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2巻
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しおりを挟むEternal Star 2
第一章 恋愛経験のなさ
――四月。
秘書業務三年目。今まで先輩秘書たちの雑用を主にしてきた鈴木千佳も、やっと新しい仕事を任せてもらえるようになった。千佳の勤め先でもある水嶋グループの御曹司の一人水嶋優貴との恋も順調で、充実した日々を送っている。
こんなに幸せだと罰が当たってしまうかもしれない……
この日も、千佳は口元に笑みを浮かべながら、ファイルをしっかりと胸に抱えて廊下を颯爽と歩いていた。
その時だった。
「あの、す、鈴木さん!」
突然、誰かが千佳の名前を呼んだ。すぐに歩みを止めて、ゆっくりと後ろを振り返る。
「はい?」
こちらを真っ直ぐに見つめてくる男性に、千佳は違和感を覚えた。もちろん彼の強い視線も気になるが、それよりも彼のスーツに目がいく。変な服装をしているのではない。スーツのサイズは合っているもののどこかしっくりしておらず、無理やり着ているように見えるのだ。
だが、毎年この季節になるとそう感じる男性は何十人もいる。つまり、彼は今年の新入社員の一人なのだろう。
(えっ、新入社員? わたし、秘書室の新入社員しか面識がないんだけど……)
顔にその気持ちが出てしまったのか、目の前の彼が急に慌て出し、怪しい人間ではないと告げるように手を前に差し出す。
「すみません! 突然声をかけて。秘書課の鈴木さん、ですよね? 新入社員研修に来られていた」
千佳は、驚愕しながら目の前の男性を見上げた。
「あなたは、あそこに出席していたわたしを覚えているの?」
「はい!」
彼は、嬉しそうに口元を緩めて手を下ろした。
まだ学生気分が抜けていない無邪気な笑顔を向けるその男性に、何故か千佳の胸がトクントクンと高鳴り始めた。
こんな風に……面識のない男性から声をかけられるなんて今までになかったからだろうか?
「鈴木さんは俺のことを知らないと思うけど、秘書課代表として壇上で説明してくれた時、俺は……」
彼が言葉を詰まらせた時、千佳の小さな乳房の下で突然携帯が震えた。その振動にハッとし、すぐに携帯を取る。
「ちょっとごめんなさい。……はい、秘書室、鈴木です」
電話の相手は、経理課の前原季実子だった。
『わたし、前原だけど……鈴木さんが言ったのよね? 秘書課の出張費精算書を持ってくるって。来ないんだったら、もう金庫閉めるわよ』
「本当にすみません。今すぐに伺いますから!」
経理課へ行くのをすっかり忘れていた千佳は、わざわざ連絡してくれた前原に感謝した。すぐに頭の中でこれからのスケジュールを組み立て直すと、もう一度御礼を言って通話を切る。
千佳は、目の前で肩を落とす男性を申し訳なさそうに見つめた。
「ごめんなさい、わたしもう行かないと。えっと……」
千佳は、男性の胸元にある社員証に視線を落とした。
「茂庭慎太郎、二十二歳です。システム開発部技術課に配属されました!」
その情報を頭にインプットとすると、千佳は軽く頷いた。
「それでは、また……」
茂庭に軽く会釈をするとファイルを抱え直し、急いで経理課へ行くためにその場を去ろうとした。
「待って!」
その声と同時に、胸の前で交差している手首を強く掴まれた。
「えっ!?」
突然の茂庭の行動に、千佳はビックリした。
「あっ! すみません!」
茂庭が急いで手を離す。千佳は、落としそうになったファイルをもう一度胸に抱え直した。面を上げると、茂庭がさらに千佳の側へ近づくように一歩前へ進む。その行動に再度ビックリすると、千佳はすぐに彼の顔へ視線を向けた。
「……あの?」
「鈴木さん! 仕事が終わるのは何時ですか? お時間があれば、俺と少し付き合ってもらえませんか?」
「えっ!? ……あの、」
(これはいったいどういう意味なの? 付き合うって? どうしてわたしが彼と?)
千佳が戸惑った表情を見せたからか、茂庭は距離を取るように後ろに一歩下がった。
「すみません、急に。この後が駄目なら、明日のお昼一緒に食べてくれませんか? 鈴木さん、どうかお願いします!」
「……わかりました」
何故か、千佳は自然とそう答えていた。
承諾してもらえると思っていなかったのか、茂庭は千佳の返事を聞いて一瞬で表情を変えた。まるで子供がプレゼントをもらった時のように、彼は満面の笑みを浮かべている。
その笑顔に、千佳は思わず吹き出してしまった。
「……い、急いでるところを足止めさせてしまってすみませんでした」
楽しそうに笑う千佳を、茂庭が優しく見つめてくる。
「いえ、そんな」
無邪気に笑っていたことが急に恥ずかしくなり、千佳はそっと目を伏せた。
「明日、こちらからご連絡します。実は、本社勤務に決まってから、すぐデータベースにアクセスして鈴木さんのことを探したんです。あっ、個人データではないですよ! っていうか、アレは人事課が保管しているから簡単に見られるものではないし。俺が言ったのは、全社員が閲覧できる名前と所属と会社から支給されている携帯の番号が書かれたデータで。あっ、すいません! 詳しく話さなくてもわかっていますよね?」
茂庭は、照れ臭そうに襟足を手で掻いた。
そんな彼の姿を見ているだけで、自然と頬が染まっていく。何と表現したらいいのかわからない感情が、千佳の中でどんどん芽生え始めた。
(これは、何? わたし、どうしたっていうの?)
「それじゃ、また明日! 早く経理課へ行ってくださいね」
優しく微笑むと、彼は足取り軽く去っていった。残された千佳は、いつの間にかファイルを強く胸の前で抱き締めていた。
しばらくその場で立ち尽くしていたが、千佳は我に返ると急いで経理課へ向かった。
「鈴木さん! すぐに来るって言ったでしょ? わたしは秘書課でのあなたの立場を知ってるからいつも……ああ、もういい!」
経理課の前原が、立っている千佳を鋭く睨みつける。
「……本当にすみませんでした」
千佳は、先輩秘書から預かってきた出張費精算書をそっと前原に差し出した。彼女は、それを引ったくるようにして受け取る。
「はあ~。鈴木さんを怒りたくはないんだけど、出納を預かってるわたしの身にもなってよ。秘書課の出張費は幹部クラスと同じで桁外れな数字なんだから」
「すみません」
千佳は目を伏せ、いつも助けてくれる前原に素直に謝った。
「私服族の中でも、鈴木さんとは仕事がやりやすいけれど、現状に満足していたらダメよ。……ちょっと!」
「えっ?」
千佳は、急いで前原に視線を向けた。
「怒ってるわたしが顔を赤くするのはわかるけど、どうしてあなたが頬を染めてるの!」
「えっ?」
千佳は、思わず両頬を手で覆った。
(嘘。わたし……頬を染めてるの?)
「は、走ってきたから、でしょうか?」
「……それにしては、息が上がってないわね」
千佳は前原の鋭い追及に、妙に心臓がドキドキしてきた。
「そういえば、……そうですね」
(わたし、本当にいったいどうしちゃったの!?)
掌よりは温度が低い手の甲を頬に当てて、火照りを冷まそうとした。
「何か、怪しいわね」
前原の瞳が、何かを探るようにキラッと光る。
だが、そんな目を向けられても千佳は何も答えられなかった。自分でも、この感情が何を意味するのか全く理解できなかった。そのため、いつの間にかその理由を考えるように眉間に皺を寄せていた。
戸惑った千佳の表情に興味を失ったのか、前原は千佳から書類へと視線を移した。
「まっ、わたしには関係ないからいいけど。……はい、コレ。先に連絡をしてくる努力は認めるけれど、金庫を閉めるまでに来るのが礼儀よ」
「はい」
千佳に現金と精算完了証書の金額を確認させてから、前原はそれらを封筒に入れた。封印を押されたその封筒を受け取ると、千佳は安堵のため息をついた。
「さあ、あの威張りちらした〝魔女の住む巣〟へ戻りなさい」
前原の言う〝魔女の住む巣〟とは、秘書室を指していた。千佳は苦笑いを浮かべると、お礼を言って経理課を後にした。
秘書室へ戻るためにエレベーターホールでボタンを押した後、千佳は無意識に胸元にある携帯を握った。
(あの人、茂庭さんはどうしてわたしのことを調べたの? どうして会って話がしたいの? 新入社員研修でわたしは何か失敗した?)
そんなことはない。桜田と一緒だったから失敗なんてしなかった。
千佳は、茂庭の顔を思い浮かべた。
太い眉の下には二重の瞳、鼻は鷲鼻。その下の唇は厚かったが、綺麗な輪郭をしていた。短く刈り込んだ髪は、大学時代にスポーツをしていた名残だろうか? 強靭というほどでもないが、細くもない体躯。優貴とは、また違ったタイプの男性だ。
普段あまり表情を変えない優貴と違って、茂庭の表情はクルクルと変化し、裏表のない人のように見えた。身構える必要なんて全くない男性。
優しく接してくれたから、千佳も安心して素直に笑うことができた。あんな男性、初めてかもしれない。
「あっ!」
千佳は、一瞬で顔が真っ赤になった。
(これって、あの時の……初めて御曹司に声をかけられた時の気持ちと似てる! 心臓がドキドキした時と)
もちろん、優貴の兄である御曹司に抱いたような甘い感情を、茂庭に抱いたわけではない。それでも、彼と話した後、妙に躯が火照り出したのは事実だった。
エレベーターのドアが開く。エレベーターには何人かの社員が乗っていた。彼らに顔を見られないように素早く俯き、赤くなった顔を隠した。
(わたし、本当にどうしてしまったの?)
***
ベッドサイドにあるアンティークランプだけが灯った、薄暗い千佳のベッドルーム。その部屋では、シーツが擦れる音、優貴の荒い息遣い、千佳の抑えた喘ぎ声、ぴちゃぴちゃと鳴る淫猥な音が響き渡っていた。
今日、優貴は仕事の付き合いで飲みに行くと言っていた。
少しホッとした気持ちで〝今夜のお渡りはないのね〟と思いながら千佳がベッドに入ったのは、ほんの数十分前のこと。
しかし、日付が変わってから優貴がいきなり千佳の部屋を訪ねてきた。
明日も仕事がある。いろいろと考えた上で、このまま階上にある自分の家へ戻って欲しいと告げたが、優貴は聞く耳を持たなかった。千佳の頬を両手で包み込むと、優しく探るようにキスをした。ほんのりとブランデーの匂いがする。唇を開けると、さらにその味に包まれた。
「千佳……」
ねっとりと絡みつく舌に官能を刺激され、気怠い感覚に包まれそうになった。それでも時間が遅いことから、千佳は両手で突っぱねて優貴から距離を置いた。
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ブランデーを飲んできた優貴の瞳には、欲望が渦巻いていた。それを隠そうともせず、優貴は千佳を抱きながらベッドルームに向かう。
「優貴、酔ってるの?」
完全に酔っぱらった優貴と愛し合ったことは、今までに一度もない。だから、千佳は少し不安を覚えて訊ねた。
「いや、酔ってない。グラス一杯では、俺は酔わない」
だが、ベッドに千佳を下ろすと、優貴はいつもと違って荒々しく背広を脱いだ。そのままネクタイを解き、シャツのボタンも外していく。
千佳は、優貴の引き締まった躯に見とれた。
上半身裸になると、優貴は獣が獲物に忍び寄るようにゆっくりとベッドに膝をついた。こちらへ擦り寄りながら、千佳の躯を挟むように両手をつく。
「ゆ、う……き?」
ルームウェアとして着ている千佳のワンピースの裾に触れると、優貴は触れるか触れないかの手つきでスカートの中に手を滑らせてきた。
「今夜は優しく千佳を抱きたいんだ……」
そして今、優貴は我が物顔に千佳の躯の至る場所へ手を這わしていた。執拗に小さな乳房を揉みしだいては、歯と舌と唇で敏感に尖った乳首を攻め続ける。
「っう……ん!」
優貴の手から逃れようとするが、しっかり押さえられてるので身を捩ることしかできない。
優貴が、一つずつ快感のツボを押していく。彼だけが知っているその部分を攻められるたびに、千佳の躯は甘い電流に貫かれた。下腹部の奥深いところではうねるような熱が生まれ、だんだん秘部が濡れていく。
「っぁん……」
優貴の指が一本、さらにもう一本襞を掻き分けて膣内に侵入すると、千佳は自ら腰を浮かしてその悦びに反応した。彼自身を連想させる挿入の動きに集中し、突然襲ってくる快感に喘ぎ声を漏らす。優貴の荒い息遣いとくちゅくちゅ鳴る音を聞きながら、その行為に没頭していた。
優貴のリズムで愛されることに馴れた躯は、どうなれば極みへと押し上げられるのか、いつそれが襲ってくるのかもわかっていた。それを求めて勝手に躯が震え出す。
「あっ、はぁ……っ、くっ!」
いつもならこのあたりで軽く達することができるのに、その刺激的な波は千佳を襲ってはこなかった。
優貴が指の挿入をやめると、千佳は大きく息を吐き出して呼吸を整えた。優貴に求められるまま足をさらに大きく開くと、大きく漲った優貴自身が潤った秘部に触れた。まだ挿入されていないのに、そのささやかな触れ合いが胸をドキドキさせる。
「ああぁ……」
千佳の口から吐息が漏れると、優貴がゆっくりと進入してきた。そして、滑らかなリズムを刻み始める。千佳はその甘美な痺れに何度も喘ぎ声を漏らし、天高く羽ばたくように自ら腰を動かし始めた。
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「えっ?」
千佳は、自分を見下ろしている優貴へ視線を向けた。
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「ご、ごめんなさい! わたし、そんなつもりでは……」
千佳の躯は、中途半端な状態で放り出されたために満たされたいと疼いていた。身を起こして、優貴の状態をこの目で見てしまうまでは……
優貴の茂みから屹立する彼自身は、天をつくようにそそり勃っている。刺激を受けたことで充血し、爆発寸前のように赤黒い色に染まっている。さらに、千佳の愛液で濡れて光っているコンドームがピンと張り、破れるのではと思うほど彼自身は怒張していた。
それを見た瞬間、目覚めさせられた自分の欲望よりも、優貴を満足させてあげたいという気持ちが勝った。優貴に愛されたことで乱れた髪も気にせず、千佳は優貴の方へ躯を寄せた。手を伸ばし、小さくキュッと尖った黒っぽい乳首に指で触れる。
「っつ……」
優貴の口から、掠れた声が漏れた。
「本当に……ごめんなさい。どうしてなのかわからないの。こんなことって初めてだから」
優貴は腕を上げて千佳の首に巻きつけると、さらに側へ引き寄せた。
「いいさ。俺もいきなり来て襲ったんだから。……千佳がその気になれないのなら仕方ない」
(あれ? 今日は優しい言葉をわたしに言ってくれるの? 何かいいことでもあった?)
汗とお酒とタバコの匂いが混じった体臭を嗅ぎながら、千佳はさらに擦り寄る。
「どうした? いつもの千佳らしくないな。気になることでもあるのか?」
お腹を摩ってくる漲ったままの優貴自身を意識すると、千佳は隠れてそっと微笑んだ。
本当、いつもと全然違う。いつもの優貴がこんな状態になったら絶対千佳に襲いかかってくる。欲望を抑えられず、エレベーターの中でも千佳を求めてくるぐらいなのだから。
(全てわたしのせい? 優貴の愛撫に身を任せながらも、どこか集中しきれなかったから?)
千佳は優貴の脇腹から腹部へと手を這わし、そのまま下へと滑らした。優貴が大きく息を吸い込む音が聞こえたが、そのままさらに下へと突き進む。生い茂った草むらを弄んでから勢いよくそそり勃つ優貴自身を片手で優しく握った。
「千佳っ!」
そっと優貴の胸に顔を寄せ、啄ばむようなキスを繰り返す。髪の毛がさらさらと流れて、彼のお腹を擽るように落ちても全く気にならない。
優貴の欲望に火を点けようと彼自身の根元に軽く爪を立てると、手探りでコンドームを外してベッドの横にあるゴミ箱に落とした。
抑圧から解放された優貴自身がしなる。硬くて太くて熱く漲った……ビロードのような感触を持つ優貴自身を握ると、千佳は強弱をつけて手をスライドし始めた。
優貴の苦悶の呻きが耳に届くと同時に、千佳の唇の下で胸板が激しく上下に動く。
(ごめんなさい、優貴。わたし、どうしたのかしら? 何故今日に限って集中できないのか、本当にわからないの。だから、わたし……)
千佳は謝るように、胸からおへその周辺にキスの雨を降らした。そんな千佳の愛撫を、優貴は止めようとしなかった。千佳の頭に触れると、優貴自らキスして欲しい場所へと促していく。求められるまま、千佳は唇をさらに下へ下へと移動させ、優貴の望む場所にキスをした。
その夜、優貴の気分を削いでしまったことを謝るように、千佳は一生懸命唇と手で彼を愛した。
――翌日。
千佳は、まだ昨夜の出来事が信じられなかった。
どうして、優貴はあれ以上千佳を求めてこなかったのだろうか? 千佳の手と口であれほど燃え上がったのに、優貴が再びセックスを求めてこなかったのは初めてのことかもしれない。
システム開発部長と先輩秘書を玄関前のロータリーで見送った後も、千佳はそのことばかり考えていた。
最近、優貴は本当に変わった。海外で行われた新入社員研修へ突然顔を出したかと思えば、優貴の泊まるデラックスの部屋で一緒に寝ようとか、プールへ行こうとか言って千佳を誘ってきたりした。さらに、記念になるようなプレゼントまでしてくれたりする。
特に、優貴の双子の弟の康貴が結婚してから、とても優しくなったように思えた。
(康貴さんが、妻の亜弥さんに優しく接するのを見たから? わたしが、それを羨ましそうに眺めていたから?)
「おーい、何ボ~ッとしてるの?」
肩を強く叩かれ、千佳は飛び上がるぐらいびっくりしながら勢いよく後ろに振り向いた。
「桜田さん! 凄くビックリしました」
「だって、本当に抜け殻みたいだったんだもの。いったい何回エレベーターを逃したと思う?」
「えっ? そうなんですか!?」
目を大きくさせて驚く千佳を見て、桜田は笑い出した。
「嘘よ、嘘。わたしだってずっと見ていたわけじゃないから。でも、少なくとも一回は逃したわよ」
千佳は苦笑いを浮かべて、再びボタンを押した。
「ねえ、そろそろ……腹を割ってもいい頃じゃない?」
「はい?」
「社内では、わたしが千佳の一番の親友だと思ってたけど?」
しん、ゆう。
千佳は視線を泳がせたが、すぐに下を向いた。親友とは、どれぐらいの間柄を指すものなのかわからなかったのだ。
エレベーターの扉が開くと、二人は他の社員と一緒に乗り込んだ。秘書室がある階を押すと、千佳は黙って〝親友〟という言葉の意味を考え始めた。
高校時代の千佳には、特別仲の良い友達はいなかった。高校生活は友達を作ることよりも学業を優先していたし、放課後はバイトに明け暮れていた。
当然、その間に親友を作れるはずがない。もし可能だったとしても、千佳にはできなかっただろう。友達との時間を作る心の余裕が全くなかったから。
秘書室のある階でエレベーターが停まると、二人は一緒に降りた。後ろで扉が閉じて二人っきりになると、桜田が口を開いた。
「残念! わたしだけが親友だと思っていたのね。確かに仕事が終わった後食事に行ったり、お互いの家に遊びに行ったりはしてなかったけれど……それは千佳を思ってのことだったんだからね」
「わたし?」
困惑の表情を浮かべる千佳を、桜田が探るように見つめる。
だが、すぐに和やかな微笑みを浮かべた。
「千佳って、心の内を見せることができないのね。それは誰でもそうなんだけど……ちょっと度が過ぎるかも。千佳が踏み出せないのなら、わたしが踏み込むしかないわね」
桜田は千佳の背中をポンッと叩くと、そのまま秘書室へ向かって歩き出した。
千佳は、付き合っている彼が誰なのか、桜田には一切話していなかった。
でも、きっと知っているに違いない。一番の決め手は新入社員研修で優貴が千佳に声をかけた時だろうが、その前からいろいろと感付かれていたと思う。
例えば、二月に行われた水嶋家の三男の結婚式の時とか……
桜田に全てを話すべきなのかどうか悩みながら、千佳も歩き出した。
秘書室へ入ると、今年の三月から新しい席へと移った桜田が、自分の椅子に腰を下ろしたところだった。千佳も同様に、新しい席に腰を下ろす。
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