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推しにキスをしました
しおりを挟む「今年いっぱいで、学徒軍の隊長は退くことにしたよ。次の隊長をセレスティンにお願いしようと思っているのだけど、どうだい?」
「………は?」
何かがおかしいと気が付いたのは、その言葉を聞いたセレスティンの顔から表情が抜け落ちたからだった。
そして次の瞬間には、棚の中にあったグラスがバリン!と音を立てて割れた。
ビシりと振動する空気から、セレスティンが魔力を暴走させていることに気が付いた。
いつもの執務室。王子は公務でいないので、セレスティンと二人きりだった。
隊長の座を譲る話をするのにちょうどいいと、そう思ったのに。
「セ、セレスティン…?どうしたの…?」
「…今、なんて言った」
青い瞳が、まっすぐに僕だけを見つめている。
少しでも言葉を間違えたら、首を刎ねられるのではないかと思うほどの迫力だ。
「…少し、落ち着こう。…そうだ、お茶でも飲むかい?」
「隊長を退くと言ったのか?俺にその座を譲ると?」
じりっと、セレスティンが僕に一歩近づいてくる。話を逸らすことは許されないらしい。
諦めて腹をくくると、彼の瞳を見つめ返した。
「…そうだよ。先日の代行も立派に務めてくれたと聞いた。君は皆からの信頼も厚い。隊長を任せるのに何の心配もー…」
「それとジョエルが辞めることは、何の関係もないだろう!」
黒獅子が吠えるように、セレスティンが僕に詰め寄った。
「あるよ。僕は元々、隊長にふさわしい人が現れたら辞めるつもりだったんだ。君にも最初からそう言っていただろう?」
「ジョエル以上にふさわしい者などいない!実力も、人望だってー…!」
「ありがとう。君がそう言ってくれるのは嬉しい。でも僕は、学徒軍にそこまでの情熱はないんだ。大して熱意のない人間が、いつまでも居座っていい立場じゃないだろう」
「っー…!」
ぎりっと、苦しそうに奥歯を嚙み締めたセレスティンが俯く。
多少理由は聞かれても、隊長を譲ることについてはむしろ喜んでくれるかと思っていたのに。
あれだけ武功を立てようと張り切っていたから、てっきり隊長になりたいのだと思っていた。
「隊長になるのは、嫌?」
「……そうじゃない。…ジョエルが辞めるのが、嫌なんだ」
「そんな風に思ってくれて嬉しいよ。僕もセレスティンと戦うのは楽しかったから、寂しくなるな」
「………嘘だ。ならなんで辞めるなんて言うんだ」
少し拗ねたような言い方が子供みたいで。
気が付けばもう魔力の暴走は収まったのか、空気のビリビリ感はなくなっていた。
俯くセレスティンの頭にそっと手を当てて、落ち着かせるようにゆっくりと撫でる。
「隊長になったセレスティンを見たいからだよ」
「……なんだ、それ」
「君はもっと強くなる。そしてそのためには、早く隊長という責を担う方が良いのではないかと思ったんだ。皆を率いて戦うセレスティンは、きっともっと格好いいだろうしね」
微笑みながらそう言うと、俯いていたセレスティンが、僕の真意を疑うように瞳をのぞき込んできた。
言い訳でもなんでもなく、これは僕の本心だった。ゲームの中のセレスティンは学徒軍の隊長として戦っていたし、その姿はとっても格好良かったのだから。
僕のようなモブは、さっさと舞台から退くべきである。
「それに春から僕は3年生になる。領地についての仕事もさらに増えるだろうし、学ばなければならないことも沢山ある。殿下の手伝いも増えてきて、そろそろ手一杯だったんだよ。体を壊す前に、何かは手放さなければと思っていた」
「……でも、俺はまだジョエルには敵わない。魔法だって、采配だってー…」
「もう、何言ってるんだい」
いつもあんなに堂々としてるくせに、意外と自信がなかったのか。
そんなところも可愛いと思えて、僕はセレスティンの頬を両手で包み込んだ。
僕の瞳がしっかりと見えるように。
その瞳に一欠片も嘘がないことが、伝わるように。
「セレスティン以上に、隊長にふさわしい人間はいない。僕は心からそう思っているよ」
海の底のように深い青の瞳が、大きく見開かれて。
心を込めて微笑んだ次の瞬間。腰に彼の逞しい腕が回ったのがわかった。
「ーー…え」
ぎゅっと、骨が軋むくらいの力でセレスティンが僕をかき抱いた。
熱い体温と彼のシトラスの香りが、僕の全身を包み込む。
驚いて思わず身動きすると、まるで逃がさないとでも言いたげに腕の力が強まった。
「セ、セレスティン…?」
「………ジョエルは、俺の憧れなんだ」
擦れるような小さな声が耳元で聞こえた。
「ジョエルに近づきたくて…横に並びたてるようになりたくて、この半年鍛錬を積んできた。貴方は誰にでも優しいけれど、背中を預けられるのは俺だけなんだって…その自負が俺にとって、どんなに誇らしかったか…!」
言葉と一緒に吐き出される熱い吐息を、僕はただ目を見開いて感じていることしか出来なかった。
「なのに貴方は…何でもないことのようにそれを捨てるという。憎らしいし、許せない。そう思うのにっ……」
喉につまったような言葉の代わりに、僕の肩にぽたりと小さな雫が弾ける音がした。
「他でもない貴方に隊長として認められて……叫びそうなほど、嬉しい自分が…、悔しいっ…」
ーーーああ。彼はこんなにも。
こんなにも僕のことを、大切に思ってくれていたのか。
慕われているとは思っていた。でもそれはよくいる知人や友人の域をでないものだと思っていた。
ーーーだって僕は、『モブ』なのだから。
主要キャラクターであるセレスティンが、僕に特別な感情を抱くことなんてないだろうと思っていた。
彼が僕のことで涙を流してくれるなんて……あるはずないと思っていたんだ。
「…セレスティン」
彼の腕を少し解いて、顔が見えるようにその頬へ手を添える。
おでこがくっつくくらいの距離で見た深い青の瞳は、涙に濡れて宝石のように輝いていた。
僕のために泣いてくれて嬉しい、なんて。きっとあまり健康的な感情ではないだろうけど。
頬を伝うその涙に、喉の奥からせりあがってくるほどの愛おしさを感じた。
溢れる感情に揺り動かされるがまま、その眦に唇を落とす。
ーーーその涙全てを、僕のものにしたくて。
「…ジョ、エル…?」
涙の跡を辿るようにして繰り返されるキスに、青い瞳が大きく見開かれた。
きっと驚いているだろう。でももう止められない。
熱に浮かされている頭の片隅は冷静で、彼を不憫に思う自分がいた。
「……んっ…!」
首筋に伝った涙を吸い上げると、セレスティンの体がピクリと震える。
ああ、可愛いな。
あまりに情欲をそそるその反応につい嗜虐心を煽られて、首筋の雫を舌でねっとりと舐めとった。
「ふ…っぁ…!」
顎をそらせて体を震わせた彼に、腰のあたりが熱く疼く。
ーー…強く、逞しく、皆に恐れられるセレスティン・ギルクラウドが、僕のキスで体を震わせているなんて。
今まで感じたことのないほどの満足感が、僕の心を満たしていった。
「セレスティン」
僕を見つめる青い瞳の縁ふちは、涙と興奮で赤く染まっている。
とろんとした視線がまるで続きを求めているように見えて、たまらない気持ちになった。
春にゲームが始まったら。
ノアがセレスティンを選んだら。
二人が結ばれたら。
ーー…セレスティンはこんな表情を、ノアにも見せるんだろうか。
「…君にそんな風に思ってもらえて、とても嬉しい」
たとえ今だけでも。
それが憧れというものであっても。
セレスティンにこんなに思ってもらえたことを……涙へのキスを許されたことを、とても嬉しく思う。
「僕もセレスティンを、とても大切に思っているよ」
前世から、これまで。そしてゲームが始まるこの春から先も。
僕は遠くから、君の幸せを願い続けるから。
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