい。あら、男の子じゃない。直の彼氏?」
「違う違う、大島病院のお医者様よ」
「木村です。お世話になります」
 木村は直には見せない愛想笑いをした。
「えっ?!直は何かの病気なんですか?」
 恵の顔から笑みが消え、青ざめる。
「いえ、詳しい話は中でもよろしいでしょうか」
 中に入るといつもどおり和が泥酔していた。
「おお、直、おかえり!なんだ彼氏か?お父さんはな~金髪で目が青い男は許さないからな。よそもんもダメだぞ」
「大島病院の医師をしております木村と申します。失礼します」
 木村は表情を崩さない。
「あの、先生もご飯召し上がっていかれますか、大したものないですけど」
「いえ、私は大丈夫です。皆さん召し上がりながら私の話を聞いて頂ければ?」
「あれ、先生、夕食を食べようって……」
「それは話の口実だ、察してくれ」
「直、医者捕まえるとは大したもんだ。逃がすんじゃねぇぞ」
 一頻りドタバタした後、佐藤家の夕食が始まった。明日葉や海鮮が出てくると思うかもしれないが、今日日スーパーで何でも手に入るので、家庭の夕食はないちと変わらない。ただ、直には昔からの好物である大島牛乳は欠かせない。
「では、皆さんにご相談したいことがあるんですが……」
「げふっ」
 大島牛乳を一気飲みした直がゲップした。
「先生、ごめんなさい。いつものことなんです。続けてください」
 木村の右眉がつり上がった。
「では、改めてお伝えしたいことがあるんですけど……」
「ぐお~が~」
 和がいびきを立て始めた。
「ちょっとお父さん、先生が話してらっしゃるのよ。すいません、お父さん漁師だからこの時間帯になると眠くなっちゃって……。ほら、お父さん、起きて」
 木村の左眉もつり上がった。
「いえ、もうそのまま安らかに……いや、音が気になりますね。起こして頂けますか?」
 そこで直が和の耳元で囁く。
「お父さん、私ボブと結婚することになったから……」
「俺は髪がチリチリでダンスが上手いやつには直は渡さんぞ!」
 和の目が覚めた。すると覚悟を決めた木村が、
「結論から言います。直さんと都内で、つまり大島を離れて1泊する許可を頂けますか」
 気づくと和が木村の首を絞めていた。
「直をこの島から連れ出そうって言うのか!そもそも直を幸せにできるんだろうな!どこの誰だか知らねぇが。直は大島の公務員と結婚して幸せに暮らすんだ」
「お父さん、この方は木村さんっていうお医者様よ」
「なに?直、医者を捕まえたのか!よくやった!」
「お父さんはもう黙ってて。木村さん、もう全部話して下さい」
「……はい。あの、直さんの歌には医療としての力があることが私の研究により、明らかとなりました。それを学会で発表したいと思います。また、レコード会社ともCDの制作を協議中です。その足でレコード会社にも伺います。どちらも直さんが皆さんの前で歌うのが望ましいと思います。スケジュール的に日帰りで帰るのが厳しいため、宿泊という形になります。経費は病院から落ちるので、ご安心ください」
 げっそりとした木村の口からとんでもない言葉が紡がれる。3人は目をぱちくりさせて状況が飲み込めない。
「えっと先生?直は確かに歌は上手いですが、それで病気が良くなったりするのは何かの間違いなんじゃないですか?」
 恵が恐る恐る尋ねた。
「ええ、確かに薬のように特定の病を治す効果はありません。難しい話は避けますが、患者の免疫系を強化する効果が見られるので、投薬と並行することでよりよい効果やリハビリテーションの促進により入院期間の短縮が見込まれます。つまり、直さんは音楽で誰でも健康にすることができる可能性があります」
「先生、俺は馬鹿だからよく分からねぇ。それは直の人生にとってどういう得があるんだ?」
「あくまで可能性の話ですが、音楽での収入が増えることが期待できます。それだけで食べていけるかもしれません」
「木村さん、うちは音楽で生活ができるんですか?」
 直もようやく事態を飲み込み始めた。
「あくまで可能性の話であって、それを確かめにないちに赴きたいという話です」
「くぅ、こいつはな小さい頃から勉強もできねぇ、運動もできねぇ、取り柄は歌だけだったんだ。それがこんな日が来るとは……。先生、今日は特上の酒を開けるぞ。一杯行きましょう」
「いえ、車で帰るんで、それにこれ以上飲まれない方がいいかと。では、この件は問題ないということでよろしいでしょうか」
「私は直がよければ問題ありません。直は大丈夫かしら?ないちに行くのは初めてじゃない?」
「うん、すごくいい話なんだけど、正直ちょっと怖いね。木村さん、うちのこと守ってくれますか」
「ああ、このプロジェクトの責任者として直さんを無事に大島に連れて帰ります」
「よし!決めた、直はあんたに嫁がせるぞ」
「もう、お父さんは黙ってて。木村さん、ではよろしくお願いします」
「分かりました。では、この書面にサインしておいて下さい」
 そう言って木村は佐藤家を去って行った。書面には、「音楽療法に関わる非常勤職員の出張同意書」と書かれていた。流石にプロジェクトに関する署名はこの段階では行わないらしい。早速書いて投函しよう。そう直は思っていたが、恵にある指摘を受けた。
「そうだ、あんた自転車どうしたん?」
「あっ」
 その晩、直はメールで翌朝迎えに来てくれないかと木村に頼んだ。木村は「仕方がありませんね」と承諾してくれた。直は男の人に迎えに来てもらうのも初めてのことでなんだかドキドキした。
 翌朝。
「おはようございます」
「おはよう」
「木村さん、朝ごはんは食べましたか?これ母が佃煮のおにぎりを握ってくれたんですが」
「いや、朝は食べないんだ。乗ってくれ」
「はい」
 そう言って直が助手席に乗り込むと何だか良い香りがした。
「木村さん、なんかこのスッキリする感じ。これなんの香りですか」
「ローズマリーだ。覚醒作用がある。気に入ったか?」
「いや~うちには上品過ぎます~。くさやと大島牛乳で育った女ですから」
 そう言って直はがははと笑った。
「木村さんはやっぱり良いとこのお坊ちゃんなんでしょうか?」
「露骨な言い草だな。簡単に言えばその通りだ。医者は金持ちの家じゃなければなれない。何故なら医大の6年間の教育に多額のお金がかかるからだ。この世界は金持ちが金持ちを生産するようにできているんだ」
「はえ~そうですか。うちの親友にも由香って言う、あ、大島病院の院長の娘ですが、いて、すごく頭が良くてないちの高校行ったんですが、医学部は落ちて看護学部に行きました」
「そうか。院長の娘と懇意だったのか。どうりで院長の決済が緩いわけだ」
 そうこう話しているうちに病院に辿り着いた。
「木村さん、朝忙しいのにありがとうございました」
「ああ。同意書もすぐ受け取れたし、問題ない。次会うのは学会の日だな。とりあえず元町港で待ち合わせしよう」
「あの、木村さん」
「なんだ」
「良かったらまた助手席に乗せて貰えますか?」
「そうだな。必要があればな」
「はい、お願いします」
 そう言って直は自転車で椿の里に向った。今日はいつもより町が明るく見えた。
 そして学会当日、2人は千葉県松戸にある聖徳大学を訪れた。10個程度の教室に分かれて学会は行われていた。木村は受付に行って数枚のチラシやスケジュール表を貰うと、代わりに何十枚ものCDを鞄から取り出すと、机に並べだした。
「木村さん、それはもしかしてうちの歌が入っているんですか?」
「そうだ系統の違う歌を集めて1時間くらいのCDを作った」
「はぁ~私のためにありがとうございます」
「勘違いするな。医療の発展のためだ」
「そうですか。それより、もう学校始まってますが、遅刻じゃないんですか?」
「これは学校じゃない。学会だ。最低限、自分の発表をすれば後は自由だ。ランチセッションはお弁当が出るから昼食はそれで我慢してくれ」
「えっタダでお弁当が食べれるんですか?ないちは凄いですね」
「タダじゃない。君を学会の正会員に登録しておいた。金は払ってあるから心配するな」
「ええっ?そんな私のためにありがとうございます」
「何度も言うが君のためではない。学問のためだ」
「じゃぁ、今日はランチセッションと発表で終わりですか?」
「いや、その後に飲み会がある。これが一番大事と言っても過言ではない」
「飲み会ですか。うちはまだ20歳になったばかりでお酒はあんまり……」
「飲み会とは自分がお酒を飲む場じゃないんだ。相手に楽しくお酒を飲んでもらえればそれでいいんだ。君は得意の歌を披露してればそれでいい」
 そして、いよいよ木村の番が回ってきた。
「大島病院の木村です。午後も遅い時間になりお疲れかと思いますが、お付き合い頂ければ幸いです。題目は『音楽の可変性による免疫系の強化に関する問題提起』です。題目の通りまだ解析できていないことが多々あります。しかし、この音楽療法を行う前と後では、複数の患者の免疫系つまりB細胞やT細胞の数が有意に増えていることを発見しました。これにより投薬効果の補強や術後の早期回復など多岐に渡る応用が考えられます。では、その音楽療法を紹介します。正会員の佐藤直さんです。どうぞ前へ」
 直緒は緊張した面持ちで教室の前に立つ。プロジェクターのライトが眩しい。
「はじめまして。大島から来た佐藤直20歳です。はじめてのないちですが、頑張ります」
 聴衆から笑い声が漏れ聞こえる。
「では、佐藤さん。山口百恵さんのイミテーションゴールドをお願いします」
「はい。えっと、シャワーの後の~髪の雫を~……」
 直が得意の低音を活かして歌い始める。そこに木村が演説を被せ始める。
「皆さん、お聞きのとおり、彼女は歌が上手いです。でも、ここからがポイントです」
 そう言うと、木村はパソコンからノイズ音を流し始めた。聴衆も直も眉間に皺を寄せるが、しばらくすると気にならなくなった。むしろ小気味よいアクセントにさえ聞こえる。
「皆さん、お分かりですか?これはもう山口百恵さんのイミテーションゴールドではありません。佐藤さんがたった今作曲した別の何かです。彼女は意図的に音をずらすことでハーモニーを創りました。つまり、彼女は既製の音楽を患者ごとに空間ごとに効果を最適化することができるのです。これは練習したわけではありません。彼女の子供の頃からの習慣なのです。例えば、こんな利用方法もあります。患者に歌や演奏をさせるときに彼女がいれば、患者は下手くそでも自分のパフォーマンスに満足することができます。その多幸感が病状を改善させるかもしれません。佐藤さんの歌を録音したCDを受付においてありますので、共同研究して頂ける方に限って無料で進呈します。明日は某レコード会社と打ち合わせすることになっておりますので、このデモCDはたいへん貴重なものになるかと思われます。佐藤さん、ありがとう。着席してください。では、個別の患者のケーススタディを見ていきたいと思います」
 木村のプレゼンの後の質疑応答はたくさんの手があがった。「彼女の能力は遺伝子によるものなのか、後天的な獲得なのか」「伊豆大島にはそのような遺伝子を持つ血が流れているのか」など音楽よりも直自身に関する質問も多く飛び交い、中には「そもそも大島の人間は免疫系が強化されやすい傾向があって、大島以外の人間には適用できないのではないか」という懐疑的なものまであった。しかし、これは木村が待ちに待った質問であった。
「仰る通りです。そこで、皆さんに再現実験のお願いをしたいところでございます」
 木村の主張が正当化された瞬間だった。
 その後は、木村が興味のある題目を2人で聞いて回った。直にとっては、音楽理論や医療データの見方が分からないどころか、研究するということが勉強するということとどう違うのすら分からなかった。横の木村を見ると、真剣な顔でプレゼンに聞き入り、所々ノートに何かをメモしていた。そういえば、木村は何歳だろう?もちろん直よりは年上だろうが、まだ若く見える。大島に来ているぐらいだから、結婚はしていないだろうが、彼女はいるのだろうか。これまでいくつの恋をしてきたのだろうか、別れてきたのだろうか。
 そうこうしているうちに学会の今日の分が終わり、宴会へと移った。宴会は学生食堂の一角で行なわれた。宴会は立食形式で行われ、参加者は100人以上いるように見えた。これは大島中学校全校生徒の人数より遥かに多かった。
「わあ、すごい人ですね。それにしてもないちの人間は立って飯を食べるんですね。足腰が強いんですかね」
「席を設けると移動ができないからさ。今に分かる。それより今のうちにご飯をたっぷり持ってきた方がいい」
 直はせっかくないちに来たんだからと珍しい食べ物を探したが、どれも大島のスーパーで見かけるようなものが多くて残念だった。ただ、唯一食べ放題というところが気に入った。ないちは食糧が豊富にあるのだろう。
 学会長の挨拶が始まり、乾杯を行なった。その後、拍手が起きる。直は何に対する拍手か分からなかったが、揃って拍手した。誰か誕生日なのだろうか。そして直が食べだした瞬間、あっという間に直は参加者に囲まれた。次々と名刺を出されて挨拶されたが、直は名刺を持っていない。直はどうしていいか分からずご飯を食べ続けると、木村は通訳者のように間に立ってくれた。直がご飯を食べ終わったところで、木村は度々要請されていた歌のリクエストを受け始めた。
「では、これから佐藤さんに歌を歌って頂きます。録音は自由です。但し、利用は学術目的に限ります」
 直は子供の時によく参加していたカラオケ大会を思い出した。みんなが喜んでくれるように直は気持ちを込めて歌った。直の歌は学生食堂の全員に届いた。勿論、学会参加者が全て直に気を払っていた訳ではないし、離れたところには他の学生も利用していた。カクテルパーティー効果というものがある。これはざわざわした複数の音の中で、自分が興味のあるものだけを聞き取れるというものである。だから、本来なら直の声は届かない。しかし、直の声は調律され、全員にとって最適な情報となった。誰かと話し込んでいても、何故か直の声が気になってしまう状態になったのである。直の歌が大島以外に認められた瞬間であった。
度重なるアンコールがあったが、食堂の営業時間の関係もあって21時には閉会となった。帰り道、直はくたくただった。
「はぁ~うち、あんなに多くの人に囲まれたの初めてですよ。木村さんは流石ですね。いや~それにしても、ないちはこんな遅いのにこんなに明るいんですね、でも星空が……。うち、高校の帰りは定時制だったんで、星空の中自転車で帰ったんですよ。気持ちよかったですね。そういえば、さっきの残ったご飯はどうなるんでしょう。家畜に与えるんでしょうか。こっちの牛は美味しいご飯を食べて育ってるんですかね。大島牛乳より美味しいのかな?あっ、木村さん、ご飯食べてないんじゃないですか?」
「どうしたんだ。烏龍茶で酔ったのか?食事なら君が歌ってる間に食べたさ。ゾーンに入ってるから分からなかったんだろう」
「ゾウですか?見たことないです。大島にはいないんですよ」
「今回はゾウは無理だな」
「次回があるんですか?」
「君次第だな」
 今夜泊まることになってるのは松戸駅のビジネスホテルだ。直は、木村の言われるままについて行く。
「予約している木村蒼です」
「木村様でございますね。お待ちしておりました。202のお部屋になります」
 木村は鍵を貰うとエレベーターに向った。え、鍵が1つしかないということは木村さんと同じ部屋ということだろうか、直は困惑した。旅館のように布団が隣同士に引いてあるのだろうか。直は寝相が悪いので、木村さんにご迷惑おかけしないだろうか。直は不安で顔が青ざめてきた。気づくと、202の部屋の前に到着していた。ドキドキしながら見守っていると、木村は201のドアをノックしていた。すると、
「直ちゃんっ!!会いたかった!!」
 なんと由香が飛び出してきた。由香は直にハグをすると、大島牛乳ですくすく育った直の胸に顔を埋めた。
「由香じゃないか?!どうしたんだ一体?」
「だってせっかく直ちゃんがないちに来てくれて、しかも千葉にいるって言うから、木村さんにホテル予約してもらったの」
「由香は年に何回か大島に帰ってきてるから、その度に会ってるじゃないか」
「そんなこと言ったって、小中学校のときはずっと一緒だったじゃない。一緒にお風呂入りましょ?」
「おお、温泉があるのか?一緒に入ろう」
「さて、そろそろ部屋の中でやってくれるかな?」
「木村さん、まだいらっしゃったんですか?直ちゃん、入って入って」
 そうしてFamousコンビの女子会で松戸の夜は華やかに更けていった。
 翌日、由香は直達と一緒にレコード会社に行きたがったが、よく聞くと彼氏とデートがあると言うので追い返した。この日、2人が降り立ったのは原宿駅だった。
「木村さん、なんだここは?!すごい人だ!あそこはテレビの撮影をしているのか?」
「日曜日の原宿だからな。これくらい人はいるだろう。あそこはabemaTVというネット配信番組のスタジオだ。それよりはぐれるなよ」
 そう言うと、木村は直の身体を寄せた。直はまた胸にときめきを感じた。何故なら……。
「あれはなんだ?猫カフェ?猫の動物園がこんなビルの中に?あのお兄さんはなんであんな狭いところでクレープを作ってるんだ?お金が無いのか?というかなんでこんなに服屋が多いんだ?こんなデザイン大島で見たことないぞ。痛っ、あっ、すいません。え~黒人が日本語話してるぞ。本当は日本人なのか?なんだあの女子達は歴史の教科書のヨーロッパのところで習ったぞ」
 直の興奮は留まるところを知らなかった。
「おい、ここだ。着いたぞ」
 そこには高層ビルが佇んでいた。表には「Universal Music」と書いてある。
「これは……御神火様!」
 直はお辞儀をした。
「いや、ただのビルだ。最もレーベル最大手だがな。中に入るぞ」
 エレベーターで受付まで登ると、2人は電話の前で待機した。日曜日なだけあって、中には人は見当たらない。
「木村さん、どうしたんですか?中に入らないんですか?」
「まだ、約束の時間まで15分ある。5分前になったら、電話をかける」
 学会のときと違って木村は今日は黒のスーツに青いネクタイをしていた。対する直はTシャツとジーンズだった。昨夜の女子会で由香は何度も嘆いていた。
「直ちゃん!100歩譲って普段はそれでいいとしても勝負服は持たなきゃダメよ。原宿行くんだったら、お洋服も見てくるのよ。きっと木村さんが買って下さるから。そうそう、それで木村さんとはどこまでいったの?」
「う~ん、服は動きやすいのが一番だからな。介護の現場でも濡れたり汚れてもいい丈夫な服がいいんだ。自転車も毎日乗るし。木村さんはタダの上司だぞ。名前すら呼ばれたことがない」
「だから、デートや今回みたいなハレの場よ!う~ん、それにしても名前も読んでないとは。木村さんも可愛いとこあるのね」
「そういえば木村さんは何歳なんだ?」
「あらやだ。年齢も知らないのね。直ちゃん、これは問題よ。2人はコミュニケーションが足りないわ。今回のCDデビューも大事だけど、木村さんとも距離を縮めるのよ」
 直が思い出に浸っている間に、気づいたら木村が電話を掛けていた。5分ほどで降りてきたエレベーターから人が出てきた。Tシャツとジーンズを履いた壮年の男がである。なんだ由香の取り越し苦労じゃないか、と直は安堵する。
「君達、ご苦労だったね。上の部屋まで来てくれ」
 3人はエレベーターで最上階まで上がった。
「私はどうも社長だからって最上階に部屋を構えるのが好きじゃなくてね。だって、合理的じゃないだろ?エレベーターだって止まる確率が低いじゃないか。でも、人間高いところが好きでね。そこに付加価値を感じるんだな」
 社長が何百回も繰り返したであろう口上に、木村もしっかりと愛想笑いを返す。
「そうですよね!うちも御神火様に登って見る富士山が好きだ。富士山からは御神火様が見えるのだろうか」
「はっはっはっ。今度登ってみるといい。きっと綺麗に見えるよ」
 直の想定外の回答にも躊躇なく対応できるのが、社長の懐の深さだ。最上階に着き、エレベーターを出ると、部屋は1つしかなく、残りのフロアは広間になっていた。
「ここで社内のちょっとした宴会をするんだ。中へどうぞ」
 社長室には、ユニバーサルミュージックが手がけたアーティストの写真や受賞した賞が飾られていた。さっきの台詞とは裏腹に権威を翳すことが好きなようだ。
 直が手前のソファーに座ってるのを尻目に木村と社長は名刺交換していた。
「大島病院の木村です。本日はよろしくお願いします」
「社長の出口だ。よろしく」
 出口がどさっとソファーに沈み込むと、木村は「失礼します」とソファーに浅く座った。
「さて、メールで簡単に話は聞いたし、昨日の学会の音源も聞かせてもらった。悪くない。磨けば光るだろう。だが、誰がどれくらい磨けば光るのかは分からない。何より俺は自分の目で見たものしか信じない。この場合は耳、でもあるな。君、名前は?」
 直は自己紹介していないことに気づいて慌てて立ち上がった。
「あ、さ、佐藤直。20歳です。歌を歌ってみんなを幸せにしたいです」
「具体的には誰を幸せにしたいんだ?」
「えっと、みんなです。目標は高い方がいいと思います」
「ほう、オッパイが大きいが、何カップだ?」
「Eカップです。大島牛乳を欠かさず飲んでいました。今も飲んでます」
「木村さんは佐藤さんの彼氏か」
「ち、違います。今のところ」
「うちは簡単に言えばCD屋さんだ。何枚売りたい?」
「え、1万枚、くらいですかね。多いですか」
「それぐらいなら他の会社でデビューしても達成できるだろう。うちを舐めて貰っては困る。日本では最大手だ。アメリカの会社だから、当然アメリカにも顔が効く。確か英語も喋れるんだってな?」
「意味はあんまり分かりませんが、暗唱できます」
「歌える曲数はいくつある?」
「え~数えたことないんですけど、1回覚えた曲ならワンフレーズ聞けば暗唱できると思います。新しい曲でも3回くらい、いや5回くらい聞けば暗唱できます」
「暗唱っていうのは、歌詞の暗記だけじゃなく、曲の暗記も含んでるって考えていいんだな?」
「はい」
「他の曲とのハーモナイズもできる?」
「た、ぶん」
「踊りはできるか?」
「運動は苦手です……」
 そこに木村が割り込む。
「出口社長、恐れ入りますが、彼女はアイドル的な活動は不向きかと」
「分かってる。聞いただけだ。ただ木村さんが仰った、うちのヨルシカのような売り方はもったいない。顔面も悪くないし、背も高い。オッパイも大きいんだから露出した方がいい。脱がしてみないと価値が分かんないが、水着グラビアを並行させるのもありだ。な~に、そんな過激なものは着させんよ」
「それはちょっと……」
 木村の笑顔が引きつる。
「じゃぁ、そろそろ歌を聞かせて貰おうか。美空ひばりの『川の流れのように』は歌えるか?」
「はい、ワンフレーズ頂ければ」
 出口のスマホからイントロとワンフレーズ流れ、直は歌いだす。しばらくして、出口のスマホからドラムロールの音がする。これは……。
「紅だ~!!!」
 X Japanの「紅」である。ハイテンポのロックとローリズムの演歌。これをどうハーモナイズさせるのか。いわばこれは直を試す試金石であった。直の歌がしばらく止まる。木村の顔が曇る。出口は立ち尽くしている直を凝視している。そのとき直の口から再び歌が紡ぎ出された。それは更に遅くなった「川の流れのように」だった。このままでは川が止まってしまうのではないかとも思える。普通の思考なら、ハイテンポに合わせろと言われたら、ハイテンポの演歌を歌おうと思うだろう。たしかに拍子は合う。しかし、それでは情報量が過多になってしまう。そこで、直は拍子が合うようにさらにスピードを遅くしたのだ。ただ、それでは間の抜けた曲になってしまう。適度に作詞もする必要があったのだ。しかし、それは直が不得意とするところ。それゆえの沈黙だったのである。
「分かった。もういい」
 出口が口を開く。
「すいません。うち、作詞は苦手で、即興は時間がかかりました」
 直が申し訳なさそうな顔をする。
「えっと、木村さん。目標は紅白歌合戦出場ということだったが、今も変わってないかな」
「はい、それが最終目標です」
「まぁ、うちとしては出場したらもっと稼いで貰いたいがね。前金で100万だそう。いくつか条件はあるが、うちで契約して欲しい」
 出口が金庫から100万の札束を出して机の上に置いた。
「え?これ全部1万円札ですか?何もしてないのにこんなに貰えるんですか?!あ、分かりました!出来もしない紅白歌合戦に出場したら、貰えるってことですね。2人とも意地が悪いんだから」
「佐藤さん、座っていいよ。よく俺の話を聞いてくれ。条件を大雑把に説明する。詳細は契約書で確認してくれ。まずは、他社に移籍しないことだ。これが一番怖い。次にうちの許可なくYoutubeなどに歌をアップしないことだ。ここまではマストだ。さらに俺が考えてるのは、シンガーとしてのデビューではなく、うちのアーティストのパフォーマンスをハーモナイズするハーモナイザーとしてのデビューだ。つまり、自分の楽曲をしばらく持たない。それが最短の道だ。プロをハーモナイズしていく中で、自分の実力を上げていくんだ。楽譜が読めないとか、音楽理論が分からないとか甘えるな。ただ、それを待ってたらせっかくの20歳の美貌が死んじまう。デビューしてうちで勉強するんだ。こんな良い話はないだろ?」
「そんな、うちがそんなこと……」
 直は突然の事態にどうして良いか分からない。
「後日、契約書とマネージャーの連絡先を送る。前向きに考えてくれ。契約してくれたら100万円振り込む」
「分かりました。本日はお時間頂き、ありがとうございました。大島に帰って佐藤さんの家族も交えてよく相談したいと思います。佐藤さん、大丈夫かな?」
「は、はい。ありがとうございました」
 乗り込んだエレベーターの扉が閉じると、直は脱力した。
「木村さん、何でしょう。凄く良い話なのに、何だか凄く疲れました」
「流石、業界最大手の社長だったな。よく頑張ったな。昼食は好きなものをご馳走しよう。何がいい?」
「木村さん、本当ですか?えっと確か由香が原宿でご飯食べるんなら、エッグスアンドシングスってところでパンケーキを食べろと言ってました」
「ああ、Eggs’n Thingsだな。行列ができてると思うが、大丈夫か?」
「やっぱり美味しいんですね。もう来れないかもしれないので、是非お願いします」
「なんだ。さっきの話、断る気か?」
「いえ、まだ分かりません。大島を出て生活をするってことですよね。ないちで知り合いもいないのに生活していくなんてとてもとても心細くて……」
「まぁ、1人で悩んでも仕方ない。大島に戻って友人や家族と相談するといい。もちろん、職場もだな。退職することになるだろうから」
「そんな……施設のみんなのお世話は誰がするんですか?病院の音楽療法は誰がやるんですか?あのピアノはもう誰にも弾かれなくなってしまうんですか?」
「さっきの社長の言葉をよく考えるんだ。君は誰を幸せにしたいんだ?君の音楽でないちの人も幸せにできる。いや、世界中の人々も幸せにできるかもしれない」
「音楽療法……じゃなかったんですか?うちは、そんな芸能人みたいなこと……」
「音楽療法士は国家資格ではないし、音楽療法は保険点数化されていない。つまり、病院などの限られた場所で医療として提供する必要性が低いんだ。それなら商品化して普及させた方がいい。『モノ』から『コト』へ価値が動いて、CDが売れなくなりライブ活動の価値が重視されている音楽業界において、君の力は希少価値があるんだ。ライブの聴衆の応援があるほど、君の能力は力を発揮する」
「やっぱり、学問のためですか」
「そうだな。医療と音楽のためだ」
「木村さんも音楽が好きなんですか?」
「私は、本当は音大に進みたかった。しかし、親から医学部に進んで家を継ぐようにい言われてな。いや、言い訳だな。本当は才能が無かったんだ。情熱と才能があれば、親の反対を押し切って音楽の道に進みたかった。NHK交響楽団に入って演奏するのが夢だった」
 木村の顔はいつもの冷ややかな表情でも、愛想笑いでも無かった。それはどこか少年が悔しそうな顔をしているようだった。
 1時間程行列を待つとついに店内に入れた。店内は女性客とカップルばかりだった。木村は居心地が悪くないだろうかと直は不安に思った。しかし、木村は飄々としている。
「わぁ~、パンケーキって高いんですね!でも、どれも美味しそう。ん~バナナパンケーキで」
 直は一番安いものを指さした。
「せっかくなら、このワイキキセットメニューにしたらどうだ?パンケーキにエッグスベネディクトもつくし、ドリンクとサラダもつく」
「えっ、こんな高いものいいんですか?」
 2倍以上の値段のメニューに直は驚いた。
「私は、バナナ、ホイップクリームとマカデミアナッツにしよう」
「木村さん、けっこ~甘いの好きなんですね。私の方が高くて申し訳ないです」
「なに、私ももう30だからな。あまり多くは食べれないからな」
「木村さん、30歳なんですか?」
「ああ、そうだ。何か問題か?」
「あ、いえ、お若いですね」
「どの基準でものを言ってるんだ?20代と30はそう変わらないだろ」
 しばらくすると、木村が注文した品が運ばれてきた。それは5枚のパンケーキがオリンピックの紋章のように重なっており、中心部から天を突くかのように生クリームの山がそびえ立っていた。その周りにスライスされたバナナが散らしてある。
「こ、これは御神火様!」
「そのネタはもういい。なんだ?食べたいのか?」
「はい、いや、大丈夫です」
 直は生唾を飲み込んだ。
「仕方ないな。口を開けろ」
 直は一瞬固まったが、すぐに大きく口を開け、目を見開いた。それはまるで、出目金が水槽の中で口をパクパクさせる様子を想起させた。
「目が騒がしい。目を瞑れ」
 視界が閉ざされた直の口蓋にふわっとしたホイップクリームの柔らかい触感があたる。口を閉じると、それはクッションのように潰れ、歯先ではバナナとパンケーキを噛み潰すことで甘さがじんわりと口中に広がる。そして、金属でできたフォークが舌の表面をなぞりながら、唇の隙間を通り抜ける。それは直にとって初めての経験だった。
 直が惚けているうちに、直の料理も次々と運ばれてきた。
「欲しかったら、ホイップクリームもう少し取ってもいいぞ」
「あの、さっきのもう1回やって欲しいんですけど……」
「甘えるな。自分で取れ」
 直は悔しくなり、ホイップクリームの大半をナイフですくい取った。しかし、2人の皿の中間で机の上に落ちた。
「あわわ、勿体無いお化けがでるっ」
 直はホイップクリームをテーブルから何度も皿にすくい上げた。それは惨めな行為だったが、ホイップクリームに夢中になっていた直は、木村が微笑ましい顔でその光景を眺めていたことに気がつかなかった。
 昼食を取った後は、そのまま大島に帰った。由香に洋服を見るように言われていたが、高い昼食をご馳走になった上に、洋服を強請る気には直はとてもなれなかった。それにユニバーサルミュージックの社長がTシャツとジーンズだったんだから、大丈夫だろうと高をくくっていた。木村は直を家まで送った。
「今日のことをご両親に聞かれたら契約書が届いたら、俺と一緒に説明すると伝えてくれ。とてもいい話だがむやみに喜ばせて島中に広がっても後々困る。分かったね」
「はい、木村さん。今日は本当にありがとうございました」
「ああ、おやすみ」
「おやすみなさい」
 直の内地での2日間は終わった。何から何まで刺激的だった。直は契約書が届くのが楽しみな一方で、判断を下すのが怖い自分がいることも感じるのだった。
 一週間後、契約書が直の元に届いた。木村にそれを伝えると、今日家にお邪魔するから父親に酒を控えるよう伝えてくれと頼まれた。その夕方、木村が姿を現した。木村は早速契約書を改めた。木村は5分ほど契約書の内容を咀嚼した。和も恵も、そして直もその有様に固唾を呑んだ。そして、木村が顔を上げ、3人を見回した。
「先生、直の具合はどうなんでしょうか?」
 恵が心配そうに尋ねる。
「そんな、病気じゃないんですから。では、状況を説明します。まず、直さんはレコード会社に認められました。それも日本最大手のレーベル、ユニバーサルミュージックです」
 和と恵が嬉しそうに顔を合わす。
「但し、いくつか条件があります。
1. 契約後10年間は他社に移籍をしたり、独立しないこと。破ると違約金です。
2. 会社の許可なく、音楽の公開または販売を行わないこと。破ると違約金です。
3. 契約から1年後にデビューすることを目指して、あらゆる努力をすること。
4. レッスンや転居に伴う費用は自己負担すること。
5. 以上の条件を満たせば、前金として100万円授与する。
6. 給料は月10万円とする。
こんなところですかね」
 佐藤家がおろおろと顔を見合わす。
「先生、俺は馬鹿だから……」
「はい、説明します。まず、直さんは大分値踏みされています。囲い込まれている割にはレッスン料などが自己負担です。おそらく1年間で前金の100万が吹っ飛びます。そして、この前金はいわば借金です」
「「「借金!!」」」
「ええ、借金です。噛み砕いて言うと音楽学校に通うようなものですね。そして、給料が10万となると、都内の家賃は場所によりますがワンルーム8万くらいするので、アルバイトしながらの生活になるでしょう。ただ、直さんはインディーズの活動をしていないので業績がありません。そんな中才能だけでこの条件を勝ち取ったこともまた異例と言わざるを得ません。そして直さんがスターになれるチャンスがあります。3年以内に紅白歌合戦への出場も可能だと考えています」
「なんだそれは、詐欺じゃねぇのか?結局、そいつらは直を使って金儲けしようと考えているだけだろ?」
「それは言い換えれば、直さんがそれだけ魅力的だということです」
「でも、直は今だってそれより高い給料を貰って歌を楽しみながら生活してるんだ。そんな借金まで背負ってリスクを犯す必要ねぇだろ?危険なないちに行くより平和な大島で過ごした方がいい。直はな、役場の人間と結婚して幸せに暮らすんだ」
「付け加えることがございます」
「なんだ?」
「この件の概略を町長に伝えたところ、是非挑戦して欲しいとのことです。町長に気に入られることは、役場の人間と結婚する上で有利じゃありませんか?」
「でも、直はないちに行っちまうんだろ?なんか矛盾してねぇか?」
「もう1点あります」
「直さんのことは私が全責任を負います」
「どういう意味だ?」
「直さんと結婚を前提にお付き合いさせて下さい」
 木村が頭を下げた。
「な、なんだ?いきなり。やっぱりお前、直のことが狙いだったんだな」
「私は都内の病院に転院する調整をしています。直さんのケアをすることもできます。もっと言えば、同居することも可能です」
「付き合ってもいないのに同居だと?俺たちから直を連れて行くんじゃねぇ。直、ダメだ。この件は終わりだ。こいつとも付き合うな」
「お母様はどう思われますか?」
「私は直の判断に一任します。もう20歳ですもの。自分のことは自分で判断できます」
「直さん、いかがですか?」
 直は答に窮してしまった。契約だけでも考えるのが精一杯なのに、まさか木村から告白されるとは夢にも思わなかった。
「今日はここで失礼させて頂きます。明日、明後日に返事する類のものではございません。直さん、また次の音楽療法の日にお待ちしております」
 そう言って、木村は言うだけ言って帰っていった。それからの直の日々は、これまでとは一変した。直の父は酒を呑む度に、木村の愚痴を溢すし、直は仕事中も気もそぞろだった。直が木村の件を忘れられたのは、歌を歌っているときだけであった。しかし、歌を歌い終えると、契約の件を思い出し、それが木村の件を想起させる。堂々巡りであった。
そうして、次の音楽療法の日が訪れた。その日、直は夕食に誘われた。病院の近くの大衆食堂まで車で向った。直は答を聞かれるかと思い、どぎまぎしていたが、お互いの子供時代の話など関係のないことを語り合った。木村は直の小学校や中学校の話を面白おかしく聞いていたが、健吾の話題になると顔をしかめていた。
再び車で病院まで送ってもらい、車が駐車場に止まった。
「木村さん、今日もありがとうございました。また、次回もよろしくお願いします」
 そう言って直は車を出ようとしたが、ロックがかけられている。
「直さん、そろそろ答を聞かせて欲しい」
「えっ、木村さん、それは……どちらの答ですか?」
「両方だ」
「ん……父も反対してますし、ないちの生活は私には難しいかな……」
「それは私がサポートする」
「本気なんですか?」
「ん?」
「学問……のためですよね。あるいは、音楽のためですよね」
「違う。私自身のためだ。木村蒼には佐藤直が必要だ」
「そんな、うちなんて木村さんとは釣り合わないですよ」
 そのとき、木村は直の身体を寄せて、唇を重ね合わせた。直の口の中にスプーンが入る。そこには、バナナとパンケーキとふわふわのホイップクリームが乗っかっている。クリームが柔らかく口中に広がって、直の身体が熱くなってくる。
「これが私の気持ちだ」
 木村が身体を離す。直は身体をもじもじさせながら口を開いた。
「あの、さっきのもう1回やって欲しいんですけど……」
「甘えるな。自分でやれ」
 その日、直は家に帰らなかった。翌日の夜、直が帰宅すると、和はカンカンだった。
「直、外泊なんてどういうことだ?!父ちゃんは許した覚えないぞ」
「ごめんなさい。でも、うち、木村さんのことが好きなの!」
「何だと?!父ちゃんはダメだって、言っただろ。お前は役場の人間と結婚するんだ」
「役場の人間、役場の人間っていつ現れるのよ。しかも、うちのことが好きでうちが好きになるなんて無理よ」
 和が口をつぐむ。その代わり、恵が口を開いた。
「直ちゃん、木村さんは貴女を大切にしてくれるの?」
「ああ、木村さんはいつも私のことを気にかけてくれる。昨日だって凄く優しかったんだ」
「お父さんはね。船の上で私のことを無理やり押し倒したのよ。背中が痛いし、魚臭いし、最悪だったわ。それでも、私はお父さんと一緒になったわ。なんでか分かる?貴女が生まれたからよ。お父さんは考えなしだったのね。でも、お父さんは変わったわ。自分本位に生きてきたお父さんは私のことを一番に考えてくれるようになった。勿論、貴女のこともね。散々、うちの父に反対されたけど、お父さんは毎日うちの父に魚を届けて漁獲量を報告したわ。私を養えることをアピールし続けたの。昔は、今みたいに漁獲量が少なくなかったから、漁師のステータスはもっと高かったの。それで遂に結婚を認めてくれたわ。それから先は貴女の知っての通り、私達は質素に生活してきたわ。お父さんはずっと自分を責めてきたの。もっと自分がちゃんとしてればって。お父さん、木村さんはきっといい人だし、そうじゃなくても愛があれば2人でなんとかやっていけるわよ。困ったら、いつでもうちに帰ってきなさい」
 和はそっぽを向き、再び酒を呑み始めた。
「困ってなくても帰ってくるんだぞ」
「お父ちゃん、お母ちゃん。ありがとう。うち、頑張るね。紅白歌合戦に招待するから!」
 こうして直は契約書に署名して郵送した。そして木村の都内の病院への手続きを待って2人は引越した。直は感覚で行っていた音楽と初めて向き合うことになる。呼吸法、それに伴う腹筋の鍛え方、和音や倍音など調和のあり方、表情や振り付けなどパフォーマンスとしての歌のあり方、撮影のためのボディメイキング、食生活の指導。直のありとあらゆることが管理された。
 直はレッスン以外の時間はアルバイトをすると申し出たが、給料で10万円入ってくるかということで木村は止めた。その内情としては、直の容貌の変化もあった。直は髪も身体もケアするようになり、化粧の仕方も覚えた。身長も高く胸も大きい彼女は、繁華街ではナンパの対象や犯罪に巻き込まれる可能性が危惧された。木村は直をできるだけお城に閉じ込めておきたかったのだ。とは言っても外出制限をしているわけではない。直は、暇があれば街を散策し、都会の喧騒や人々の往来に思いを馳せ、大島とは違った創作活動に興じるのだった。
 契約から1年が経とうとしているところ、直はマネージャーからタイアップの連絡を受けた。Charaのライブの1曲にサブボーカルとして出場するというものだ。それはつまり事実上の直のデビューだった。それに伴って直の公式Twitterが開設され、プロフィールと写真撮影、芸名が必要となった。芸名は本名を活かしたいという直の希望があって、NaOとなった。大文字のOには大島の大を表している。
 流石にCharaの代表曲でのセッションは認められなかったが、聴衆の関心は掴むことができた。Charaの独特な出で立ちに対し、NaOは肩を出した白のワンピースに白のサンダルで挑んだ。NaOのときは黒のロングのウィッグを被っていたので、清楚な出で立ちでもあった。あえてトークセッションは設けなかった。それによって、NaOとは誰なんだと一部の層で話題になった。Twitterでは、Charaのライブに参加することと、お礼の報告だけがマネージャーによって呟かれていた。
 その次に恵比寿マスカッツとのタイアップが提案された。恵比寿マスカッツとはセクシー女優とグラビアアイドルで構成されているグループでお色気のある歌を歌ったり、深夜やネットのお色気バラエティ番組に出ている。タイアップはニューシングル「愛しさと切なさと夜の強さと」の収録とミュージックビデオの出演である。メンバーはもちろん歌のプロではない。通常はそれを機械で調整して聞けるレベルにするのだが、今回はソロパートを増やし、それに対してNaOにハーモナイズしてもらおうという実験的試みである。ミュージックビデオは、性のシンボルであるメンバーと愛のシンボルであるNaOが恋愛と性交渉における乙女心を表している。宣伝では「どんな音楽でも即興でハーモナイズできる女性」とタイアップするということが語られたが、NaOの出演はなかった。NaOの最初のテレビ出演は紅白歌合戦という予定だった。ミステリアスな女性として大衆の関心を仰ぐという狙いもあったが、何より直が喋るとオツムの弱さが露呈することが問題だった。そこは1年かけても到底治るはずはなかった。
 このシングルは恵比寿マスカッツのシングルの中で最も売れた。お色気お笑いを求める従来のファンへの訴求力だけでなく、この曲は今までと違う本格的な要素があるということで裾野が広がったのだ。Youtubeのミュージックビデオの再生回数は100万回を突破した。この相乗効果が出口の1つの狙いでもあった。いよいよNaOがCDを発売するときが来た。
 NaOの1stシングル「大島の青さを知る人よ」はNaOの作詞作曲である。NaOはピアノを弾きながら歌うシンガソングライターとして世に知れ渡ることになる。ミュージックビデオは勿論大島で撮影した。大島の空の青さ、海の青さを愛でるNaOの姿を収めたノスタルジックな映像になっている。同時に1st写真集「大島の青さを知る人よの裏側」が発売された。これにはミュージックビデオの撮影の際のオフショットが収められている。
 続いて2ndシングル「椿の里」、3rdシングル「パンケーキの上の生クリーム」と次々に趣向を変えた楽曲をリリースした。
日本音楽療法学会の方はというと、配布したCDではあまり効果が上がらないという効果があがっていた。そこで、複数の病院から患者用に作曲してくれと依頼を受けていた。しかし、ユニバーサルミュージックとの契約があったため他の病院へ楽曲を提供することはできず、Naoの楽曲は治療効果があると謳うことができなかった。もっとも出口は意に介していなかった。享楽性を求める音楽の販売において、「治療効果があります」などと謳うことは興が削がれるのだ。本当に効果があれば、セールスという結果は後からついてくるということだ。
実際、NaOはメディア露出が一切ない中で楽曲は次々と売れていった。1stアルバム「ともだち」を売り出したときには、「大島の青さを知る人よ」のストリーミング総再生回数が1億回を突破した。そして、ついに紅白歌合戦の出場が決定した。NaOがデビューして3年目のことであった。発表されていないが、NaOは「大島の青さを知る人よ」をピアノの弾き語りで行うことになった。予定通り3年以内に紅白歌合戦に出場する夢が叶うことになったのである。
その年のクリスマス、木村は直にプロポーズした。出口に反対されることは想定されたが、直はこれを了承した。両親に電話で伝えると、恵は喜んでくれたが、和は電話を変わってくれなかった。ただ、電話越しに涙ぐむ音が聞こえてきた。紅白歌合戦が終わった後は、「ともだち」の全国ツアーが控えている。その前に大島に戻って、両親にきちんと報告しよう。そして由香や百合子を集めて、伊豆大島の中で椿の花に囲まれながら結婚式をあげるんだ、直はそう思っていた。そんな矢先、直は和が交通事故に合ったことを知らされた。
「直、忙しいときにごめんね。お父さん、今手術中なの。紅白歌合戦を見に東京へはとても行けないわ。直、がんばって歌うのよ」
「お母ちゃん、うち帰る!大島に帰る!」
「直、あなたが来ても何もできないわ。お医者様を信じるの。貴女には貴女にしかできないことをするのよ」
 直は考え続けた。木村にも出口にも相談した。しかし、答は恵と同じだった。和の手術は終わったが、意識は戻らないままだった。直はできるだけ考えないようにしてリハーサルを重ねた。そして紅白歌合戦の前夜、直は夢を見た。直が小さいときに庭に植えた黄色い種がすくすく育ち黄色い花をつけて、「ずっと直の歌でみんなが楽しく過ごせますように」と願った夢を。直は起き上がった。行くところは1つだった。直は白いコートを身に纏うと朝一番の高速船で大島に向った。
 大島に着くとタクシーで自宅に向った。庭を見たが黄色い花はどこにもなかった。そのときマネージャーから電話がかかってきた。このタイミングで戻れば紅白歌合戦には間に合うはずだ。直が諦めかけたそのとき、由香と百合子と三原神社にお参りしたときに見た御神火様の火口に咲いていた黄色い花を思い出した。もしかしたら……。直は電話に出ると、大島で父の看病がしたいから今日はキャンセルすると告げて、電話を切った。すぐに電話が何回もかかってきたが、直は無視し、御神火様火口へ向った。
 タクシーを降りると雨が降り始めた。直は傘を持ってなかったが、雨に打たれると大島に帰って来たんだということを思い出す。ようやく山頂まで登ると、確かにそこには黄色い花が咲いていた。直はお父ちゃんを助けて下さいと願った。しかし、何も起こらなかった。それならばと、それを一輪抜こうと試みた。だが、不思議なことに黄色い花はびくともしなかった。すると、後ろから声を掛けられた。
「無駄だよ。それはここで投身自殺を防ぐために植えてある。それに君は一度願いを叶えている」
 後ろを振り向くと、緑色のポンチョを着た人が立っていた。中性的な顔と声で男性か女性かは分からない。ただ、よく見ると目を瞑っている。盲目なのだろう。直は小さい頃黄色い花が咲くと言われた種を貰った人物であることを思い出した。
「どういう意味ですか?」
「君の能力だよ。歌でみんなが楽しく過ごせるようにという願いを受けて、君は対象者に対して適切な音楽を届けられるようになった。これ以上、君は願いを叶えられない」
「そんな……じゃぁ、この能力は返します。お父ちゃんを助けてください」
「残念ながら私事体は特別な能力を持っていないんだ。こうして助けが必要なところに種を植えて回っているだけなんだ。結局のところ、自分を助けることができるのは自分だけなんだ」
 そう言うと、その人物は消えていった。直が地面にへたりこんでいると、電話がかかってきた。画面を見ると由香からだった。
「直ちゃん!ニュース見たわよ!何考えてるの?!早くないちに戻って」
「由香、うちの力は魔法だったんだ。それを手に入れたせいでお父ちゃんを助けることができない……」
 直は由香に事の経緯を説明した。
「そうなのね……。たしかに黄色い花は咲いてるわ。火山地帯なのにおかしいとは思っていたのよ。なら直ちゃん、貴女がやることは1つしかないわ。歌うのよ。貴女ができること、貴女しかできないことはそれしかないわ。魔法なら科学も何も関係ないわ。歌の力でお父さんを助けるのよ!」
「由香……。分かった、このまま病院に向かう!」
「院長には私から伝えとくわ。直ちゃんならきっとできるわ」
 直は電話が終わると、三原神社に正対して深くお辞儀をした。「御神火様、どうかお父ちゃんを助けて下さい」
 下山すると、そこにはタクシーではなく別の車が待っていた。中からはなんと百合子がでてきた。
「直、由佳ちゃんから聞いたよ。さ、乗って乗って」
 車に乗り込むと、百合子から紙袋を渡された。
「全身びしょびしょでしょ?これは着替えよ」
「これは……どういうことだ?」
「由佳ちゃんがね。今、調整してくれてるの。紅白歌合戦はまだ出られるかもしれないわ」
 病院に着き、2Fにある和の病室に入ると恵が疲れた表情をして和の手を握っていた。
「直……どうして」
「お母ちゃん、うち気づいたんだ。うちが本当に幸せにしたい人は『みんな』じゃない、うちの大切な人なんだって」
「直……」
「お父ちゃん、うち一生懸命歌うから聞いててね」
 直も和の手を強く握った。
「さ、直、早く着替えて」
 百合子に肩を叩かれる。百合子が渡した衣装はあんこの衣装だった。子供用ではない。大人用のものだ。
「これなら『大島の青さを知る人よ』にぴったりでしょ。ピアノもあるし、許可が下りれば問題ないわ」
「百合子、ダメなんだ。他の誰かのために歌った歌じゃ効果がないんだ。うちはお父ちゃんのために歌いたい。だから、『大島の青さを知る人よ』じゃダメなんだ」
「えっ、そうなの?!由佳ちゃんに電話してくる」
 そう言って百合子は退室した。
「お父ちゃん。お父ちゃんが最初に教えてくれた歌を歌うね」
直は漁師の歌を歌いだした。
「私しゃ大島 荒浜育ち 色の黒いは 親譲り
私しゃ大島 荒浜育ち 浪も荒いが 気も荒い
沖を通るは ありゃどれ丸だ 外じゃあるまい 主の船
船がかすむと 磯から言えば 磯がかすむと 船で言う」
 直は何度も繰り返した。しばらくすると、百合子が入室した。
「NHKがどういう映像か知りたがってるから、Youtubeで録画するね」
 しばらくして由香から百合子の元にNHKから中継の許可が下りた旨の連絡があった。
「直ちゃん、ずっと歌いっぱなしじゃない。一度食事を取って休憩して。21時から中継だからそれまで身体を休めるのよ」
 百合子がお弁当と飲み物を買い出しに行ってくれた。3人で1階の待合室で食事を済ませると、直は倒れこむように眠りについてしまった。直は再び夢を見る。夢の中で緑色のポンチョを着た人間が現れた。
「君、頑張るね。君の頑張りに免じて君のお父さんに黄色い花の種をあげよう。君のお父さんの本当の願いが叶うはずだ」
 そう言って緑色のポンチョを着た人間は消えていった。
「直、直!」
 直は身体を揺さぶられた目が覚めた。恵と百合子が心配そうに直を見下ろしている。
「直、そろそろ本番だよ。大丈夫?歌える?」
 直は大島牛乳を飲んでげっぷすると、2階の病室に駆け上がった。
「大丈夫。準備OKだよ。お父ちゃん見ててね」
 百合子がスマホでライブ配信を始めた。コメント欄にスタートの合図が送られる。直は和の本当の願いに思いを馳せながら歌った。すると、和の手から目が出て、葉が出て、黄色い花が咲いた。黄色い花は光輝くと、花びらが1枚、また1枚と散っていき、終にはその姿を消した。そして……。
「直……歌が上手くなったな……」
 和は意識を取り戻した。
「お父ちゃん、お父ちゃん!!」
「賑やかだな、なんだか。直のあんこの衣装似合ってるじゃねぇか、これはミスあんこ間違いねぇな」
「お父さん、よかった」
「百合子、まだ時間はあるか?大島の青さを知る人よ、ワンフレーズだけでも」
 百合子の目から涙が溢れる。
「直……」
「百合子、どうしたんだ?お父ちゃんは助かったんだ!」
「直の、声が聞こえないよ……」
 直ははっとして両親の方を向く。2人も驚いてこちらを見ている。百合子はライブ配信を切ると、医師を呼んだ。和が意識をとり戻したからなのはもちろんだが、直が声を出せない症状もすぐに見て欲しかった。
 NaOはこれを機に芸能界を引退した。NaOの最初で最後の単独ライブである紅白歌合戦は伝説となった。もちろん、島民からは「紅白歌合戦に出た直ちゃん」と呼ばれるようになった。その希少性から、直の1stアルバムもミリオンセラーとなり、惜しまれながらも出口とは円満に話し合うことができた。直はもちろん大島に戻った。そして「椿の里」でまた介護業務を始めた。木村は直から勇気を貰って父親の反対を押し切り、大島で暮らしていくことを決意した。逆に百合子は今回の件で芸能界とパイプができ、ドラマなどの制作に関わるべくないちに移住した。由香はというと……。
「直ちゃん!聞いて!彼氏が3股してたの!忙しい、忙しいって医学生だからしょうがないって思ってたけど、こんなの人としても医者としても男としても願い下げだわ。はぁ、お父さんの病院を継ぐはずだったのに……」
「由香、大変だったな。うちの夫はもう大島にずっといるみたいだけど、夫じゃダメか?」
「直ちゃん!やっぱり直ちゃんは最高ね!」
 それから由香もすぐ大島に戻ってきた。直は子宝に恵まれ、男の子を出産する。名前は奏と名付けた。そして、奏が4歳のとき、和の船に直と奏が乗り込んだ。
「私しゃ大島 荒浜育ち 色の黒いは 親譲り
私しゃ大島 荒浜育ち 浪も荒いが 気も荒い
沖を通るは ありゃどれ丸だ 外じゃあるまい 主の船
船がかすむと 磯から言えば 磯がかすむと 船で言う」
 奏が漁師の歌を歌う。
「奏くんは、歌が上手いな~。直よりも上手いかもしれない」
 直も奏の歌に合わせてハーモナイズしてみる。もちろん声は出ないはずだが……。すると和が驚いた声を上げた。
「直……、お前声が……」
 直と奏は絶妙なハーモニーを大島の海に響き渡っていた。
「奏、お母ちゃんだよ、はじめまして」
 直は涙を零す。
「これは、御神火様のおかげだ……」
 和も泣いた。そのとき黄色い花片が直の掌に舞い降りてきて、消えた。
「手品みたいだね、お母ちゃん」
 直は奏を抱きしめ、再度黄色い花に思いを馳せるのだった。



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