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しおりを挟む第一章
十月に入り、茹だるような暑さが和らいできた。
夜になるにつれ気温も下がり、温められた空気を押しのけるかの如く、冷たい風が吹く。まだ寝苦しい夜もあるが、先月に比べれば過ごしやすくなった。
それもあってか、キャバクラ〝Avehasard~アブハザード~〟も盛況で、全てのテーブルが埋まっている。
昼間はIT企業の総務部で、夜はキャバクラの新人キャバ嬢として働く二十四歳の須崎友梨は、華やかでありながらも嫉妬が渦巻く世界を見回した。
先月から働き始めているが、未だにこの雰囲気に慣れない。というのも、実は不特定多数の男性を喜ばせるのが大の苦手だからだ。
元々、友梨は常に自分が正しいと思う行動を取ってしまう性格だった。
良く言えば積極的、悪く言えば無鉄砲……
昔からその性格は治らず、両親には〝動く前に、一度立ち止まって考えなさい〟と言われていた。
とはいえ、気質なんてすぐに変わるものではない。両親はそれをわかっているからこそ、友梨が親元を離れた今でも、会えば毎回注意していた。
そういう性格の自分に、キャバ嬢が務まるはずがない。でも、ここで働かざるを得ない事情があった。友梨の気性が災いし、不運にも〝慶済会〟という組に属するヤクザの高級車を傷つけてしまったためだ。
そのせいで多額の借金を抱え、現在は返済に追われる日々を送っている。
「はあ……」
友梨は自分の置かれた立場を再認識するため、着飾った姿に目をやった。
Dカップの乳房を中央に寄せて深い谷間を作る淡いエメラルドグリーンのミニドレスは、なんて淫らなんだろう。しかも客に見惚れてもらえるよう、豪奢なアクセサリーを身に着け、きつく巻いた長い髪を背中に下ろしている。
普段の自分と全然違う姿に、友梨はため息を吐かずにいられなかった。
「ユリちゃん?」
その声にハッとすると同時に、隣に座る四十代の男性客が友梨の手を握ってきた。
現在、友梨はユリという源氏名で働き、ナンバーツーのマナミのヘルプを務めている。彼女が指名を受けて下がっている間、客を飽きさせないための繋ぎ役だというのに、すっかり意識を飛ばしてしまった。
「また君に会えて嬉しいよ。もう僕を覚えてくれた?」
「もちろんです。マナミさんのヘルプとして入るわたしを受け入れてくれてるんですもの」
友梨は笑みを浮かべて謝るも、心が追いつかないせいで頬が引き攣ってしまう。
「すみません、すぐにお代わりを作りますね」
前屈みになり、テーブルのグラスを取る。
顔を隠すことに成功した友梨は、空のグラスに氷を入れ、ウイスキーのボトルを掴む。しかし、男性客が友梨の手首に触れて躯を寄せてきた。
「ユリちゃんのためなら、ドンペリを入れてもいい。そうしたら、僕とアフターに行ってくれる?」
唐突な男性のお願いに、友梨は困惑して目を泳がせた。
新人キャバ嬢はあくまでヘルプという立場。その域を逸脱してはならないと、研修で口酸っぱく言われた。キャバ嬢たちの関係を円滑にするための決まりだ。
もし一つでも違反すれば、ペナルティが発生する。借金が増えるのも痛いが、それ以上に危険が及ぶ行為だけは避けたかった。
ここで失態を犯せば、多額の借金を返すアテがなくなってしまう。そうなれば、さらに危険な仕事にシフトチェンジさせられるかもしれない。
キャバ嬢の誰も〝ヤクザ〟や〝慶済会〟という言葉を口にしないが、ヤクザがここを紹介した以上、絶対になんらかの繋がりがある。
早々にヤクザとの関係を断ち切るためにも、我慢しなければ……
友梨は奥歯を噛んで感情を押し殺したあと、男性客に不快な思いをさせないように口元を緩めた。
「わたしへのご好意、ありがとうございます。でも、お気持ちはマナミさんへ。さあ、どうぞ」
マドラーで中身を軽く掻き混ぜたあと、グラスを差し出す。しかし男性客は、友梨の手の上からグラスを掴み、耳元に顔を寄せた。
「マナミちゃんにはわからないようにするから、仕事が終わったら僕と付き合ってよ。いろいろと弾んであげる……」
男性客が囁き、友梨の首筋にふっと息を吹きかけた。
あまりの気持ち悪さに顔を歪め、咄嗟に男性客の手を退けた。
「あのですね――」
つい感情のまま文句を言おうと口を開きかけた時、マナミがちょうどこちらに歩いてくる姿が目の端に入った。
友梨は慌てて居住まいを正し、表情を取り繕う。
「待たせてしまってごめんなさい。ユリはきちんとお相手をしてくれたかしら?」
艶やかな笑みを顔に貼り付けたマナミが、優美な所作でソファに座る。
「マナミちゃんがいなくて寂しかったけど、ユリちゃんがその時間を埋めてくれたよ」
「それなら良かった。ユリ……」
マナミが、男性客から友梨に視線を送る。席を外していい合図だ。
友梨は笑顔で挨拶してテーブルをあとにし、そそくさと奥の休憩室に行こうとする。でも、その途中でキャバクラの雑務をこなす黒服の滝田が、友梨の行く手を遮った。
黒服は、店内で問題が起きないよう周囲に目を配っている。仕事なので文句などないが、何故か滝田は友梨がキャバクラで働き出してから、ずっと監視の目を向けていた。
特に何かをするわけではないが、それでも他のキャバ嬢に対する態度とは明らかに全然違う。
滝田はヤクザの命令を受け、友梨がきちんと働いているかを見張っているのかもしれない。
「ユリさん、先ほどの素振りはいかがなものかと。ヘルプとしての心構えがまだ身についていませんよ」
「すみません。以後……気を付けます」
素直に謝っても、滝田はまだ不満げに見つめてくる。もやもやしたものが胸の奥に広がるものの、友梨は黒服に黙礼し、キャバ嬢が集う休憩室へ入った。
その後、黒服に呼び出されてはお客のもとへ戻るという行動を繰り返し、そうして数時間経った頃、ようやく仕事が終わった。
「疲れた……」
日中は会社で働き、夜はキャバクラでお酒を飲んではお客の相手をしていれば、そうなるのも当然だ。しかも徐々に疲れが蓄積され、会社でもミスをしてしまう始末。
大事になる前に注意を受けるので今は大丈夫だが、このままでは集中力が落ちて大きな失敗をするのは火を見るより明らかだ。
上司に副業の事実を知られてしまう前に、なんとかしないと……
いろいろと考えながら派手な化粧を落とし終えた時、休憩室にいるのは、送迎車を自由に使えるナンバーワンからナンバーファイブのキャバ嬢だけになっていた。
友梨も急いで出なければと、先輩たちに頭を下げる。
「お先に失礼します」
「一緒に乗っていく?」
ヘルプについて以来、毎回友梨を気遣ってくれるマナミが声をかけてくれた。
しかし、この日も自分の立場をわきまえて、丁寧に「タクシーで帰ります」と返事をし、店内を掃除する黒服たちにも声をかけて外へ出た。
涼しい風が優しく頬を撫でていく。
「ああ、気持ちいい……」
友梨は瞼を閉じて心地よい風に身を委ねていたが、しばらくして小さく嘆息した。
「帰ろう」
独り言を呟き、タクシー乗り場へ歩き出そうとした途端、足をぴたりと止める。縁石に腰掛けていた人物がすくっと立ち上がり、不意にこちらに歩いてきたためだ。
街灯の灯りを受け、真っ黒だった人影が姿を現す。その男性が誰だかわかると、友梨は目を見開いた。
先ほどマナミのヘルプで入った際に相手をした、あの男性客だ。
「待ってたよ……」
友梨はさっと背後を振り返り、マナミがいるかどうかを確認する。しかし彼女はいない。そう、いるはずがない。今夜、彼女はアフターを入れておらず、真っすぐ帰宅すると知っているからだ。
「ユリちゃん」
「あの、どうして――」
友梨は戸惑いを隠せず、あたふたする。そうしている間に男性が傍に近寄り、友梨の手を取った。
あまりにも不作法な態度に、友梨は目を見開く。
「アフターの約束を入れてないから……いいよね? もし店に知られても、偶然会ったと言えば大丈夫。マナミちゃんには一切迷惑はかからないよ」
男性は友梨の手首の内側を軽く擦り、舌舐めずりした。
その気持ち悪さに反射的に手を引くも、友梨は感情が顔に出ないよう必死に取り繕う。
相手はマナミの常連客。彼女に迷惑をかける真似だけは絶対にしたくない。
友梨は小さく深く息を吸ったあと、誠意を込めて男性を見上げた。
「ごめんなさい。わたしは新人なので、まだアフターは――」
「うん、だから……さ、他の客より先に手を付けたいっていうか」
男性の言い方に、怒りが湧くよりも唖然となる。
キャバ嬢をなんと思っているのか。もちろん上昇志向のキャバ嬢もいるので、こっそり先輩の客を奪おうとする人たちがいるのは知っている。
でも友梨は違う。キャバ嬢としてナンバーワンになりたいわけではない!
「本当にごめんなさい。どうか、アフターはマナミさんを……っ!」
相手を逆撫でしないように優しく言って終わりにしたかったのに、男性が友梨の腕をきつく掴んできた。友梨は、彼に抗議の目を向ける。
「何をなさるんですか?」
「ユリちゃん、僕を拒まないでよ。マナミちゃんのヘルプが終われば、客の奪い合いが始まる。今……僕と付き合ってくれたら、絶対ユリちゃんに貢ぐから……ね?」
男性が無理やり友梨を引っ張る。彼の乱暴な態度にとうとう我慢できなくなり、友梨は腕を引いた。でも、彼が強く掴んでいるので振りほどけない。
「離していただけませんか」
「どうしてそんな言い方を? さあ、僕と一緒に来るんだ!」
男性はハザードランプを点灯させた車の方へ、友梨を引きずって行こうとする。
「ちょっ、離してって言ってるでしょう! ……警察を呼びますよ!」
男性の傲慢な態度に腹が立ち、友梨が悲鳴に近い声で叫んだ。
「何を騒いでいるんだ」
唐突に、威圧感のある声音が路地に響き渡り、友梨は心臓を鷲掴みにされたような痛みを覚えた。その衝撃に驚きながらも、声が聞こえてきた方向にさっと目を向ける。
そこには二人の男性が立っていた。背の高い男性は友梨たちを凝視し、もう一人の男性は彼の背後に控えている。
印象的な前者の男性は、ショートの髪に緩やかなパーマをかけ、茶系のサングラスをかけている。容貌や外見からどういう人物なのか感じ取れないが、引き締まった体躯、深夜だというのに疲れなど滲み出ていない出で立ちから、安易に想像できた。
周囲の者をいとも簡単に屈服させられる男性だということを……
また、見事な仕立てのスリーピースのダークスーツ、高価そうな腕時計、そして男性の部下を従えていることから、とても地位のある人だと見て取れた。
多分、友梨の考えは正しいだろう。でも、この人はいったい?
友梨がこちらを見据える男性の前で様子を窺っていると、彼が不意に唇の端を上げ、かすかに顔を横に動かした。
「猛、この女性と面識は?」
「ありません」
「だったら男女間のことに口を挟まないでおこう……と言いたいところだが、うちの店の前で騒がれては見て見ぬ振りなどできない」
うちの店の前って〝Avehasard〟を指してる? つまり、この人は慶済会に属するヤクザ⁉
「まさか〝Avehasard〟?」
友梨と同じ考えに至った男性客が囁くと、サングラスをかけた男性が即座に反応した。
「うちの顧客か?」
「あっ、いや、僕は……。ユ、ユリちゃん、また今度遊びに来るよ!」
友梨にちょっかいをかけていた男性客はあたふたして走り出す。途中でよろけて躓いたり、転んだりしても振り返らず、その場を逃げていった。
友梨は男性二人の傍に取り残されて、居心地が悪くなる反面、感謝もしていた。結果的に助けられたからだ。
でも、この男性と関わったせいで、今回の件が借金をしたヤクザに露見するかもしれない。彼に〝騒ぎを起こして面子を潰すな〟と言われていたのに、それが伝わってしまったらどうしよう。
ここは挨拶だけして、さっさと帰るに限る。
友梨は心の中で頷いたあと、サングラスをかけた男性に深く頭を下げた。
「助けてくださってありがとうございました。あの、失礼します」
そう言って、男性の返事を聞く前に素早く身を翻す。
しかし友梨が足を一歩踏み出そうとしたところで、男性に「待て」と鋭い口調で止められた。
有無を言わせない空気に友梨の躯がビクンと跳ね上がり、身動きできなくなる。
上司に叱責されてもここまでの恐怖を覚えたことがないのに、どうして初対面の男性にこんな反応を示してしまうのだろうか。
「今の男と何があったか、話を聞かせてもらおうか。……猛、事務所に連れて来い」
「はい」
友梨が振り返ると、部下と思しき人に命令を下した男性は堂々とした足取りで〝Avehasard〟のドアを開けて中に入った。
「面識はありませんが、あなたは〝Avehasard〟の従業員ですよね?」
猛と呼ばれた男性は、丁寧な言葉遣いながらも友梨の退路を塞いで威圧してくる。
先に店へ入った男性より、全体的に雰囲気が柔らかいものの、目の前の人もまた相手をやり込める行為に慣れている感じだった。
ここは絶対に抗わない方がいい。
「……はい」
「では、来てください」
素直に応じる旨を伝えたのに、男性は友梨の腕を掴み、店内へ引っ張っていく。
友梨と男性を見るなり、掃除中の黒服たちがぎょっとするが、瞬く間に態度を改めて頭を下げた。
「東雲さん、おはようございます」
黒服たちは、口々に挨拶し始める。
東雲と呼ばれた男性は何も言わず、表情を消したまま前だけを向いていた。
彼らの振る舞いから、東雲は黒服たちよりも上の地位にいるのが見て取れた。その彼は、先に入った男性の命令に従っている。
つまり、先に入った背の高い男性はもっと上の地位? もしかして、あのヤクザとは……友人とか?
これからいったいどうなるのだろうかと不安を抱いていると、滝田が休憩室から出てきた。友梨を見て「あっ!」と声を上げるも、慌てて手で口を覆う。
「なんだ?」
「い、いえ、何も……。も、申し訳ありません!」
滝田がすぐに謝り、深々と頭を下げる。
東雲はそれに返事もせず、友梨を連れて奥の廊下へ続く通路へ進む。その先にあるのは、従業員の立ち入りが禁止されている事務所しかない。
友梨が東雲を窺うと、彼は問題のドアの前で立ち止まりノックした。
「東雲です」
「入れ」
室内から聞こえた言葉を受け、東雲が友梨の背を押して前へ進めと促す。
友梨は初めて広々した事務所に足を踏み入れた。
音を掻き消すふかふかな絨毯、大きな応接セット、彫り細工が見事なアンティークデスク、そして書類が詰まった書棚は、いずれも会社の上司の執務室より豪華だ。
友梨は驚きながらもデスクへと近寄り、そこに座る男性を探る。部下に命令した直後、先に店内に消えた人だ。
「須崎友梨、二十四歳。会社員か……。成長著しい企業に勤めてるんだな」
男性はサングラスをかけたままファイルを見ていたが、尊大な態度で椅子の背に凭れた。友梨を品定めするように、全身に視線を這わせていく。
友梨はスカートの脇で握り拳を作り、男性の鋭敏な眼差しに耐える。すると、彼がふっと口元を緩めてサングラスを外し、素顔を晒した。
その容貌に、友梨は息が詰まりそうになる。
男性に対して抱いた第一印象は、まったく変わらない。周囲の者を屈服させられるほどの覇気の持ち主だというのは、もうわかっている。
でも、まさか頬を緩めるだけで男の色気を醸し出せる人だなんて……
「滝田の紹介で?」
「……えっ?」
思わず声が裏返る友梨に、男性が片眉を上げ、これ見よがしにファイルを指で叩いた。
「黒服の滝田の紹介で入ったと明記されている」
友梨は眉間に皺を寄せて、小首を傾げた。
滝田の紹介? そんなはずない。確かに彼は友梨を監視しているようだが、紹介とは無関係だ。
「滝田さんの紹介ではありません」
「では、誰だ?」
途端、友梨は男性の獲物を狙うような野性的な瞳で射貫かれる。戸惑いつつも、おずおずと口を開いた。
「三和さんです……」
「三和?」
「そのような者はいません」
背後にいる東雲が、すかさず答えた。
「確かに働いていないけど、わたしは三和さんからここで働けって言われて……」
友梨はたまらず東雲に告げた。
三和は慶済会のヤクザで、友梨が多額の借金を背負うことになった相手でもある。彼に返済するため、この店を紹介された。
そこに偽りはない。本当だと信じてもらえるように、友梨は男性にも感情で訴える。
「知らないはずありません。だって、ここは慶済会と繋がりがあるんでしょう? そうでなければ、慶済会の三和さんに〝Avehasard〟で働けって言われるはずが――」
瞬間、男性が急に顔つきを険しくさせ、椅子を蹴って立ち上がった。
「慶済会、だと⁉ ……猛!」
「すぐに調べます」
友梨は急いで出ていく東雲の姿を目で追うも、椅子の軋む音が耳に入りそちらに顔を戻した。男性は椅子に座り直し、冷たい目で友梨をじっと見つめている。
その威圧感に尻込みしてしまいそうになるが、ここで怯んでは自分の意思が相手に伝わらない。きちんと口にしなければ、この職を失ってしまう。
友梨は数歩前に進み、男性に「嘘じゃありません!」と強く言い放った。
「だって、わたしはお金を貯めるためにここを紹介されたんです。彼に作った借金を返済するために。三和さんが慶済会と繋がりがあるお店で働けと言うのは普通でしょう⁉」
「まず、言わせてもらおう。この店は慶済会とは一切無関係だ。慶済会と敵対関係にある、真洞会と繋がりがある」
「真洞会? ……またヤクザなのね」
友梨は皮肉を込めて言うと、男性から顔を背けた。
もう何がなんだかわからない。慶済会? 真洞会? そんなの、知ったことではない。ただお金を返済し、もとの暮らしに戻りたいだけだ。なのに、どうしてこう次から次へと先の見えない道へ引っ張られるのだろうか。
瞼を閉じた拍子に、母から〝すぐに行動するんじゃなくて、一歩立ち止まって考えなさいって何度も言ってるでしょう?〟としつこく言われてきた日々が頭を過る。
そう、こうなったのは全て自分のせいなのだ。
「ここを経営している俺は、ヤクザじゃない」
「ヤクザじゃない? ……でもさっき、真洞会と繋がりがあるって」
「真洞会系のフロント企業だからだ」
フロント企業――それは、暴力団を背景にして活動を行う企業や経営者を指す。確かにヤクザとは言えないかもしれないが、公安にマークされる社会的にグレーな会社であることに間違いはない。
友梨が大きくため息を吐いた時、男性が頬を緩めた。またもあの女性を惹き付ける笑みに、吸い寄せられる。
「自分が働かされている店がどこと関係があるのか知らないとは……。ここのオーナーの名前すら知らないのかな?」
男性が目だけを動かし、友梨の心を搦め捕る眼差しを向ける。友梨はどぎまぎしつつも、負けじと顎を上げた。
「知る必要もありませんでした。バイト代を借金の返済に回す、それだけ――」
「久蓮コーポレーションの社長、久世蓮司だ。ここは俺が経営している店の一つに過ぎない。店長に任せっきりで顔を出さなかったが、それを逆手に取られたか……」
久世と名乗った男性は、不意に何かを考えるように空の一点を見据える。
その時、ドアをノックする音が響いた。
「入れ」
久世の返事で、東雲が滝田を伴って入室した。久世はそちらに顔を向けない。東雲は真っすぐ久世を見ているが、滝田は伏し目がちにそこに立つ。
何が起きようとしているのかわからない異様な雰囲気に、友梨がそわそわしていると、久世が片手を上げた。
「オーナー!」
滝田が切羽詰まった声を発し、その場で膝を折る。
「そこに私の名前が記載されているのは、最初にユリさんに声をかけられたのが私だからです! 私が〝ここで働くつもりなのか?〟と訊ねたら、彼女は〝そうだ〟と。それで、私は彼女を店長のところに連れて行った。そういう理由で私が紹介者となっているだけです!」
「本当か?」
初めて久世が顔を動かし、友梨に焦点を合わせる。
嘘を言ったらどうなるかわかってるな? ――そう言いたげな冷たい双眸にドキッとなるも、誤魔化すように彼から目を逸らした。
半月前のあの日、友梨は三和にここへ連れて来られた。でも彼は車を降りず、ただ〝Avehasardへ行け〟と言った。それに応じて、店の正面を掃除していた滝田に声をかけた。彼が言ったとおり、どこも間違ってはいない。
「はい。滝田さんの言葉に偽りはありません」
久世は友梨を見つめたまま、ほんの少しだけ手を動かす。指示を受けた東雲が「失礼します」と言って、滝田と一緒に部屋を出ていった。
二人きりになり、室内がシーンと静まり返る。聞こえるのは、空調の音だけだ。久世の息遣いさえ聞こえないせいか、より一層緊張を強いられる。
友梨の心臓が早鐘を打っているため、余計にそう感じるのかもしれない。
「慶済会の三和、と言ったか?」
友梨はハッとし、いつの間にか伏せていた目を上げた。今もなお友梨を見つめ続ける久世に、軽く頷く。
「彼と出会った経緯を聞かせてもらおうか。どういう理由で借金を背負わされ、ここに来たのかも」
久世がどういう性格の持ち主か知らない以上、今は素直に従った方が身のためだろう。
それに話したところで、友梨に害が及ぶわけではない。三和との出来事を誰にも話すなと、彼に釘を刺されていないのだから……
友梨は息を吐きながら肩に入った力を抜くと、あの日を思い出すかのように事務所にあるカレンダーを眺めた。
***
――約半月前。
社内は空調が効いているのでそれほどでもないが、一歩外に出れば、じわじわと汗が滲み出てくる。
茹だるような暑さから解放されたくて、友梨は同期の岸田笙子を誘い、仕事終わりにシティホテルのビヤガーデンにやって来た。
金曜日ということもあり、緑に囲まれたプールサイドに設けられたテーブルも満席だ。
若いOLから男女のグループから、年配の社会人まで、皆楽しそうにビールをごくごく飲んでいる。
友梨たちも同じで、英国産ホップを使用したビールとシェフが目の前で作ってくれる多国籍料理を堪能していた。
特にアルコールが大好きというわけではないが、今夜は本当にビールが美味しい。
「来て良かったよね」
「うん、友梨が誘ってくれて良かった。今日は、もう本当に嫌なことが多くて。聞いてよ! 営業部主任の沢木さんがさ――」
小顔に合わせてショートボブにした岸田が、報告書作成を頼まれた際の文句を言い連ねる。
友梨はその話を聞き、思わず失笑した。
何故なら、沢木はなんとかして岸田の気を引こうとしているからだ。
それは、総務部の女性のみならず岸田も察していたが、好意の示し方が難ありのため、彼女は彼が嫌いだった。
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