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1巻
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みやびの頭が、一瞬真っ白になった。
「大輔!」
奈々が急いで階段を駆け下り、動かない男性の傍に跪く。声を震わせる奈々を見て、みやびはようやく我に返った。足になんとか力を入れ、ふたりのもとへ駆け出す。
「だ、大丈夫……ですか!」
傍に近寄って初めて、その男性が誰なのかわかった。彼は大賀見モデルエージェンシーに所属している人気急上昇中のモデル、二十三歳の渋沢大輔だ。彼は綺麗な頬に擦り傷を負い、形のいい唇には血を滲ませている。そして、鎖骨に手をあてて呻いていた。
「大輔! ああ、どうしよう……大丈夫!? ねえ、しっかりして!」
「だ、大丈夫、だから……」
苦痛に顔をゆがめながらも、声を震わせている奈々を思いやる渋沢。そんなふたりの傍にいるのに、みやびは気遣いの言葉すらかけられなかった。歯が音を立てるほどぶつかり、血の気も引いていく。手は、これ以上ないほどぶるぶる震えていた。
みやびの頭には、早くふたりを引き離すことしかなかった。だから、大きな声を出した。
渋沢をこんな目に遭わせたのは、みやびだ。
「みやびん! どうしよう……大輔を病院へ連れて行かなきゃ」
奈々は潤んだ瞳を向けて、助けを求めてくる。なのに、みやびは何も言えなかった。言葉が喉の奥で詰まり、上手く声を出せない。
みやびは自分を叱咤するように、瞼をギュッと閉じた。
「いったい何をしてるんだ!」
突然聞こえた、男性の低い声。びっくりして、みやびの躯がビクンと跳ねる。
ぎこちない仕草で振り返ると、そこには大賀見が立っていた。彼は一瞬みやびを強い眼差しで射抜くが、すぐに倒れている渋沢へ視線を移す。途端に、彼の眉間に皺が刻まれた。
「……渋沢、か?」
「しゃ、ちょう……」
渋沢が起き上がろうとしたが、奈々が「動いちゃダメ!」と止める。
すると、大賀見は足早にこちらへ近づき、みやびの隣に膝をつく。額に冷や汗を浮かべる渋沢を見て、躊躇せず擦れた頬、切れた唇、そして肩に触れた。
「……っ!」
痛みに呻く渋沢を見ているだけで、みやびの手が再び小刻みに震え始めた。
「打ち身だけならいいが……、これは鎖骨が折れているかもしれない」
「すみ、ません……社長」
渋沢が痛々しそうな声で謝るが、大賀見は彼ではなく、彼の傍にいるふたりを交互に見る。そしてその視線が、青ざめるみやびの上でしばらく止まった。
「渋沢、君の今後の撮影スケジュールは?」
大賀見は渋沢に訊きながらも、みやびから視線を逸らそうとしない。みやびの反応を見て、どういう状況でこういうことが起こったのか探っているようだ。
「わかっている範囲でいい。特に直近のスケジュールが知りたい」
大賀見の言葉に、みやびは生唾をゴクリと呑み込み、手を強く握った。
手帳を開いて確認しなくてもわかる。来週、巨大娯楽施設スパリゾートで広告スチール撮りが行われる。それは奈々が参加する仕事だ。そして、奈々の友達以上恋人未満の役を演じる相手が、渋沢となっていた。
でも、きっと渋沢は撮影に参加できないだろう。一週間やそこらで彼の傷が治るとは到底思えない。
この仕事が決まった時、奈々は、彼の相手役を務められると喜んでいたのに。
みやびが奈々を窺うと、彼女は気丈に涙を堪えて、渋沢に手を貸していた。
「お、俺は――」
上体を起こした渋沢は、声を絞り出そうとした。しかし大賀見が頭を振って、彼の言葉を遮る。
「悪い、仕事より病院へ行くのが先だな。西塚さん、渋沢に付き添ってくれないかな? 本当なら俺か、もしくはうちのスタッフが連れて行くべきなんだが」
「大丈夫です、あたしが付き添います!」
奈々がはっきりそう答えると、大賀見は携帯を取り出し電話をかけた。
「タクシーを一台お願いします。場所は六本木の――」
クラブの住所を、続いてこの場所から一番近い救急病院へ向かってほしいと告げて通話を切った。
「すぐに来てくれるそうだ。下まで俺も手伝おう」
「いえ、ひとりで大丈夫です。もともと、あたしがここまで……いえ、なんでもありません」
奈々は激しく頭を振り、「大輔、あたしの肩に掴まって」と言った。
渋沢は時々よろけそうになりながら、ゆっくりと歩いていく。奈々はそんな彼の腰に腕を回し、エレベーターホールへ向かった。
「……奈々、わ、わたしも」
みやびも手を貸そうとした。だが、伸ばしたその手を大賀見に掴まれる。
「藤尾さんは、まず俺と話をしよう」
「は、はな……し?」
みやびは呆然と大賀見の言葉を繰り返した。でも彼は気にせず、奈々と渋沢の姿が消えるなり、近くにあるソファへみやびを誘った。促されるままそこに座ると、彼も隣に腰を下ろした。
「何があったのかは訊かない。渋沢と西塚さんの様子を見ていたら、だいたい予想はつくし。ところで仕事の話だけど、渋沢と西塚さん、近々……同じ仕事が入っていなかったかな」
大賀見が目だけを動かしてみやびを見る。そこには、誰かを責める色は一切ない。それがまた辛く、みやびは唇を強く引き結んでうな垂れた。
「はい……。来週、スパリゾートで広告のスチール撮影が入っています」
そこでみやびはまだ大賀見に謝っていないのを思い出し、隣に座る彼に目を向けた。
「渋沢さんに怪我をさせてしまい、本当に申し訳ありません! 怪我の状態によっては、仕事をキャンセルしなければならないですよね? そんなことになったら――」
声が震えて、その先を続けられなくなる。自分のせいで皆に迷惑をかけてしまったと実感すればするほど感情が昂ぶり、涙が込み上げてきた。
泣くなんて最低だ。泣くよりも前に、するべきことがいろいろあるのに……
このまま逃げてはダメ! ――みやびは、そう自分に言い聞かせた。手の甲で零れ落ちそうな涙を乱暴に拭い、きちんと話せるまで気持ちを落ち着けようとする。
そんなみやびの肩を、大賀見が突然抱いてきた。前触れもなく触れられたせいで嗚咽は一瞬にして止まるが、それとはまた別のパニックが込み上げてくる。
「あ、あの!」
手をどけてほしいと懇願するつもりで顔を上げて、みやびは言いかけた言葉を呑み込んだ。そこに、驚くほど真剣にみやびを見つめる大賀見の瞳があったせいだ。
触れられている肩と首筋が熱を帯びる。心臓が早鐘を打ち、送り出された血液が躯中を駆け巡って体温が上昇していく。
みやびが動揺しているとわかっているはずなのに、大賀見は顔色を一切変えない。それどころか、まるで観察するようにみやびを見つめる。それだけで、みやびの心に戸惑いと緊張が入り乱れ、唇がかすかに震え始めた。すると、彼の視線がそこに落ちた。
これ以上はもう耐えられない!
その時、大賀見はみやびに触れていた手をさりげなく退けた。
「あの仕事は、渋沢にはいい経験になると思って受けさせたが。まさか……自分で自分の首を絞めるとは」
大賀見がボソッと呟いた。その口調は淡々としていたが、みやびはきつく咎められた気がした。
「……ヤバイな。俺が動くしかないか」
大賀見は上体を前に倒すと膝に肘を載せ、難しそうな顔をして絨毯の一点をじっと見つめる。強く引き結んだ唇、双眸に冷たい光を宿す細められた目、そして手の甲に浮かんだ筋。
それを目にし、みやびは自分が大変なことをしでかしてしまったのだと再認識した。
みやびは膝の上に置いた手を強く握り、瞼をギュッと閉じた。
〝ごめんなさい〟と言うだけではダメだ。謝る以外に、みやび自身が何かをしなければ。
そこまで考えてから、みやびは心の中で激しく頭を振った。
一介のマネージャーにできることなんてたかが知れている。大賀見の事務所での補助や、使い走りぐらいしか思いつかない。だが、そんなことでも彼の役に立つなら手伝いたかった。
みやびは思いを込めて、大賀見の顔をじっと見つめた。
「大賀見さん。あの、わ……わたしにできることならなんでもします!」
「……はあ?」
大賀見が素っ頓狂な声を上げた。
「わたしが何かする程度では、お詫びにはならないとわかってます。でも、大賀見さんのお役に立ちたい。だから、なんでも言ってください。わたしにできるならなんでも……本当になんでもしたいと思ってるんです」
みやびは頭を下げ、嘘偽りのない気持ちを伝えた。でも、大賀見は一言も発しない。
みやびなんかが彼の役に立つわけがないと思っているのだろう。だがたとえそうだとしても、今の自分にできるのはこれしかなかった。
「本当に……なんでもします。大賀見さんのしてほしいことを言ってください!」
さらに深く頭を下げる。
「……へえ、〝なんでもする〟ね」
突然頭上から降ってきた、大賀見の低い声。これを耳にするのは二度目だった。一度目は彼がみやびの頭にかぶせられたウィッグを引っ張った時、そして二度目が今だ。
何かがおかしい……
また大賀見の機嫌を損ねてしまったのかと、彼をそっと窺う。でも思ったほど怒っているようには見えない。みやびはホッと安堵した。
「はい、なんでもします。わたしに大賀見さんのお手伝いをさせてください! 事務所が違うので、いろいろと問題があるかもしれませんけど――」
「じゃ、俺の恋人に……いや、俺の恋人を演じてくれる?」
ええ、もちろん! ――と頷こうとしたところで、みやびの思考がピタッと止まる。
「……えっ? こ、恋人? わたしが、ですか?」
「ああ、もちろん。ここには君しかいないのに、いったい誰に頼むと言うんだい?」
「だ、だって……わたしが……恋人?」
呆然と受け答えしていたが、徐々に〝恋人〟という単語が頭の中に浸透していく。それがどういう意味なのかわかると、一瞬にしてみやびの顔が真っ赤になった。
「ダメ……、わたしにはできません!」
絶対に無理だ。男性と付き合った経験のないみやびに、そんなことできるわけない。
それに、どうして彼はそんなことを頼むのだろう。渋沢の件で大賀見を手伝いたいという流れで話をしていたはずなのに、彼が急に話をすり替えたのも理解できなかった。
みやびは唇を歯で噛み、全てを拒むように激しく頭を振った。
「そんなの、絶対にダメです!」
「絶対に、ダメ……ね。結局、〝なんでもする〟って言ったのは、口先だけってことか」
みやびを嘲るように、大賀見が鼻で笑う。それを耳にした途端、みやびは気付いた。
大賀見は、別に話をすり替えたわけではないのだ。彼はみやびにして欲しいことを、ただ口にしただけだ。
みやびは、膝の上に置いた手に視線を落とした。
大賀見の望む恋人を自分が演じられるとは到底思えない。でもそれが彼の望みなら、みやびはその気持ちに応えるべきだろう。彼に〝なんでもする〟と言ったのは、その場しのぎの嘘ではなく心からの言葉だから。
緊張のあまり、口の中がからからになるのを感じる。それでも、みやびは今、誠意を見せなければならない。
覚悟を決めると、みやびは何度も生唾を呑み込みながら顔を上げた。
「あ、の……大賀見さん」
大賀見が、ゆっくりみやびに顔を向ける。
「うん? 何?」
「わたしなんかで務まるのか……わからないですけど、大賀見さんの助けになるのなら、わたし頑張ります」
「……つまり?」
大賀見は大げさに片眉を上げて見せ、続きを求める。彼の意地悪な訊き返し方に、みやびの喉の奥がうっと詰まった。
返事の意味をわかっていてそんな風に言うなんてひどい。だけど、こういう展開になったのは自分のせいだと思い直し、もう一度彼と向き合う。
「わたし、大賀見さんの恋人……役を引き受けます」
そう言った瞬間、大賀見が満足げに口元を緩めた。その笑みに、みやびの心臓がドキッとする。
「藤尾さんなら、必ずそう言ってくれると思ったよ」
その心を蕩けさせる艶っぽい笑顔を見ていられず、みやびは慌てて顔を背けた。そして恥ずかしさのあまり目を伏せる。
「で、でも……大賀見さんは、本当にいいんですか?」
「何が?」
「何がって――」
みやびは思わず顔を上げ、大賀見と目を合わせてしまった。
何か問題が? ――そう言いたげな様子で、大賀見はじっと見つめてくる。みやびはその眼差しにどぎまぎした。
「あの……正直、わたしなんかでは大賀見さんの恋人役は務まらないと思っています。大賀見さんの隣に立てるような美女でもありませんし。なので、もしわたしにできる事務作業とかがあれば、そちらのお手伝いをできればと――」
「そういう藤尾さんがいいんだ。それに自信なんて必要ない。ただ俺の傍にいて、俺の恋人……として隣に立ってくれればそれでいい」
みやびの言葉を、大賀見は一蹴する。
「ですが、わたしなんて、とても大賀見さんに相応しいとは――」
「へえ。藤尾さんは相応しいとか相応しくないとか、そういう基準で人と付き合うんだ? 確かに俺たちは特に外見を重視する世界にいる。だからといって、俺はそれがその人の全てだとは思わない。俺はそれを知ってるから……他の誰でもない、君がいいと言ってるんだ」
みやびに向けられた、迷いのない真っすぐな言葉と眼差し。
大賀見はどうやら言葉を撤回する気はないみたいだ。それならば、もう腹をくくろう。
みやびは膝の上に置いた手にそっと目線を落とし、覚悟を決めるようにギュッと強く握った。
「それじゃ、俺の恋人役よろしく」
俯いていたみやびの目に、差し出された大賀見の手が映った。
「あっ!」
「……何?」
「いえ、なんでもないです」
慌てて頭を振り、恐る恐る手を差し出して大賀見と握手した。彼の武骨な手に包まれ、強い力で握られる。
大賀見は覚えていないだろう。かつて、大学四年生だったみやびと握手し、〝この業界に入ってくるのを待っているよ〟と言ったことを。
みやびは力のない笑みを浮かべ、彼の手の中から自分の手を引いた。
大賀見が、腕時計に目を落とす。
「……そろそろ、動かないとな。俺はこのままパーティを抜けさせてもらうよ」
「えっ?」
ソファから立ち上がった大賀見が、みやびを見下ろしながら頷く。
「渋沢はおそらく、スパリゾートの撮影は無理だろう。代理店側にキャンセルを申し出るにしても、それだけではうちのイメージダウンは必死だ。そうならないためにも、代役を探さないとね」
その言葉で、みやびは現実に戻された。渋沢の痛みに呻く顔が脳裏に浮かび、再び手が震える。
みやびの動揺を目にした大賀見が、口元をほころばせる。
「そんなに心配しなくていい。俺にも考えがあるから」
大賀見はそう言うなりポケットに手を突っ込み、みやびに背を向けて歩き出した。
「あの! ……考えって、なんですか?」
みやびはソファから立ち上がり、彼に声をかけた。数歩進んだところで大賀見は立ち止まり、ゆっくり振り返る。
「もちろん渋沢の代役だよ。渋沢に引けを取らない、いや……彼以上のネームバリューを持つモデルを用意し、それで先方を納得させる。ただ残念ながら弊社に彼以上のモデルはいない。そして申し訳ないが、藤尾さんの事務所にも渋沢を越えるモデルはいない」
みやびは唇を震わせながらも「わかっています」と答えた。
「つまり、別事務所のモデルに頼むことになる。ただ人気モデルはスケジュールが詰まっていて、代役を頼んでも無理な場合がある。だから時間との勝負なんだけど、今回はあまりにも時間がなさ過ぎる。少し……難しいかもしれない」
そう言い終わった時、かすかに大賀見の唇が引き結ばれ、何か考えるように目が細められた。さっきはみやびを安心させるために微笑んでくれたが、今の渋い顔が本当の心情だろう。
そんな彼を、みやびはただ見ていることしかできない。それが歯がゆかった。
「……わたしにできることがあればなんでも言ってください。お手伝いさせていただきますので」
「手伝う? ああ。それなら渋沢の件を頼んでいいかな? 西塚さんと連絡を取って、彼の怪我の状態を教えてほしい。あいつきっと……社長の俺には言い辛いと思うから間に入ってほしいんだ」
「わかりました!」
力強く頷くみやびに、大賀見が急にふっと笑う。甘い笑みに戸惑い、どこかへ消えていた彼に対する緊張が込み上げてきた。頬が火照る。そこを手の甲で冷ましながら、視線を彷徨わせた。
「あの……あまり、そんな風に見ないでください」
これ以上舞い上がってしまわないようにと気を付けているのに、大賀見はお構いなしに色っぽい声を漏らして笑った。
今までに感じたことのない疼きが背筋を這い、それがさらにみやびの躯を熱くさせる。
「悪かったね。だけど、そんな状態では俺の恋人は務まらないな」
「えっ?」
大賀見の言葉の意味がわからず、つい訊き返したみやびに、彼は苦笑いした。だが何も言わず、再び腕時計に視線を落とす。
「……悪い。本当にそろそろ事務所へ戻るよ」
「あっ、はい!」
それから大賀見はみやびには目もくれず、背を向けて歩き出した。そんな彼をエレベーターホールまで見送るために、急いであとを追う。
目に入る広い背中、ランウェイにいるみたいにしなやかな足取り、そして廊下の角を曲がった時に見えた凛とした横顔。全てにおいてパーフェクトな大賀見を、みやびはうっとりと見つめ続けた。
こんな風に目を奪われるのは、みやびだけではない。みやびの知る限り、この業界で働く人の中にも彼の目に映りたい、隣に並びたいと思う女性はたくさんいる。それほど大賀見は女性にモテていた。
そんなことを考えていたせいか、突然疑問が湧いた。
何故大賀見は恋人役を必要としているのだろう。みやびに頼まなくても、彼が指を鳴らせば美女が寄ってくるのに……
小首を傾げた瞬間、大賀見が立ち止まって振り返った。
「藤尾さん。それじゃ、渋沢の怪我の状況がわかったら俺に連絡してくれ。いいね?」
「はい!」
不意に声をかけられ、動揺のあまり大きな声で返事をしてしまった。
「何時になっても構わない。たぶん今夜は……遅くまで事務所に残って対応しなければならないと思うから。できれば仕事用の番号ではなく、俺専用の……プライベートの番号へ連絡してくれないか?」
「プライベートの、ですか?」
「ああ」
「はい、わかりました」
頷くみやびに、大賀見が苦笑した。そして「やっぱりな……」という小声の呟きが耳に入った。
何? ――と訊ねようとしたが、その前にエレベーターの扉が開いた。そして大賀見はひとりでそれに乗り込み、行ってしまった。
大賀見の姿が消えてひとりになると、みやびは躯の力をゆっくり抜いた。
「まずは、奈々に電話をするところから始めなきゃね」
みやびはクラッチバッグを開けて携帯を取り出すが、そこでふとエレベーターに視線を戻した。
大賀見は電話をしてくれと言った。でも、事務所で夜遅くまで頑張ると言ってくれた彼に対し、本当に電話で連絡するだけでいいのだろうか。
みやびはその場で激しく頭を振る。
それでいいはずがない。みやびはみやびなりに、誠意を示すべきだ。
クラブの入り口に向かって歩き出しながら、奈々に電話をかけた。
コール音が鳴り響く。しかし十コールほど鳴っても、その音は止まない。かけ直そうと思った時、回線の切り変わる音が聞こえた。
「奈々?」
『……みやびん、今診察が終わったんだけど、大輔……やっぱり鎖骨骨折してるって』
奈々の嗚咽まじりの声が聞こえる。
「わかったわ。怪我の件については、わたしから大賀見さんに連絡を入れるね。渋沢さんには、今日は何も考えず、躯を休めるように言ってあげて」
『うん、わかった。ごめんね……、本当にごめんね、みやびん』
どうして奈々が謝るのだろう。謝るべきなのはみやびなのに……
「奈々も、今日はもう家に戻って、ね」
みやびは事故のことはもう口にせず、通話を切った。
本当は、すぐにでも大賀見の事務所へ走り出したかった。でもおそらく彼のやるべきことは山積みで、今あとを追ったとしても迷惑なだけだろう。ここはまずパーティに戻り、自分の仕事を終えてから動くべきだ。
みやびはやるべきことを頭の中で整理すると、ドアを開けて音楽の鳴り響くクラブに入った。
二
――二時間後。
デスクのライトだけを灯した薄暗い社長室で、大賀見一哉は椅子に座っていた。
渋沢の件は、彼のマネージャーに指示をした。詳しい話は、明日事務所でと伝えている。
そして一哉はというと、自分にしかできないことに取り組んでいた。コツンコツンと指でデスクを叩いては、受話器の向こうから聞こえる、相手ののらりくらりとした捉えどころのない話に相槌を打つ。
「……吉住社長」
本当はこの相手には頭を下げたくない。でも彼に頼むことで、藤尾みやびの歓心を買えるのならと腹をくくった。そう思うほど、一哉の心には余裕がなかった。
この約四年、一哉は彼女を探し続けていた。だが彼女はその間に外見を変え、何食わぬ顔をして一哉の前に立っていたとは。
みやびは、この先も真実を話そうとはしないだろう。数時間前、大声で一哉をタイプではないと言い放った彼女が、自分から接点を持とうとするはずがない。
向こうが来なければ、こちらから先手を打つしかない。
一哉は奥歯を噛み締め、漏れそうになる怒りを堪える。そして受話器をしっかり耳に押し当てた。
「……吉住社長、そろそろ要点をまとめてもいいでしょうか?」
『おいおい、私を諌めるような声を発しないでくれ。別にいいじゃないか、一哉の方から頭を下げてくるなんて久しぶりなんだし。ただ、クラブで顔を合わせた時に言ってほしかったけどね』
嫌味ったらしい言い方に、受話器を持つ手に力が入る。だがその件については触れず、さっさと話を進める。
「それでは御社のモデル、豊永孝宏を推薦してよろしいんですね?」
『もちろん、いいに決まってる! 一哉の頼みを私が断るとでも? うちに所属していた十五歳から二十七歳までの間、ずっとお前を可愛がってきたんだ。だから一哉のことは、なんでも覚えているよ。何と引き換えに独立したのかもね』
また嫌な言い方をする。一瞬苛立つがすぐに感情を抑え込み、わざと笑みを零す。
「吉住社長にいただいた恩を忘れてはいません。少しずつですが、それをお返しできるようこれからも頑張りますよ。もちろんどこへも行かず、この自分の事務所で……ですが」
吉住社長が、一哉の強気な言葉に大声で笑う。続いて、受話器の向こう側から、クラクションにまじって「どうされました?」と問いかける男性の声が聞こえた。
パーティ後、車でどこかへ移動中なのだろう。
「近々御社に伺います。でもまずは、先方に豊永の名を出して話を進めさせていただきます。時間がないのでお許し願えればと」
『わかってる、わかってる。そういう風に動けと、私が一哉に教えたんだ。まっ、頑張りなさい。一哉が成功の道を進んでいるのは私も嬉しいからね。……未来を考えると』
「それではこれで失礼します」
吉住社長の高笑いが聞こえたが、一哉は一方的に通話を切った。
「大輔!」
奈々が急いで階段を駆け下り、動かない男性の傍に跪く。声を震わせる奈々を見て、みやびはようやく我に返った。足になんとか力を入れ、ふたりのもとへ駆け出す。
「だ、大丈夫……ですか!」
傍に近寄って初めて、その男性が誰なのかわかった。彼は大賀見モデルエージェンシーに所属している人気急上昇中のモデル、二十三歳の渋沢大輔だ。彼は綺麗な頬に擦り傷を負い、形のいい唇には血を滲ませている。そして、鎖骨に手をあてて呻いていた。
「大輔! ああ、どうしよう……大丈夫!? ねえ、しっかりして!」
「だ、大丈夫、だから……」
苦痛に顔をゆがめながらも、声を震わせている奈々を思いやる渋沢。そんなふたりの傍にいるのに、みやびは気遣いの言葉すらかけられなかった。歯が音を立てるほどぶつかり、血の気も引いていく。手は、これ以上ないほどぶるぶる震えていた。
みやびの頭には、早くふたりを引き離すことしかなかった。だから、大きな声を出した。
渋沢をこんな目に遭わせたのは、みやびだ。
「みやびん! どうしよう……大輔を病院へ連れて行かなきゃ」
奈々は潤んだ瞳を向けて、助けを求めてくる。なのに、みやびは何も言えなかった。言葉が喉の奥で詰まり、上手く声を出せない。
みやびは自分を叱咤するように、瞼をギュッと閉じた。
「いったい何をしてるんだ!」
突然聞こえた、男性の低い声。びっくりして、みやびの躯がビクンと跳ねる。
ぎこちない仕草で振り返ると、そこには大賀見が立っていた。彼は一瞬みやびを強い眼差しで射抜くが、すぐに倒れている渋沢へ視線を移す。途端に、彼の眉間に皺が刻まれた。
「……渋沢、か?」
「しゃ、ちょう……」
渋沢が起き上がろうとしたが、奈々が「動いちゃダメ!」と止める。
すると、大賀見は足早にこちらへ近づき、みやびの隣に膝をつく。額に冷や汗を浮かべる渋沢を見て、躊躇せず擦れた頬、切れた唇、そして肩に触れた。
「……っ!」
痛みに呻く渋沢を見ているだけで、みやびの手が再び小刻みに震え始めた。
「打ち身だけならいいが……、これは鎖骨が折れているかもしれない」
「すみ、ません……社長」
渋沢が痛々しそうな声で謝るが、大賀見は彼ではなく、彼の傍にいるふたりを交互に見る。そしてその視線が、青ざめるみやびの上でしばらく止まった。
「渋沢、君の今後の撮影スケジュールは?」
大賀見は渋沢に訊きながらも、みやびから視線を逸らそうとしない。みやびの反応を見て、どういう状況でこういうことが起こったのか探っているようだ。
「わかっている範囲でいい。特に直近のスケジュールが知りたい」
大賀見の言葉に、みやびは生唾をゴクリと呑み込み、手を強く握った。
手帳を開いて確認しなくてもわかる。来週、巨大娯楽施設スパリゾートで広告スチール撮りが行われる。それは奈々が参加する仕事だ。そして、奈々の友達以上恋人未満の役を演じる相手が、渋沢となっていた。
でも、きっと渋沢は撮影に参加できないだろう。一週間やそこらで彼の傷が治るとは到底思えない。
この仕事が決まった時、奈々は、彼の相手役を務められると喜んでいたのに。
みやびが奈々を窺うと、彼女は気丈に涙を堪えて、渋沢に手を貸していた。
「お、俺は――」
上体を起こした渋沢は、声を絞り出そうとした。しかし大賀見が頭を振って、彼の言葉を遮る。
「悪い、仕事より病院へ行くのが先だな。西塚さん、渋沢に付き添ってくれないかな? 本当なら俺か、もしくはうちのスタッフが連れて行くべきなんだが」
「大丈夫です、あたしが付き添います!」
奈々がはっきりそう答えると、大賀見は携帯を取り出し電話をかけた。
「タクシーを一台お願いします。場所は六本木の――」
クラブの住所を、続いてこの場所から一番近い救急病院へ向かってほしいと告げて通話を切った。
「すぐに来てくれるそうだ。下まで俺も手伝おう」
「いえ、ひとりで大丈夫です。もともと、あたしがここまで……いえ、なんでもありません」
奈々は激しく頭を振り、「大輔、あたしの肩に掴まって」と言った。
渋沢は時々よろけそうになりながら、ゆっくりと歩いていく。奈々はそんな彼の腰に腕を回し、エレベーターホールへ向かった。
「……奈々、わ、わたしも」
みやびも手を貸そうとした。だが、伸ばしたその手を大賀見に掴まれる。
「藤尾さんは、まず俺と話をしよう」
「は、はな……し?」
みやびは呆然と大賀見の言葉を繰り返した。でも彼は気にせず、奈々と渋沢の姿が消えるなり、近くにあるソファへみやびを誘った。促されるままそこに座ると、彼も隣に腰を下ろした。
「何があったのかは訊かない。渋沢と西塚さんの様子を見ていたら、だいたい予想はつくし。ところで仕事の話だけど、渋沢と西塚さん、近々……同じ仕事が入っていなかったかな」
大賀見が目だけを動かしてみやびを見る。そこには、誰かを責める色は一切ない。それがまた辛く、みやびは唇を強く引き結んでうな垂れた。
「はい……。来週、スパリゾートで広告のスチール撮影が入っています」
そこでみやびはまだ大賀見に謝っていないのを思い出し、隣に座る彼に目を向けた。
「渋沢さんに怪我をさせてしまい、本当に申し訳ありません! 怪我の状態によっては、仕事をキャンセルしなければならないですよね? そんなことになったら――」
声が震えて、その先を続けられなくなる。自分のせいで皆に迷惑をかけてしまったと実感すればするほど感情が昂ぶり、涙が込み上げてきた。
泣くなんて最低だ。泣くよりも前に、するべきことがいろいろあるのに……
このまま逃げてはダメ! ――みやびは、そう自分に言い聞かせた。手の甲で零れ落ちそうな涙を乱暴に拭い、きちんと話せるまで気持ちを落ち着けようとする。
そんなみやびの肩を、大賀見が突然抱いてきた。前触れもなく触れられたせいで嗚咽は一瞬にして止まるが、それとはまた別のパニックが込み上げてくる。
「あ、あの!」
手をどけてほしいと懇願するつもりで顔を上げて、みやびは言いかけた言葉を呑み込んだ。そこに、驚くほど真剣にみやびを見つめる大賀見の瞳があったせいだ。
触れられている肩と首筋が熱を帯びる。心臓が早鐘を打ち、送り出された血液が躯中を駆け巡って体温が上昇していく。
みやびが動揺しているとわかっているはずなのに、大賀見は顔色を一切変えない。それどころか、まるで観察するようにみやびを見つめる。それだけで、みやびの心に戸惑いと緊張が入り乱れ、唇がかすかに震え始めた。すると、彼の視線がそこに落ちた。
これ以上はもう耐えられない!
その時、大賀見はみやびに触れていた手をさりげなく退けた。
「あの仕事は、渋沢にはいい経験になると思って受けさせたが。まさか……自分で自分の首を絞めるとは」
大賀見がボソッと呟いた。その口調は淡々としていたが、みやびはきつく咎められた気がした。
「……ヤバイな。俺が動くしかないか」
大賀見は上体を前に倒すと膝に肘を載せ、難しそうな顔をして絨毯の一点をじっと見つめる。強く引き結んだ唇、双眸に冷たい光を宿す細められた目、そして手の甲に浮かんだ筋。
それを目にし、みやびは自分が大変なことをしでかしてしまったのだと再認識した。
みやびは膝の上に置いた手を強く握り、瞼をギュッと閉じた。
〝ごめんなさい〟と言うだけではダメだ。謝る以外に、みやび自身が何かをしなければ。
そこまで考えてから、みやびは心の中で激しく頭を振った。
一介のマネージャーにできることなんてたかが知れている。大賀見の事務所での補助や、使い走りぐらいしか思いつかない。だが、そんなことでも彼の役に立つなら手伝いたかった。
みやびは思いを込めて、大賀見の顔をじっと見つめた。
「大賀見さん。あの、わ……わたしにできることならなんでもします!」
「……はあ?」
大賀見が素っ頓狂な声を上げた。
「わたしが何かする程度では、お詫びにはならないとわかってます。でも、大賀見さんのお役に立ちたい。だから、なんでも言ってください。わたしにできるならなんでも……本当になんでもしたいと思ってるんです」
みやびは頭を下げ、嘘偽りのない気持ちを伝えた。でも、大賀見は一言も発しない。
みやびなんかが彼の役に立つわけがないと思っているのだろう。だがたとえそうだとしても、今の自分にできるのはこれしかなかった。
「本当に……なんでもします。大賀見さんのしてほしいことを言ってください!」
さらに深く頭を下げる。
「……へえ、〝なんでもする〟ね」
突然頭上から降ってきた、大賀見の低い声。これを耳にするのは二度目だった。一度目は彼がみやびの頭にかぶせられたウィッグを引っ張った時、そして二度目が今だ。
何かがおかしい……
また大賀見の機嫌を損ねてしまったのかと、彼をそっと窺う。でも思ったほど怒っているようには見えない。みやびはホッと安堵した。
「はい、なんでもします。わたしに大賀見さんのお手伝いをさせてください! 事務所が違うので、いろいろと問題があるかもしれませんけど――」
「じゃ、俺の恋人に……いや、俺の恋人を演じてくれる?」
ええ、もちろん! ――と頷こうとしたところで、みやびの思考がピタッと止まる。
「……えっ? こ、恋人? わたしが、ですか?」
「ああ、もちろん。ここには君しかいないのに、いったい誰に頼むと言うんだい?」
「だ、だって……わたしが……恋人?」
呆然と受け答えしていたが、徐々に〝恋人〟という単語が頭の中に浸透していく。それがどういう意味なのかわかると、一瞬にしてみやびの顔が真っ赤になった。
「ダメ……、わたしにはできません!」
絶対に無理だ。男性と付き合った経験のないみやびに、そんなことできるわけない。
それに、どうして彼はそんなことを頼むのだろう。渋沢の件で大賀見を手伝いたいという流れで話をしていたはずなのに、彼が急に話をすり替えたのも理解できなかった。
みやびは唇を歯で噛み、全てを拒むように激しく頭を振った。
「そんなの、絶対にダメです!」
「絶対に、ダメ……ね。結局、〝なんでもする〟って言ったのは、口先だけってことか」
みやびを嘲るように、大賀見が鼻で笑う。それを耳にした途端、みやびは気付いた。
大賀見は、別に話をすり替えたわけではないのだ。彼はみやびにして欲しいことを、ただ口にしただけだ。
みやびは、膝の上に置いた手に視線を落とした。
大賀見の望む恋人を自分が演じられるとは到底思えない。でもそれが彼の望みなら、みやびはその気持ちに応えるべきだろう。彼に〝なんでもする〟と言ったのは、その場しのぎの嘘ではなく心からの言葉だから。
緊張のあまり、口の中がからからになるのを感じる。それでも、みやびは今、誠意を見せなければならない。
覚悟を決めると、みやびは何度も生唾を呑み込みながら顔を上げた。
「あ、の……大賀見さん」
大賀見が、ゆっくりみやびに顔を向ける。
「うん? 何?」
「わたしなんかで務まるのか……わからないですけど、大賀見さんの助けになるのなら、わたし頑張ります」
「……つまり?」
大賀見は大げさに片眉を上げて見せ、続きを求める。彼の意地悪な訊き返し方に、みやびの喉の奥がうっと詰まった。
返事の意味をわかっていてそんな風に言うなんてひどい。だけど、こういう展開になったのは自分のせいだと思い直し、もう一度彼と向き合う。
「わたし、大賀見さんの恋人……役を引き受けます」
そう言った瞬間、大賀見が満足げに口元を緩めた。その笑みに、みやびの心臓がドキッとする。
「藤尾さんなら、必ずそう言ってくれると思ったよ」
その心を蕩けさせる艶っぽい笑顔を見ていられず、みやびは慌てて顔を背けた。そして恥ずかしさのあまり目を伏せる。
「で、でも……大賀見さんは、本当にいいんですか?」
「何が?」
「何がって――」
みやびは思わず顔を上げ、大賀見と目を合わせてしまった。
何か問題が? ――そう言いたげな様子で、大賀見はじっと見つめてくる。みやびはその眼差しにどぎまぎした。
「あの……正直、わたしなんかでは大賀見さんの恋人役は務まらないと思っています。大賀見さんの隣に立てるような美女でもありませんし。なので、もしわたしにできる事務作業とかがあれば、そちらのお手伝いをできればと――」
「そういう藤尾さんがいいんだ。それに自信なんて必要ない。ただ俺の傍にいて、俺の恋人……として隣に立ってくれればそれでいい」
みやびの言葉を、大賀見は一蹴する。
「ですが、わたしなんて、とても大賀見さんに相応しいとは――」
「へえ。藤尾さんは相応しいとか相応しくないとか、そういう基準で人と付き合うんだ? 確かに俺たちは特に外見を重視する世界にいる。だからといって、俺はそれがその人の全てだとは思わない。俺はそれを知ってるから……他の誰でもない、君がいいと言ってるんだ」
みやびに向けられた、迷いのない真っすぐな言葉と眼差し。
大賀見はどうやら言葉を撤回する気はないみたいだ。それならば、もう腹をくくろう。
みやびは膝の上に置いた手にそっと目線を落とし、覚悟を決めるようにギュッと強く握った。
「それじゃ、俺の恋人役よろしく」
俯いていたみやびの目に、差し出された大賀見の手が映った。
「あっ!」
「……何?」
「いえ、なんでもないです」
慌てて頭を振り、恐る恐る手を差し出して大賀見と握手した。彼の武骨な手に包まれ、強い力で握られる。
大賀見は覚えていないだろう。かつて、大学四年生だったみやびと握手し、〝この業界に入ってくるのを待っているよ〟と言ったことを。
みやびは力のない笑みを浮かべ、彼の手の中から自分の手を引いた。
大賀見が、腕時計に目を落とす。
「……そろそろ、動かないとな。俺はこのままパーティを抜けさせてもらうよ」
「えっ?」
ソファから立ち上がった大賀見が、みやびを見下ろしながら頷く。
「渋沢はおそらく、スパリゾートの撮影は無理だろう。代理店側にキャンセルを申し出るにしても、それだけではうちのイメージダウンは必死だ。そうならないためにも、代役を探さないとね」
その言葉で、みやびは現実に戻された。渋沢の痛みに呻く顔が脳裏に浮かび、再び手が震える。
みやびの動揺を目にした大賀見が、口元をほころばせる。
「そんなに心配しなくていい。俺にも考えがあるから」
大賀見はそう言うなりポケットに手を突っ込み、みやびに背を向けて歩き出した。
「あの! ……考えって、なんですか?」
みやびはソファから立ち上がり、彼に声をかけた。数歩進んだところで大賀見は立ち止まり、ゆっくり振り返る。
「もちろん渋沢の代役だよ。渋沢に引けを取らない、いや……彼以上のネームバリューを持つモデルを用意し、それで先方を納得させる。ただ残念ながら弊社に彼以上のモデルはいない。そして申し訳ないが、藤尾さんの事務所にも渋沢を越えるモデルはいない」
みやびは唇を震わせながらも「わかっています」と答えた。
「つまり、別事務所のモデルに頼むことになる。ただ人気モデルはスケジュールが詰まっていて、代役を頼んでも無理な場合がある。だから時間との勝負なんだけど、今回はあまりにも時間がなさ過ぎる。少し……難しいかもしれない」
そう言い終わった時、かすかに大賀見の唇が引き結ばれ、何か考えるように目が細められた。さっきはみやびを安心させるために微笑んでくれたが、今の渋い顔が本当の心情だろう。
そんな彼を、みやびはただ見ていることしかできない。それが歯がゆかった。
「……わたしにできることがあればなんでも言ってください。お手伝いさせていただきますので」
「手伝う? ああ。それなら渋沢の件を頼んでいいかな? 西塚さんと連絡を取って、彼の怪我の状態を教えてほしい。あいつきっと……社長の俺には言い辛いと思うから間に入ってほしいんだ」
「わかりました!」
力強く頷くみやびに、大賀見が急にふっと笑う。甘い笑みに戸惑い、どこかへ消えていた彼に対する緊張が込み上げてきた。頬が火照る。そこを手の甲で冷ましながら、視線を彷徨わせた。
「あの……あまり、そんな風に見ないでください」
これ以上舞い上がってしまわないようにと気を付けているのに、大賀見はお構いなしに色っぽい声を漏らして笑った。
今までに感じたことのない疼きが背筋を這い、それがさらにみやびの躯を熱くさせる。
「悪かったね。だけど、そんな状態では俺の恋人は務まらないな」
「えっ?」
大賀見の言葉の意味がわからず、つい訊き返したみやびに、彼は苦笑いした。だが何も言わず、再び腕時計に視線を落とす。
「……悪い。本当にそろそろ事務所へ戻るよ」
「あっ、はい!」
それから大賀見はみやびには目もくれず、背を向けて歩き出した。そんな彼をエレベーターホールまで見送るために、急いであとを追う。
目に入る広い背中、ランウェイにいるみたいにしなやかな足取り、そして廊下の角を曲がった時に見えた凛とした横顔。全てにおいてパーフェクトな大賀見を、みやびはうっとりと見つめ続けた。
こんな風に目を奪われるのは、みやびだけではない。みやびの知る限り、この業界で働く人の中にも彼の目に映りたい、隣に並びたいと思う女性はたくさんいる。それほど大賀見は女性にモテていた。
そんなことを考えていたせいか、突然疑問が湧いた。
何故大賀見は恋人役を必要としているのだろう。みやびに頼まなくても、彼が指を鳴らせば美女が寄ってくるのに……
小首を傾げた瞬間、大賀見が立ち止まって振り返った。
「藤尾さん。それじゃ、渋沢の怪我の状況がわかったら俺に連絡してくれ。いいね?」
「はい!」
不意に声をかけられ、動揺のあまり大きな声で返事をしてしまった。
「何時になっても構わない。たぶん今夜は……遅くまで事務所に残って対応しなければならないと思うから。できれば仕事用の番号ではなく、俺専用の……プライベートの番号へ連絡してくれないか?」
「プライベートの、ですか?」
「ああ」
「はい、わかりました」
頷くみやびに、大賀見が苦笑した。そして「やっぱりな……」という小声の呟きが耳に入った。
何? ――と訊ねようとしたが、その前にエレベーターの扉が開いた。そして大賀見はひとりでそれに乗り込み、行ってしまった。
大賀見の姿が消えてひとりになると、みやびは躯の力をゆっくり抜いた。
「まずは、奈々に電話をするところから始めなきゃね」
みやびはクラッチバッグを開けて携帯を取り出すが、そこでふとエレベーターに視線を戻した。
大賀見は電話をしてくれと言った。でも、事務所で夜遅くまで頑張ると言ってくれた彼に対し、本当に電話で連絡するだけでいいのだろうか。
みやびはその場で激しく頭を振る。
それでいいはずがない。みやびはみやびなりに、誠意を示すべきだ。
クラブの入り口に向かって歩き出しながら、奈々に電話をかけた。
コール音が鳴り響く。しかし十コールほど鳴っても、その音は止まない。かけ直そうと思った時、回線の切り変わる音が聞こえた。
「奈々?」
『……みやびん、今診察が終わったんだけど、大輔……やっぱり鎖骨骨折してるって』
奈々の嗚咽まじりの声が聞こえる。
「わかったわ。怪我の件については、わたしから大賀見さんに連絡を入れるね。渋沢さんには、今日は何も考えず、躯を休めるように言ってあげて」
『うん、わかった。ごめんね……、本当にごめんね、みやびん』
どうして奈々が謝るのだろう。謝るべきなのはみやびなのに……
「奈々も、今日はもう家に戻って、ね」
みやびは事故のことはもう口にせず、通話を切った。
本当は、すぐにでも大賀見の事務所へ走り出したかった。でもおそらく彼のやるべきことは山積みで、今あとを追ったとしても迷惑なだけだろう。ここはまずパーティに戻り、自分の仕事を終えてから動くべきだ。
みやびはやるべきことを頭の中で整理すると、ドアを開けて音楽の鳴り響くクラブに入った。
二
――二時間後。
デスクのライトだけを灯した薄暗い社長室で、大賀見一哉は椅子に座っていた。
渋沢の件は、彼のマネージャーに指示をした。詳しい話は、明日事務所でと伝えている。
そして一哉はというと、自分にしかできないことに取り組んでいた。コツンコツンと指でデスクを叩いては、受話器の向こうから聞こえる、相手ののらりくらりとした捉えどころのない話に相槌を打つ。
「……吉住社長」
本当はこの相手には頭を下げたくない。でも彼に頼むことで、藤尾みやびの歓心を買えるのならと腹をくくった。そう思うほど、一哉の心には余裕がなかった。
この約四年、一哉は彼女を探し続けていた。だが彼女はその間に外見を変え、何食わぬ顔をして一哉の前に立っていたとは。
みやびは、この先も真実を話そうとはしないだろう。数時間前、大声で一哉をタイプではないと言い放った彼女が、自分から接点を持とうとするはずがない。
向こうが来なければ、こちらから先手を打つしかない。
一哉は奥歯を噛み締め、漏れそうになる怒りを堪える。そして受話器をしっかり耳に押し当てた。
「……吉住社長、そろそろ要点をまとめてもいいでしょうか?」
『おいおい、私を諌めるような声を発しないでくれ。別にいいじゃないか、一哉の方から頭を下げてくるなんて久しぶりなんだし。ただ、クラブで顔を合わせた時に言ってほしかったけどね』
嫌味ったらしい言い方に、受話器を持つ手に力が入る。だがその件については触れず、さっさと話を進める。
「それでは御社のモデル、豊永孝宏を推薦してよろしいんですね?」
『もちろん、いいに決まってる! 一哉の頼みを私が断るとでも? うちに所属していた十五歳から二十七歳までの間、ずっとお前を可愛がってきたんだ。だから一哉のことは、なんでも覚えているよ。何と引き換えに独立したのかもね』
また嫌な言い方をする。一瞬苛立つがすぐに感情を抑え込み、わざと笑みを零す。
「吉住社長にいただいた恩を忘れてはいません。少しずつですが、それをお返しできるようこれからも頑張りますよ。もちろんどこへも行かず、この自分の事務所で……ですが」
吉住社長が、一哉の強気な言葉に大声で笑う。続いて、受話器の向こう側から、クラクションにまじって「どうされました?」と問いかける男性の声が聞こえた。
パーティ後、車でどこかへ移動中なのだろう。
「近々御社に伺います。でもまずは、先方に豊永の名を出して話を進めさせていただきます。時間がないのでお許し願えればと」
『わかってる、わかってる。そういう風に動けと、私が一哉に教えたんだ。まっ、頑張りなさい。一哉が成功の道を進んでいるのは私も嬉しいからね。……未来を考えると』
「それではこれで失礼します」
吉住社長の高笑いが聞こえたが、一哉は一方的に通話を切った。
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