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【恋愛編】

少年時代の紳士は負けずぎらいな令嬢に出会う前

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乗馬と剣の稽古、マナー、古語、語学、歴史。
八歳から社交の勉強と貴族教育。
十歳からダンスの練習が加わった。

僕が家族関係に希望を持たなくなったのは、八歳ごろだったと思う。
この時期にやっと僕は母の立場を完全に理解したが、その時にはもう手遅れだった。

僕が五歳から八歳になるまでの三年間で、母はお抱えの占い師や霊媒師を屋敷に呼び傾倒するようになって、水晶やら守りの札やらを買い漁っては奇妙な言動を取り、祖母と父からも使用人たちからも完全に見放されるようになっていた。

母を避け、関わりたがらない者しか屋敷にはおらず、高齢で仕事をやめ年金暮らしをしていた母の乳母を呼び寄せて、世話をさせることに決まり、それと合わせるように母は少女に戻っていった。
グレイ侯爵家の正妻は病で療養中として、対外的には取り繕われた。

僕の生活環境はここで悪化した。
正妻が実質不在となった途端、父の愛人とその娘が屋敷の離れに住み着くようになったのだ。
父ヘンリーと愛人はだいぶ長く関係を持ってきたようだった。
おそらく母との政略結婚前から続いていたのだろう。

十代のころ、父が愛したのは平民の女だった。
若い恋に溺れていた父に祖母は、愛人との婚姻は許さない、けれど正妻を迎えて子どもを産ませたらあとは自由におし、と教えたのだ。

そういう訳で邪魔な正妻は邪険に扱われた。
精神的に追い詰められた正妻が判断力を失って、社交も実家に帰ることもできなくなった頃を見計らって、栗色の髪を持つ愛人と、愛人そっくりの娘を呼び寄せたのだ。
あれほど口うるさく厳しい祖母が、平民の女どもを屋敷に住まわせて文句も言わないのに、僕は驚いた。

血筋にこだわる貴女がなぜ?と問うと、祖母は答えた。
「あれらは愛玩用の犬と一緒......あの子__ヘンリー__#の心を豊かにしてくれる獣と思えば腹も立たぬ」

ああ、祖母にとって平民は「人ではない」のだ。
犬が糞尿を垂れ流しても、そういうもので腹を立てる人はいない。
「愛玩するためだけの下等な生物を、息子のために飼っている」という認識なのだ。

つまり母が苦しまなくてはいけなかった元凶は、貴族に生まれたことだった......らしい。
人間扱いをしていたからこそ、理想にそぐわない母に腹立ち、心も体も傷めつけたと。

それなら犬の方がよかったと、母は思うだろうか。
貴族でなければこの家に嫁ぐこともなかった。
しかし、貴族的な考え方に一番とらわれているのも、貴族の女として誇りを持っているのも母自身だ。
どんなに考えても、僕には解決方法が見つけられない。

離れの母娘は、母家にも度々やって来て、うるさく騒いでは屋敷の空気を乱した。
父は愛人と遊興や淫奔に耽ることが増えていき、支出が増えているのは明らかだった。

愛人が連れて来た娘は僕より一歳年上で、いつ頃からか僕を「レジー」と馴れ馴れしく呼ぶようになった。
呼びかけを聞く度に寒気がして、返事もせずに逃げ出すようになり、「レジナルドは女が嫌い」ということにいつの間にかなっていた。

どこで出くわすかわからない屋敷の中で、安全地帯は唯一、ほどんど幽閉されているような状態で篭っている母の部屋だけ。
夢の世界で、幻を見て過ごす母の傍で、僕は父の要求に応えるために課題や鍛錬をし過ごすようになった。
従者もこの部屋には近寄りたがらず、別の部屋で待機することが多かったため、監視がない時間を味わえた。


あと一年耐えれば、パブリックスクールへ行ける。
俺は十二歳になっていた。

+++

愛人と娘は平民の身分で社交もできないため、領地にこもって贅沢を楽しむか、貴族ではないのをいいことに父の目を盗んで遊び歩くくらいしかできず、基本的には娯楽に飢えていた。
気候がいい薔薇の季節に差し掛かり、貴族ならば社交のため華やかな都で外歩きや娯楽を盛んにする時期だ。父と俺も来週にはタウンハウスへ移動するが、愛人と娘は領地へ置いていかれる。

継姉が朝食後、にじり寄って声をかけてきた。
「レジー、あのね今日は商人が来るんですって、レジーも来てよ。好きなもの選んでもいいってお父さまが言ってたの、あんた見立ててくれない?」

スッと血の気が引いた。冗談じゃない。
何のつもりだか知らないけど、この女は前に同じ状況でいる時、ドレスをはだけたり、足を剥き出しにして「どっちが似合う......?」とやり始めたのだ。

商人の前で恥をかかされたし、気持ちが悪いしで、思い出すたびに吐きそうになる。
罵りたいのを耐え、呼吸を落ち着ける。こういう時余計なことは言わない方がいい。
「俺には、無理です」
ただ一言そう言って踵を返す。

継姉が商人の前で始めたあれ。母親の教育の賜物だろうな......父と愛人がどんなふうに過ごしているか、何となく想像がついて、げんなりする。
今日も母の部屋に行くしかないか。

「何よぉ、マザコン!ママのおっぱい吸ってな!」
下町の言葉で何か言われるが、犬の鳴き声は理解しなくていいだろう。

マホガニーの扉にノックをして「母上、レジナルドです」と声をかける。
「はぁい」
今日は挨拶に応えがあった。機嫌がいいのだろうか?

ドアを開けると乳母の入れた紅茶を飲みながら母は机に向かい、日記らしきものを書いていた。
窓は換気のため開けられ、窓の縁に下げられた花盛りの鉢植えから室内に芳しい香りが運ばれている。なんの花かは知らない。赤い花で、葉がハート型で、ちょっと土っぽいけれど甘い香り。

「お邪魔ですか」
「いいえ、覚えてるうちに書いておきたい、だけだから......リヴィは静かだし大丈夫......」
目が虚ではない母を見るのは久しぶりだ、ただ相変わらず息子を認識できないらしい。

母は結婚する前の、少女時代に戻って帰ってこなくなっている。
母が見ている幻の世界によく登場するのが、母の友人だった女の子”リヴィ”だ。

手帳に書きつけながら、母は俺に声をかけた。
「リヴィは、いいからいつも通り本を読んだりしてて」
「ありがとう」
呼びかけられたら俺もリヴィになったつもりで返事をする。

今日は古語で書かれた叙事詩を現代語に直す比較的楽しい課題だ。
砂時計をひっくり返し、ペンをインク瓶に突っ込んで取り掛かった。
登場人物たちの生き生きとした船の冒険が描かれている。

訳しながら叙事詩の世界に没頭していたが、何かが滴り落ちる音で現実に引き戻された。
母が書き終えた手を日記帳の上に重ねて置き、目から大粒の涙を流していた。
どうしたんだろう、と呆気に取られただ見ていると、ぶるぶる震えながら母は口を開いた。

「リヴィ、ごめんなさい......私、友達失格だわ」
「? そんなことは......」ない、のだろうか?

精神的に崩壊した母が縋る先は、何年かしか一緒にいなかった少女時代の友人との思い出の世界。
完全な子供時代の記憶には戻っていない、それだけで母にとって「リヴィ」が特別だったのだろうことは分かる。
それがどういう意味で特別だったのかまでは、俺には分からない。

「寄宿学校であなたと一緒にいて......、私、たくさん助けてもらったのに、貴女が妬ましかった......」
糸で綴じられた母の手作りの手帳。
表面にどんどん涙の滲みが増えていく。

「貴女の生き方がまっすぐで。憧れていたのに、越えられないことが悔しかった。貴族としての位は私だって同じ。私が身分の高い男と婚姻しさえすれば、いつかリヴィ、貴女も私を敬うようになる、なんて......。内心では思って、見下したくて仕方なかった」

母は劣等感を持て余していた? それを身分で埋めた気になっていた......ということだろうか。
「だからリヴィに教えてもらった事、沢山あったのに活かせなかった......。身分が一番高い男を選んで、最初のシーズンで婚約して、結婚して、1年後には男の子を産んで。全て理想通りで、みんなから羨まれることばかりだと思ってた」
驚いた。母の中で、ずっと止まっていた時間が進んでいる......。

「貴女は私が不幸になること、知ってたの、よねぇ」
「............」

「私はお父様やお母様の言いつけどおりにしたわ。貴族の女として正しい生き方をしたはずなのに、なんで誰からも大事にされないの? 貴女知ってるんでしょう、なんでもっと注意してくれなかったの」

母の口調は夢を見るようにふわふわと頼りないものだったが、内容は怨嗟と言ってもいいもので、俺は返事を返せずただ聞くことしかできなかった。

「レジーは後継の嫡男よ? 産んだのは私よ? もっと敬ってもいいはずよ。リヴィ、貴女だって」
涙はもう止まっていた。
「貴女なんか私より二シーズンも遅れて身分が下の男と婚約したのに、悔しそうにもしない。式よりも前に妊娠したくせに、悪びれもしないで、誰からも責められない。なんで私と対等みたいに社交できるの、おかしいわよ、みんな、みんな、」

「私は愛情がない嫌いな男に一生を捧げて、義務みたいに痛くて屈辱的な閨をして、妊娠期間は辛い思いして、死ぬ思いで出産したのに、子どももよそよそしくて。嫌な思いばっかり。頑張ってるのに報われないのはなんでなの。好き勝手してるリヴィの方が幸せそうに見えるのはなんでなの、悔しい、悔しい、悔しい、悔しい......」

ドロドロとした身の内の澱を吐き出して、母は髪の毛をむしる。
乳母がアルコールの入ったミルクの盆をテーブルに置き、宥める声をかけた。

「お嬢様、ばあやは分かっておりますよ。お嬢様は誰より頑張って、お利口なレディです。頑張りすぎてお疲れですね、少しお休みしましょうねぇ。」

母はそれを振り払って俺の手を掴む。
かぶりを振って言い募った。俺の掌を握る手には長い髪が纏わりついている。

「違うの違う、リヴィ、ごめんなさい、貴女が言ってくれたこと、分からない私が悪かったの。いっぱい後悔した。リヴィの言ってる言葉の意味、もっと考えればよかった、みんなに羨まれることが目的なの?って図星をつかれて、自分の醜さを指摘された気がして」

手が冷たい、震えている、話している事はどこまで本当なんだろう? 妄想なのか、事実なのか。

「私のためを本当に考えてくれたのは貴女だけだったのに、分からない愚かな醜い、汚い私。もう、恥ずかしくて貴女の思い出に縋ることもできない。私にはもう帰れるところも行くところもない......!」

身を翻した母の手が盆をひっくり返し、ガシャンと割れた音がした。
乳母が「あらまあ」と身を屈めた脇を、母は開いた窓に向かい一息に走って、乗り越えた。

「っ......母上!!」
思いもかけない行動に青ざめ、窓枠に乗り上げた母を追い手を伸ばす。
ここは四階だ、落ちたらまず助からない。

母は振り返り、俺の目を見るとくしゃっと顔を歪めて、言った。
「レジー......ごめんね、弱いお母様を、ゆるして」
飛び降りる母のドレスの裾を掴んだが、重力で落ちていく布の摩擦の痛みと人の重さに耐えきれず、指の力が負けてしまった。
反動で後ろへ弾み、尻もちをつく。

ばぁん!......と中庭に音が響いた。

自分の呼吸の音と心臓の音が耳元にうるさく鳴って、声がうまく出てこない。
捉えている情報を頭が理解しない。

「は......、」
「あ、あ、あ......お、お嬢さま......!」

一階の使用人たちが外へ出てきて「ひいっ」と引き攣った声を上げ、方々から「誰か、家令を呼んでこい」「旦那様へ......!」と俄かにざわめき出した。
割れたカップからこぼれたミルクが飛び散り床に模様を描いているのを俺は見つめていた。
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