恋するオオカミにご用心

綾瀬麻結

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1巻

1-3

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「あの……たぬきめ!」

 イラッとした感情が言葉となって出た。一哉は乱暴に椅子にもたれ、一度ため息をついてから、音を立てて椅子を回転させた。
 三階建ての窓から見える景色は、客観的にいえばそれほど良いものではない。それでも自分で築き上げた城から眺めるイルミネーションは、格別だった。
 しばらく外に目をやっていたが、やがて一哉はデスクに置いたプライベート用の携帯電話へちらっと視線を移した。

「これで渋沢の一件は片付いた」

 モデルの交代を言い出せば、当然広告代理店側はいい顔をしないだろう。ただ、豊永への代替案はこころよく受け入れてもらえると考えられる。一哉が事前に得ていた情報では、もともと広告代理店側は、俳優としても名前を知られる二十五歳の豊永を起用したがっていたからだ。
 だが彼はオーディションを受けなかった。そのため、次点候補の渋沢が繰り上がったと聞いている。つまり、この仕事は本命に戻ることになるのだ。
 渋沢にしてみれば残念な結果だが、乗り越えてもらうしかない。何があっても顔だけは守らなければならないと知っているのに、彼はそれをおこたった。怪我を負った理由など、この世界では一切関係ない。渋沢は甘かった、ただその一点に尽きる。
 そんなこと、みやびも知っているはずだ。なのに彼女は自分のせいだと自らを責め、そして一哉に言われるまま恋人役を引き受けた。
 本当は恋人なんて全く必要ないのに、みやびは一哉の嘘に見事引っ掛かってくれた。

「……まあ、彼女はそういう人だからな」

 誰かのためなら、自分を犠牲にしてでも懸命に動く。だから一哉は、どの美女よりも彼女に興味を持った。
 みやびと初めて言葉を交わしたのは約四年前。たった数分の会話だったが、それだけあれば彼女の魅力を知るには十分だった。

「四年、か。長かったな……」

 一哉は足を組み、そっと目を閉じた。


     * * *


 ――四年前。
 二十七歳の時、一哉はこれまで世話になった吉住モデルプロモーションを辞め、一月付けで独立を果たした。とは言っても、すぐに独立を許されたわけではなかった。吉住社長は一哉に目をかけていて、そう簡単には手放してもらえなかった。
 独立して十ヶ月ほど経ち、所属モデルをひとり、ふたりと抱えられるようになってもなお、彼は一哉を気にかけ、頻繁ひんぱんに仕事を回してくれていた。
 この日もそうだった。吉住社長から紹介された仕事で、相藍あいらん女子学院大学のミスキャンパスコンテストの特別審査員をするため、一哉は車を走らせていた。
 吉住社長との付き合いは、一哉が高校生になって吉住モデルプロモーションに雑用のバイトで入った時からだ。もともと裏方だったはずが、モデル並みに身長が高く、また物怖じしない性格を気に入られ、彼の一声でモデルの道に進むことになったのだ。
 吉住社長の引き立てもあり、一哉はモデル業界で成功を収めるが、正直経営の方に興味があった。
 そのため、大学を卒業すると同時にきっぱりモデルを辞め、事務所で経営の勉強をさせてもらうことにした。ただ、いくら経営の勉強をしてもこのままでは自分のしたい仕事ができないと気付き、それで独立を希望したのだ。
 最初こそ首を縦に振ってくれなかったが、話し合ううち条件付きで独立を許された。
 その条件とは、〝将来吉住社長の愛娘まなむすめと結婚し、吉住モデルプロモーションを継ぐ〟というものだった。
 もちろん安易にそれを呑むわけにはいかない。
 一哉はこの条件に対して、ひとつ制約を提示した。現在アメリカへ留学中の吉住社長の娘が日本へ帰国した際、どちらにも恋人がいなければ社長の望むとおりにする、と。

「社長なりの譲歩か、それとも……俺が女に真剣にならないと知って受け入れたのか」

 どちらにしろ、吉住社長には相当気に入られていたということだろう。
 もちろん恩義を抱いてはいる。だが、それと自分の結婚は別問題だった。これ以上吉住社長に恩を重ねるのは得策ではない。今後は極力、自分から何かを求めない方がいいだろう。
 もらえるものは、有り難くいただくが――と心に浮かぶ本音に苦笑した時、一哉の視界に相藍女子学院大学が入った。
 モデルを引退して六年も経つのにICHIYAの名で仕事するのは、今更な感は否めない。でも逆に、そこへ行けば新しい人材を発掘できるかもしれないという期待もあった。
 一哉は特別パスを警備員に提示して大学内に入り、駐車場に車を停める。
 朝夕はめっきり冷え込むようになってきたが、この日の空は深く澄み渡った秋晴れで、穏やかな陽射しが降り注いでいた。まさしく文化祭日和びよりだ。

「大賀見さん!」

 その声に振り向くと、一哉に向かって走ってくる女性が目に入った。

「本日は、どうもありがとうございます!」

 出迎えてくれたのは、何度か打ち合わせで顔を合わせた相藍女子学院大学のミスキャンパス実行委員長だった。駐車場へ車を入れてすぐに彼女が現れたということは、あの特別パスで警備員から連絡がいくよう手配していたに違いない。

「こちらこそお招きありがとう」

 一哉は、笑顔の可愛い実行委員長に微笑んだ。

「コンテストの流れは事前にお渡しした台本どおりで、変更はありません。コンテスト終了後の総評も大賀見さんにお願いしたいと思っていますので、どうぞよろしくお願いします」
「あのさ、本当に俺でいいの? 君たちの世代には、俺なんて記憶に残ってないと思うけど」

 実行委員長は、驚きの表情を浮かべた。だがすぐに、頭を振る。

「そんなことないです! 今回、ICHIYAの大賀見さんが特別審査委員で参加すると発表した途端、大学内では凄いことになったんですよ」

 必死に力説してくれる彼女に、一哉は頬を緩めた。

「どうもありがとう。ICHIYAの俺を覚えてくれているのは嬉しいけど、今回の主役はミスキャンパス候補たちだからね。今回は審査員に徹するよ」
「はい、それはもちろんです! では、控え室へご案内しますね」

 一哉は実行委員長の案内を受け、会場に隣接した控え室に入る。開始の時間が迫っていたため、荷物を置くと実行委員と一緒に特設会場へ移動した。
 会場内は満員で、投票権を持つ一般参加者と学生たちは盛り上がっていた。既にノリによって会場がひとつになっている。
 ただ、審査員はそれに呑まれてはいけない。
 ミスキャンパスコンテストの開始宣言後、一哉は表情を引き締め、意識を最終選考に残った十五人に集中させた。審査員の見方は人それぞれだが、一哉は先入観を持たないよう、ミスキャンパス候補の資料には一切目を通していない。
 そのため、舞台に出てくるミスキャンパス候補を見ては手元の資料に目を落とす行為を繰り返す。一哉が一番大事にしているのは、初めてその人を目にした瞬間にインスピレーションが湧くかどうかだった。
 緊張していて顔が強張こわばるのは仕方ない。でも目を奪われてしまう何かがある人ほど、その道で成功する人が多い。経験上それをわかっているから、一哉はその一点を注視していた。
 なのに、その集中力がだんだん散漫になってきた。少し前から一哉の視界にちらちら入ってくる、ジャージ姿の髪の長い女性が原因だ。
 舞台袖にいる彼女は、実行委員のひとりだとわかる。彼女はランウェイに向かう候補者ひとりひとりに声をかけ、その強張こわばった顔に自然の笑みを戻させていた。そして舞台の袖に到着すると泣き出す候補者を、柔らかい笑顔で迎え入れる。彼女に声をかけられて肩の力を抜いた候補者は、涙をこぼしても最後は笑みを浮かべて奥へ下がっていった。
 いったいあの女性は、どうやって候補者たちの心を軽くしているのだろう。
 知りたい……、彼女とじかに話してみたい。
 一哉は突然湧いた自分の感情に驚いた。独立して以降、女性を目にしてもモデルとして通用するかしないか、その基準でしか見ていなかった。
 なのに今、久しぶりに感じた女性に対する好奇心と欲望で、胸がドキドキしている。
 だが一哉は、すぐに彼女から候補者へ視線を戻した。
 別に急がなくてもいい、コンテストが終われば彼女と話ができる――そう自分に言い聞かせ、今やるべきことに集中した。
 候補者たちのウォーキング、特技披露、そしてスピーチと、順調に進んでいく。全ての審査が終わり、投票が始まった。一哉は自分の直感で票を投じ、それを実行委員に渡した。
 発表を待つ間、一哉は他の審査員たちと談笑していたが、数十分経った頃に集計を終えた実行委員たちが戻ってきた。
 実行委員の指示で、一哉は他の審査員の学長や学部長、そして学生自治会会長たちと一緒に登壇する。すると、実行委員長が白い封筒を持って現れた。マイクを握り、場内をぐるっと見回す。

「大変お待たせいたしました。これより賞に選ばれた三名を発表したいと思います」

 実行委員長からマイクを渡された学生自治会会長が、審査員特別賞、準ミスキャンパスと発表する。前者は一哉の希望が通り、後者は会場を沸かせた学生が選ばれた。

「さあ、栄えあるミスキャンパスに選ばれたのは――」

 シーンと静まり返った会場内に学生の名が発表されると、一斉に歓声が沸き起こった。
 正直、一哉にはあまり魅力的に映らなかったが、それでも笑顔でミスキャンパスに拍手を送った。
 もちろん最終選考に残るだけあって、美人の部類には入る。だがどの仕草もわざとらしく、またこびの色が濃過ぎた。一部には支持されるかもしれないが、万人受けするモデルにはなれないだろう。
 そう思ったから、一哉は彼女に票を入れなかった。とはいえ、ミスキャンパスは審査員の票だけで決まるものではない。
 一哉は心の中で残念な気持ちを抱きながら、ミスキャンパスのそばへ歩いていった。実行委員からファー付きコートを受け取り、彼女の肩の上にかける。続いて、ライトに反射してきらめくティアラを彼女の頭上に載せた。

「ミスキャンパス、おめでとう」
「ありがとうございます!」

 一哉は彼女を称えるために軽く抱擁ほうようを交わすが、その時いきなり「このあと、わたしのために時間を作っていただけませんか?」とささやかれた。
 マイクが声を拾わないとはいえ、ここは舞台上。あまりの大胆さに度肝を抜かれるが、そこは一哉もプロ。彼女の言葉には一切反応せず、ただ笑顔を張り付けて、抱擁ほうようを解いた。
 ミスキャンパスは満面の笑みを浮かべていたが、一哉の目に宿る冷たい光を見て、その表情が崩れた。
 舞台上で声をかけるしたたかさは、彼女の強みになるかもしれない。だが、それを嫌う者もいる。
 一哉は返事すらせず、さっさと他の審査員のもとへ戻った。

「それでは、特別審査員を務めてくださった大賀見一哉さんに一言いただきたいと思います」

 実行委員長からマイクを受け取った一哉は、舞台に立つ全員に目を向けた。

「最終選考に残られた十五人全員に、まずはおめでとうと言わせていただきます――」

 一哉は、祝いの言葉で始めた。十二人は賞を得られなかったとはいえ、そのパフォーマンスは素晴らしかったと称賛する。そして賞を獲得した人たちに対しては、あえておごるなかれと辛口のコメントをした。
 もともとはそうするつもりはなかったが、先程のミスキャンパスの振る舞いは、この先彼女のためにはならないと判断したためだ。また、他の受賞者にも肝に銘じてほしいと思った結果のコメントでもある。
 会場は一瞬静まり返ったが、最後にもう一度全員を祝福する言葉で締めくくると、拍手が起こり、コンテストは無事に幕を下ろした。

「申し訳ありません。祝いの言葉を述べるだけで良かったんですが、できませんでした」

 裏に下がってすぐに、一哉は六十代の学長のそばへ行き、彼に謝った。

「いやいや、もっと言ってほしかったぐらいですよ。彼女たちはこれから社会へ出ていく。このコンテストを機に芸能界へ進みたいと望む者もいるでしょう。その業界にいる大賀見さんの言葉だからこそ、彼女たちも真剣に受け止めたと思いますよ。今日はどうもありがとうございました」
「いえ、こちらこそお呼びいただきありがとうございました」

 一哉は学長が差し出した手を取り、力強く握手した。

「もし今回のミスキャンパスコンテストに参加した学生がモデル業界へ進みましたら、その時はどうぞよろしくお願いします」

 最後に学生の先行きに心を配る学長と挨拶あいさつして別れると、代わって実行委員長が駆け寄ってきた。口を開きかけた彼女を、一哉は軽く手を上げて制する。

「悪い。少し時間をくれないかな」

 実行委員長の「わかりました」という返事を聞くなり、一哉はすぐに周囲を見回した。ミスキャンパス候補者たちの緊張をほぐしては笑顔をもたらしていた、あの女性を探すために。
 だが、どこにも見当たらない。
 急いで舞台裏に回り、ジャージ姿の彼女を探す。でもそこにいるのは、最終選考に残った十五人と実行委員たちだった。声をかけてもらえるのではないかとでも思っているのか、ちらちらと流し目を送られるものの、一哉はそれを無視する。

「おい……いったいどこに消えた?」

 一哉は再び舞台上に行き、一般席に目をやる。既に客の退場したそこは閑散かんさんとして、誰もいない。
 彼女は、ミスキャンパスコンテストの実行委員のひとりのはず。コンテストが終わってそれほど時間が経っていないので、まだ会場内にいると踏んでいたが、彼女の姿を見つけられずにいた。

「……クソッ!」

 苛立たしさを口に出したその時だった。誰もいないはずの客席から、急に黒い頭が現れた。ハッとした瞬間、黒くて長い髪をポニーテールにしたジャージ姿の女性が立ち上がった。

「見つけた!」

 一哉は舞台を飛び降りるとすぐに走り出し、下ばかり見ている彼女に近づいた。

「君!」
「えっ?」

 ジャージ姿の女性がビクッとからだを震わせて顔を上げ、一哉に目を向けた。
 一瞬にしてふたりの視線が絡まり合う。
 滅多に動じない一哉だが、彼女の澄んだ瞳が自分を見ているとわかった途端、心臓がドキンと高鳴り、躯の芯が震えた。それだけではない。ひとりで会場の掃除をする真面目な性格に、今まで接してきたどの女性とも違うと好奇心がさらに増す。
 なのに、一哉は彼女の姿にぷっと噴き出してしまった。

「ご、ごめん……」

 顔を見た途端笑うなんて失礼なのは承知している。だが、笑いが止まらなかった。
 ゴミの入ったビニール袋を手に持つ彼女の顔が黒く汚れ、綺麗な黒髪に大きなほこりをつけているせいもある。だが笑いが込み上げてしまった真の理由は、実行委員の彼女が後片付けもせず会場をあとにするような人物だと、一瞬でも思った自分に呆れたせいだ。
 彼女は、そういう女性ではないと直感でわかっていたはずなのに……

「あの……えっと?」

 恥ずかしそうに頬をピンク色に染めながらも、一哉の目を覗き込む彼女。故意にする上目遣いとは違う純粋なその眼差しに、自然と引き寄せられる。こんな女性を見るのは久しぶりだった。

「笑って悪かったね」

 一哉は笑いを引っ込めるが、口元は弧を描いたまま彼女のノーメイクの顔をじっと見た。化粧っけが無いせいか、幼く見える。下手したら高校生でも通じそうだ。

「いえ。それで……その、わたしに何か用でしょうか?」
「君の仕事ぶり、見ていたよ」
「えっ?」

 彼女が一哉を見上げる。そのキスを望むような顎の上げ方に欲望を刺激された一哉は、思わず手を出して彼女の頬に触れた。
 彼女はまたビクッと躯を震わせ、大きな目をより一層見開いて一哉を見つめる。その表情を見て、一哉は自分が何をしようとしていたのか気付き、息を呑んだ。
 初対面の女性に、いったい何をしているのだろう。
 一哉は、自分に触れられて頬を染める彼女を見下ろした。
 彼女はまるでウサギのように一哉をじっと見て、次の行動を待っている。一哉は彼女の無垢むくな瞳を見ているだけでオオカミになりそうだ。こんな衝動に駆られるなんて自分らしくない。なのに、一哉をきつける彼女の魅力に逆らえなかった。

「あの、わたし……」

 その言葉で一哉は湧き起こった感情をこらえ、そっと指を動かして彼女の頬の汚れを拭った。

「頬、汚れてる。一生懸命ゴミ拾いしているせいかな」
「え? あっ……す、すみません!」

 彼女は一哉の手を避けるように顔を伏せ、一歩後ろへ下がった。汚れを取ろうと急いで頬を拭うが、一哉を気にしているのか、何度もこちらをうかがってくる。
 その計算のない彼女の仕草に、一哉はさらに心を動かされた。
 直感だった。彼女は一哉の周囲にいる、こびを売る女性たちとは違う。
 一哉は、彼女との距離を縮めたくなった。さらにその先へ進み、自分の手で彼女の初心うぶな表情が女の顔へ変わるその瞬間を見たいとさえ思った。
 それほど一哉の心は、彼女のことでいっぱいになっていた。
 仕事中心の生活を送っていた一哉にとって、久しぶりに味わう感情に戸惑いはある。それでもこの時ばかりは、自分の直感を信じたかった。

「あの、それでは、わたしこれで……」

 彼女が頭を下げ、一哉に背を向けて歩き出そうとした。何事もなかったように離れていく姿を見て、一哉はあたふたして手を伸ばす。

「待って!」

 一哉は、彼女の手首を乱暴に掴んだ。

「えっ!? あの、何か……?」
「……少し、いいかな?」

 声が震える。そんな自分に驚きはしたが、久しぶりに味わわせてもらったこの感情は嫌ではない。それどころか、一哉に影響を与える彼女にさらに引き寄せられる。
 一哉は頬を緩め、こちらを見上げる彼女と目を合わせた。一瞬にして恥ずかしそうに目を伏せ、彼女は逃げようとする。それでも一哉は、手首を握ったまま一歩さらに近づく。

「あ、あの……な、なんでしょうか?」

 彼女は、怯えながらも応じる。逃げ出すことは考えていないと踏み、一哉はそっと手を離した。すると、彼女は一哉の前でその手をさっと背に回した。その行動さえも愛らしく思える。

「俺は大賀見一哉。審査員席から、舞台袖にいる君の姿が目に入ってね。君は、ランウェイへ向かうミスキャンパスの候補者たちに声をかけていただろう? 君が話しかけたら、皆肩の力を抜いて素敵な笑顔になっていた。とてもいい仕事をしていたね」
「あ、ありがとうございます!」

 一哉の言葉に、彼女はまるで花が開いたように明るい笑顔になった。

「最終選考まで残った人たち皆には頑張ってもらいたくて……。舞台へ上がる直前に声をかけられるのはわたしだけでしたから、なるべく彼女たちの緊張をほぐしたかったんです。そうは言っても、ただ〝こんな風に楽しめるなんて最高ね〟とか〝ターンしたらわたしに笑顔を見せてね〟と言っただけなんですけどね」

 つい先程まであんなに照れていた彼女が、今は目をキラキラと輝かせて楽しそうに話している。それがあまりにまぶしくて、一哉は彼女に吸い寄せられた。

「そうだったのか。いったい何を言っていたのかとずっと気になっていたんだ。君の頑張ってほしいという素直な気持ちが、彼女たちに伝わったんだね。相手を思いやれる気持ちを、これからもなくさないでほしいな」

 彼女は嬉しそうに微笑むが、突然はにかんだ表情を浮かべる。

「あの、実は……わたし、来年からモデル事務所で働くんです」
「えっ? モデル!?」

 一哉は彼女の言葉に唖然とした。彼女は小動物のようにふんわりとした雰囲気をまとっていて、可愛いとは思う。だがはっきり言って、モデルとして通用するとは思えない。第一、身長が足りない。どうやってもステージモデルは無理だ。
 だが改めて冷静に観察すると、彼女には武器があった。このつややかな長い黒髪は、パーツモデルとして十分通用する。
 一哉はたまらず手を伸ばし、彼女のポニーテールにした長い黒髪に触れた。

「あ、あの!」

 戸惑う彼女には目もくれず、一哉は指の間をさらさらと滑る上質の髪の毛に驚嘆した。
 誰が彼女をスカウトしたかわからない。だが一哉は、その人物に拍手を送りたい気分だった。
 彼女はモデル業界へ足を踏み入れる。ここで彼女を落とさなくても、来年になれば彼女の方から自然と一哉のテリトリーに入ってくる。この業界は、広いようで実はかなり狭い。だから、焦らなくていい。今はアピールだけして、彼女の心に自分のことを刻ませる。そうしておけば、来年再会した時にはもっと近寄りやすくなるに違いない。
 自分の考えに満足した一哉は、ふっと笑った。

「なるほど。それなら来年になれば俺と会えるね。そうだ――」

 さりげなく言って、一哉はスーツの内ポケットに入れていたケースを取り出し、名刺を一枚抜き取った。さらに、ペンでひとつの番号を書き添える。

「プライベート用の携帯番号を書いておいた。この業界に入ってきたら、俺に連絡をしてくれないか? 今日は君も忙しいし、俺もこのあと仕事があって時間をけないんだ。いいかな?」

 一哉は名刺を彼女に差し出す。それをおずおずと受け取った彼女は、じっと名刺を見るが、すぐに頬を染めた顔で一哉を見上げた。

「あっ、はい! ……ありがとうございます!」
「じゃ、約束だ」

 彼女に握手を求めると一瞬驚いたようだが、やがて静かに一哉の手を握ってくれた。
 思っていたとおり彼女の手は小さくて柔らかい。そして、その指は細くとても綺麗だ。

「この業界に入ってくるのを待っているよ。……そうだ。君の名前を――」

 一哉がそう口にした時だった。

「みやちゃん、何してるの? 集合かかってるよ!」

 突如舞台の方向から聞こえた女性の声。そちらを見ると、実行委員のひとりがこちらに向かって大きく手を振っている。

「わたし、行かなきゃ。それじゃ、失礼します」

 彼女は一哉の手を離すと、ペコリと頭を下げた。

「あっ……」

 彼女はそのまま走り去り、声をかけてきた実行委員と舞台の奥へ消えた。

「……みやちゃん、か。となると、宮田、宮路、宮野……」

 きちんとした名前はわからないが、〝宮〟のつく新人モデルを探せばいいのだ。
 もし見つけられなかったとしても、彼女の手には、携帯番号を書き添えた一哉の名刺がある。おそらく、彼女は連絡してくれるだろう。礼儀正しい態度からとても素直な人物に見えた。今は焦らず、ただその時が来るのを楽しみに待っていればいい。

「さてと、俺も実行委員長に挨拶あいさつして帰るとするかな」

 スーツのポケットに手を突っ込むと、一哉は頬を緩ませたまま舞台の裏へ歩き出した。


     * * *


 一哉はさらに深く椅子にもたれ、深くため息をついた。

「藤尾みやびが、あのみやちゃん。なるほどね、みやびだからみやちゃんと呼ばれていたのか」

 この数年、一哉は名字に〝宮〟のつく新人パーツモデル、特にヘアモデルを探していた。だが、一哉は該当する女性を探し出すことはできなかった。
 徐々じょじょに記憶から薄れていく彼女の姿。一方で、一哉の心の中に、新たに出会った他事務所のマネージャー、藤尾みやびが入ってきていた。
 男性を前にするとおどおどするが、仕事となると一生懸命。担当する西塚奈々のために奔走するその姿は、一哉の目に好意的に映った。
 なのに今日のパーティで、偶然立ち聞きしたみやびの本音。〝好きじゃない、好みとかけ離れてる〟と言われて、一哉は腹が立った。彼女に好意を持っていたからこそ、黙っていられなくなったのだ。
 それでパーティでみやびに近づいたのに……
 まさかずっと探していたあの女子大生が、彼女だったとは。
 それも、一哉の記憶より一層綺麗になった姿で目の前にいた。
 女子大生とみやびが同一人物だと知った時に感じた、煮えたぎったあの怒り。それを、みやびは知らない。

「眼中にないだって? ああ、上等だ!」

 そっちがその気なら、こちらにも考えがある!
 怪我をした渋沢には悪いが、あの一瞬でこれから何をするか考え、一哉はみやびを落とすために罠を仕掛けた。実際には必要のない恋人役を彼女に求めたのは、その始まりだ。
 全て、彼女の心を手に入れるために……
 一哉は、デスクに置いた時計をちらっと見る。そしてキラキラと輝くイルミネーションではなく、歩道へ視線を落とした。
 連絡すると言っていたのに、みやびからの着信はない。
 それはつまり、みやびが一哉の仕掛けた罠に掛かったということだろう。
 真面目な彼女だからこそ、この件について電話で済ませられないと思っているに違いない。
 さあ、早く動いて。君ならそうするだろう? ――心の中でみやびにささやいたその時だった。歩道を急ぎ足で進む人影が一哉の目に入る。街灯に照らされたその顔を、はっきり見て取れた。

「罠にはまったな。さあ、ここからだ」

 一哉はニヤッと口元を緩めるとリモコンを手にし、自動でカーテンを閉めた。次にデスクの上に置いてある受話器を取り、ボタンを押す。

「これからアットモデルプロダクションの藤尾という女性が来る。こっちに通してくれないか? 俺が仕事をしていてもだ。そして彼女が来たら、もう帰っていいから」

 秘書の白石しらいしにそう伝えて通話を切る。だが、受話器は下ろさなかった。これから仕掛ける罠のため、一哉はこの瞬間から演技をスタートさせた。



   三


「ここが、大賀見さんの新事務所」

 みやびは幹線道路を少し奥へ入った場所にある、大賀見モデルエージェンシーの自社ビルを見上げた。自社ビルとはいえ、一戸建て風の三階建て。それほど大きくはない。
 だが、コンクリートの外壁には間接照明があたり、とても洒落しゃれている。行きう人が目をかれているのがわかる。
 二階の部屋は真っ暗だが、三階はカーテンの隙間から灯りが漏れていた。
 あの部屋で、大賀見が仕事をしているのかもしれない。
 ここまで来て今更だが、みやびは緊張で心臓がドキドキしてきた。それでもなんとか深呼吸して気持ちを落ち着けると、駐車場の脇を通り、事務所の玄関へ向かう。大きなドアの前で立ち止まり、インターホンのボタンを押した。

『はい』

 男性の声にドキッとするが、大賀見の声よりも幾分高い。本人ではないと気付きほんの少しホッとするものの、みやびはすぐに背筋を伸ばした。

「アットモデルプロダクションの藤尾と申します。大賀見社長はいらっしゃいますか?」
『藤尾さんですね? お待ちしておりました。どうぞお入りください』

 えっ、待っていた? 

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