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香村健臣という少年の事を同級生たちはだいたい優等生であるとか、クラス委員であるとか、何を考えているのか良くわからない影の薄い男として認識している。ただ、その印象は高校二年生になってから少し変化してきているようだった。
「うわ、マジじゃんコ―ムラのノートすげー見やすい」
テストの準備期間に入った放課後は部活動も休止されるため教室に残っている生徒は多く無い。同じクラスの廣川七瀬に勉強を教えて欲しいと言われていた香村が自分の数学のノートを開くと、何故か机と一緒ににじり寄って来た榊原奈美が声を上げた。
「榊原さんも一緒にやる? 勉強会」
「やるやる! アタシ真面目に今回赤だとやべーの。バイト禁止の危機」
「バイトしてるんだ」
「駅前のラーメン屋」
「頭ピンクでも雇ってくれんだな」
そう言って前の席の椅子を勝手に拝借して教科書と参考書を広げた廣川に対し、榊原は自信満々に「地毛だし」と言った。
「いや、無理がある……」
思わずツッコミを入れてしまった香村に、彼女はばさばさと音がしそうな付け睫毛の大きな目でじとりと見やる。くっきりと縁どられた彼女の目に睨まれるのはちょっと怖い。
「香村はノートも綺麗だよなあ。めちゃくちゃわかりやすいし」
話を切り替えた廣川に内心感謝しながら香村はそうだろうかと首を傾げた。板書を書き写しただけでなく後から見返した時に自分でわかりやすいよう書いているのは確かだが、カラフルなマーカーを多用しているわけでもない地味なノートだと自分では思っている。
「そうかな、赤ペンのほかは黄色とピンクのマーカーしか使って無いけど」
「色分けしてるだけ偉い」
「いや色分けくらいしろよ」
廣川のノートを見せて貰うと確かに殆ど色分けされておらず、シャープペンシルで板書を写しただけという印象だ。因みに榊原のノートは色とりどりのペンやマスキングテープが使われていたが板書の内容は殆ど写されていなかった。
「ノートは板書をとりあえず写すより、自分でわかりやすい言葉に直して書いた方が頭に入ってくると思うよ。そのまま写すより効率が良いし」
「はーその発想は無かったわ」
「いやでも授業中にセンセーの板書噛み砕いて書き写すとか、頭柔らかすぎね?」
二人とも驚いた様子で目を丸くするので、香村は妙に気恥ずかしくなってくる。ノートひとつでここまで褒められた覚えが無かったからだ。
小学生の頃から勉強は特に苦だと思った事が無かった。自分の知らない知識を得られる、というだけで楽しかったからだ。中学生になってからはもちろん楽しいだけでは無く、同じ勉強であっても教科によって得て不得手も出てきたがテストの点数や成績で教師や親に叱られた経験も無い。ただ勉強ばかりしていたせいか仲の良い友人は殆どおらず、幼馴染の吉野立花くらいしか話す相手もいなかった為ノートを誰かに見せるという行為が単純に新鮮なのだ。
「つーか何で奈美がいるんだよ、せっかく俺が香村からマンツーマンで教えて貰えるチャンスなんだから邪魔すんなよ」
「ツッコミが遅いんだよなあ。マンツーマンとか下心見え見えでキモイよ七瀬」
「うっせ! 下心なきゃ勉強なんかしないの」
「え、そうなの?」
本気でテスト勉強がしたいわけではなかったのか、と目の前の廣川を観た香村に対し彼は慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「勉強を教えて欲しいのはガチ」
「……だけど?」
「下心があるのも、ガチ」
色素の薄い瞳……おそらくカラーコンタクト……が目の前の香村を真っすぐ見つめてキリリと気合を入れた表情で頷く。なるほど、いっそ清々しいほどに素直だ。
「そ、その下心とはいったい……」
「そりゃあ、あんなことやこんなことを……」
「コームラも乘ってんじゃねーよ」
榊原の容赦のないツッコミが飛んできた。まだ教室に残っている数人のクラスメイトたちが賑やかな三人を遠巻きに眺めたり小さく笑ったりしている様子が見えて、香村はなんともいえない面映ゆさを感じてしまう。彼らと一緒にいる事が増えて、なんだか最近妙にクラス内で目立ってしまっているような気がするのだ。
「だから奈美には辞退していただいて」
「尚更駄目だね。それならアタシにはコームラのソーテーを守ってやらんとな」
「貞操」
「それ!」
いや貞操を守るとか途端に生々しいなと香村はやや身構えてしまうが、廣川と榊原は何故か睨みあいを始めてしまった。相変わらず仲が良い。
「もう何でも良いから始めるぞ。終わらなくなりそうだ」
身構えてしまったのが馬鹿々々しくなり、香村はため息交じりに教科書を開いたのだった。
勉強会……と言っても香村のノートを二人が書き写しながらテスト範囲の確認程度だが……を終える頃にはすっかり陽が西へ隠れようとしていて、見慣れた街が燃え上がるような茜色に染まっている。車通りも人通りも少ない細い道を廣川と並んで歩いた。
思えば香村が彼と一緒に下校するのは初めてのことだ。ダンス部に所属している廣川とはいつも下校のタイミングが合うことは無く、そもそも友人の多い彼があえて香村と肩を並べて帰るという選択肢を持っているとも、香村は思っていなかった。
教室では賑やかな廣川七瀬という男は、こうして二人で歩いていると意外な程に静かだ。何か話した方が良いのではないかと隣を見やれば、夕陽にキラキラと透かされた髪と黙って前を向く横顔が目に入った。
「綺麗だな」
突然自分の唇からぽろりと零れた声に驚いた。
声に出すつもりなど無かったというのに、彼の輪郭を縁取る白い線を眺めていたらつい、口が開いていたのだ。
「……もしかして、今香村に口説かれた?」
「口説いて無い」
「うわー即答!」
ショック、と言いながらも笑う廣川はいつものように賑やかで、黙っていた横顔など何かの見間違えだったのではと思ってしまう。だが、柔らかそうな明るい色の髪に見え隠れする形の良い耳が赤らんでいるような気もして、それが夕陽のせいだけでは無いように思えて、香村はじわりと掌に汗をかいた。
心臓が煩い。不整脈かもしれない。顔が熱いのはきっと西日が当たっているせいだ。
「廣川君は、なんで」
と、そこまで口にして香村は慌てて唇を閉じる。今日はなんだか不用意な言葉が出てきてしまう日のようで、自分で自分を制御するのが難しかった。それもこれも彼が下心などという妙な言葉を使ったせいだ。榊原が貞操などとわけのわからない単語を発したせいだ。
急に言葉を途切れさせた香村に隣を歩く廣川が押している自転車ごと距離を詰めてくる。何、と問われ頭を振って視線を逸らす。
「……いや、なんでもない」
「えーなになに、気になる」
「本当に、気にしないで」
廣川の興味を引いてしまったようで、逸らされた視線を追うように覗き込んでくる彼の顔が近い。しかし彼にしてみれば友人との距離感などこのあたりが普通なのかも知れず、そうだとすれば意識している自分がおかしい気がして視線がぐるぐると泳いだ。それでも追ってくる廣川の、夕陽を受けて琥珀色に見える瞳とバチリと視線が噛み合う。
「っ……」
廣川の大きな瞳が細められ、あまりにも柔らかく笑うものだから、やはり綺麗だと香村は思った。だが今度は口に出すような失態はしない。
口を開いたのは廣川の方だった。
「……可愛い」
「う、れしくない」
「なんで?」
「からかってるから」
「からかって無いよ。俺は香村の事ずっと、かっこいいし可愛いって思ってる」
「ずっとって、いつから」
「お、やっと聞いてくれた? 俺がいつから香村の事が大好きかって」
俺の事いつから好きなんだ、なんて香村が先ほど勇気が出ずに口を噤んだ問いかけを廣川はいとも簡単に口にしてみせた。
「うわ、マジじゃんコ―ムラのノートすげー見やすい」
テストの準備期間に入った放課後は部活動も休止されるため教室に残っている生徒は多く無い。同じクラスの廣川七瀬に勉強を教えて欲しいと言われていた香村が自分の数学のノートを開くと、何故か机と一緒ににじり寄って来た榊原奈美が声を上げた。
「榊原さんも一緒にやる? 勉強会」
「やるやる! アタシ真面目に今回赤だとやべーの。バイト禁止の危機」
「バイトしてるんだ」
「駅前のラーメン屋」
「頭ピンクでも雇ってくれんだな」
そう言って前の席の椅子を勝手に拝借して教科書と参考書を広げた廣川に対し、榊原は自信満々に「地毛だし」と言った。
「いや、無理がある……」
思わずツッコミを入れてしまった香村に、彼女はばさばさと音がしそうな付け睫毛の大きな目でじとりと見やる。くっきりと縁どられた彼女の目に睨まれるのはちょっと怖い。
「香村はノートも綺麗だよなあ。めちゃくちゃわかりやすいし」
話を切り替えた廣川に内心感謝しながら香村はそうだろうかと首を傾げた。板書を書き写しただけでなく後から見返した時に自分でわかりやすいよう書いているのは確かだが、カラフルなマーカーを多用しているわけでもない地味なノートだと自分では思っている。
「そうかな、赤ペンのほかは黄色とピンクのマーカーしか使って無いけど」
「色分けしてるだけ偉い」
「いや色分けくらいしろよ」
廣川のノートを見せて貰うと確かに殆ど色分けされておらず、シャープペンシルで板書を写しただけという印象だ。因みに榊原のノートは色とりどりのペンやマスキングテープが使われていたが板書の内容は殆ど写されていなかった。
「ノートは板書をとりあえず写すより、自分でわかりやすい言葉に直して書いた方が頭に入ってくると思うよ。そのまま写すより効率が良いし」
「はーその発想は無かったわ」
「いやでも授業中にセンセーの板書噛み砕いて書き写すとか、頭柔らかすぎね?」
二人とも驚いた様子で目を丸くするので、香村は妙に気恥ずかしくなってくる。ノートひとつでここまで褒められた覚えが無かったからだ。
小学生の頃から勉強は特に苦だと思った事が無かった。自分の知らない知識を得られる、というだけで楽しかったからだ。中学生になってからはもちろん楽しいだけでは無く、同じ勉強であっても教科によって得て不得手も出てきたがテストの点数や成績で教師や親に叱られた経験も無い。ただ勉強ばかりしていたせいか仲の良い友人は殆どおらず、幼馴染の吉野立花くらいしか話す相手もいなかった為ノートを誰かに見せるという行為が単純に新鮮なのだ。
「つーか何で奈美がいるんだよ、せっかく俺が香村からマンツーマンで教えて貰えるチャンスなんだから邪魔すんなよ」
「ツッコミが遅いんだよなあ。マンツーマンとか下心見え見えでキモイよ七瀬」
「うっせ! 下心なきゃ勉強なんかしないの」
「え、そうなの?」
本気でテスト勉強がしたいわけではなかったのか、と目の前の廣川を観た香村に対し彼は慌てた様子でぶんぶんと首を横に振った。
「勉強を教えて欲しいのはガチ」
「……だけど?」
「下心があるのも、ガチ」
色素の薄い瞳……おそらくカラーコンタクト……が目の前の香村を真っすぐ見つめてキリリと気合を入れた表情で頷く。なるほど、いっそ清々しいほどに素直だ。
「そ、その下心とはいったい……」
「そりゃあ、あんなことやこんなことを……」
「コームラも乘ってんじゃねーよ」
榊原の容赦のないツッコミが飛んできた。まだ教室に残っている数人のクラスメイトたちが賑やかな三人を遠巻きに眺めたり小さく笑ったりしている様子が見えて、香村はなんともいえない面映ゆさを感じてしまう。彼らと一緒にいる事が増えて、なんだか最近妙にクラス内で目立ってしまっているような気がするのだ。
「だから奈美には辞退していただいて」
「尚更駄目だね。それならアタシにはコームラのソーテーを守ってやらんとな」
「貞操」
「それ!」
いや貞操を守るとか途端に生々しいなと香村はやや身構えてしまうが、廣川と榊原は何故か睨みあいを始めてしまった。相変わらず仲が良い。
「もう何でも良いから始めるぞ。終わらなくなりそうだ」
身構えてしまったのが馬鹿々々しくなり、香村はため息交じりに教科書を開いたのだった。
勉強会……と言っても香村のノートを二人が書き写しながらテスト範囲の確認程度だが……を終える頃にはすっかり陽が西へ隠れようとしていて、見慣れた街が燃え上がるような茜色に染まっている。車通りも人通りも少ない細い道を廣川と並んで歩いた。
思えば香村が彼と一緒に下校するのは初めてのことだ。ダンス部に所属している廣川とはいつも下校のタイミングが合うことは無く、そもそも友人の多い彼があえて香村と肩を並べて帰るという選択肢を持っているとも、香村は思っていなかった。
教室では賑やかな廣川七瀬という男は、こうして二人で歩いていると意外な程に静かだ。何か話した方が良いのではないかと隣を見やれば、夕陽にキラキラと透かされた髪と黙って前を向く横顔が目に入った。
「綺麗だな」
突然自分の唇からぽろりと零れた声に驚いた。
声に出すつもりなど無かったというのに、彼の輪郭を縁取る白い線を眺めていたらつい、口が開いていたのだ。
「……もしかして、今香村に口説かれた?」
「口説いて無い」
「うわー即答!」
ショック、と言いながらも笑う廣川はいつものように賑やかで、黙っていた横顔など何かの見間違えだったのではと思ってしまう。だが、柔らかそうな明るい色の髪に見え隠れする形の良い耳が赤らんでいるような気もして、それが夕陽のせいだけでは無いように思えて、香村はじわりと掌に汗をかいた。
心臓が煩い。不整脈かもしれない。顔が熱いのはきっと西日が当たっているせいだ。
「廣川君は、なんで」
と、そこまで口にして香村は慌てて唇を閉じる。今日はなんだか不用意な言葉が出てきてしまう日のようで、自分で自分を制御するのが難しかった。それもこれも彼が下心などという妙な言葉を使ったせいだ。榊原が貞操などとわけのわからない単語を発したせいだ。
急に言葉を途切れさせた香村に隣を歩く廣川が押している自転車ごと距離を詰めてくる。何、と問われ頭を振って視線を逸らす。
「……いや、なんでもない」
「えーなになに、気になる」
「本当に、気にしないで」
廣川の興味を引いてしまったようで、逸らされた視線を追うように覗き込んでくる彼の顔が近い。しかし彼にしてみれば友人との距離感などこのあたりが普通なのかも知れず、そうだとすれば意識している自分がおかしい気がして視線がぐるぐると泳いだ。それでも追ってくる廣川の、夕陽を受けて琥珀色に見える瞳とバチリと視線が噛み合う。
「っ……」
廣川の大きな瞳が細められ、あまりにも柔らかく笑うものだから、やはり綺麗だと香村は思った。だが今度は口に出すような失態はしない。
口を開いたのは廣川の方だった。
「……可愛い」
「う、れしくない」
「なんで?」
「からかってるから」
「からかって無いよ。俺は香村の事ずっと、かっこいいし可愛いって思ってる」
「ずっとって、いつから」
「お、やっと聞いてくれた? 俺がいつから香村の事が大好きかって」
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