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1巻

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 宰相閣下の執愛は、平民の俺だけに向いている



   第一章


『ふぅ……ん…、ぁ……』

 なんだ……気持ちいい……?
 俺は目を閉じたまま、どことも知れない場所でゆるゆると身体を揺らされていた。

『はぁ……レイ……』

 誰かが悩ましげな吐息と共に、俺の名前をささやく。男の声だけど、聞き覚えのない声だ。
 ――だ……れ?
 確かに誰かが側にいるのに、俺は自分でまぶたを開けることができなくて、その『誰か』の姿を見ることができない。
 俺ができないのは見ることだけじゃなかった。
 思うように声も出なければ、指一本すらも自分の意思で動かせない。
 その不思議な状況に本来なら困惑するべきなんだろうけれど、今の俺は一方的に与えられる快楽に翻弄ほんろうされていて、それどころではなかった。
 そうしている間にも敏感になっている俺の身体を、その誰かの指が撫でるようにっていく。

『今はまだ私が誰かなんて知らなくていい……。でも、怖がらないで……』

 気持ちいい波が背筋を揺蕩たゆたいながらい上って、俺の感覚のすべてを支配していく。

『……ん、んぅ……』 

 なんだ、これ。気持ちいいし、温かい。
 波が全身を包むと、一際甘く腰が痺れ、腹の奥に熱い飛沫しぶきを感じて息が詰まる。
 ぎゅっと快楽が小さく圧縮されたあと一気にそれが弾けて、髪の先から足の爪まで快楽で満たされていく感覚だ。
 ハクハクと、もう意味を成さない自分の呼吸の動き一つですら、感じてしまって仕方ない。

『ぁ……んっ、っ……』

 ああ、そうだ。これは夢だ。

『ん、……ぅ』

 俺は指一本動かせない状況で、ただ気持ちよくなって、ただただ喘ぐだけ。
 そんな夢を、俺はここ数日見続けていた。


「……ん……」

 いつもの時間に目覚めた俺は、大きく伸びをしてから上半身を起こした。
 昨夜は早めに寝たというのに、疲れが取れていないようで、身体が重怠い。ここ最近、どれだけ寝ようとそんな状況だ。

「病気かな……。それに、なんか夢を見ていた気もするけど、覚えてないんだよなぁ」

 ふわっと欠伸あくびを洩らして、少し伸びてしまった前髪を掻き上げる。
 今日もいい天気らしく、小さな窓から差し込む光は薄いカーテン越しにも眩しい。
 簡素なベッドと小さなキッチン、そしてシャワーとトイレがあるだけの木造の部屋が俺のテリトリー。
 入口の扉の前に立てば、視線を巡らせなくても部屋全体が見えてしまうくらい狭いけれど、俺一人が暮らしていくにはこの広さで十分だ。
 この部屋は職場が提供している寮の一室。俺がここで暮らし始めて一ヶ月が経つ。
 施設育ちで、自分のものなんて何一つ持ってなかったから、この小さすぎる職場の寮でも愛しくて堪らない。

「さて、シャワーでも浴びるか」

 大事な部屋を感慨深く眺めた俺は、仕事に行くために身支度をするべくベッドから降り立った。
 さっとシャワーを浴びて、浴室に備え付けてある鏡の前で自分の顔を見る。
 今日は少し血色が悪いが、正直、俺の顔はかなりよい。それこそ、街を歩けば、すれちがう人たちが振り返るくらい。
 ふわりとした淡い金髪に、少し緑が入った青い瞳。いわゆるセルリアンブルーと表現される瞳はこの国では特徴的で、整った容姿と相まって随分人目を引いた。
 ――まぁ両親が腐っても貴族だったから、顔がよいのは当然かもな。
 でも平民がこんな貴族的な顔を持つと厄介事しか招かない。今までに何度、性的悪戯いたずら目的で路地裏に引っ張り込まれそうになったことか……
 ――貞操の危機を招く顔なんて、マジでいらないんだけど。
 俺は大きなため息をつく。
 俺の両親は貴族だった。お互いに婚約者がいる身でありながら、「運命の恋人なんだ」と言い張りデキ婚。
 俺を産んだ女の元婚約者が高位貴族で彼の面子メンツを潰してしまったことから、両親は責任を取らされ貴族籍から抹消された。
 生まれた俺は当然平民。
 貴族もなんだかんだいろんな責務がありそうだし、俺は自分が貴族じゃなくてよかったと思っている。
 ただ、生まれついての貴族だった両親は平民生活に馴染なじめなかったそうだ。俺が生まれてすぐ「あの運命の恋は勘違いだった」とあっさり離婚してしまった。
 互いの実家に泣きつくも相手にされず、二人はどっかの教会だか修道院だかに身を寄せたらしい。今生きているかどうかは知らない。
 ――随分軽い運命だよな。
 はん、と鼻でわらう。
 俺はあの二人が離婚したあとに施設に入った。
 母の実家の人たちは、行き場がなくなった俺を引き取ろうとしてくれたらしい。
 でも俺が貴族籍を持たないことと、迷惑をかけた元婚約者の手前どうにもならず、妥協案として貴族の婚外子やら豪商のめかけの子やらを集めた施設に入ることになった。
 望まれてない子供のための施設だから処遇は最悪だったけど、それでも併設された学校に通えて学べる環境があったことはありがたかった。
 ――やっぱり学がないと、仕事にありつけないしさ。
 そんなことを考えながら髪を軽く整え、歯を磨く。そして施設の友人がくれた、俺の瞳と同じ色の石が付いたペンダントを首にかけた。

「ソルネス。俺、今日も頑張るよ」

 幼馴染おさななじみであり親友でもあった友人――ソルネスの顔を思い出しながら、そっと挨拶の言葉を口にする。
 ソルネスは、冬の初め頃に貴族である親に引き取られていった。施設を出てしまえば、もう友人と会うことは叶わない。
 施設にいた皆は、大抵訳ありの庶子だ。その繋がりをいつ誰に悪用されるか分からない、不安定な立場であることを、俺たちはちゃんと理解していた。
 だからその交友関係を悪用されないように、施設を出たあとは互いに一切関わりを持たないように決めていた。支え合い、最悪な境遇を共に乗り越えた仲間とたもとを分かつのは辛いけど、自分の存在が皆の幸せの妨げになるなんて耐えられなかった。
 俺は小さくため息をつくと、鎖骨下で揺れるペンダントトップを握りしめた。
 ちょっと疲れた自分の顔を見なかったことにして、鏡の前から移動する。

「行ってきます」

 愛しい部屋に挨拶をして、俺は扉を開けた。


 ここライティグス王国は、獅子の獣人を国王に据える獣族の国だ。
 獣族の国とは言うけれど、普通に人族もいる。国の中枢にいる貴族も、三割くらいが人族だ。
 この世界では男も女も子供をはらむことができるけど、ライティグス王国では同性婚が多い。
 現国王陛下が同性婚であるのも、理由の一つだろう。
 獣人の愛は深く重いと言われている。彼らには神が定めた『運命のつがい』が存在するけど、出会える確率はごくわずかと言われていた。
 そのため、獣人たちは『運命の番』に憧れながらも、普通に恋愛をして『運命の番』以外と婚姻を結ぶのが一般的となっている。
 一度神の前で永遠の愛を誓えば、その後に『運命の番』が現れることはないらしい。だから、自分で見つけた相手を伴侶として、ひたすら大事に愛しむのだそうだ。
 そんな風に一途に想いを寄せられるのは、正直羨ましい。
 ――誰かの特別な相手になれるって、すごいよな。
 大通りで繰り広げられる求愛行動を横目に見ながら、目的地である職場を目指して足を進めた。


 寮から十分程度歩いた先に、堅固な石の城壁に守られた美しい白亜の王宮がそびえ立っている。

「おはようございます」
「おー、レイか。おはよ!」

 顔見知りの門番の兵士に挨拶をして門をくぐった。
 この門は王宮に勤める官吏かんり用となっていて、南側にある正門とは反対の北側に位置している。
 王宮の北側には様々な部署が入る建物が複数建ち並んでいるけれど、どれも正殿と同じく白い壁とライトグレーの屋根で統一されていてとても美しい。
 街路樹で飾られた石畳の通路を進むと、建物と建物を繋ぐ屋根付きの外廊下に行き当たる。そこからその廊下を進んで建物の一つに入ると、飴色の扉が見えてきた。
 取っ手を握ると、そこに刻まれた魔法陣が光り、登録されてある掌紋を感知して鍵が解除される。
 頑丈で少し重い扉を開けて、俺は中へ足を踏み入れた。
 王宮を取り巻く建物の一つにあるこの部署が俺の職場。俺はこの春から、この王宮で文官として働いていた。
 施設は成人となる十八歳までしかいられない。次の春には施設を出なきゃならなくて仕事を探していた俺に、施設のスタッフがくれた求人情報がこの仕事だった。
 平民が王宮勤めだなんて、と怪訝けげんに思いながら求人情報が記された書類を見つめていると「平民とはいっても血筋は問題ないし、学校での成績も優秀だったから採用の可能性はあるよ」と言われ、試験を受けてみたら信じられないことに合格して、今に至るというわけだ。
 とはいえ平民枠での採用だから、仕事内容は簡単なものだけれど。

「あら、レイちゃん、おはよー! 今日も可愛いわねぇ」

 壁際の棚の前に立っていたルーデル先輩が、扉の音に振り返って書類の束を抱えたまま声をかけてくる。
 オネェ言葉が似合うルーデル先輩は、真っ白なサラサラの髪と同色のしなやかな尻尾しっぽきらめくサファイアの瞳の、ほっそりとした猫の獣人だ。線の細い儚げな美人で、すごく人目を引く。

「おはようございます。ルーデル先輩は今日も美人さんですね」
「あらぁ、ありがとう」

 ふふっと微笑み合っていると、窓の近くの机から低く野太い声で叱責が飛んだ。

「ルーデル、遊んでないで働け」

 声の主であるガンテ室長は、声から容易に想像できる筋骨隆々のマッチョだ。短く刈り込まれた淡い金髪に、翡翠ひすいの瞳。肩幅は広く、腕の筋肉は服越しにも分かるくらいに隆起している。
 彼は俺と同じ濃いグレーの制服に、役職に就いている証である片マント――ペリースを身につけているけど、まったく文官には見えない。
 ――なんでこの人、文官なんだろう?
 騎士と言われたほうがしっくりくる体格のガンテ室長のもとへ、今日担当する仕事を受け取りに向かう。この部署は、俺も含めたこの三人で業務を担っているのだ。
 俺は歩きながら、部屋の中にちらりと視線を流す。
 歴史ある王宮に合わせて上品な色調で統一された部屋は、部署の人数が少ない分、そう広くはない。窓こそ大きいものの、左右の壁一面に書類がぎっしり詰め込まれた棚が設置してあり、その圧迫感がこの部屋をさらに狭く見せている。
 この部屋にある机は全部で五つ。
 窓際にあるガンテ室長専用の大きい机の前に、机が二つずつ向かい合う形で置いてあり、その内二つを俺とルーデル先輩が並んで使い、向かい側の二つの机は空席となっている。
 その机と棚の間の空間を通ってガンテ室長の側に行くと、彼は既に業務を開始していて淀みなくペンを走らせていた。

「おはようございます、クラウン室長。今日もよろしくお願いします」
「ガンテでいいって言ってんだろ。ほら、これが今日の分だ」

 机に準備されたファイルを手にして顔を上げたガンテ室長が、俺を見上げるなり眉をひそめた。

「レイ、大丈夫か?」
「はい?」

 ファイルを受け取りながら俺が首を傾げると、彼は心配そうに顔を曇らせた。

「顔色が悪い。せっかくの可愛い顔が台無しだぞ」
「はは……」

 どちらかというと怒声が似合いそうないかつい顔つきのガンテ室長が、真顔で「可愛い」と言ってくるのは未だに慣れない。
 笑って誤魔化そうとしたけど、翡翠ひすいの瞳にじっと見つめられて俺は渋々白状した。

「……最近夢見が悪くて、疲れが取れないんです」
「ほう……」

 瞬間、ガンテ室長の視線に鋭さが増した。ちょっと怖い。
 俺の動揺を知ってか知らずか、少し考え込んだ彼は先ほど俺が受け取ったファイルを指差した。

「今日の分の仕事は急ぎじゃねぇから、ゆっくりやれ。無理するな」
「ありがとうございます」

 俺は頷き、手にしたファイルを持って自分の机へ向かった。
 この部署は、視写作業を担っている。
 舞踏会の招待状や、機密レベルⅡの書類――例えば各貴族の領地の税収や納税に関する書類、他国との取り引きに関する詳細、それらに関わる会議用資料――を作成したり書き写したりする地味な部署だ。
 一応機密情報を扱っているから、入口は掌紋認証式で出入りする人を制限している。こんな部署に、よく俺みたいな平民の新人を放り込んだよな……と思う。
 でも黙々と机に向かって作業するのは嫌いじゃないし、そもそも施設出身の俺が仕事に就けただけでも本当にありがたいことだ。
 そんなことを考えながら、いつものように仕事に取り掛かった。
 就職祝いだ、となぜかガンテ室長にもらったペンを取り出す。ペン軸が俺の掌にちょうどいい太さですごく書きやすい。
 ファイルの中を確認して所定の用紙を準備すると、俺はペンを滑らせ仕事を始めた。


「――お、もうそんな時間か……」

 ガンテ室長の声に顔を上げると、彼は指先で耳元に触れながら壁時計に目を向けていた。ときどき耳を触っている姿を見るけれど、もしかしたら通信系の魔道具を付けているのかもしれない。

「…………はぁ、ったく、仕方ねぇ……レイ、昼休憩だ。ちゃんと食堂でメシ食えよ」
「はーい」

 片手を上げて返事をすると、俺は広げていたファイルを机の端に寄せて、そそくさと立ち上がった。そんな俺を、ガンテ室長はじっと眉根を寄せて見つめている。
 というのもこの間の休憩時間、あまりに疲れが抜けなくて昼食を取らずに中庭で昼寝をしていたら、ガンテ室長に血相変えて探されてしまったのだ。
 険しい表情で名前を呼びながら探していて、俺の姿を見るとひどく安堵した様子を見せていた。
 今日も疲れているから昼寝をしたかったけれど、それを思い出して、俺は大人しく食堂に向かうことにした。
 この一ヶ月で通い慣れた廊下を進み、欠伸あくびを洩らしながら食堂の注文口の列に並んだ。
 基本的に王宮で働く人間は貴族が多い。だからこの食堂もただ広いだけじゃなくて、ゆったりと余裕のあるテーブル配置だったり、座り心地のいい椅子だったり、真っ白で清潔なテーブルクロスが使用されていたり、中庭に面した大きな窓があったりと、官吏かんり専用の食堂とはいえ配慮されている。
 ――まぁ、俺としちゃ落ち着いてメシが食えたらそれでいいんだけど。
 もう一度欠伸あくびをして、俺はメニューに目を向ける。
 寝不足気味のせいか胃の調子もあんまりよくないし、軽めのものにしようとメニュー表に目を通す。するとメニューのうちの一つに目が留まった。

「あ、ワンプレートランチにキッシュが付いてる!」

 カボチャのキッシュが大好物の俺は迷わずそれを注文して、ついでに野菜のスープも選択する。
 受け渡しカウンターで料理を受け取ると、人でごった返す食堂を見渡した。
 ――どっかに空いてる席ないかな……
 辺りを見渡していると、涼やかな声が俺の名前を呼んだ。

「レイ、こっち」

 目を向けると、見目麗しい一人の男性が俺に向かって片手を上げていた。
 手入れされた花々が咲き誇る中庭が目を楽しませる窓際。そんな特等席が並ぶ一角だというのに、今はその男性しか座っていないことを不思議に思いつつ、俺はその人に近づいて彼の隣の席に腰を下ろした。

「マイナさん、ありがとうございます」
「ふふ、いいんですよ。それに今日もちゃんと食事に来て偉いですね」

 彼は甘やかに目を細めて褒めてくれる。食事に来ただけで褒められるって、どんだけ俺の生活レベルって低く評価されているんだろ。
 ちぇ……とむくれながら、俺はキッシュをフォークで突いた。
 マイナさんとはつい最近、たまたまこの食堂で出会ったのだ。あの時も食堂で席を探していて、相席を勧めてくれたのが知り合ったきっかけだった。
 たぶん年の頃は三十歳くらい。赤みの強い栗色でクセがある髪に、ファイアオパールのような、赤色のベースに緑色が斑に混じる、変わった色彩の瞳が特徴的だ。
 着ている制服が俺と一緒だから文官だとは分かるけど、その割には腕やら胸やらにしっかり厚みがあって、服の上からでもはっきりと筋肉があることが分かる。彼もガンテ室長と同じくペリースを身につけていた。これは官吏かんりでも役職に就くものが身につけるものであり、役職に就けるのは伯爵以上の爵位の者と決まっている。ということは、彼は高位貴族ということだ。
 容姿端麗な見た目も相まってか、マイナさんがいる時の食堂は、決まって見物客らしき人たちでごった返していた。
 マイナさんはそんなギャラリーに慣れているのか、華麗にスルーしている。
 というか、むしろ俺しか視界に入っていない気が若干する……いやかなり、そんな気がするんだけど……さすがに自惚うぬぼれかな?
 そんなマイナさんに微笑まれると、本当に落ち着かないし、顔が熱くなるしで困ってしまう。
 ――なんでこの人、こんな下っ端の俺なんかに親切にしてくれるんだろ?
 マイナさんに優しく見守られながら食べるメシは、気まずくて正直あんまり味がしない。
 せっかくの好物なのに味がしないキッシュを食べ進めていると、ちらりと俺の皿を見たマイナさんがため息をついた。

「ああ……、今日も食べる量が少なすぎます。そのうち倒れてしまいますよ?」
「分かってるけど……、あんまり食欲ない」

 少しもたれ気味な胃を擦りながら呟く。しかしすぐにハッとしてマイナさんの顔を見上げた。

「あ、俺……。すみません……」

 俺より年上の人だし、身分の差があるから、ちゃんと敬語で話さなきゃと思うけど、マイナさんがあまりに気さくに接してくるから、つい気を抜くと普段の口調になってしまう。

「いいんですよ。そんなにかしこまらないで自由に話してください」
「や、でも……」
「――そのほうが、私も嬉しい」

 そっと耳元に顔を近づけてきて、マイナさんは秘密を話すようにささやいてくる。かかる息がくすぐったくて、俺は耳を押さえてった。
 そんな俺を見て、マイナさんは口元に人差し指を当てて微笑む。
 その姿を見て、俺は無駄にドキドキしはじめた胸を押さえた。
 ――その無駄な色気を、こっちに向けないでくれ……!
 俺の反応にくすっと笑ったマイナさんは、自分の皿に視線を落として綺麗に盛り付けてあった肉を切り分け、俺の口元に運んだ。

「はい、あーん」
「……え?」
「このお肉、すごく柔らかく煮込んであるから、食べやすいですよ」

 マイナさんの突然の行動に固まってしまった俺を前に、彼は「胃への負担は少ないと思います」とにっこり笑ってみせた。
 ――ありがたいけど、違う。そうじゃない! 公衆の面前で、なんの羞恥プレイなんだ……!?
 予想外のマイナさんの行動に顔が引き攣る。
 それと同時に、少し離れた場所にいる人たちがざわめき始めた。どこからか「あの人が……!?」とか「信じられない」といった言葉が聞こえてきて、俺は驚きで肩を揺らしながら、その声がしたほうを振り向いた。
 一番近くに座っている人と目が合ったけど、彼は青褪あおざめて視線を逸らしてしまった。

「ねぇマイナさん、今の……」

 不安になって隣を見る。するとマイナさんは口元にだけ笑みを浮かべてこちらを見ていた。目が笑っていないような気がするのは気のせいだろうか。

「ほら、ちゃんと食べないと。あーん」

 そんな俺の気も知らず、マイナさんがもう一度促してきたから、俺は観念して渋々口を開けた。そうしないとヤバいことになりそうな予感がしたのだ。
 マイナさんは俺の食べるペースを見ながら、次から次に肉を口に放り込んでくる。やがて、マイナさんのお皿は綺麗に空になってしまっていた。
 罪悪感が少し出てきて、俺は眉尻を下げて彼を見た。

「マイナさんの昼ご飯がなくなっちゃったけど、大丈夫?」
「私はいいんですよ。またあとで食べることができますから。それよりお腹いっぱいになりました?」
「あ、うん。美味しかった」
「それはよかったです」

 嬉しそうに笑う彼の姿を見て、まぁマイナさんがいいのなら……と俺も納得した。
 その後もゆっくり食後の紅茶を飲みながら、「仕事には慣れましたか」とか「困ってることはありませんか」なんて雑談をして、残りの休み時間を過ごす。
 けれど、お腹いっぱいになったせいか、俺はつい眠気に襲われてしまった。マイナさんと話しながら、まぶたが落ちてくるのに抗えない。

「眠そうですね」

 少し声のトーンを落としてマイナさんがささやく。俺はぼんやりとそれを聞きながら、コクリと頷いた。

「疲れが溜まっているのでしょう。少しお休みなさい」

 マイナさんが俺の頭を自身の肩に引き寄せる。眠くて力が抜けてしまった俺は、「マズいな……」と思いながらも抗うこともできずに、その肩にもたれ掛かってしまった。

「大丈夫、ちゃんと起こしてあげるから……。ゆっくりおやすみ」

 サラリと髪を梳くように撫でられる。それが気持ちよくて目を閉じた俺は、そのまま眠りに落ちてしまった。


    ◇◆◇◆◇◆


「そろそろ昼休憩ですか……」

 私は壁に掛かっている時計を見て思わず呟いた。
 ――今日は彼に会える。
 ちらりと側に控える補佐官へ視線を向けると、彼は「分かってます」とばかりに大きく頷いた。

「片付けるべきことに関しての采配はすべて済みましたし、大丈夫ですよ」
「そうですか」

 ここ数日手を煩わせていた案件が一段落つき、ようやく肩の荷を下ろした私は補佐官の言葉に頷いた。引き出しから通信用の魔道具を取り出し耳に装着すると、起動スイッチに指で触れる。

「ガンテ、そろそろ私は移動します。レイを絶対、必ず、早急に食堂に向かわせてください」

 そう言うと、返事も待たずに通信を切る。
 通信具を外して引き出しに仕舞うと、私は立ち上がり急いで食堂へ向かった。


 昼食の時間だから食堂はそれなりに混む。だが、ここは王宮の施設であり十分な広さがあるはずだ。よほどのことがない限り席が取れないほど混雑することはない。しかし私が食堂に着くと、広い食堂の席は早々に人で埋め尽くされていた。私は知らず舌打ちする。
 今、食堂にいるのは騎士団の服を着た者だけなのだ。これは明らかに作為的な混雑だ。誰の差し金かというのは分かっている。
 忌々しく思いながら辺りを見渡すと、皆一斉に青褪あおざめて私から視線を逸らして俯いた。
 ――そう、それでいい。そのまま目を上げずに俯いていなさい。
 少し溜飲りゅういんを下げ、私はわざとらしく空いていた窓際の席へと歩を進める。
 席に着くのを待っていたかのように、私の従者がランチを載せたトレイを運んできた。特に空腹でもなかった私は、トレイに載る食事を一瞥いちべつして従者に頷く。すると彼は一礼して立ち去っていった。
 彼を見送ることなく、トレイの食事を口にすることもなく、私はひたすら食堂の入口を凝視した。
 もうすぐ、彼が来る。そう思うと、じわりと気分が高揚してくる。
 早く早くと、もどかしくも抑えきれない期待に身を焦がしていると、ふとかぐわしい香りが漂ってきた。吸い寄せられるようにその一点を見つめ続けていると、そこに待ち焦がれたレイがようやく姿を現した。
 柔らかそうな金の髪をふわりと揺らし、眠いのか欠伸あくびを洩らしている。
 彼ももう十八歳。歳だけを見れば成人を迎えており、立派に文官として働いている。だがそんな彼の中に、幼さが垣間見えるのが堪らなく可愛い。
 ほんのわずかな動きでも見逃さないように見つめていると、やがて彼はトレイを受け取り、辺りを見渡し始めた。

「レイ、こっち」

 キョロキョロと視線を動かしている彼に、片手を上げて呼びかける。
 パッと顔をこちらに向けたレイは、一瞬不思議そうな顔をしてから、素直に近寄ってきた。
 その可愛らしい行動に思わず笑みを浮かべ、彼のために椅子を引くと周囲がざわめいた。
 レイに気付かれないように、威圧と魔力をまとわせながら視線を向けると、皆一斉に冷や汗を流しながら慌てて顔を伏せる。
 ――初めからそうしていればいいものを……
 つい眉間に皺を寄せてしまったが、可愛い可愛いレイの「マイナさん、ありがとうございます」という言葉で、眉をひそめる力が緩んだ。

「ふふ、いいんですよ。それに今日もちゃんと食事に来て偉いですね」

 優しく微笑むと、彼は子供扱いされたと感じたのか頬を膨らませ少しむくれてしまった。
 ――その頬も、齧りつきたいほど可愛いですね。


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