恋するオオカミにご用心

綾瀬麻結

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1巻

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   一


 ステージやブースを完備した、六本木の有名クラブ。非日常空間を演出するそこは、週末の夜はいつも若者たちであふれ返る。ただこの日は貸し切りのため、一般客は立ち入り禁止になっていた。今日はここで、吉住よしずみモデルプロモーションの設立三十五周年記念パーティが行われているのだ。
 インターネットなどで情報が漏れているのか、追っかけのファンがビルの周囲にちらほらとたたずんでいる。人気のあるモデルや俳優が来ているとなれば、それは当然だろう。
 クラブのフロアでは、DJミックスに合わせて若いモデルたちが楽しそうに踊り、年配の業界関係者たちはアルコールの入ったグラスを手に談笑している。各々おのおのが、この無礼講ぶれいこうのパーティを楽しんでいた。
 パーティには、アットモデルプロダクションでマネージャーをしている二十五歳の藤尾ふじおみやびも招待されていた。みやびは関係者に挨拶あいさつしては場所を移動し、次から次へと歓談の輪に加わる。
 一時間も経つと肩の力も抜け、パーティを楽しむ余裕も生まれていた。
 そう、そのはずだった。
 一息つこうと輪を離れた時、他事務所の男性マネージャーに声をかけられ、ふたりきりで話すことになるまでは……


 この時、みやびの表情は引きつっていた。
 女子校育ちのせいか、みやびはこの年齢になっても男性と話すのが苦手だった。なんとか直したいと思ってはいるものの、まだ上手うまくいっていない。

「さすが大手の事務所ですよね。吉住よしずみ社長の人脈って本当に凄いな」
「は、はい……そうですよね。あの……、わたしもそう思います」
「あっ、藤尾さんのところの安土あづち社長が、吉住社長と話してるよ」

 気遣ってくれているのか、彼は会話を続けようとしてくれるが、みやびは気のいた返事ができないでいた。彼が困ったように苦笑する。

「俺もあとで安土社長に挨拶あいさつさせてもらうね。それじゃ、また現場で会った時はよろしく」
「はい! あの……こちらこそ、どうぞよろしくお願いします」

 みやびは男性マネージャーに頭を下げ、歩き去る彼を見送った。
 また緊張してしまった……
 みやびは肩を落とし、ふーっと長い息をついた。
 いったいどうしたら、男性の前でおどおどしなくなるのだろう。
 アルコールの力を借りるのは本意ではないが、それで少しでも気合が入るのなら……
 みやびは手にしたグラスを口へ運ぼうとした。

「みやび、見てたわよ!」

 突然声をかけられて振り向く。そこにいたのは、事務所の先輩マネージャーの皆川みながわだった。

「男性相手だとまだ緊張が取れないみたいだけど、入社当時に比べたら……うん、進歩だね」

 皆川は笑いながら、みやびの肩を優しく叩いた。

「ありがとうございます。これも皆川さんが根気良くご指導してくださったお陰です」

 みやびは皆川と向かい合うと、自然に笑顔になった。
 彼女はみやびに、マネージャーの仕事を一から叩き込んでくれた人だ。でもそれだけではない。お洒落しゃれ無頓むとんちゃくだったみやびに、似合う化粧と服選びを教えてくれた。腰まで届くストレートの黒髪をボブスタイルにするよう勧め、その髪にカラーを入れ、毛先にだけパーマをかけると似合うという助言をしてくれたのも彼女だ。
 こうして皆川の意見を取り入れたことで、みやびもなんとか年齢相応の女性に見られるようになったのだ。
 今日着ている膝上丈のキャミソールドレスも、以前皆川と一緒に買い物した時に見立ててもらったもの。胸元に入ったアコーディオンプリーツは、みやびを可愛らしく見せつつ女らしさも強調してくれていた。
 どうすればその人物を引き立たせることができるか、皆川は良くわかっている。さすが、スカウトまでこなす敏腕マネージャーだ。
 頼もしい先輩のそばで口元をほころばせたその時、皆川が急に視線を移した。

奈々ななちゃん、今日はかなりはしゃいでるみたいね」

 皆川の視線の先を見て、みやびは「はい」と答えた。
 DJブースの前で笑顔を見せているのは、みやびが担当している二十歳の西塚にしづか奈々。彼女は読者モデルから専属モデルへと成長した、アットモデルプロダクションの若手有望株のひとりだ。メディアへの露出も増えてきている。
 最近仕事が忙しく休みもなかったので、その鬱憤うっぷんを晴らしているのだろう。
 もう少し落ち着いてほしい気もするが、今日のような盛大なパーティでは仕方がないのかもしれない。
 奈々は、同じ事務所の女性モデルと一緒だった。そのモデルが、手にしたウィッグを頭上で振り回したり誰かの頭にかぶせたりしている。奈々はそんな彼女と一緒に、笑い合っては元気に飛び跳ねていた。

「まっ、パーティは楽しむものだし、今日は仕方ないかな。それに――」
「皆川さん! みやびん!」

 突然、皆川の言葉をさえぎるような甲高い声が聞こえた。慌ててそちらへ向くと、同じ事務所の先輩マネージャーがこちらに駆け寄ってくるところだった。

「どうしたの?」
「き、き、来ましたよ!」

 彼女はどもりながら、訊き返した皆川とみやびを交互に見る。

大賀見おおがみさんですよ! パーティが始まってもずっと姿が見えなかったので、来ないんだとばかり思ってましたけど、たった今来たみたいです! 吉住社長に挨拶あいさつしてます」

 大賀見さんが来た!? 
 みやびの心臓がドキンと高鳴った。
 彼の名を心の中でささやくだけで肌が粟立あわだち、熱い想いが全身の血管を駆け巡る。突然湧き起こった反応に、喉の奥で低くうめきそうになった。
 そんなみやびの隣で、皆川が頷く。

「来ないわけないわよ。大賀見さんにとって、吉住社長は恩義のある人だもの。吉住社長のところでモデルをしていたのに、絶頂期に引退。直後、社長の下で経営の勉強を始めるだなんて。それだけでもびっくりなのに、独立して新事務所設立でしょ。しかもたった数年で事業を軌道に乗せ、先月には自社ビルが完成。才能あり過ぎよね」
「彼って、まさにモデル業界の風雲児ですよね! 人目をく立ち姿もですけど、あの甘いマスク、低い声、引き締まった見事な体躯たいく……ああ、やっぱりいつ見てもカッコいい!」

 皆川の隣で、先輩がうっとりと歓喜の声をこぼす。その横でみやびは、話題の中心にいる大賀見一哉いちやにこっそり目を向けた。
 吉住社長と言葉を交わす彼の姿を目にした瞬間、胸がドキドキし始めた。それに比例して、そばで話す先輩たちの声が遠ざかり、音楽や騒ぐモデルたちの声もどんどん小さくなっていく。
 聞こえるのは、耳の傍で太鼓を打ち付けるように激しく脈打つ、自分の拍動音のみ。
 頭がボーッとしてくる。なのに、特別なオーラを放つ大賀見から目を逸らせなかった。
 大賀見は、ICHIYAの名でモデル界を席巻せっけんした元有名ステージモデルだ。その均整のとれた体躯たいく、端整な甘いマスクで女性たちをとりこにしてきた。
 黒々とした目力のある双眸そうぼうや真っすぐな鼻梁びりょう。そこからは男らしさが匂い立っている。柔らかそうな唇や優しげな笑みは、女性の心を惑わす官能的なつやっぽさがある。人の目を釘付けにする彼は、業界内では引っ張りだこだった。
 その大賀見がモデルを引退してもう十年。三十二歳になったというのに、今もその魅力は色褪いろあせていない。それどころか、年を重ねるごとに男の色香が増している気さえする。

「……ねえ、みやびん。あたしの話、聞いてる?」

 突然自分の名を呼ばれて、みやびはハッと我に返った。慌てて隣の先輩を見る。

「すみません! あの、なんの話……ですか?」

 先輩がニヤニヤしながら、ふふっと笑う。

「今ね、皆川さんと大賀見さんの話をしてたの。彼って誰に対しても優しくて、人当たりが良くて、平等でしょ? でも、それって恋人に対しては違うんじゃないかなって。名前のとおり、カノジョにはオオカミになっちゃいそうじゃない?」

 オ、オオカミ!?
 みやびの脳裏に、オオカミに変身した大賀見が浮かび上がる。
 そして、そのままカノジョに……
 みやびにとって、彼が綺麗な女性を激しく求める光景は生々し過ぎた。血が沸騰したかのように感じ、からだが熱くなる。

「ちょっと、余計な推測しないの」

 皆川が楽しそうに笑う先輩をたしなめるが、先輩は引き下がらない。

「でも、皆川さんだってそう思いません? 大賀見さん、きっとカノジョの前では獰猛どうもうな捕食動物に早変わりですよ。もしみやびんがカノジョだったら、きっと何をされているかわからないままオオカミに……ペロリだね!」
「ちょっと! 誰が聞いてるのかわからないんだから、もっと声をひそめなさい!」

 皆川に言われて、先輩が素直に「はーい」と言う。でもみやびは、生々しい会話に頬を真っ赤に染めていた。抑えなければと思うほど、どんどん火照ほてりは増していく。

「あっ、ごめんね。みやびんにはちょっと刺激が過ぎた?」
「いえ、あの……はい」

 手の甲を頬にあてて、熱を冷まそうとしながら素直に答えた。だが、みやびのその態度が、先輩の遊び心に火をつけたみたいだ。先輩が楽しそうにニヤリとする。

「それでどうなの?」
「えっ?」
「ついさっきまで大賀見さんをこっそり見てたでしょ? もしかしてみやびんって……大賀見さんのことが好きなのかなと思って」

 えっ? ……ええっ!?
 みやびは目を見開き、大きな音を立てて息を吸った。そんな風にずばり気持ちを言い当てられるとは思っていなかった。

「いいえ……いいえ! わたしは大賀見さんを好きじゃありません!」

 咄嗟とっさに嘘をついてしまって、みやびはハッとした。別に取り繕わなくても、先輩たちならみやびを応援してくれる。それがわかってても、どうしても素直になれなかった。
 心のどこかで、彼との出会いを大切にしたいという思いがあったからかもしれない。
 みやびが大賀見を好きになったのは、約四年前。まだ大学四年生の時だった。
 ミスキャンパスコンテストの特別審査員として来た大賀見に声をかけられたのが切っ掛けで、みやびは今も彼に恋している。彼と言葉を交わしたのはほんの数分だったが、裏方のみやびにまで気を遣ってくれた優しさに心打たれたのだ。
 化粧もせずほこりまみれでジャージ姿のみやびは、決して彼の興味をく女性ではなかったはずなのに……
 この業界に入って大賀見と再会を果たしたが、彼はみやびを覚えていなかった。それも当然だろう。だが、それは全く関係ない。想いを心に秘めながら、彼をこっそり見つめられるだけで幸せだった。
 このことを、みやびは誰にも話していない。まだ自分だけのものにしておきたいという気持ちが強かった。
 みやびは勇気をふりしぼって顔を上げると、生唾なまつばをゴクリと呑み込んだ。

「あの、もちろん先輩が思うように、大賀見さんは素敵な男性だと思います。でもわたしの……好みとかけ離れてる……というか」

 その点は嘘じゃない。確かに大賀見のことは大好きだが、理想の男性は、昔から物静かで穏やかなお兄さんタイプだ。

「そっか。みやびんは大賀見さんが好きなんだと思ってたんだけど……。でも、それは現在の話で、将来はどうなるかわからないよね?」

 まるでみやびの気持ちは知っているとでも言いたげに、先輩はにっこり笑った。

「はい、その話はもう終わり!」

 皆川が手を胸の前で叩いて言った。彼女の意味深な言葉に内心ドキドキしていたみやびは、やっと胸を撫で下ろした。

「すみませんでした。でも、みやびんがあまりにも可愛くて」

 先輩は肩をすくめて謝ったが、またすぐにみやびに目を向ける。

「嫌な思いをさせちゃってごめんね。ところで恋バナが出て思ったんだけど、奈々ちんの様子はどう? メディア出演が増えてきたせいか、最近綺麗になっている気がするの。こういう時って、恋愛が関係していることもあるから気を付けてね。うちの事務所は恋愛NGだし」

 奈々の名前が出るなり、みやびは背筋をピンと伸ばした。

「はい。十分に気を付けます」
「うむ、頼む」

 真面目に言いながらも、わざとおちゃらけて安土社長の口癖を真似まねする先輩。みやびと皆川は顔を見合わせてぷっと噴き出した。
 皆でひとしきり笑い合ったあと、皆川が腕時計に視線を落とす。

「それじゃ、またあとで会いましょう」

 皆川はみやびたちに頷くと、他のマネージャーたちの輪へ向かって歩き出した。

「じゃ、あたしも行くね」

 先輩も、皆川とは違う方向へ歩いていった。ふたりの先輩がいなくなったことで、みやびはその場にひとりになった。

「わたしも動かなきゃ」

 まだ挨拶あいさつしていない人を探すように、周囲を見回す。できれば、顔見知りの人と初対面の人が混在している輪に入りたい。相手が男性であっても、今度はあまり緊張しないようにと自分に言い聞かせて、ゆっくりフロアを歩き出した。
 その時だった。

「藤尾さん」

 男性に名前を呼ばれて、みやびのからだはビクッとその場で飛び上がった。呼びかけただけでみやびをこんな風にする相手は、ひとりしかない。
 みやびはゆっくり振り返り、そこに立つ大賀見を見上げた。

「お、大賀見……社長」

 緊張のあまりどもってしまうが、みやびはすぐに背筋を伸ばした。でも目の前にいるのは、好きな人。彼を見ているだけで、胸の高まりを抑え切れない。
 落ち着いて、今度は失敗しないように――と自分に言い聞かせて、みやびは大賀見をうかがった。
 視線がぶつかるなり、大賀見はどんな女性をもとろけさせる極上の笑みを浮かべる。それだけで、みやびの躯に、甘くじりじりとした電流が走った。それに気付きもしない彼は、さらに距離を縮める。

「やあ、こんばんは。ところで、その〝社長〟は無しだって前に言わなかったかな」
「す、すみません!」

 みやびはシドロモドロになりながら謝った。
 大賀見は、何故かそう呼ばれるのを好まなかった。モデル業界でそれを知らない人はおらず、彼を〝社長〟と呼ぶのは、所属モデルたちと、面白がってからかおうとする人たちだけだ。
 それをわかっていたはずなのに……

「改めてくれるならそれでいいさ。ところで藤尾さんは……今日も可愛いね」

 突然の褒め言葉に、みやびの頬が熱く火照ほてっていく。
 大賀見は俗に言う女たらしとは違うが、職業柄か、誰に対しても優しく接する。だから、みやびに言ってくれた言葉も本気にしてはいけないとわかっているのに、どうしても照れてしまう。

「いえ、わたしなんか別に……。ところであの、……どなたかを探されているんですか?」
「そうなんだ。御社の安土社長が見えないんだけど、どこにいるのか知らない? もしかして、もう帰られたのかな?」

 そう言いながら、大賀見がさりげなくみやびに近づく。それに気付いたみやびは慌てて一歩下がり、距離を取った。
 その態度に、大賀見が戸惑ったように笑う。でも彼のかもし出す雰囲気や堂々とした立ち居振る舞いのせいで、本当に困っているとは思えない。
 どうしてだろう。大賀見を好きなのに、話しかけられて嬉しいはずなのに、心を覗き込む真っすぐな瞳を向けられただけで、彼のそばから走って逃げたくなる。

「藤尾さん?」

 再び声をかけられて、みやびは飛び上がるほどビクッとからだを震わせた。

「あっ、安土ですよね? 確か、ほんの十数分前まではそこにいたんですけど――」

 いったいどこへ行ったのかと、薄暗いクラブ内に目を凝らして安土社長を探す。でも、どこにも見当たらなかった。

「すみません。もし急の用件でしたら、わたし……えっ!?」

 振り返った瞬間、みやびはびっくりして目を大きく見開いた。お互いの躯が触れ合いそうなほどの距離に、大賀見が立っていたからだ。
 あたふたと下がって距離を取るが、恥ずかしさで頬が一気に熱くなる。なんとかして平静を保とうと試みるが、そうすればするほど焦ってしまい、顔から火が出そうだった。

「あのさ、俺ってもしかして……藤尾さんに嫌われてる?」
「えっ? ……き、嫌われ?」

 大賀見の言葉に、みやびは何度もまばたきして彼を見上げた。

「だって、そうだろう? 俺が近づけば、君はすぐに離れる。話しかけても心ここにあらずで、まるで早く逃げ出したい……そう態度で言ってるみたいだ」

 大賀見は自信に満ちたあの表情を消し、少し寂しそうに口角を下げる。彼は本気でそう思っているようだった。
 みやびは狼狽ろうばいしながらも、違うと頭を振った。

「そんなことないです! 大賀見さんは、その……わたしみたいな他事務所のマネージャーにも気さくに声をかけてくださる優しい方です。そんな人から逃げたいだなんて」
「優しい? 男の優しさなんて、どす黒い裏があるのに――」

 大賀見が小さな声で呟き、ふっと鼻で笑った。みやびはそんな彼を上目遣いでうかがう。するとそれに気付いた大賀見が、居心地悪そうに苦笑した。

「おかしいな。藤尾さんが相手だと調子狂うよ。まるで……あの時みたいだな」

 大賀見の声は徐々じょじょに小さくなり、最後はほとんど聞き取れなかった。みやびはそんな彼の態度に、たまらずうつむいた。
 どうして大賀見は、みやびを忘れてしまったのだろう。モデル業界へ入ると告げた時、彼は嬉しそうに〝楽しみに待っているよ〟と言ってくれたのに。
 結局のところ、あれは大賀見の社交辞令だったのだ。
 小さくため息をこぼすみやびの前で、彼も力なく息をついた。

「そろそろ吹っ切らないとな……」

 大賀見は一瞬辛そうな表情をする。でもすぐにその色を消し、急にみやびに目を向けた。

「藤尾さん、あの――」

 大賀見が何かを言いかけた、その時だった。

「みーやびん、……えい!」

 女性の声が聞こえたと思ったら、みやびは頭にいきなり何かをかぶせられた。

「キャー! な、何!?」

 みやびはパニックになりながら、それを振り払おうとする。でも、上からしっかり押さえつけられているせいで逃れられない。
 横を見ると、アットモデルプロダクションの女性モデルがいた。
 アルコールが適度に入って高揚しているのかもしれないが、この行為は行き過ぎている。

「やめなさい! わたしが誰と話しているのかわかっているでしょ? こんな真似まね……ちょっ!」

 みやびが話しかけてもお構いなしに、彼女はキャッキャと楽しそうに笑って離れていく。そのまま去っていくかと思いきや、一度立ち止まって振り返り、頭上で手を大きく振った。

「みやびん! そのウィッグ、とっても似合ってるよ。昔に戻ったみたいで可愛い!」

 言いたいことを言うと、彼女は再びモデル仲間たちのグループに戻っていった。
 彼女の礼儀のなさに、みやびは力なく小さく頭を振る。そして、かぶせられたロングのウィッグに触れた。

「弊社のモデルが無作法で本当にすみません。きちんと言い聞かせますので――」

 謝るみやびの手首を、突然大賀見が強く掴んだ。

「えっ?」

 大賀見のその行動に、みやびは顔を上げた。これまで彼に声をかけられたことはあっても、触れられた経験はない。
 咄嗟とっさにその手を引こうとするが、大賀見の表情を目の当たりにして動きが止まる。彼は何かに驚いたように目を大きく見開き、その顔は青ざめていた。
 みやびの知る彼は、いつも堂々として、ほがらかで、誰に対しても優しく、決して激しい感情を表に出さない人物だ。なのに今、目の前にいる彼は、思わずこちらがたじろいでしまうほどの感情をき出しにしている。しかも、その瞳の奥には、かすかに怒りに似た炎をにじませていた。
 こんな大賀見は、今まで一度も見たことがない。
 怖い!
 握られた手をもう一度引くが、彼はさらに強く握ってきた。手首に走る痛みに顔をしかめる。それでも彼の力は容赦ようしゃない。

「……っ! お、……大賀見、さん!」

 痛みのせいで声がかすれた。それが効いたのか、彼の力が一瞬緩んだ。その隙にみやびは手を引き抜き、胸の前で手首をさする。

「いったい、どうされたんですか?」

 みやびがたまらず訊ねると、大賀見は再び乱暴に手を伸ばしてきた。
 嘘……な、殴られる!?
 みやびは咄嗟とっさからだを縮こまらせ、恐怖から逃れるようにまぶたをギュッと閉じた。なのに、三秒、五秒と経っても一向に痛みはやってこない。
 恐る恐る目を開けて、みやびはハッとした。大賀見がみやびの頭にかぶせられたウィッグの毛先をしっかり掴んでいたからだ。

「な、に……を」

 声を震わせるみやびをじっと見ながら、大賀見はそれをゆっくり引っ張った。頭からウィッグがはずれ、みやびのき出しの肩と腕を舐めるように滑り落ちる。

「……そういうこと、か。そういうことだったんだな」

 感情を押し殺したような低い声音に、みやびの躯は恐怖で震えた。不可解な大賀見の態度に、心臓が不規則なリズムを打つ。胸が痛くなり、だんだん呼吸が荒くなってきた。
 このまま大賀見のそばにいてはいけない、早く逃げなければ!

「あの、す、すみません! わたし、用事を……思い出したのでこれで失礼します」

 みやびは大賀見の鋭い眼差しから顔をそむけ、その場を逃げるように駆け出した。
 好きなのに、ずっと大賀見だけを想い続けていたのに……
 感情をたかぶらせたままフロアを走り、廊下へ出た。足を止めずエレベーターホールへ行き、ソファを見つけて腰掛けた。
 大賀見が追ってくるのではとクラブの方を見るが、彼の姿はない。

「良かった……」

 ホッとしたものの、急に態度が変わった彼の行動や表情を思い出すだけで、また手足が震える。その震えを抑えようとするが、なかなか止まらない。
 どうして大賀見はあんな態度を取ったのだろう。ただ、いつも穏やかな彼を苛立たせたのは、みやびなんだとわかった。
 何かが彼の気に障ったのなら、今すぐ大賀見に謝るべきだ。でもまだ彼があの状態なら、彼のもとへ言っても結局また同じことの繰り返しになる。それなら少し時間を置き、ほとぼりが冷めた頃に行った方がいい。

「わたしって、意気地無しだ……」

 口に出して自分をいましめるが、やはり出るのはため息ばかり。
 手足の震えと早鐘を打つ心臓の鼓動が落ち着いてくると、みやびはソファにぐったりもたれた。
 その時、静かな廊下にどこからともなく女性の話し声が響いた。

「うん?」

 みやびはその声が気になって立ち上がった。静かに周囲を見回すが、人の姿は見えない。
 もしかして、体調の悪い人がいるのだろうか。
 みやびは声のした方へ早歩きで向かった。何を言っているのか内容は聞き取れないものの、女性の声は徐々じょじょに大きくなってきた。だが廊下の角を曲がったところで、みやびは回れ右をする。その先の階段の途中で、男女が抱き合っていたからだ。
 男性は階段の途中で壁に手をつき、女性を襲うように上体を倒している。そのまま次のステップへ進むのではと思うほど、男性が女性を熱く求めていた。
 キスだって、それ以上だって経験のないみやびにとって、目の前で繰り広げられていた抱擁ほうようシーンは強烈だった。
 頭を振ってまぶたの裏に焼きつくその光景を消そうとするが、薄れるどころかより鮮明になっていく。
 自然に染まる頬、速くなる鼓動。それらがみやびの思考を鈍らせる。早くこの場を立ち去ろうと思うのに、足が動かない。どうしたらいいのかと、唇を強く引き結んだ。

「ヤダ、ダメだよ……大輔だいすけ

 突然聞こえた女性の声。その瞬間、みやびの羞恥しゅうちは一瞬にして吹き飛んだ。
 今の声って……

「……いいだろ? これぐらい大丈夫だって。なあ、奈々」

 男性の声に、みやびは息を呑んだ。勢い良く振り返り、階段でからだを寄せる男女のカップルに目を向けた。
 最初に見た時、女性は男性の肩に顔をうずめていたのでわからなかったが、今はその横顔がはっきり見て取れる。
 やっぱり、みやびが担当しているモデルの奈々だ。

「そこのあなた! 今すぐ奈々から離れなさい!」

 アットモデルプロダクションは恋愛禁止。早くふたりを引き離さなければと、みやびは腹の底から声を出した。

「えっ? み、みやびん!?」

 奈々が慌てた様子で男性と離れる。だがその瞬間、男性は足を踏み外したらしく「うわああ!」と声を上げて階段を転げ落ちた。


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