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1巻

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 電車を乗り継いで向かった先は、中目黒なかめぐろにある焼き肉店だった。
 店内は温かみのある木造りの内装で、どの席もスーツ姿のサラリーマンやOLたちで埋まり、とてもにぎわっている。

「こんばんは」
「いらっしゃいませ! お待ちしておりました。さあ、こちらへどうぞ」

 秀明は名前を言っていないのに、店員は彼の顔を見ただけで四人掛けの予約席へと案内する。

「まず、生でよろしいですか?」

 店員がお冷やとおしぼりをテーブルに置いて、秀明に訊ねる。

「香純もビールでいい? 飲める?」
「ええ、大丈夫」
「では、すぐにお持ちしますね」

 お通しのもやしやほうれん草、ぜんまいや人参にんじんのナムルを並べ終えると、店員は奥へ消えた。
 二人きりになるなり、秀明が香純に問うように片眉を上げる。

「残念だった? 初デートで焼き肉屋に連れて来られて」

 香純は秀明の言い方に口元をほころばせながらおしぼりを彼に渡し、自分も手をぬぐった。

「驚きはしたけど、残念とは思ってない。だって、ここは秀明さんのお気に入りのお店でしょ? そこに連れてきてもらえるなんて、とても嬉しい」
「どうして俺のお気に入りだと?」
「秀明さんは名前を伝えていないのに予約席に通された。つまり、お店の常連で顔見知りということ。正解ですよね?」

 そう言った時、店員が来てビールのグラスをテーブルに置いた。違う店員が、お肉ののった皿を運んでくる。

「こちら、食べ比べができる黒毛和牛の特選盛り合わせです」

 白いプレートに盛られた上ロース、リブロース、上カルビ、タンなどの色はとても鮮やかで、まるで花が咲いたように綺麗だった。
 店員がいなくなると、秀明がグラスを手に取った。香純も慌てて自分のグラスを持つ。

「今夜はお互いをよく知るためにここへ連れて来たが、これでは俺の心の中を余すところなく覗かれそうだ。でもどんどんそうしてほしい。親族たちをだますには、俺の細かい部分を知る必要があるしね。ではこれからの約三ヶ月……七月末までよろしく頼む。何も問題が起きず、香純が笑顔で自分の生活に戻れることを願って、乾杯」
「乾杯」

 冷えたビールを一口、二口飲んだあと、秀明がトングを使ってタンを網の上に置く。
 これまでの秀明の言動から、香純は彼が自ら率先して行動する人だと思った。
 この人は起業家タイプかも――なんて考えながら、タンにレモンをかけて食べた。

「んんっ! ……美味おいしい!」
「喜んでもらえたようで良かった。仕事柄、いろいろな店で食べるけど、やっぱりここの店に戻ってしまうんだ。いつ食べに来ても、俺の期待を裏切らない」

 次にあぶらがのったカルビや上ロースを焼き始めるが、秀明はそうする間もいろいろな話をしては香純を楽しませてくれた。
 にこやかに答えるうちに、徐々に香純の硬さがなくなっていく。
 まるで仲のいい先輩と後輩、もしくは隣の家に住む、年の離れた幼馴染おさななじみといった風だ。それほど香純は、秀明に対して心を許していた。

「この店は、よくデートで使うの?」
「デート? いや、女性を連れて来たことは一度もない。……そう、香純が初めてだ」

 そう言いながら、秀明はまるで雷にでも打たれたような顔をした。それから徐々に力を抜き、香純にからかいのにじんだ目を向ける。

「そもそも俺の知る女性は、こういう場所に来たがらないからね。彼女たちが望むのは、イタリアン、フレンチ、そして多国籍料理。そこに綺麗な夜景がプラスされれば、なお上機嫌になる」

 秀明の言う女性とは、彼のこれまでの恋人たちに違いない。
 香純と元カノとの待遇の違いは当然のこと。彼女たちは秀明に愛された女性で、香純は彼に迷惑をかけた最悪な人物。その違いは明白だ。
 気にする方がおかしいのに、何故か気落ちしてしまう。
 そんな自分に戸惑いを覚えずにいられなかった。

「どうした? 何か気掛かりでも?」

 美味おいしそうに焼けた肉を香純の皿に置きながら声をかけられて、ハッとする。

眉間みけんしわが寄ってる」
「えっ? あっ……別に、何も……」
「香純?」

 秀明の口調が探るものに変わる。
 香純はすぐに表情を改めて、なんでもないと顔の前で手を振った。

「気にしないで。……大丈夫。えっと、そう! いつから恋人っぽく親しみを込めた話し方に変えようかなと思っていて。秀明さんのことは、既に名前で呼ばせてもらってるけど」
「もうかなり変わってる。気付いていないのか? 明らかに声が柔らかくなっている。俺の名前を呼ぶ時も、話しかける時も」

 柔らかくなってる? いつもと変わらないつもりなのに、そう感じると!?

「失礼します」

 女性店員の声がした。

「ホルモンの盛り合わせプレートと、生ハラミのお寿司です」
「ありがとう」

 店員に頷くと、秀明がホルモンに手を伸ばした。

「ここのホルモンも美味おいしいんだ。生ハラミのお寿司も。この店では、必ず注文してる。香純にも是非食べてほしい」
「ありがとう」

 新しく運ばれてきたメニューのお陰で、香純は先ほどの秀明の言葉を深く考えずにすんだ。彼に勧められるまま、寿司を口に放り込む。生ハラミの柔らかさと甘みが、酢飯とよく合っている。口腔こうこうに広がるワサビとの相性も絶妙だ。

美味おいしい!」
「だろう?」

 香純の感嘆の声に、秀明も目を細める。
 まるで本物の恋人同士のように微笑み合って、香純はようやく気付いた。
 こんな風に、率直に笑い合う関係で進めていけばいいということを。
 そうすればこれからの約三ヶ月、いつわりの婚約者として一緒に暮らしても上手くいくに違いない。
 今みたいな関係を目指せばいいのよね? ――そう思いながらも、秀明が先ほど元カノの話をした時に感じたざわざわとしたものが、静かに心の奥底へ沈んでいく。その妙な感覚に、自分でも戸惑っていた。
 なるべく気にしないように努めながら焼き肉を食べ終え、デザートのアイスクリームを口に入れる。その時、秀明が彼の家へ移る話をし始めた。

「土曜日は仕事なんだよな?」
「ええ。ゴールデンウィークに開かれる〝ふれあい祭り〟の準備で忙しくて」
「じゃ、一日早いけど……明後日の金曜日に移ってくる? 早めに移って俺の家に慣れておけば、図書館の定休日にはゆっくりできると思う」

 異論はないと秀明に頷く。

「香純、かなりきもが据わってきたね」
「ううん、そうじゃない。わたしは、秀明さんの望むことにはなんでも応えるつもりなの。早めに移れと言われれば、それに従うだけ。貴方のために」
「香純……」

 真顔で見つめてくる秀明に、香純はにっこりした。

「気にしないで。悪いのはわたしだし。……ところでゴールデンウィークの話なんだけど、その期間は仕事なの。代わりにあとで代休を取れるんだけど、まだその申請を出していなくて。秀明さんの都合に合わせて取るつもりだから、予定があったら遠慮せず言ってね」

 そう言った途端、秀明が手を伸ばして、香純の手を握った。
 突然のことにびっくりして秀明を見返すが、彼は何も言わずにただ香純の手の甲を撫でる。そんな彼の仕草に、香純は息が止まりそうになった。
 店内はにぎわっているのに、香純の周りからは喧騒けんそうが遠ざかっていく。代わりに妙に空気が張り詰めて、からだ雁字搦がんじがらめにした。
 息をするのも辛くなった時、ようやく秀明が手の力をゆるめた。
 その隙を逃さずに手を引き抜くと、秀明がどこか責めるような声をこぼした。

「俺の望みがなんであろうとも応えると言ったのは、嘘? 俺が触れただけでこんなにも緊張されたら、俺の婚約者だと親族たちに紹介できない」
「ご、ごめんなさい! だっていきなりだった……ううん、そうじゃない。わたしのせいね」

 香純は肩を落とした。
 いつわりの婚約者を演じ始めたら、秀明に手を触れられたり、肩を抱かれたりすることもあるとわかっていたはずなのに……

「そろそろ出ようか。実は、まだ寄りたいところがあるんだ」
「……はい。秀明さんと一緒に行きます」

 もう戸惑わない。わたしは秀明さんが望む婚約者になります――そう決意を新たにした香純は、秀明と一緒に焼き肉店を出た。

「ごちそうさまでした」

 夕食のお礼を言う香純の手を取り、秀明は自分のひじに持っていく。香純が隣に寄り添うと、彼は晴れやかな顔で歩き出した。
 電車に乗って降りた先は、銀座だった。けれど秀明は、このあとどこへ行くのか口にしない。
 香純は秀明が行きたいという場所に従うだけだからと最初は特に訊ねなかったが、歩を進めるにつれだんだんそわそわしてきた。
 たまらず秀明の腕を掴む手に力を込めて、自分の方へ引き寄せる。

「うん? どうした?」
「ねえ、どこに行くの?」

 秀明が口にしたのは、香純でも知っている有名ブランドのジュエリー店だった。
 図書館にある雑誌にも、よく載っている。そのジュエリーはとても高価で、女性が贈られたいエンゲージリングを扱う店としても知られている。
 どうしてそんなお店に?

「詩織さんを覚えてる?」

 不意に秀明に問われて、胸の奥がざわついた。それがうずを巻き、香純は自分のからだがどこか深い場所へ落ちていく感覚にとらわれる。

「……ええ」
「知ってのとおり、俺たちの仲はもうどうにもならない。だが、詩織さんにはおおやけの場で恥をかかせてしまった。それで、おびの品を贈ろうと思ってね。香純も一緒に選んでほしい」
「別れた恋人に、アクセサリーを?」

 その考えはおかしいと言いたくなったが、香純は言葉をぐっと呑み込んだ。
 二人の関係は、秀明たちにしかわからないこと。香純に、何かを言える権利などない。

「ああ、せめてつぐないの気持ちを示さないとね。……いけないか?」
「いいえ。わたしで役に立つなら選ぶのを手伝うけど、最終的には秀明さんが決めてね」
「そうすると誓うよ」

 秀明がそう言った時、ちょうど店の前に到着した。

「いらっしゃいませ」
「いろいろ見せてもらうよ」
「どうぞゆっくりご覧ください」

 秀明は香純と腕を組んだまま、ガラスのショーケースへ向かった。
 そこにあるアクセサリーは、ライトを受けてまばゆく輝いてる。香純の好みはもう少し控えめなものだが、それでもきらめきと素敵なデザインから、目が離せない。

「とても綺麗!」

 香純は感嘆しながら、視界に入るペンダントやリング、ピアスなどを見つめる。

「香純はどういうのが好み?」
「わたし? ……わたしは可愛い系、清楚せいそ系が好きかな。年齢を重ねれば、派手なものがほしくなるかもしれないけど」
「そうか。年齢に合ったものという感じ?」
「ええ。詩織さんの趣味は?」
「さあ……」

 秀明の興味なさそうな口振りに思わず顔を上げるが、彼はショーケースに見入っている。そして、ペンダントやブレスレットを指しては「これはどうだ?」とか「こういうのも綺麗じゃないか?」などと話しかけてきた。

「こちらのペンダントは、周囲にちりばめたダイヤモンドがより多くの光を取り込み、中央のダイヤモンドを輝かせるデザインとなっております」

 店員がスエード調のジュエリートレーにそのペンダントを取り出し、秀明の前に置いた。

「チェーンはペンダントトップの裏を通るタイプなので、ペンダントの丸いフォルムが目立つ仕様です」

 秀明がそれを手にして、香純の胸元に持っていく。

「うん、とても素敵だ。香純も見て」

 秀明にうながされ、香純は鏡を覗き込む。

「合計三十六石のダイヤモンドを使ってるんです。とても華やかに見せてくれるので、大人気のデザインですよ」

 確かに胸元できらめくペンダントは綺麗だが、詫びの品として贈るには豪華すぎる。
 鏡越しに秀明を見ると、彼の顔にはなんの感情も浮かんでいなかった。
 ところが香純と目が合うと、彼は取りつくろうように苦笑する。
 その表情の変化が気になり香純は秀明をうかがうが、彼は気にも留めずに店員に「揃いのリングとピアスを出してくれ」と伝えた。そして再び香純を見やる。

「どう思う? それ、香純によく似合ってるけど」

 わたしに似合う? どうしてわたしに似合う必要が? ――と考えながら、香純は秀明の手からペンダントを受け取った。

「一緒にアクセサリーを選んでくれる香純にも、礼をしようと思ってね。どう? 気に入ったか?」
「これをわたしに? いいえ、とても素敵だけどいらない。それに――」

 手元にあるペンダントに視線を落として、値札を見る。そこには、香純の給料三ヶ月分近くもする値段が表記されていた。香純は目を見開き、さっと振り返る。

「高い!」

 驚きのあまり思わず声が大きくなるが、すぐに秀明に顔を寄せる。

「ねえ、きちんと値札を見た? もしわたしが強請ねだったらどうするつもりなの? あのね、秀明さんはわたしにお礼をする必要はない。なんのためにわたしがいつわりの婚約者を演じることになったのか、その理由を思い出してください」
「香純の気持ちもわかるけどね。ただこれは俺のやり方だから、ついてきてくれないと」

 秀明はそう言って、ジュエリートレーにあるリングを取り、香純の指にはめた。
 驚く香純を尻目に、彼は香純の指で輝くダイヤモンドのリングを見つめる。そして、何も言えずにいる香純の指からリングを抜き取ると再び戻す、という動作を数回繰り返した。
 秀明が何を望んでいるのか、どうしたいのか、さっぱりわからない。
 香純は店員たちの目を意識しつつ、秀明の手を握った。

「向こうの方も見たいの。一緒に来て」

 香純は秀明をショーケースの前から連れ出し、もう少し安価なものはないかと探し始めた。

「秀明さんは、どういうものを贈ろうと考えているの?」
「うーん、香純はどういうものを贈ればいいと思う?」

 そもそも別れた恋人に贈り物をすること自体、香純には理解できない。そのため、何を選べばいいのか、想像もつかない。けれど香純はあえてそれを言わずに、別口から説明し始めた。
 アクセサリーをプレゼントするのは、独占欲の表れであるとも思われること、リングとペンダントとブレスレットは束縛を、ピアスは自分の存在を身近に感じてほしいという意味に取れると伝える。

「詩織さんをまだ……想っていると伝えたいのならいいけど、もしそうでないのなら、よりを戻したいって勘違いされるかも。だから、秀明さんは詩織さんとどうなりたいのかを考えて、その気持ちに合う品を贈ったらどうかな?」
「前にも言ったけど、俺は詩織さんとどうこうなるつもりはない。気を持たせる真似まねはしたくない。だが、こちらからびを入れる必要があるのも事実なんだ。それらを考慮した上で贈るとすれば、何を選べばいい?」

 もしかして秀明がこだわっているのはアクセサリーではなく、このブランドなのだろうか。
 香純は店内を見回し、秀明を奥にある棚へと誘う。
 そこには、名刺入れや定期入れ、ライター、おはし、香水などの雑貨が並んでいた。
 ダイヤモンドやルビーなどをあしらっているためどれも高価だが、これらなら相手に誤解を与えることはない。

「置き時計や、鏡はどう? 時計は同じ時間を一緒に過ごそうって意味にも取れるけど、貴女には貴女の時間を過ごしてほしいって意味にもなる。鏡は割れるので、二人の仲は終わったって解釈ができるけど、貴女の行く道に光が射しますようにって願いもあるし」
「なるほどね……。品によっていろいろな意味があるのか。香純はどうして詳しいんだ?」
「図書館には、そういう本もあるの。もちろん、それらが全て正しい解釈とは言えないけれど。ちょうど気落ちしていた時に目に入って、読み込んでしまったことがあって……」

 秀明が香純の心を探るような目を向けてくる。
 香純は肩をすくめると、彼のそばを離れた。あとは秀明が考えて決めるべきだ。
 秀明が腕を組んで悩む姿を横目で確認して、再びショーケースに目をやる。
 高級ブランド店に入る機会などないので、香純はこの時とばかりに綺麗なアクセサリーを目に焼き付けた。そして、再び最初にペンダントを見せてもらったショーケースの前でたたずむ。

「やっぱり素敵ね……」
「先ほどのペンダント、お似合いでしたよ。……そうですね、こちらなどいかがですか? お連れさまは、こういうのもお好きなのかなと思いましたが」

 香純に勧めながらも、店員が秀明をうっとりと見つめる。つられて、香純も彼の精悍せいかんな横顔に目をやった。
 店員が秀明に目を奪われるのもわかる。彼は本当に恰好いい。それに、彼の所作はスマートで、こういう店でも物怖ものおじしない振る舞いができる。
 秀明はいろいろな経験を積んだ大人の男なんだと、改めて意識させられた。
 そんな秀明が、店員を呼び寄せて何かを話し始める。詩織に贈る品を決めたのだろう。

「そうね……。でも、彼が喜ばせたい相手はわたしじゃない」
「はい?」

 店員の問いかけに、香純は彼女に向き直って作り笑いを浮かべた。

「彼の好みも大切ですけど、一番重要なのは、わたしに似合うかどうかということ。だから、彼がわたしを想って選んでくれる日が訪れればいいな。値段なんて関係なく――」

 そう言った瞬間、いきなり肩を抱かれた。からだがビクッとなるが、香純を抱く力強い腕と鼻腔びこうをくすぐる香水の匂いで、相手を悟る。

「秀明さん」

 香純がゆるやかに力を抜いて振り仰ぐと、秀明は嬉しそうにしていた。その笑みは、香純がこれまで目にしたものとは全然違い、心からの感情が出ていた。
 驚きつつも、香純は彼から目が逸らせなくなる。彼の熱を帯びた眼差しにとらわれて、心臓が早鐘を打ち始めた。しかもそれが嫌ではない。それどころか、自然とからだが傾いていくのを止められなくなる。
 すると、秀明が思わせぶりに香純の唇へと視線を落とし、肩に置いた手をすべらせて腰に触れた。
 秀明の手つきに、香純の下腹部の奥がきゅっと締まる。

「香純のお陰で無事に選べたよ。ありがとう」
「い、いいえ……」

 どもる香純に、秀明がさらに破顔した。彼は瞳に柔らかい光を宿し、まるで香純を本物の恋人であるかのように見つめている。
 こんなことは初めてだった。
 確かにこれまでの秀明は、香純しか目に入らないと言いたげに笑いかけたり、付き合っていると周りに示すように触れてきたりしていた。
 でもそれらは、全部演技。親しげにしてきても、どの行動にも礼儀正しさを残し、本心を隠しているのが伝わってきた。
 けれど今の秀明は、これまでの彼と全然違う。素直な気持ちが、香純にどんどん流れ込んでくる。
 それは香純の体内でうずを巻き、喜びとなってからだじゅうを駆け巡っていった。甘く誘うような吐息さえも、熱を持ち始める。
 その時、香純のからだに電流に似た衝撃が走った。
 これまで自分の胸の内がわからなかったが、ようやくはっきりした。香純は、自分を必要とする秀明にいつの間にか心を許し、本物の恋人っぽく接してくる彼に恋に落ちていたのだ。
 元カレと別れて以降、香純の頭の中は借金を返すことでいっぱいになっていて、異性に特別な感情を抱く余裕などなかった。
 なのに、秀明の存在はするりと胸の中に入っていたなんて……

「お待たせいたしました」

 店員の声が響き、甘い空気は破られた。

「お見送りいたします」

 彼女の言葉に頷いた秀明が、香純をうながす。外に出ると、店員が彼に紙袋を差し出した。

「また寄らせてもらうよ」
「はい、お待ちしております。どうもありがとうございました」
「行くよ」

 秀明が香純の背に手を置き、最寄り駅へ向かう歩道を進む。
 香純に合わせてくれる歩調から、秀明の優しさが伝わってくる。
 しばらく二人の間に会話はなかったが、苦ではなかった。
 ただ、秀明への想いを自覚したせいで、彼の手が腰へとすべると、そちらに意識が向いて仕方がなかった。さらに、彼の指に心持ち力が入るだけで頬が上気する。
 ああ、火照ほてったからだを冷やしたい――そう願った時、頭上から水滴が落ちて香純の頬を濡らした。

「うん?」

 頬をぬぐいながら上を向くと、大きな雨粒がぽつぽつと降り始めた。

「雨だ。香純、走って!」

 秀明が香純の手を取って走り出すが、雨脚はどんどん強くなる。歩道を歩く人たちも、大急ぎで駅に向かい始める。
 濡れながら走っていた香純は、秀明が幸せを集めたような笑顔をしていることに気付いた。
 これまでの大人な彼とはまた違う一面に、自然と香純も笑みがこぼれる。
 その時、秀明が手にした紙袋が濡れ始めているのが見え、香純は慌てて彼の手を引っ張った。

「香純? どうした? ……っ!」

 振り返った秀明が一瞬驚いた反応をしたが、香純はとにかくと、彼をバス停の屋根の下へ引っ張った。

「詩織さんのためにせっかく買ったのに、濡れちゃう!」

 香純はバッグからハンカチを取り出して、秀明が待つ紙袋に手を伸ばした。けれどぬぐう前に、彼に手首を掴まれた。

「自分のことより、こっちの方が大切か?」
「これは詩織さんへのおびの品でしょう? 濡らしてはいけない。それに、秀明さんがこれを贈る責任の一端はわたしにもあるし」
「君って人は……」

 秀明が香純に紙袋を押し付ける。咄嗟とっさにそれを掴むと、秀明はスーツの上着を脱ぎ、香純の肩に掛けた。

「わたしは大丈夫。秀明さんが風邪をひいて――」

 上着を返そうとする香純を押しとどめ、秀明が耳元に唇を寄せた。

「ブラウスが濡れて……透けてる」

 香純はからだが熱くなるのを感じながら、秀明の上着を掴んで前を掻き合わせた。

「あの……見えました?」
「……まあ、ほどほどに」

 秀明は言葉をにごしつつも、正直に答える。だからといって、そこにいやらしい感じはない。それどころか香純を見る目は温かかった。

「貸してくれてありがとう」

 香純は秀明の上着をきつく掴み、軽く頭を下げる。上着から彼が愛用している香水がただよい、その香りに包み込まれた。
 まるで両腕で優しく抱きしめられているような錯覚におちいり、冷えたからだに一気に血が巡る。

「別に構わない。たとえいつわりであっても、婚約者のこんな姿を人の目に触れさせて平気でいられるほど、心は広くないんでね」
「秀明さんって、意外と独占欲が強いのね」
「それも俺の婚約者として、知っておかないと。重要な要素の一つだよ」

 からだの反応を隠すため、あえて明るい口調で言った香純に、秀明が流し目を送りながら、濡れた髪を手で掻き上げた。
 途端、香純の目は彼の上半身に釘付けになる。
 雨に濡れたシャツが肌に張りつき、彼の引き締まった肉体を浮き彫りにしていた。
 ただよう男の色気にあてられ、香純の口腔こうこうが乾いてどうしようもなくなる。その時、秀明が急に目をいた。

「危ない!」

 秀明が香純の肩に腕を回し、強く引く。その直後、香純の背後を自転車が走り抜けた。
 秀明が助けてくれなければ……
 恐怖を覚えて秀明に身を寄せると、香純を抱く彼の腕に、さらに力が入った。

「雨の中、あんなにスピードを出して。しかも歩道を走るとは。……大丈夫か」


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