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1巻
1-3
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そんなことを考えるのはやめなければ……!
璃歌が歯で唇を噛んだ時、大嶌が片手を上げる。
その動きにつられて顔を上げると、小橋が執務室のガラス棚へ向かうところだった。
小橋は酒瓶とショットグラスを取り出し、次々に日本酒を注いでいく。そして飲み比べ専用の木製ショットグラスホルダーを手にすると、璃歌に近づいた。
本当にわたしに利き酒をさせるの? ――と思いながらも、璃歌の目は並べられた五個のショットグラスに釘付けになる。それぞれの濁り具合を見比べていると、呆れたような吐息が耳に届いた。
「これから試験を行う。味について聞かせてくれ」
「今、飲んでいいんですか?」
璃歌は舌舐めずりをしそうになるのを必死に我慢して、そっと大嶌を窺う。
「ああ……」
大嶌は苛立たしげに返事をした。
もしかして試飲会議という大事な場に璃歌がいたことで、こんなにも不機嫌に?
試飲会議は会社の心臓部とも言える重要な場で、ここで厳選されたものだけが自社で取り扱われる。
璃歌は入社直後からそこに入る権利を与えられているが、大嶌はその事実が気に食わないのかもしれない。だからといって、一社員の璃歌にはどうにもならないことだ。
複雑な感情を抱きながら、璃歌は日本酒に意識を戻す。大嶌に催促される前にショットグラスを掴むと、ぐいっと飲んだ。
試飲なのでほぼ二口分しか入っていないのが残念だが、芳醇な香りに満たされてうっとりする。
「女性が好みそうなフルーティな香り。ただ甘過ぎるから好みは分かれるかもしれません」
次々とショットグラスを呷っては、思ったことを口に出していく。そして最後の日本酒を飲んだ時、璃歌の動きがぴたりと止まった。
「爽やかな切り口の辛口かと思ったら、後追いで甘い香りが広がってくる」
しかも急に味が切り替わるのではなく、水に塩が溶けていくようにゆっくりと上書きしてくる。
璃歌は目を閉じ、口腔に広がる味を噛み締めた。
なんという美味しさだろうか。〝もう一杯〟と催促してしまいそうになるほど後を引く。
最後にふわっと香るのは……お米の甘さ?
次の瞬間、璃歌はさっと目を開けた。
「これ、光富酒造のものね!」
「どこのものかまでわかるのか?」
大嶌が目を眇めて、璃歌をじろじろと見つめる。
あまりにも美味しくて、つい大きな声で言ってしまった。璃歌は自分の失態を誤魔化すように軽く咳払いする。
「飲んだことがある酒造元のものに限りますけれど。ただこのお酒は……最近光富酒造で飲ませてもらったものとは違ってカドが取れていて、とても飲みやすくなっています。ひょっとして……今年、瓶詰めされたものではないのかなと思うんですが……」
「今年のものではないことまで?」
璃歌は目線を下げて、ショットグラスを置く。
「先ほども言いましたが、わたしにわかるのは、味だけです。先日飲んだ味と違ったので、そう思ったに過ぎません。基本、美味しいか美味しくないか、それを重視しています」
「……日本酒が好きなのか?」
大嶌が故意に取ったような間が意味深で怖い。
これは普通に好きだと言っていいのだろうか。
「わたしは――」
璃歌は目線を彷徨わせて言いよどむ。しかし、日本酒に関しては誰に対しても誤魔化したくなかった。
「好きです。美味しい日本酒を探すのが趣味なんです」
少し身構えつつも、日本酒の素晴らしさを思うと自然と頬が緩んでいく。
「SNSで知り合った日本酒好きの人たちと頻繁に情報交換をするんですが、彼らは本当に詳しくて……。光富酒造も彼らに教えてもらい、休みに合わせて伺いました」
あの日飲んだ美酒を思い出し、璃歌の口腔に生唾が溜まってきた。自然と恍惚した表情になり、目もとろんとなる。
「光富酒造、か……」
ぼそっと呟いた大嶌の声が届き、璃歌は彼の方に顔を向ける。
「覚えてるか? 代表が、いや……〝蔵元さん〟が君に感謝していたのを」
代表と呼んだあと、大嶌はあえて璃歌が口にしていた〝蔵元さん〟という呼び方に変更した。
なぜわざわざ言い直したのか、大嶌の考えがまったく読めない。
「は、はい。あの日は、その、いろいろありまして――」
璃歌は途中で言葉を濁し、口を閉じる。
あの日、光富からお礼をすると言われて内心喜ぶも、大嶌の素性を知ったせいで動揺してしまった。それで名刺さえ置かずに逃げ出した。
決まりが悪くて連絡できなかったが、このまま放置するのは失礼だし、何より怪我をした光富の様子が気になった。
それで後日、勇気を出して光富酒造に電話をかけた。電話に出た光富の奥さんによると、彼は入院してはいるが大丈夫だという話だった。
本当は光富のお見舞いに行きたかった。
でも会社の取締役である大嶌が光冨酒造と関わっているのならば、これ以上私的な連絡は控えた方がいいと思い、お見舞いを送って以降は連絡していない。
大嶌には迷惑をかけていないはずなのに、いったいどうしてあの日の話をするのか。
璃歌が大嶌の出方を探っていると、彼が気怠げにため息を吐いた。
「光富代表とは数年来の付き合いだが、嫌われていてね。何度出向いても、うちとは契約しないと言って、決して首を縦に振ってくれなかった。にもかかわらず、君がうちの会社の人間だと知ると何が起きたと思う? 彼は〝白井さんが担当者になるなら契約してもいい〟と言ってきた」
「わたしが担当ですか?」
「そう。……君の手柄だ」
大嶌が顔を歪ませ、投げやりに言い放つ。
璃歌は最初こそ言葉を失っていたが、内容が頭に入ってくるにつれて、喜びが膨れ上がってきた。
「やったー!」
感情の赴くままに声を上げて、大嶌の両手を取る。
「おい!」
「嬉しい! 蔵元さんとはもう会えないと思っていたの。だってあなたと繋がりが――」
そこまで言って、璃歌は自分の振る舞いに気付いた。さらに目の前にある彼の唇を見て、後ろに飛びのく。
甦ってきた生々しい記憶を消し去るように、頭を深く下げた。
「申し訳ございません! 取締役になんて馴れ馴れしい態度を……。その、蔵元さんの話題で初対面の時を思い出して、あの日のように振る舞ってしまいました。今後このようなことがないよう、重々心に留めておきますので――」
璃歌は大嶌の逆鱗に触れたのではないかとハラハラしながら言い訳するが、彼はそんな話は不要だとばかりに手を左右に振った。
「出会いが出会いなんだ。お互いの本性はわかってる。今更取り繕われる方が気持ち悪い。そうだろう? ……璃歌」
出し抜けに名前で呼ばれて、璃歌の心臓が痛いほど胸を打った。でもこういう大嶌の姿を知っているだけに、名字で呼ばれる方が居心地悪いかもしれない。
心の中で何を思っているのかと心配するより、初対面の時みたいに言いたいことを言ってくれる方が断然いい。
大嶌――改め、煌人を見つめながら、璃歌はただ小刻みに頷いて同意する。
「では、初めて会った時と同じように、物怖じせずに接してくれ。……それで、光富酒造の担当になるんだな?」
「はい、よろしくお願いいたします」
これで光富酒造の日本酒を楽しめる。
まずは来年の春に行われる蔵開きに行って新酒の出来栄えを堪能し、続いて春酒や夏酒を味見するのだ。冷酒にしたらどんな風に味が変わるだろうか。
来年の楽しみに思いを馳せていると、急に煌人が璃歌の両腕を掴んできた。驚いて彼に焦点を合わせると、彼は輝くばかりの作り笑いを顔に張り付けていた。
煌人に夢中の女性社員ならいいかもしれないが、璃歌は彼の空々しい態度に嫌な予感がする。
眉根を寄せて身構える璃歌に、案の定、煌人が白い歯を零した。
「これを機に、特別な肩書きを与えよう。君の絶対舌感を使わない手はない。いつでも呼び出せるように野崎部長と話をつけるから、そのつもりで」
「それは断ります!」
璃歌は間髪を容れずに言う。
煌人に認めてもらえるのはもちろん嬉しい。光富酒造の担当者になるのもだ。だけど特別な肩書きを与えられて何度も呼び出されたら、他の女性社員の目を引いてしまう。
社内で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ煌人と一緒にいたらどうなるか!
途端、咳払いが聞こえた。肩越しに振り返ると、小橋が口元を手で押さえて笑っていた。
小橋は、璃歌に見られていると気付いて慌てて姿勢を正すが、微妙に肩が揺れている。
「断るのか?」
煌人に訊ねられて、璃歌は「はい」と返事をした。彼は怒るでもなく、笑うでもなく、小さく頷く。
「そうか……。それは残念だったな。俺と一緒に行動すれば、幻の酒……市場に出回らない貴重な日本酒を飲める機会が増えたのに」
それって、いろいろな日本酒を試飲させてくれるという意味?
煌人の言葉が脳に浸透するにつれて、璃歌の目が爛々と輝いていく。
飲みたい、飲みたい、飲みたい!
「まあ、嫌なら仕方ないな。自らチャンスを棒に振る――」
「ありがとうございます、ご厚意に感謝します!」
璃歌は申し出に飛びついた。
当然ながら、煌人に呼び出されて注目を浴びるのは嫌だ。とはいえ、日本酒探しが趣味の璃歌にしてみれば、貴重な日本酒を飲ませてもらえる機会を失いたくないという気持ちの方が大きい。
「飲兵衛め……」
煌人に呆れられるが、璃歌はめげずににっこりする。
「それは語弊があるかと。わたしは美味しい日本酒に巡り合いたいだけで、酔っ払いたいわけではありませんので」
璃歌の言い分に、煌人は何も言わない。ただもう用事は終わったとばかりにドアを指す。
帰れという合図だと受け取った璃歌は、恭しく頭を下げた。
「失礼します」
執務室を出ると、堪らずガッツポーズを取る。
「やった。これで幻の酒に出会えるかも!」
煌人に言葉巧みに操られたという自覚がないまま、璃歌は胸を弾ませる。
そして意気揚々とマーケティング事業部へ戻ったのだった。
***
「どう思う?」
煌人はドアが閉まったあともその場を動こうとしなかったが、しばらくして控えていた小橋に声をかけた。
数年前、煌人がマーケティング事業部部長に就いた時、部下の小橋がいろいろと助けてくれた。
帰国子女の小橋は優秀で、煌人の真意に沿って動いてくれる。それで取締役に昇進すると同時に、彼を専属アシスタントに抜擢した。煌人が優男を演じていると早々に見破った観察眼の鋭さも、気に入った理由の一つだ。
「美人ではありませんが、とても可愛らしくて目を引く女性ですね」
煌人が睨むと、小橋が口元を緩めてこちらに歩いてきた。
「あくまで一般論です。僕の趣味ではないので。……話は戻りますが、女性にしては度胸がありますね。あの時も強盗の前に飛び出すと思いませんでした」
事件があった日は携帯の通話を繋げていたため、酒蔵の中で起きていた事態は、全部小橋に筒抜けだった。
煌人が璃歌の唇を塞いだ件も……
当時の記憶が甦り、居心地が悪くなって咳払いする。
「それで?」
「彼女は取締役を前にしても媚びもしなければ、色目も使わない。何より、素晴らしい舌をお持ちです。飲兵衛ではないと本人も言っていますので、酔っ払って羽目を外すこともなければ、間違いを犯すこともないかと。きっと取締役の出世に欠かせない人物になりましょう。何年も首を縦に振らなかった光富酒造の代表の心を開かせた方ですし」
小橋の話に、煌人はにやりと口角を上げた。
まさしくそのとおりだ。璃歌のあの味覚の鋭さは捨て難い。ただもっと使えるようにするには、勉強させる必要があるが。
ここから自分が望む方向に璃歌を導こうとするならば、さらに策を練らなければ……
そうすれば、きっと璃歌の舌が役に立ってくれるだろう。
それにしても、璃歌が光富酒造で述べた日本酒の感想には驚いたものだ。
いくら日本酒好きだとしても、こういう場所では〝美味しい〟や〝甘いがすっきりしている〟といった、ありきたりな感想を述べるのが普通だ。
なのに璃歌は、ワインソムリエのようにじっくり味わって感想を述べた。
そういう風に飲むのが習慣になっていると気付いたのは、煌人だけではない。だから彼女の発言に、光富は興味を持ったと考えられる。
しかし璃歌は、光富の問いかけから逃げるように誤魔化した。そうしながらすぐに話題を戻した。
隠したいのか隠したくないのかどっちなんだ──と思ったらおかしくて、煌人は自然と噴き出してしまった。
実は璃歌が光富酒造に足を踏み入れてから、彼女を目で追っていた。
ちょうど光富とやり合ったあとだったこともあり、彼の無愛想な振る舞いで彼女が傷つくのではないかと危惧したからだ。
しかし璃歌は煌人の心配をものともせず、光富に気楽に話しかけた。
おかしな女だ――と笑ったものの、可愛らしい恰好をしていながら、酒好きを隠さない気さくな性格に興味が湧いてしまった。
「わかってるのかな。俺に弱みを晒したっていうのを……」
出世より、貴重な日本酒が飲める方に重きを置くと自ら暴露した璃歌。
その時点で、もう煌人の手のひらの上で転がされるしかなくなってしまった。
一番バレてはならない相手だというのに……
煌人は目線を動かし、小橋に焦点を合わせる。すると彼は、ふっと唇の端を上げた。
「理解していないでしょうね。もしそうであれば、取締役の言い回しにピンときたはずですから」
「それを狙ったけどな。とにかくこのまま放っておくには惜しい人材だ。これから頑張ってもらうとしよう。……日本酒を餌にな」
そう言ったあと、煌人はデスクを回って椅子に座った。
小橋に仕事を始めるように伝えたあと、光富酒造へ電話をかける。数回の呼び出し音が鳴り響いて繋がった。
「お世話になっております。KURASAKI――」
『どうなった? 彼女が担当してくれるのか?』
煌人が名乗る前に光富が話し出す。それぐらい彼は、璃歌に仕事を任せたいと思ってくれている。何年も酒蔵に通った自分よりも。
煌人は苦笑し、パソコン画面に表示されたスケジュールに目を向ける。
「はい、是非担当させていただきたいとのことです。つきましては――」
事前に光富に言われていたとおり、来春の蔵開き以降に契約する方向で話を進めると伝える。現時点で、来年の蔵人の確保ができるかどうか未定なので、酒の生産量が明確になってからにしたいという彼の要望を聞き入れたのだ。
それに合わせてもっと話を詰める必要がある。
これから忙しくなるなと考えながら、契約時に璃歌を伴って挨拶に伺うと伝えて、煌人は電話を切った。
「さてと、この先どうなるかな」
煌人は椅子の背に凭れると腕を組み、天井を仰ぎ見る。そんな煌人を見て、書棚から必要書類を出していた小橋が表情を和ませていた。
第二章
渋谷の道玄坂の表通りから細い路地に入ったところにある、居酒屋。
その店は気軽に飲み食いができる場所というより、四十代以降の人たちがゆっくりとお酒を楽しむ場所として知られているようだ。
各テーブルの天板は、木目がはっきりとした一枚板で作られており、明らかに一点ものだ。天井から吊された木製ライトの木目も、どれも同じものはない。壁に掛けられた墨画も、筆の勢いに躍動感がある。全てにおいてお金がかかっている。
客も同様で、仕立てのいいスーツを着た年配の人が多い。若者もいるが、普通のサラリーマンではなく官僚だろう。国家の政策がどうのこうのといった話の中に専門用語が出てくるのでそう読み取れた。
どうしてこのような居酒屋に璃歌を連れてきたのだろうか。
璃歌は彷徨わせていた視線を正面に座る煌人に戻した。彼はお品書きを確認しながら、隣に立つ四十代ぐらいの美人女将に話しかけていた。
実は今から数時間前。
終業時間を迎えて退社しようとしたところで、小橋から『ロビーに十八時でよろしくお願いします』という連絡が入った。
煌人の執務室に連れていかれてから数週間経っていたが、その間音沙汰がなかったのもあり、今年はもう彼に会うことはないだろうと思っていた。そんな時に入った、煌人からの命令だ。
師走も中旬を過ぎて忙しい時期にもかかわらず、璃歌を呼び出すとはどういう用事があるのか。
璃歌は時間を潰したのち、恐る恐る待ち合わせの時間にロビーに下りた。
そこには目を輝かせる女性社員たちに囲まれる煌人の姿があった。
造られた虚像だけどね――と思いながら煌人に近づくと、それに気付いた彼が女性社員に「失礼」と告げて、璃歌に向かって歩いてくる。
「待ってたよ。さあ、出かけよう」
煌人の言動に、女性社員たちがざわめく。だが、煌人は特に気にせずに璃歌を建物の外へ促した。
おろおろしつつ煌人のあとに続くと、ロータリーに停められていた車に押し込められる。そのまま小橋が運転する車でここまで連れてこられた。
そして今に至る。
無意識のうちに落としていた目線を上げると、こちらを観察する煌人と目が合った。
いつの間にか女将は立ち去り、カウンターの後ろでいそいそと動いている。
「煌人さん、わたしを呼び出してここに連れてきた理由は?」
一瞬、煌人が嬉しそうに口角を上げる。璃歌が初めて彼を名前で呼び、二人の間にある壁を取り去ったからかもしれない。しかしすぐに、片眉を動かした。
「理由? そんなの一つしかないだろう?」
そう言った時、店員が二人の前に木製のショットグラスホルダーを置いた。
煌人の執務室で利き酒をした日と同じく、清酒から濁り酒まである。
璃歌がショットグラスを凝視していると、店員が肴を並べ始めた。鯛のあら煮、平目の刺身、はも皮の酢の物、イカの塩辛、湯豆腐、焼き鳥、豚の角煮、おでん、かまぼこと様々だ。
肴から想像するに、吟醸酒から本醸造酒といった種類の日本酒が出されていると考えられる。日本酒によって、合う肴はそれぞれ違うからだ。
もしかして、またテストを?
璃歌は煌人の真意を探ろうとする。彼は鷹揚な笑みを浮かべていた。でもそれは、優男を演じている時とは違い、心から楽しんでいるように見える。
これまでの煌人の印象と違う気がして、璃歌は戸惑った。
「そう身構えるな。璃歌に特別な肩書きを与えると言っただろう? 野崎部長と話し合い、俺から連絡が入ればすぐに来られるように手筈を整えた」
「肩書きって?」
「主査」
KURASAKIコーポレーションにおいて主査とは、上司に命じられた仕事を掌理する職位だ。
璃歌は煌人に呼ばれるたびに試飲してレポートにまとめるのだから、主査という肩書きを付けられても不思議ではない。
「君の絶対舌感は入社当時から知られていた。それが功を奏したよ。この肩書きに異議を唱える者は誰もいなかった。こうもすんなり運ぶとはね」
「とは言っても、結局は味見係でしょう?」
「文句があるのか?」
いろいろな日本酒を飲ませてもらえるのに、文句などあるわけがない。
込み上げてくる喜びを見られないように横を向く。しかし、ほころんだ口元は、煌人には隠せなかったようだ。
璃歌は咳払いして表情を引き締めると、テーブルに置かれた日本酒と肴を指す。
「じゃ、これは――」
「主査に就く君へのお祝いだ。フレンチやイタリアンより、こういう隠れ家的な店の方が好きだろうと思って」
「好き!」
璃歌が素直に告白すると、煌人はぷっと噴き出した。
「だろうな」
「でも、テーブルを見る限り……テストを受けさせたいとしか思えないんですけど」
名前が伏せられた日本酒の数々、そして淡泊なものから味の濃いものまでが並んだ肴。どの日本酒にはどの肴が合うのかと、試されているようでならない。
まあ、どれも簡単にわかると思うが……
「もう試験は終わった。とはいえ、普通に飲むだけでは楽しくない。趣向が必要だと思わないか?」
煌人がにやりとする。璃歌は顎を上げ、彼に挑む目を向けた。
「もちろん! なんだかトランプの神経衰弱っぽくて、こういうのは好きです」
「じゃ、飲もう。……これで俺の考えが決まる」
煌人がぼそっと呟いたが、並べられたショットグラスに見入る璃歌の耳には入らなかった。
璃歌は惹かれるまま、その中の一つを手に取る。
「乾杯!」
ひょいと掲げたあと、日本酒を口に含む。
瞬間、華やかな香りが口腔に広がっていった。
「これは吟醸酒ね。繊細な味を邪魔しない薄味の料理にとても合うから、平目の刺身かな」
璃歌の言葉を聞いた煌人が、感心したように大きく頷く。
なんとなく認めてくれたようで、璃歌の心が弾んだ。それを隠したくて、璃歌は急いで平目の刺身を食べて日本酒を含んだ。
そうして次から次へと飲み、肴を堪能する。
「本当に間違えないんだな。驚きだよ。……それに悪酔いもしない」
濃醇な純米酒を飲んでいた璃歌は、ふふっと笑みを零した。
「そもそも日本酒を飲んで酔ったことがないんです。強いて言えば、気が大きくなるぐらいかな」
「気が大きくなる? それは困りものだな」
「どうして? 誰にも迷惑をかけないのに? 煌人さんは知らないと思うから言っておきますけど、実際はそれほど量は飲まないんです。わたしが飲む目的は、美味しい日本酒を探すためだから」
璃歌は並べられたショットグラスを指す。たっぷりと注がれたそれらは、どれもまだ飲み干されていない。どのグラスも半分以上残っていた。
それを確認した煌人は、何度も深く頷いた。
「節操がないわけではないってことか」
「これでもきちんと考えて飲んでます」
璃歌の言い方に、煌人が苦笑した。
「璃歌との話は飽きないな」
「本当?」
煌人が機嫌良く頷く。
実は璃歌も煌人と同じで、この会話にまったく退屈していなかった。特に深い話をしているわけではないのに、妙に居心地がいい。
煌人との会話のテンポがいいからかもしれない。
璃歌は内心驚喜しながら、豚の角煮や長芋のステーキを食べる煌人を好意的に見つめた。
「そういえば、以前俺に言ったよな? SNSで知り合った日本酒好きの人たちに教えてもらって、光富酒造へ行ったと」
「うん。皆優しくていろいろと教えてくれるんです。オフ会も開かれるほど仲が良くて」
そこで知り合った人たちは皆情報通で、彼らからとても助けてもらっていると意気揚々と話す。ところが、璃歌が話を続ければ続けるほど煌人の表情が曇っていった。
「彼らとは普段から交流が?」
煌人の声のトーンが下がる。それに驚いた璃歌は、持ち上げかけたグラスをテーブルに置いた。
「どうなんだ?」
答えを催促してきた煌人の目に、何やら真剣な光が浮かんでいる。それを見るだけで璃歌の心臓がドキドキしてきた。
しかしそうなってしまう自分の気持ちがわからず、戸惑う。とはいえ黙っているわけにもいかず、璃歌は言葉を探すように目をきょろきょろさせた。
「えっと、普段はそんなに会わないかな。基本酒蔵の情報を交換するぐらいだから。……う、うん」
そう言って、小刻みに頷く。
璃歌が歯で唇を噛んだ時、大嶌が片手を上げる。
その動きにつられて顔を上げると、小橋が執務室のガラス棚へ向かうところだった。
小橋は酒瓶とショットグラスを取り出し、次々に日本酒を注いでいく。そして飲み比べ専用の木製ショットグラスホルダーを手にすると、璃歌に近づいた。
本当にわたしに利き酒をさせるの? ――と思いながらも、璃歌の目は並べられた五個のショットグラスに釘付けになる。それぞれの濁り具合を見比べていると、呆れたような吐息が耳に届いた。
「これから試験を行う。味について聞かせてくれ」
「今、飲んでいいんですか?」
璃歌は舌舐めずりをしそうになるのを必死に我慢して、そっと大嶌を窺う。
「ああ……」
大嶌は苛立たしげに返事をした。
もしかして試飲会議という大事な場に璃歌がいたことで、こんなにも不機嫌に?
試飲会議は会社の心臓部とも言える重要な場で、ここで厳選されたものだけが自社で取り扱われる。
璃歌は入社直後からそこに入る権利を与えられているが、大嶌はその事実が気に食わないのかもしれない。だからといって、一社員の璃歌にはどうにもならないことだ。
複雑な感情を抱きながら、璃歌は日本酒に意識を戻す。大嶌に催促される前にショットグラスを掴むと、ぐいっと飲んだ。
試飲なのでほぼ二口分しか入っていないのが残念だが、芳醇な香りに満たされてうっとりする。
「女性が好みそうなフルーティな香り。ただ甘過ぎるから好みは分かれるかもしれません」
次々とショットグラスを呷っては、思ったことを口に出していく。そして最後の日本酒を飲んだ時、璃歌の動きがぴたりと止まった。
「爽やかな切り口の辛口かと思ったら、後追いで甘い香りが広がってくる」
しかも急に味が切り替わるのではなく、水に塩が溶けていくようにゆっくりと上書きしてくる。
璃歌は目を閉じ、口腔に広がる味を噛み締めた。
なんという美味しさだろうか。〝もう一杯〟と催促してしまいそうになるほど後を引く。
最後にふわっと香るのは……お米の甘さ?
次の瞬間、璃歌はさっと目を開けた。
「これ、光富酒造のものね!」
「どこのものかまでわかるのか?」
大嶌が目を眇めて、璃歌をじろじろと見つめる。
あまりにも美味しくて、つい大きな声で言ってしまった。璃歌は自分の失態を誤魔化すように軽く咳払いする。
「飲んだことがある酒造元のものに限りますけれど。ただこのお酒は……最近光富酒造で飲ませてもらったものとは違ってカドが取れていて、とても飲みやすくなっています。ひょっとして……今年、瓶詰めされたものではないのかなと思うんですが……」
「今年のものではないことまで?」
璃歌は目線を下げて、ショットグラスを置く。
「先ほども言いましたが、わたしにわかるのは、味だけです。先日飲んだ味と違ったので、そう思ったに過ぎません。基本、美味しいか美味しくないか、それを重視しています」
「……日本酒が好きなのか?」
大嶌が故意に取ったような間が意味深で怖い。
これは普通に好きだと言っていいのだろうか。
「わたしは――」
璃歌は目線を彷徨わせて言いよどむ。しかし、日本酒に関しては誰に対しても誤魔化したくなかった。
「好きです。美味しい日本酒を探すのが趣味なんです」
少し身構えつつも、日本酒の素晴らしさを思うと自然と頬が緩んでいく。
「SNSで知り合った日本酒好きの人たちと頻繁に情報交換をするんですが、彼らは本当に詳しくて……。光富酒造も彼らに教えてもらい、休みに合わせて伺いました」
あの日飲んだ美酒を思い出し、璃歌の口腔に生唾が溜まってきた。自然と恍惚した表情になり、目もとろんとなる。
「光富酒造、か……」
ぼそっと呟いた大嶌の声が届き、璃歌は彼の方に顔を向ける。
「覚えてるか? 代表が、いや……〝蔵元さん〟が君に感謝していたのを」
代表と呼んだあと、大嶌はあえて璃歌が口にしていた〝蔵元さん〟という呼び方に変更した。
なぜわざわざ言い直したのか、大嶌の考えがまったく読めない。
「は、はい。あの日は、その、いろいろありまして――」
璃歌は途中で言葉を濁し、口を閉じる。
あの日、光富からお礼をすると言われて内心喜ぶも、大嶌の素性を知ったせいで動揺してしまった。それで名刺さえ置かずに逃げ出した。
決まりが悪くて連絡できなかったが、このまま放置するのは失礼だし、何より怪我をした光富の様子が気になった。
それで後日、勇気を出して光富酒造に電話をかけた。電話に出た光富の奥さんによると、彼は入院してはいるが大丈夫だという話だった。
本当は光富のお見舞いに行きたかった。
でも会社の取締役である大嶌が光冨酒造と関わっているのならば、これ以上私的な連絡は控えた方がいいと思い、お見舞いを送って以降は連絡していない。
大嶌には迷惑をかけていないはずなのに、いったいどうしてあの日の話をするのか。
璃歌が大嶌の出方を探っていると、彼が気怠げにため息を吐いた。
「光富代表とは数年来の付き合いだが、嫌われていてね。何度出向いても、うちとは契約しないと言って、決して首を縦に振ってくれなかった。にもかかわらず、君がうちの会社の人間だと知ると何が起きたと思う? 彼は〝白井さんが担当者になるなら契約してもいい〟と言ってきた」
「わたしが担当ですか?」
「そう。……君の手柄だ」
大嶌が顔を歪ませ、投げやりに言い放つ。
璃歌は最初こそ言葉を失っていたが、内容が頭に入ってくるにつれて、喜びが膨れ上がってきた。
「やったー!」
感情の赴くままに声を上げて、大嶌の両手を取る。
「おい!」
「嬉しい! 蔵元さんとはもう会えないと思っていたの。だってあなたと繋がりが――」
そこまで言って、璃歌は自分の振る舞いに気付いた。さらに目の前にある彼の唇を見て、後ろに飛びのく。
甦ってきた生々しい記憶を消し去るように、頭を深く下げた。
「申し訳ございません! 取締役になんて馴れ馴れしい態度を……。その、蔵元さんの話題で初対面の時を思い出して、あの日のように振る舞ってしまいました。今後このようなことがないよう、重々心に留めておきますので――」
璃歌は大嶌の逆鱗に触れたのではないかとハラハラしながら言い訳するが、彼はそんな話は不要だとばかりに手を左右に振った。
「出会いが出会いなんだ。お互いの本性はわかってる。今更取り繕われる方が気持ち悪い。そうだろう? ……璃歌」
出し抜けに名前で呼ばれて、璃歌の心臓が痛いほど胸を打った。でもこういう大嶌の姿を知っているだけに、名字で呼ばれる方が居心地悪いかもしれない。
心の中で何を思っているのかと心配するより、初対面の時みたいに言いたいことを言ってくれる方が断然いい。
大嶌――改め、煌人を見つめながら、璃歌はただ小刻みに頷いて同意する。
「では、初めて会った時と同じように、物怖じせずに接してくれ。……それで、光富酒造の担当になるんだな?」
「はい、よろしくお願いいたします」
これで光富酒造の日本酒を楽しめる。
まずは来年の春に行われる蔵開きに行って新酒の出来栄えを堪能し、続いて春酒や夏酒を味見するのだ。冷酒にしたらどんな風に味が変わるだろうか。
来年の楽しみに思いを馳せていると、急に煌人が璃歌の両腕を掴んできた。驚いて彼に焦点を合わせると、彼は輝くばかりの作り笑いを顔に張り付けていた。
煌人に夢中の女性社員ならいいかもしれないが、璃歌は彼の空々しい態度に嫌な予感がする。
眉根を寄せて身構える璃歌に、案の定、煌人が白い歯を零した。
「これを機に、特別な肩書きを与えよう。君の絶対舌感を使わない手はない。いつでも呼び出せるように野崎部長と話をつけるから、そのつもりで」
「それは断ります!」
璃歌は間髪を容れずに言う。
煌人に認めてもらえるのはもちろん嬉しい。光富酒造の担当者になるのもだ。だけど特別な肩書きを与えられて何度も呼び出されたら、他の女性社員の目を引いてしまう。
社内で〝抱かれたい男一位〟の異名を持つ煌人と一緒にいたらどうなるか!
途端、咳払いが聞こえた。肩越しに振り返ると、小橋が口元を手で押さえて笑っていた。
小橋は、璃歌に見られていると気付いて慌てて姿勢を正すが、微妙に肩が揺れている。
「断るのか?」
煌人に訊ねられて、璃歌は「はい」と返事をした。彼は怒るでもなく、笑うでもなく、小さく頷く。
「そうか……。それは残念だったな。俺と一緒に行動すれば、幻の酒……市場に出回らない貴重な日本酒を飲める機会が増えたのに」
それって、いろいろな日本酒を試飲させてくれるという意味?
煌人の言葉が脳に浸透するにつれて、璃歌の目が爛々と輝いていく。
飲みたい、飲みたい、飲みたい!
「まあ、嫌なら仕方ないな。自らチャンスを棒に振る――」
「ありがとうございます、ご厚意に感謝します!」
璃歌は申し出に飛びついた。
当然ながら、煌人に呼び出されて注目を浴びるのは嫌だ。とはいえ、日本酒探しが趣味の璃歌にしてみれば、貴重な日本酒を飲ませてもらえる機会を失いたくないという気持ちの方が大きい。
「飲兵衛め……」
煌人に呆れられるが、璃歌はめげずににっこりする。
「それは語弊があるかと。わたしは美味しい日本酒に巡り合いたいだけで、酔っ払いたいわけではありませんので」
璃歌の言い分に、煌人は何も言わない。ただもう用事は終わったとばかりにドアを指す。
帰れという合図だと受け取った璃歌は、恭しく頭を下げた。
「失礼します」
執務室を出ると、堪らずガッツポーズを取る。
「やった。これで幻の酒に出会えるかも!」
煌人に言葉巧みに操られたという自覚がないまま、璃歌は胸を弾ませる。
そして意気揚々とマーケティング事業部へ戻ったのだった。
***
「どう思う?」
煌人はドアが閉まったあともその場を動こうとしなかったが、しばらくして控えていた小橋に声をかけた。
数年前、煌人がマーケティング事業部部長に就いた時、部下の小橋がいろいろと助けてくれた。
帰国子女の小橋は優秀で、煌人の真意に沿って動いてくれる。それで取締役に昇進すると同時に、彼を専属アシスタントに抜擢した。煌人が優男を演じていると早々に見破った観察眼の鋭さも、気に入った理由の一つだ。
「美人ではありませんが、とても可愛らしくて目を引く女性ですね」
煌人が睨むと、小橋が口元を緩めてこちらに歩いてきた。
「あくまで一般論です。僕の趣味ではないので。……話は戻りますが、女性にしては度胸がありますね。あの時も強盗の前に飛び出すと思いませんでした」
事件があった日は携帯の通話を繋げていたため、酒蔵の中で起きていた事態は、全部小橋に筒抜けだった。
煌人が璃歌の唇を塞いだ件も……
当時の記憶が甦り、居心地が悪くなって咳払いする。
「それで?」
「彼女は取締役を前にしても媚びもしなければ、色目も使わない。何より、素晴らしい舌をお持ちです。飲兵衛ではないと本人も言っていますので、酔っ払って羽目を外すこともなければ、間違いを犯すこともないかと。きっと取締役の出世に欠かせない人物になりましょう。何年も首を縦に振らなかった光富酒造の代表の心を開かせた方ですし」
小橋の話に、煌人はにやりと口角を上げた。
まさしくそのとおりだ。璃歌のあの味覚の鋭さは捨て難い。ただもっと使えるようにするには、勉強させる必要があるが。
ここから自分が望む方向に璃歌を導こうとするならば、さらに策を練らなければ……
そうすれば、きっと璃歌の舌が役に立ってくれるだろう。
それにしても、璃歌が光富酒造で述べた日本酒の感想には驚いたものだ。
いくら日本酒好きだとしても、こういう場所では〝美味しい〟や〝甘いがすっきりしている〟といった、ありきたりな感想を述べるのが普通だ。
なのに璃歌は、ワインソムリエのようにじっくり味わって感想を述べた。
そういう風に飲むのが習慣になっていると気付いたのは、煌人だけではない。だから彼女の発言に、光富は興味を持ったと考えられる。
しかし璃歌は、光富の問いかけから逃げるように誤魔化した。そうしながらすぐに話題を戻した。
隠したいのか隠したくないのかどっちなんだ──と思ったらおかしくて、煌人は自然と噴き出してしまった。
実は璃歌が光富酒造に足を踏み入れてから、彼女を目で追っていた。
ちょうど光富とやり合ったあとだったこともあり、彼の無愛想な振る舞いで彼女が傷つくのではないかと危惧したからだ。
しかし璃歌は煌人の心配をものともせず、光富に気楽に話しかけた。
おかしな女だ――と笑ったものの、可愛らしい恰好をしていながら、酒好きを隠さない気さくな性格に興味が湧いてしまった。
「わかってるのかな。俺に弱みを晒したっていうのを……」
出世より、貴重な日本酒が飲める方に重きを置くと自ら暴露した璃歌。
その時点で、もう煌人の手のひらの上で転がされるしかなくなってしまった。
一番バレてはならない相手だというのに……
煌人は目線を動かし、小橋に焦点を合わせる。すると彼は、ふっと唇の端を上げた。
「理解していないでしょうね。もしそうであれば、取締役の言い回しにピンときたはずですから」
「それを狙ったけどな。とにかくこのまま放っておくには惜しい人材だ。これから頑張ってもらうとしよう。……日本酒を餌にな」
そう言ったあと、煌人はデスクを回って椅子に座った。
小橋に仕事を始めるように伝えたあと、光富酒造へ電話をかける。数回の呼び出し音が鳴り響いて繋がった。
「お世話になっております。KURASAKI――」
『どうなった? 彼女が担当してくれるのか?』
煌人が名乗る前に光富が話し出す。それぐらい彼は、璃歌に仕事を任せたいと思ってくれている。何年も酒蔵に通った自分よりも。
煌人は苦笑し、パソコン画面に表示されたスケジュールに目を向ける。
「はい、是非担当させていただきたいとのことです。つきましては――」
事前に光富に言われていたとおり、来春の蔵開き以降に契約する方向で話を進めると伝える。現時点で、来年の蔵人の確保ができるかどうか未定なので、酒の生産量が明確になってからにしたいという彼の要望を聞き入れたのだ。
それに合わせてもっと話を詰める必要がある。
これから忙しくなるなと考えながら、契約時に璃歌を伴って挨拶に伺うと伝えて、煌人は電話を切った。
「さてと、この先どうなるかな」
煌人は椅子の背に凭れると腕を組み、天井を仰ぎ見る。そんな煌人を見て、書棚から必要書類を出していた小橋が表情を和ませていた。
第二章
渋谷の道玄坂の表通りから細い路地に入ったところにある、居酒屋。
その店は気軽に飲み食いができる場所というより、四十代以降の人たちがゆっくりとお酒を楽しむ場所として知られているようだ。
各テーブルの天板は、木目がはっきりとした一枚板で作られており、明らかに一点ものだ。天井から吊された木製ライトの木目も、どれも同じものはない。壁に掛けられた墨画も、筆の勢いに躍動感がある。全てにおいてお金がかかっている。
客も同様で、仕立てのいいスーツを着た年配の人が多い。若者もいるが、普通のサラリーマンではなく官僚だろう。国家の政策がどうのこうのといった話の中に専門用語が出てくるのでそう読み取れた。
どうしてこのような居酒屋に璃歌を連れてきたのだろうか。
璃歌は彷徨わせていた視線を正面に座る煌人に戻した。彼はお品書きを確認しながら、隣に立つ四十代ぐらいの美人女将に話しかけていた。
実は今から数時間前。
終業時間を迎えて退社しようとしたところで、小橋から『ロビーに十八時でよろしくお願いします』という連絡が入った。
煌人の執務室に連れていかれてから数週間経っていたが、その間音沙汰がなかったのもあり、今年はもう彼に会うことはないだろうと思っていた。そんな時に入った、煌人からの命令だ。
師走も中旬を過ぎて忙しい時期にもかかわらず、璃歌を呼び出すとはどういう用事があるのか。
璃歌は時間を潰したのち、恐る恐る待ち合わせの時間にロビーに下りた。
そこには目を輝かせる女性社員たちに囲まれる煌人の姿があった。
造られた虚像だけどね――と思いながら煌人に近づくと、それに気付いた彼が女性社員に「失礼」と告げて、璃歌に向かって歩いてくる。
「待ってたよ。さあ、出かけよう」
煌人の言動に、女性社員たちがざわめく。だが、煌人は特に気にせずに璃歌を建物の外へ促した。
おろおろしつつ煌人のあとに続くと、ロータリーに停められていた車に押し込められる。そのまま小橋が運転する車でここまで連れてこられた。
そして今に至る。
無意識のうちに落としていた目線を上げると、こちらを観察する煌人と目が合った。
いつの間にか女将は立ち去り、カウンターの後ろでいそいそと動いている。
「煌人さん、わたしを呼び出してここに連れてきた理由は?」
一瞬、煌人が嬉しそうに口角を上げる。璃歌が初めて彼を名前で呼び、二人の間にある壁を取り去ったからかもしれない。しかしすぐに、片眉を動かした。
「理由? そんなの一つしかないだろう?」
そう言った時、店員が二人の前に木製のショットグラスホルダーを置いた。
煌人の執務室で利き酒をした日と同じく、清酒から濁り酒まである。
璃歌がショットグラスを凝視していると、店員が肴を並べ始めた。鯛のあら煮、平目の刺身、はも皮の酢の物、イカの塩辛、湯豆腐、焼き鳥、豚の角煮、おでん、かまぼこと様々だ。
肴から想像するに、吟醸酒から本醸造酒といった種類の日本酒が出されていると考えられる。日本酒によって、合う肴はそれぞれ違うからだ。
もしかして、またテストを?
璃歌は煌人の真意を探ろうとする。彼は鷹揚な笑みを浮かべていた。でもそれは、優男を演じている時とは違い、心から楽しんでいるように見える。
これまでの煌人の印象と違う気がして、璃歌は戸惑った。
「そう身構えるな。璃歌に特別な肩書きを与えると言っただろう? 野崎部長と話し合い、俺から連絡が入ればすぐに来られるように手筈を整えた」
「肩書きって?」
「主査」
KURASAKIコーポレーションにおいて主査とは、上司に命じられた仕事を掌理する職位だ。
璃歌は煌人に呼ばれるたびに試飲してレポートにまとめるのだから、主査という肩書きを付けられても不思議ではない。
「君の絶対舌感は入社当時から知られていた。それが功を奏したよ。この肩書きに異議を唱える者は誰もいなかった。こうもすんなり運ぶとはね」
「とは言っても、結局は味見係でしょう?」
「文句があるのか?」
いろいろな日本酒を飲ませてもらえるのに、文句などあるわけがない。
込み上げてくる喜びを見られないように横を向く。しかし、ほころんだ口元は、煌人には隠せなかったようだ。
璃歌は咳払いして表情を引き締めると、テーブルに置かれた日本酒と肴を指す。
「じゃ、これは――」
「主査に就く君へのお祝いだ。フレンチやイタリアンより、こういう隠れ家的な店の方が好きだろうと思って」
「好き!」
璃歌が素直に告白すると、煌人はぷっと噴き出した。
「だろうな」
「でも、テーブルを見る限り……テストを受けさせたいとしか思えないんですけど」
名前が伏せられた日本酒の数々、そして淡泊なものから味の濃いものまでが並んだ肴。どの日本酒にはどの肴が合うのかと、試されているようでならない。
まあ、どれも簡単にわかると思うが……
「もう試験は終わった。とはいえ、普通に飲むだけでは楽しくない。趣向が必要だと思わないか?」
煌人がにやりとする。璃歌は顎を上げ、彼に挑む目を向けた。
「もちろん! なんだかトランプの神経衰弱っぽくて、こういうのは好きです」
「じゃ、飲もう。……これで俺の考えが決まる」
煌人がぼそっと呟いたが、並べられたショットグラスに見入る璃歌の耳には入らなかった。
璃歌は惹かれるまま、その中の一つを手に取る。
「乾杯!」
ひょいと掲げたあと、日本酒を口に含む。
瞬間、華やかな香りが口腔に広がっていった。
「これは吟醸酒ね。繊細な味を邪魔しない薄味の料理にとても合うから、平目の刺身かな」
璃歌の言葉を聞いた煌人が、感心したように大きく頷く。
なんとなく認めてくれたようで、璃歌の心が弾んだ。それを隠したくて、璃歌は急いで平目の刺身を食べて日本酒を含んだ。
そうして次から次へと飲み、肴を堪能する。
「本当に間違えないんだな。驚きだよ。……それに悪酔いもしない」
濃醇な純米酒を飲んでいた璃歌は、ふふっと笑みを零した。
「そもそも日本酒を飲んで酔ったことがないんです。強いて言えば、気が大きくなるぐらいかな」
「気が大きくなる? それは困りものだな」
「どうして? 誰にも迷惑をかけないのに? 煌人さんは知らないと思うから言っておきますけど、実際はそれほど量は飲まないんです。わたしが飲む目的は、美味しい日本酒を探すためだから」
璃歌は並べられたショットグラスを指す。たっぷりと注がれたそれらは、どれもまだ飲み干されていない。どのグラスも半分以上残っていた。
それを確認した煌人は、何度も深く頷いた。
「節操がないわけではないってことか」
「これでもきちんと考えて飲んでます」
璃歌の言い方に、煌人が苦笑した。
「璃歌との話は飽きないな」
「本当?」
煌人が機嫌良く頷く。
実は璃歌も煌人と同じで、この会話にまったく退屈していなかった。特に深い話をしているわけではないのに、妙に居心地がいい。
煌人との会話のテンポがいいからかもしれない。
璃歌は内心驚喜しながら、豚の角煮や長芋のステーキを食べる煌人を好意的に見つめた。
「そういえば、以前俺に言ったよな? SNSで知り合った日本酒好きの人たちに教えてもらって、光富酒造へ行ったと」
「うん。皆優しくていろいろと教えてくれるんです。オフ会も開かれるほど仲が良くて」
そこで知り合った人たちは皆情報通で、彼らからとても助けてもらっていると意気揚々と話す。ところが、璃歌が話を続ければ続けるほど煌人の表情が曇っていった。
「彼らとは普段から交流が?」
煌人の声のトーンが下がる。それに驚いた璃歌は、持ち上げかけたグラスをテーブルに置いた。
「どうなんだ?」
答えを催促してきた煌人の目に、何やら真剣な光が浮かんでいる。それを見るだけで璃歌の心臓がドキドキしてきた。
しかしそうなってしまう自分の気持ちがわからず、戸惑う。とはいえ黙っているわけにもいかず、璃歌は言葉を探すように目をきょろきょろさせた。
「えっと、普段はそんなに会わないかな。基本酒蔵の情報を交換するぐらいだから。……う、うん」
そう言って、小刻みに頷く。
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