Promise~誘惑のゆくえ

綾瀬麻結

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1巻

1-2

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   ◆◇◆


 ――六月


「それでは〝水嶋〟の方にいってきます」

 亜弥は受付主任にそう告げると、バイトで働いている病院を出た。
 輝く日差しをさえぎるように、目の上に手をかざす。すると、左手の薬指にめられた精巧なダイヤの指輪に、日差しがキラリと反射した。
 ――〝水嶋〟か。
 そもそも高原との出会いも、水嶋グループ大阪支社内だった。亜弥は、大阪支社の医務室に、週に三日の割合で、昼の三時から五時まで出勤していた。そこで、同じく病院から派遣されている、医務室勤務の渡辺わたなべみやこ女史からカルテを受け取り、少しずつ整理していくのだった。
 ある日、高原が医務室へ入ってきた。
 亜弥が、病院の事務長からこの医務室へと任じられた、三日後のことだった。


「都、俺風邪ひいたみたい」

 奥でカルテの整理をしている亜弥の耳に、男性の声が聞こえてきた。

「如月さん、こっちに来て」

 そう呼ばれて、亜弥は奥の部屋から顔を覗かせた。

「どうかしました?」

 亜弥が現れるなり、男性は驚いたようにビクッと躯を震わせ、脱ごうとしていた背広を途中で止めて、こちらを振り返った。

「あっ、ごめんさない」

 ビックリする亜弥を見た渡辺女史は、すぐに大声で笑った。

「いいの、いいの。わたしが呼んだんだし。高原秀明のカルテを持ってきてくれない?」
「はい」

 亜弥は奥に引っ込み、頼まれたカルテを取り出すと、渡辺女史に手渡した。チラリと視線を高原に移した時、見事彼と視線が合った。
 これが、二人の出会いだった。


 ビルへ入る前に〝水嶋〟の通行証を首にかけると、亜弥は、警備員の前を通って医務室へ向かった。
 医務室のある階でエレベーターが開いた時、隣のエレベーターのドアが閉じる音がした。
 また、渡辺女史のところに誰か来ていたらしい。用もないのに、皆居心地が良くて来るのだ。
 でも、亜弥には社員たちがそう思ってしまう気持ちもよくわかっていた。
 渡辺女史は、長いストレートの髪を一本のポニーテールに結び、いつもジーパンにブラウスというラフスタイルを決めていた。
 化粧もナチュラルで、女性という雰囲気を感じさせない。中間と言ったらいいのだろうか? 
 初めて会ったあの日、高原が渡辺女史のことを〝都〟と呼んだ時はドキッとしたが、それは彼に限らなかった。男性社員のほとんどが〝都〟と呼んでいたので、渡辺女史は皆から好かれているんだと、妙に納得したのだった。

「こんにちは」

 挨拶しながらドアを開けると、渡辺女史が顔を強ばらせながらも、素早くこちらを振り返った。

「如月……です、けど?」

 思わず、問いかけるようにささやいた。

「あっ、ごめん。ちょっと……化粧室に行ってくる」

 渡辺女史は、何故か亜弥を避けるようにして、慌てて医務室から出ていった。そんな風に取り乱した渡辺女史を見たのは初めてだったので、亜弥は息を呑むほど驚いた。
 渡辺女史の髪は少し乱れ、白衣の下にいつも着ているブラウスにはしわができていた。
 どうしたんだろう? 
 亜弥は不思議に思いながらも、バッグを奥のスペースに置くと、カルテ整理を始めたのだった。


   ◆◇◆


「うわぁ~、プロポーズされたん?」

 今も交流を続けている大学時代の友人のみどりは、亜弥の薬指に光るダイヤモンドを見つけると、もっと近くで見ようと亜弥の手を取った。

「で、亜弥を見事落とした男は誰?」

 薄暗い洒落しゃれたレストランで、亜弥は顔を曇らせた。

「落としたって……そんなんじゃないけど。不動産関連の営業マン」
「営業って、そんなにお金がないん?」

 碧が、指輪を指して問う。

「そんなの知らない」

 きっと、エンゲージリングにしては、あまりにも小粒なダイヤモンドだと思ったに違いない。碧のエンゲージリングは〇・七五カラットもあったから。
 でも、このリングのブランド名を知ったら、驚くに決まってる。敢えて言わないけれど。

「えっ!? 年収がいくらだ……とか知らないでプロポーズ受けたわけ? 亜弥、ダメやんか! 相手が、もし借金こさえてたらどうするつもりなん?」

 心配そうに言う碧に、亜弥は苦笑いを浮かべた。
 そういうことは、全く気にしていなかったからだ。これがもし本当に好きな人なら、いろいろ気にしたり、将来に向けて希望を持ったりするんだろうけど……亜弥にはそんな気すらおきなかった。
 それよりも、指輪が気になって仕方がなかった。まるで、亜弥を縛りつけてるような気がして、何とも言えない複雑な気分になるのだ。

「……亜弥の気持ちわかるけどさ、妥協したらあかん」
「碧は、とっても幸せな結婚をしてるから、そう言えるのよ」

 おちゃらけて、碧の腕を小突くようにして言うが、亜弥の内心はとても複雑だった。

(お願いだから、あたしを惑わすようなことは言わないで!)
「わかった。亜弥が決めたことなんやから、もう口は出さない。けど、相談ぐらいやったら聞いてあげられるんやから、何でも話してよね?」
「ありがと。……ちょっとごめん。化粧室に行ってくるね」

 席を立つことを謝ると、亜弥はこの話題から早く逃げたいとでもいうように、化粧室へと向かった。


 指輪を抜き取って手を洗うと、亜弥の口から思わず安堵のため息が漏れた。指輪を外したことで、気持ちが少し楽になったのだ。
 高原から指輪をもらって以来、それを外す時には毎回き物が取れたように、リラックスできるのだ。
 そう、指輪を外した瞬間に……
 鏡に映った自分を見ると、その表情は幸せ絶頂という感じではなかった。空ろな目に、悲しそうに下がった口角。生き生きとした表情は、そこにはなかった。
 本当にこれでいいの? 
 考えても仕方ないのに……と思いながら、亜弥はまぶたを閉じて、再びため息を吐き出した。
 友人のいるテーブルへ戻ろうと、指輪を手に取った瞬間、亜弥の躯が強ばった。指輪を填めた時に感じる妙な不安が、また襲ってきたのだ。
 碧と一緒にいる時は、楽しい時間を過ごしたい。ごめんなさい! 
 亜弥はその指輪をハンカチに包むと、バッグの中に入れた。そうしたことで、亜弥の顔に安堵の微笑みが浮かぶ。重石おもしが取れたことで、亜弥は少しばかり輝きを取り戻し始めた。


 化粧室のドアを開けた瞬間、いきなり股間に何か触れた。

「ひゃあ!」

 なんて大胆な痴漢なの! 
 亜弥は睨みつけて怒鳴ろうとさえした。しかし、振り向いても誰もいない。

「えっ?」

 だが、股間にはまだ触られている感触が残っている。視線をゆっくり下げてみると、小さな男の子が亜弥のだいたいに腕を絡ませて抱きついていたのだ。ジーンズだから、ちょうどアノ場所に触れる。

「えっと~、ボク?」

 痴漢と間違えた恥ずかしさから、亜弥の頬はほんのり染まった。間違ったことを気にしないようにしながら、必死に抱きついている男の子に優しくささやきかけた。
 すると、その子は驚いたようにビクッとし、すぐに腕を離した。亜弥を見上げるその表情は、とても不安そうに曇ってる。
 そっか、お母さんと間違えてしまったのね。
 亜弥はかがみ込むと、その男の子と同じ目線になって見つめた。

「お母さんを探してるの?」
「……うん」

 口の端がヘの字に曲がり、今にも泣きそうな気配だ。

「じゃあ、お姉ちゃんも一緒にお母さんを探してあげる」
「ほんと?」
「うん」

 にっこり微笑むと、男の子が無造作に亜弥の首に抱きついてきた。子供独特の甘い匂いが鼻腔をくすぐる。
 きっと淋しかったのだろう。
 子供ってなんて可愛いんだろう……、亜弥はそう思いながら、子供の背中をギュッと抱き締めた。

(あたしも、いつの日か子供を持つのかな? 高原さんとの子供を)

 そう考えたのは亜弥自身だというのに、思わずふさぎ込んでしまいそうになった。
 だが、今は塞ぎ込んでいる時ではない。目の前で、不安そうにしている、男の子のお母さんを探してあげなければ。

「ボクのお名前は?」

 男の子の肩に両手を置くと、視線を合わせながらゆっくり問いかけた。

「……こうた、みっつ」
「そう、こうたくんね。お姉ちゃんはね、」

 と言いかけた時、何やら強い視線を感じた亜弥は、おもむろに視線を上げた。
 思わず、驚きから口がかすかに開く。
 そこには、目の覚めるような威圧感のある……男性が立っていたのだ。しかも、彼も驚いたように目を見開き、亜弥を見つめている。


 時が、一瞬で止まったような感じを受けた。


 全てが、スローモーションのようにゆっくりと進んでいく。腕に触れてる男の子の存在さえ、頭にはなかった。
 ぴったりとしたTシャツは彼の胸板に張りつき、贅肉ぜいにくなどついていないことがはっきり見て取れる。亜弥好みのすっきりとした髪型をしているのもあって、一目で彼に好印象を抱いた。
 彼の視線がおもむろに下に向けられ、甘いものをもらって喜ぶ子供のように、口角が上がっていくのが亜弥からも見て取れた。
 なんて素敵な笑顔なの。初対面の男性に対して、こんなにも心が高鳴るなんて……
 亜弥は、自然とそう感じていた。

こう、ここにいたのか?」

 目の前の男性がそう言うと、腕の中にいた男の子が飛び跳ねるようにパッと振り向き、亜弥の腕から……その男性の方へ駆けていった。

「何してたんだ、ママが心配してるぞ?」

 彼はそう言いながら、男の子を楽々と抱き上げた。

「ママ、さがしてた」
「そっか」

 彼はそう言いながら、視線を亜弥に向けた。
 亜弥は、まだ呆然と彼を見つめていた。
 視線が再び重なった瞬間、心臓が飛び跳ねるほど激しく高鳴り、息が思うようにできなくなる。
 彼が、ゆっくり近寄ってきた。彼に見下ろされるだけで、何だか守ってもらってるような気さえする。
 バカ、彼は父親なのよ。パートナーのいる男性にときめいてどうするの? 
 それに、亜弥だって、高原という婚約者がいる。

「悪かったね。この子が君に迷惑をかけたのでなければいいんだが」

 彼は優しそうに微笑みながら、さらに近付いてくる。

「いえっ、そんな迷惑だなんて」

 と言いながら立ち上がるが、視線は何故か彼の左手の薬指を見ていた。そこに愛の証はなかった。視線を上げると、彼は探るように亜弥を見つめていた。

「君は……一人?」
「いえ」

 どうしてそんなことをくのだろう? それに、どうしてそんなに亜弥を見つめるのだろうか?
 不思議に思いながらも、亜弥も彼から視線を逸らすことができなかった。
 その時、ハイヒールが床を打つ、コツコツという音が耳に入った。

「康貴? どうかしたの?」

 軽やかな女性の声が、亜弥の耳にも届いた。
 その女性が登場したせいか、彼は苛立ったように一瞬天井をあおぐと、大きく息を吐き出してから、ゆっくり振り返った。

あか……」

 亜弥は、ズキッと胸が痛くなった。
 彼は亜弥のモノでも何でもない。ただの通りすがりの人。だけど、彼の字を息子に名付けて、美しい妻と共に幸せな生活を送っているのだとわかると、胸を叩かれたような痛みが走った。
 こんな幸せそうな家族を、見たくはなかった。亜弥には、全く望めそうもない光景だったから。

「康汰、見つかったのね。良かったわ」

 朱音と呼ばれた女性が、安心したようにホッと吐息をつく。
 逃げ出したい。ここから早く……彼の前から逃げ出したい。

「それじゃ」

 亜弥はか細い声でささやくと、康貴という彼の側を通り抜けて、逃げるように友人の元へ行こうとした。

「待って! 君」

 彼が、大きな声で亜弥を呼び止めた。
 亜弥は、ビクッとからだを震わせながら立ち止まると、ゆっくり振り返った。彼が何か言いたそうに、こちらを見る。

「康貴?」

 朱音と呼ばれた美しい女性が、引き締まった彼の腕にそっと手を乗せた。
 美男美女の夫婦に可愛い息子の絵図。亜弥の中に、絶望感が生まれた。

「……さようなら」

 亜弥は、その光景を振り切るように、碧の元へ向かった。

「亜弥? どうかした?」

 席に戻ると、今にも泣きそうな亜弥の表情に、碧が心配そうに問いかける。

「ううん……何でも、ない」

 目の奥がチクチクしてくるのを感じると、亜弥はまぶたを伏せて座った。

(何で……あたしはこんなにも絶望を感じてるの?)

 どうして、通りすがりと言ってもいい彼のことを思うと、こんなにも胸が痛むの? 
 彼らの幸せそうな夫婦姿が、うらやましかったから? それとも、その隣にいた女性に嫉妬を感じたからだろうか? 
 激しく心が揺さぶられるのを感じながらも、亜弥は何故か祈らずにはいられなかった。
 もう二度と……康貴と呼ばれていた彼とは、会いませんようにと。


   ◆◇◆


 その場に取り残された康貴は、苛立ちを覚えていた。
 康貴を避けるように去っていく……彼女の後ろ姿を、ただ見送ることしかできなかったからだ。
 目をつけた女性に逃げられたことは一度もなかっただけに、今回彼女ときっかけすら作れなかったことが、康貴には信じられなかった。

「康貴」

 再びそう呼ばれると、康貴は振り返って、久しぶりに東京から大阪へ来て、つまらない相談をしてきた、元恋人の朱音を睨みつけた。
 いつも、自分のことしか考えない女。自分中心でないと気がすまない女。
 数十分前に、食事をしながら朱音と無意味なやり取りをしたことを康貴は思い出していた。


   ***


「それで……いきなり大阪に来た理由は?」

 口をナプキンでぬぐうなり、鋭い眼光を放ちながら言ったのは、康貴だった。
 康貴は、目の前に座る大学時代の友人であり、セフレでもあった朱音を探るように見つめた。

「理由がなければ、来てはいけなかった?」

 誘うように上目遣いで康貴を見て、唇をとがらせるその仕草……、本能を揺さぶるような女の妖艶さに、酔いしれたのはもう昔のこと。
 康貴は脱力すると、そのまま座り心地の良い椅子の背にもたれた。

「いけない、とは言ってない。だが、俺を呼び出したりする必要があったのか?」

 化粧を濃くほどこしたその顔は、人妻には見えない。正しくは、朱音は人妻ではないが。
 視線を横に向け、小さな男の子を見る。康貴の名を一字受け継いだ……康汰を。

「相談にのって欲しかったの。もちろん、その相談料は……夜のお楽しみで一生懸命お返しするわ」

 白くて細い指が康貴の腕に触れ、〝夜のお楽しみ〟を暗示するように、爪で軽く愛撫する。

「朱音……」

 呆れたように、康貴は言葉を吐き出した。

「何? 今さら照れるようなことでもないでしょ? わたしをこんな女にしたのは、康貴、貴方なのよ」
「それを進んで受け入れたのは、朱音、お前の方だろ」

 康貴は、その愛撫から逃れるように、そっと彼女の手を振り払った。朱音は康貴のその反応に動じることもなく、ただ肩をすくめた。

「だって、康貴のモノになりたかったんだもの。だけど、康貴にとったら、女なんて皆同じなのよね」

 唇をとがらせると、朱音はワインを一口含んだ。

「俺たちは、割り切った関係だった。それは朱音も納得していただろ?」
「そうだけど……」

 康貴は腕を組むと、康汰を眺めた。

(もし……康汰が本当に俺の息子だったら、朱音を妻にしてただろうか?)

 決して一緒にはなりたくない女だったとしても。
 康貴は、朱音を観察するように視線を移す。彼女は息子の康汰を見ていた。だが、しばらくしてから、康貴へと視線を向けた。

「本当に康汰は……康貴の子供ではないって言いきれる?」
「当たり前だ。俺は避妊には特に気を使ってる。望まれない子供を植えつけたくないからな。それに……計算があわない」

 朱音は、大きくため息をついた。

「もう、本当に男って! どうしてそんな細かいことまで覚えてるのよ」
「それが普通だろ?」

 朱音は康貴を睨みつける。

「わたしだって、どんなに康汰が康貴の息子であればいいと思ったか。康貴がわたしの最後通牒を受け取って、わたしとの接点を全て捨て去ったから……わたし淋しくて」
「今さらそんな話はしなくていい。俺は、朱音を縛っていたことはないし、あの時は既に俺たちの関係は終わっていた」
「康貴流の、セフレ……がね」

 朱音は吐き捨てるように言った。そんな朱音を、康貴は冷静に観察していた。

「昔話がしたかったのか? それとも、むかし馴染なじみで俺に抱かれたかったから、わざわざ東京から大阪へ来たのか?」

 朱音は唇を噛み締めて、康貴を睨みつける。

「違うわ! もちろん、一夜のアバンチュールは拒まないけれど。だって、わたしをあれほど燃えさせてくれる男は、今でも康貴しかいないもの」
「朱音」

 康貴は、ダラダラと話す朱音に苛立っていた。それをすぐに察した朱音は、とうとう本題を話し出した。

「わかってるわよ。実は……康汰の実の父親が、わたしを欲しいって言ってきたの」

 康貴は、驚いたように片眉を上げた。

「良かったじゃないか。康汰を妊娠中に喧嘩別れして以来だろ?」

 朱音は、急にそわそわしだした。

「違うの。康汰を産んだ後も……接触はしてた」
「ああ、セフレか」

 康貴は、うんざりしたようにブランデーを一口呑む。

「そう言われても仕方ない。でも、彼は決して康汰を自分の息子と認めないのよ。だって、わたしは……」
「俺の字を与えたから?」

 最後の言葉を引き継ぐように康貴が告げると、朱音は肩をすくめて肯定した。

「言えばいい。俺の字を与えたのは、康汰を産む時……助けを求めてきた朱音を、病院へ連れていったのが俺だったからだと」
「言ったわよ。でも、信用してくれないの。……だって、わたしは康貴に抱かれてたんだもの」
「俺にどうしろっていうんだ?」
「康貴が彼に一言、」
「ダメだ」

 康貴は、すぐに断った。
 本当にわかっているのだろうか? そいつは、自分の息子に一字を与えた男を意識しているというのに、当の本人が現れたらどうなると思うんだ? 
 朱音の考えのなさに、康貴は頭を振った。
 その時、子供が椅子から消えてるのが目に入った。

「朱音、康汰がいないぞ?」
「えっ!」

 朱音はビクッと躯を震わせ、視線を彷徨さまよわせる。

「康汰!」

 その慌てぶりは、母親としか言いようがない。
 見た目はモデル風の美女でも、やっぱり母親なんだなと、康貴は改めて気付かされた。
 朱音はこの場所にいた方がいいと判断し、手で制すと、康貴は自分だけ立ち上がった。

「お前はここにいて、康汰が戻ってくるのを待ってろ。俺が店内を探してくる」

 小さな坊主を求めて周囲を見渡しながら、康貴は薄暗い店内を歩き出した。ウェイターに、それとなく店内に注意を向けてくれるよう頼むことも忘れなかった。
 あの坊主は、母親に一言も言わず、いったいどこへ行ったんだ? 
 イライラしながら店内を歩いていたが、もしかしたら化粧室へ行ったのかもしれないと気付いた。
 康貴は、そのままレンガの塀で仕切られた化粧室へと、ゆっくり向かった。
 そこで、康汰を抱く見知らぬ女性を見て、衝撃を受けた。
 優しそうな彼女の甘い声が、康貴の心を駆け抜けると同時に、躯の芯が熱くなった。意図せずして、心を揺さぶってくるその女性を見ているだけで、胸が高鳴った。
 思いがけない欲望に戸惑いながらも、康貴は彼女が独占欲の証〝薬指に光る指輪〟をしているのか確かめ、そこに証がないことを知ると、いつの間にか満足気に微笑んでいた。
 いいことが起きそうだ……
 そう思った矢先、朱音が邪魔をしたのだ。


   ***


 グッと奥歯を噛み締めながら、康貴は朱音をくように睨んだ。

「まさか、邪魔するとはな」
「……康貴、わかってるの? 今まで見たことがないような、だらしない表情をして! まるで、飢えたオスみたいだったわよ。あんなのは康貴じゃないわ」

 その言葉に、康貴は怒りがどこかに吹き飛んだ。

(俺が、飢えたオス……だと?)

 確かに、女に飢えてはいる。だが、だらしない表情をした覚えはなかった。
 康貴は、自然と眉をひそめていた。

「ほらっ、もう出ましょう。康汰が康貴の腕の中で寝てしまいそうだわ」

 見てみると、確かに康汰がうつらうつらと船を漕ぎ、寝てしまいそうになっていた。
 康貴は仕方なく、そのまま会計で精算をする。
 店を出る時、康貴は振り返って彼女を探さずにはいられなかった。
 もう一度、彼女と出会えるだろうか? もし、再会できたら……今度こそ接点を持ち、必ず彼女を手に入れる! 
 そんな康貴を見て、朱音は康貴の腰に触れた。

「康貴。女が欲しいなら……わたしが今夜慰めてあげるから」

 康貴は朱音を睨みつけると、タクシーを拾うために大通りへ向かって歩き出した。
 再び彼女と出会えることを願いながら……


   ◆◇◆


 ――八月


 いつしか、世間でいう夏休みが終わろうとしていた。
 将来を誓い合った二人なら、残暑をも吹き飛ばすようなラブラブっぷりで、きっとデートも楽しいに違いない。
 だが、亜弥の微笑みは曇っていた。
 人目を引く高原の隣に並べるだけで、亜弥は幸せだと思わなければいけない。薬指には、愛の証も輝いているのだから。
 しかし、亜弥と高原の間には……恋人同士なら有り得ないギクシャクとしたものが、確かに存在していた。

(どうして、あたしを求めようとしないの? どうして、あたしをホテルに連れていって抱きしめようとはしないの?)


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