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第一章 憧れと初恋の狭間で
千佳が初めて男性を好きになったのは、入社一年目十八歳の夏だった。
「君が、鈴木千佳さん?」
「は、はい!」
会議室に重要書類を置き忘れていないかどうか、確かめるのが新人秘書の役目。廊下で管理職の社員たちが出ていくのを待っていた時、突然千佳は声をかけられた。
視線を上げると、目の前にはアシスタントの男性を後ろに従えた一人の青年が立っていた。
入社してまだ間もない千佳でも、彼が誰なのかすぐにわかる。水嶋グループの次期社長と言われている御曹司。まだ二十代の水嶋一貴だ。
そんな雲の上の存在の彼に、千佳は優しく声をかけられた。
「鈴木さんの資格を見せてもらったよ。遊びたい盛りの高校生の時に、よくここまで勉強してきた。人生経験は少ないかもしれないが、大卒者にも決して劣らない実力を持っている。他の新入社員は君より年上だが、そんなことは気にせずに仕事に励んで欲しい」
「は、はい! ありがとうございます」
頬が火照ってくるのを感じながら、しっかり腰を曲げて深々と頭を下げた。
一目惚れだった。
入社してまだ数ヶ月しか経っていないというのに、御曹司に名前を覚えられていた事実に、千佳はかなり舞い上がった。
これで恋に落ちない女性なんているのだろうか?
男性と付き合ったことも、男性から興味さえ抱かれたこともない千佳が、御曹司に恋に落ちてしまうのは当然の成り行きだった。
さりげなく声をかけてくれた御曹司は、いつも付き従えているアシスタントと話をしながら、千佳から遠ざかっていった。
その背中を、ずっと見つめずにはいられなかった。
父が不況の煽りを受けリストラされたのは、千佳が高校生の時だった。家計を支えるために、毎日バイトに明け暮れる日々を送った。高校を中退して働こうとさえ思ったが、両親がそれを許してはくれなかった。それならばと学校では必死に勉強をし、将来の助けになるような資格を一つずつ取得していった。
それが、功を奏した。
地方にも支社を持つ水嶋グループは、大学卒業者のみを採用する大企業として知られている。
だが、千佳はコネも何もない高卒という立場ながらも、有名一流大学出身の志願者たちに混じって面接を受け、最終まで残ることができた。
しかも、憧れの職場として名高い東京本社秘書室勤務という職まで得る。
高卒採用第一号者として、千佳の名前は社内報にも載った。
それを見た御曹司が、人事部から千佳の履歴書を取り寄せた。暗黙の了解として知られている「高卒は一切採らない」というルールを、あえて無視した面接チームを呼び出し、彼らの先見の明を称えたという事実を知っていれば、ここまで御曹司を好きになることはなかったのかもしれない。
だが、そんなことを全く知らない千佳は、御曹司が千佳自身に興味を持ってくれたのだと思った。
ガリガリで貧乳、器量も十人並みで人から注目を浴びたことは一度もない。バイトや勉強ばかりしていたせいで友達がおらず、千佳はずっと一人ぼっちだった。
そんな彼女を初めてきちんと見てくれたのが、御曹司だった。
だから、千佳は御曹司に対して自然と胸の高鳴りを覚えたのかもしれない。
もちろん、女性社員たちの憧れの的と付き合えるとは思っていない。
付き合うとはどういう感じなのか全く想像すらできないが、初めて男性に興味を抱いたその感情が、恋なのだということだけはわかった。
恋をしていることを隠しきれないほど、夢中になって御曹司の後ろ姿を追うようになった秋頃、千佳の周囲で変化が起こった。
千佳の姿を見つめる男性が、突然現れたのだ。
もちろん千佳の視線は全て御曹司に向けられていたので、誰かに見られていることになど全く気付かなかった。
御曹司を見つめるだけで、幸せいっぱいだったから……
「優貴さん?」
「わかってる……今行く」
アシスタントが問いかけると、二十三歳の水嶋優貴はすぐにそう答えた。
優貴は、千佳が恋をした御曹司の弟の一人だった。
表情を崩さず、冷静さを武器にして仕事に取り組む彼を、社内では知らぬ者はいない。
鋭い視線を向けられた他の社員たちは、ヘビに睨まれたカエルのように何も言えなくなってしまう。優貴は、そういう人物だった。
優貴はしばらく千佳をジッと見つめていたが、背を向けるとその場から立ち去った。
――一月。
彼が室内に一歩踏み込むと、ざわざわしていた管理職専用会議室に静寂が訪れた。
だが、会議室が静まり返るよりも前に、千佳は異変を感じ取っていた。急に息ができなくなり、産毛が総毛立ったのがわかったからだ。
(また、見られている……どうしてわたしを見るの? わたし、水嶋さんの機嫌を損ねるようなことをした覚えはないのに)
既に席に着いているのは、エリートコースを走ってきた四十代後半から五十代後半までの貫禄のある管理職の人ばかり。
その人たちが一瞬で口を閉じてしまうほどの人物、ここまで千佳を狼狽えさせる人物とは、水嶋優貴だった。
水嶋グループ創立者の孫で、現社長の息子の一人。跡取りの長兄を支えるために、経営本部経営管理室に籍を置いている。
優貴はいつも髪を後ろに軽く撫でつけ、ブランドスーツを着こなしていた。しかも、整った眉毛の下にある双の目は、見落とすものなどないかのようにいつも鋭い眼光を放っている。
「失礼します」
背中まで届くほどの長い黒髪を、後頭部でしっかりシニョンに纏めた千佳は、会議室に設置されたテーブルに沿うように歩いた。一階にあるカフェから取り寄せたブレンドコーヒーとミネラルウォーターを置き始める。
入社してから十ヶ月、千佳は資料を配る先輩秘書のアシスタントとして、飲み物を用意していた。
早く用意を済ませて出ていかないと、また先輩に小言を言われてしまう。
だが、優貴の視線が千佳の華奢な躯を観察するように眺めているとなると、手が勝手に震えてしまって機敏に動けない。
(ダメよ、しっかりしなさい! もうすぐ御曹司が会議室に入ってくる。わたしは、御曹司に無様な姿なんか見られたくないと思っているんでしょ?)
その時、会議室の空気が一瞬で変わった。
「そのままでいてくれ。就業時間を過ぎているというのに悪かった」
御曹司が、アシスタントの妹尾と共に会議室へ入ってきた。
少し乱れた髪を整えようともせずに、皆に頷いて挨拶をしながら席に座った。未来の社長だというのに、茶色のファッション眼鏡が雰囲気を柔らかく見せている。
眼鏡をしている姿は初めて見たが、いつもと違って謎めいた雰囲気を醸し出していた。しかも年上の妹尾をアシスタントにし、命令を下すその姿には惚れ惚れしてしまう。
いつもなら秘書らしく冷静な態度で行動する千佳だったが、御曹司が同じ場所にいるとなると自然と頬が染まる。
火照りを気にしないようにしながら、コーヒーを置こうとしたその場所に、いきなり手が伸びてきた。カップが当たり、中身が波打つ。
「申し訳ありません!」
当てた人物を見ると、彼は御曹司の弟の優貴だった。
二人の視線が絡まり合うと、千佳の躯が恐怖で一瞬震えた。御曹司の前で叱責されると思うと、今度は恥辱から顔が赤く染まっていく。
だが、優貴は千佳と視線を合わせるだけで、何も言わなかった。
「……申し訳ありません」
再びそう言うと、千佳は隣に座る御曹司の元へ行きコーヒーを置いた。
「ありがとう、鈴木さん」
千佳の目が輝いた。
「……熱いので気を付けてください」
さらに頬を染めてそう告げると軽く会釈をし、そのまま会議室を後にした。
秘書室に戻ると、他の人たちは既に退社していた。
「今日の会議って、御曹司二人の目に留まるチャンスだったけど、それでもやっぱり残業は嫌だわ。でも、会議室の後片づけはしなくていいのがせめてもの救いよね。デートができなくなるもの」
愚痴を言いながら、先輩秘書の二人は帰宅する準備を始めたが、その前に千佳のデスクに一つの封筒を置くことを忘れなかった。
「鈴木さん、これ今日中にファイリングしておいてくれる?」
「……はい、わかりました」
先輩から仕事を回されるのはもう日常茶飯事だったので、千佳は文句一つ言うことなく引き受けた。もし何か言えば、先輩の機嫌が悪くなるに決まっている。平穏に過ごしたいのなら口答えはせず、できる範囲のことをすればいい。千佳が高校時代に学んだ、世渡り術の一つだ。
「じゃ、よろしくね。終わったら帰っていいから」
「はい、お疲れさまでした」
鞄を手にして更衣室へ向かう先輩たちを見送ると、千佳はゆっくりと椅子に座った。
時刻は既に二十時を回っている。上手くいけば、二十一時には全て終えることができるだろう。
「さあ、しっかりしなさい!」
奮起を促すように声を出すと、封筒に入った書類を取り出した。一通り目を通してある程度区分わけすると、それを持って奥にある資料室へ入った。
どれぐらい時間が経ったのだろうか?
全てのファイリングを終え、入り口に置いてあるファイルに保管場所を記入している時、突然男性の声が響き渡った。
「誰かいるのか?」
その声に、千佳はビクッと震えた。とてもよく通る声。誰にも有無を言わせない声音を発する人がいったい誰なのか、確認しなくてもわかる。一度聞いたら、二度と忘れることはできない。
千佳は、恐る恐る秘書室へと視線を向けた。電気が点けっぱなしのその部屋に、男性が姿を現わした。
何かの視線を感じたのか、彼の顔がゆっくりと動いた。千佳の姿を認めると、射貫くような視線を投げつけてくる。
「す、すみません……。わたし、仕事をしていたので……でも、もう帰りますから!」
(お願い……わたしに近寄らないで。そのまま、わたしを無視して!)
目を伏せながら、千佳は心の中で必死に叫んでいた。にもかかわらず、絨毯が映るその視界に、男物の革靴が飛び込んでくる。
千佳は、飛び上がるほどびっくりした。
「……もう、仕事は終わったのか?」
「はい、もう終わりです」
あと二つ三つの記入が残っているが、それは明日出社してすぐに書き込めば済むこと。彼に仕事は終わったと気付いてもらえるように、ファイルを棚に戻した。男性用コロンが千佳の鼻腔を擽る。それほど彼が、千佳の側にいるということだ。
このまま、彼の近くにいることはできない。早く帰ろうと思って勢いよく振り返ると、何かにぶつかった。やっと面を上げた千佳の目の前には、こちらを見下ろす水嶋優貴がいる。
(どうしてわたしを放っておいてはくれないの? いったいわたしが何をしたというの!?)
「そう、か……」
言葉を詰まらせながら、優貴がボソッと呟いた。優貴が千佳に声をかけたのは、これが二度目だった。
一度目は、今日のような会議が行われた昨年の秋頃。いつものように御曹司が入ってきた時、千佳は職務も忘れて、ポッと頬を染めながら御曹司に見とれていた。頭では早く仕事に戻らなければいけないとわかっていたのに、どうしても視線を逸らすことができない。
そんな千佳を「仕事に戻れ!」と一喝したのが、目の前にいる優貴だった。
御曹司を見つめていたと知られたこと、その彼の前で叱られたことがとても恥ずかしく、すぐに謝るとその場から逃げるように立ち去った。
それ以降、優貴から声をかけられることは一度もなかった。
だが、千佳が本社ビル内を動き回っていると、時折強い視線を感じるようになった。ふと振り向けば、資料を手に持った優貴が立ち止まって千佳を見ている。
そういう視線を頻繁に感じるようになると、千佳はだんだん彼のことが怖くなった。
彼は千佳がもっとも苦手とするタイプで、一生関わり合いたくないと思ってしまうような人物。平穏に過ごしたいのなら、目をつけられないようにするのが一番だ。
それが、千佳の本音だった。
優貴の視線を感じても、今までは言葉を交わすことはなかったので、千佳は心のどこかで安心していた。
だが、今……彼がその垣根を飛び越えてきた!
「……すぐに、電気を消しますから」
「電気を、消す!?」
突然、優貴が驚いたように声を上げた。何故、目を大きく見開いて千佳を見つめてくるのかわからない。
「はい。仕事を終えた以上、節電を心がけるのは社員として当然のことですから」
優貴から離れるように少し身を引くと、声が震えないように努めながら告げた。
「ああ、そうか……節電か。てっきり俺は……」
その次に何の言葉が続くのかわからなかったが、千佳は早くこの場から去りたくて仕方なかった。
「すみません、そろそろ失礼いたします」
軽く頭を下げると、優貴の躯に触れないように、側を通り抜けた。優貴と距離をおけたことに、ホッと息をついた瞬間だった。
「鈴木さん……俺と、夕食に行かないか?」
(夕食!? 御曹司の弟でもある優貴さんと? そんなの、わたしには絶対にできない!)
千佳は恐怖に顔を引き攣らせながら、勢いよく振り返った。
「申し訳ありません、わたし……お断りさせていただきます」
ペコッと頭を深く下げると、逃げるように自分の席へ戻り鞄を手に取った。
(助けて……誰か助けて! わたし、誘いの断り方なんて知らない。こんな態度を取ってもいいのかさえもわからない。でも、わたしは早く……彼から逃げ出したい!)
軽いパニック状態だった千佳の耳には、周囲の音は全く聞こえなかった。頭の中で雑音がずっと鳴り響いていたので、優貴が素早く動き出したことにさえ気付かない。
優貴に電気を消すと言ったことも頭になかった千佳は、そのまま廊下へ逃げ出そうとした。
その時、千佳の華奢な手首に強い力が加わった。痛いと思うと同時に、いつの間にか優貴が千佳を見下ろしていたことに気が付いた。
その顔は、どこか鬼の形相に似ている。恐怖の声が口から出そうになったまさにその瞬間、優貴の顔が近付いてきた。何をしようとしているのか理解できないまま、千佳は優貴に奪うようなキスをされた。
ファーストキスだった。
突然触れた柔らかな感触に千佳は叫び声を上げたが、その声は全て優貴の口の中に吸い込まれた。口を開いたことにより、生温かいねっとりとした感触が千佳の舌を絡め取る。
それが優貴の舌だとわかった時、千佳の躯は一瞬で硬直した。そうかと思えば、痙攣を起こしたようにプルプルと震え始める。
しかも、意思とは無関係に躯の芯が熱く火照り出した。誰にも触れさせたり見せたりしたことのない秘部が、脈打つように蠢き出す。
今まで体験したことのない躯の変化にビックリすると、優貴の胸を思い切り押して彼の抱擁から逃げ出した。
足がガクガクと震えてよろめきそうになった。こちらを無表情のまま見下ろしてくる優貴に視線を向ける。
優貴の唇が光っていた。思わず、千佳も手を上げて自分の唇に触れた。優貴にキスされたことで、少し腫れているように感じる。
「どうして……、どうしてこんな真似を?」
言葉にしたことで、千佳の中でいろいろな感情がぶつかり始めた。それを象徴するように、双の瞳から涙が零れ落ちる。
(どうしてわたしにキスなんてしたの? しかもいきなり! こんな扱いを受けなければいけないなんて。ファーストキスは御曹司としたかった……それが無理でも、せめて好きになった人としたかった……)
「……千佳」
名字ではなくいきなり名前を呼ばれて、千佳の頬は真っ赤に染まった。キスをされたことよりも、さらにいけないことをしているような感覚を覚えた。
優貴が何かを言い出す前に、千佳は彼に背を向けて走り出した。足音が全くしない絨毯の上を走り、一般の女子社員とは別に設けられた秘書専用の更衣室に逃げ込む。
息を弾ませながら、ロッカーを開けた。扉の内側に貼り付けられた鏡に、千佳の顔が映る。
涙で光る瞳を見た後、赤く腫れた唇へ自然と視線が落ちた。あまり面識のない優貴から乱暴されたのだから、もちろん心はとても苦しかった。
にもかかわらず、千佳の頬はほんのり染まり、喜びが溢れ出しているように見える。
(何、この表情。いきなりキスされて怒っているんでしょ? なのに、どうしてわたしは……恋をしている女性のように輝いて見えるの?)
恋とは、縁遠い学生生活を送ってきた。御曹司に恋をしてはいるものの、他の女性社員のように付き合いたいという強い気持ちを抱いてはいない。
ただ、御曹司を想うだけで幸せだった。彼を見るたび、頬が染まるその瞬間に幸せを感じていた。
それなのに、御曹司を見た時と同じように、優貴のキス一つで千佳の頬がピンク色に染まるとは思いもしなかった。
(わたし……いったいどうしてしまったの? 優貴さんを、好き……なの?)
その考えに、千佳は一瞬で青ざめた。
無理やりキスを奪うような相手を好きになるとは、正気の沙汰ではない。むしろ、嫌いになるのが当然だ。
とんでもないことを考えてしまう前に、千佳は急いでロッカーから通勤着を取り出す。
秘書は私服で良かったが、千佳は通勤着と仕事着とは別にしている。上着に手をかけた時、指が胸元を掠った。その瞬間、千佳は思わず呻き声を漏らした。
「うっ……」
乳首が、異様なほどピリピリしている。寒さが原因で乳首がツンと硬く尖ることはあっても、意思表示するように痛むのは初めてのことだった。
「これは、いったい何なの?」
病気か何かだと思った千佳は、思わず泣きそうになった。
新しい仕事に就いた父だったが、それでも以前に比べて収入は少ない。給料のほとんどを家に渡している千佳にとって、余分な出費のことを考えたくはなかった。
病院に行って診てもらった方がいいのかもしれないが、家でゆっくりすればこの症状は治まると信じたい。
その考えに縋りたかった千佳は、急いで服を着替えるとすぐに更衣室を出た。
どこかで優貴が待ち伏せしているのでは……という考えが脳裏を過ることはなかった。ただ、早く家に帰り着くことだけを考えていた。
優貴は、そんな千佳をロビーの片隅からジッと見つめていた。
――四月。
ファーストキスを奪われて以来、千佳は自分の感情を持て余していた。
あれから何ヶ月も経ち、既に季節も春を迎えたというのに、心は全く成長していない。
好きなのは、御曹司唯一人。彼が悠然と歩く姿を一目見られるだけで、心がほんわかと温かくなって幸せを感じる。
……そうだった、はず。
目の前に積まれた書類を見ながら、千佳はため息を一つ吐き出した。
最近、自分でも全く理解できない感情が生まれていた。それをどう表現したらいいのかわからない。
(好きな人以外の男性のことが、こんなにも気になってしまうなんて……。これって普通なの? それとも、わたしが変なの?)
優貴にキスをされた翌日から、突然彼の行動が変わったことを千佳は思い返す。
今までは遠くからこちらを見つめるだけだったのに、千佳が残業で一人秘書室にいるのを見計らっては、優貴が現れるようになった。
そして、必ず千佳を夕食に誘う。その誘いを、千佳は毎回丁寧に断る。そういうことが、週に三回の割合で繰り返されるようになった。
千佳の頭から御曹司の姿が霞み始めてきた二ヶ月前、御曹司も出席する会議が開かれた。いつもなら、御曹司に声をかけてもらえるかもしれないと期待しながら仕事をする。
だが、今回は御曹司のことよりも、御曹司と一緒に出席する優貴のことが、千佳の頭から離れなかった。
躯を舐めるように見つめてくる優貴の視線に躯を震わせながら、いつものように仕事をした。優貴に飲み物を出すために側へ近寄った時、彼の男性用コロンが千佳の鼻腔を擽った。
たったそれだけで、秘書室内の資料室で二人っきりになったこと、キスをされた時のことを思い出してしまう始末。慣れたように舌を挿し入れられて舐められたことが脳裏に浮かぶと、乳首が痛いほど張り詰めていくのがわかった。
その時のことを脳裏から振り払うように、千佳は小さく頭を振った。
(わたし、本当にどうしたの? 優貴さんと関わり合いたくはないと思ってるし、毎回誘われるのも迷惑だと思っている。なのに、どうしてわたしは……こんなにも時間を気にしてしまうの?)
千佳は、秘書室で自分の椅子に座りながら、壁に掛けられた時計へと視線を向けた。
あと数分で、時計の針が二十時三十分を指す。そして、優貴が秘書室に現れる……
ゆっくりと瞼を閉じて、千佳は膝の上で握り拳を作った。
(待っているの? 優貴さんが、わたしの前に現れるのを? こんなにも怖いと感じる相手を?)
何故、こんな気持ちになるのか全く理解できない。
突然、肌がゾクッとした。誰かに見られているような錯覚を受けて、目を開けて周囲を見回すも誰もいない。
きっと、優貴のことを考えていたからだろう。
千佳は肩から力を抜くと視線を膝に落とし、これからどうすればいいのか再び悩み始めた。
親しくしている女性や、友達と呼べる人がいれば相談もできただろう。そういう人が、一人として側にいないことがとても悲しかった。
だが、たった一人だけ……千佳の脳裏にある女性が思い浮かんだ。千佳の目の前の席に座る、同期の桜田だ。
千佳に話しかけてくれるのは、社交辞令だと思っていた。高校時代も仕方なさそうに声をかけられたことがある。その時の苦い記憶が今でも脳裏から離れない。
そのため、優しく接してくれる桜田とも、親しくはできなかった。その彼女に、いきなりこんな話をしたら引かれてしまうに決まってる。
誰にも相談できないのであれば、自分で何とか考えるしかない。この不安定な気持ちから抜け出せる方法がないのか、千佳は必死で考え始めた。
この状況から脱却したいのなら、いつもと違うことをすれば、また気持ちに変化が起きるかもしれない。
夕食の誘いを断らずに承諾すれば、違ったことが起こる?
優貴のことを怖いと思っているのに、二人で食事をすることなどできるのだろうか?
いくら考えても答えは出てこない。
千佳は、再びため息をつくとゆっくりと面を上げた。そろそろ優貴が現れる時間だったので、視線を秘書室の入り口へと向ける。
思っていたとおり、そこには既に優貴が立っていた。
だが、彼を見ながら千佳は訝しげに目を細めた。
(えっ? あれは、優貴さん?)
何かがおかしかった。千佳の本能が、彼は優貴とは違うと叫んでいる。
でも、何が違うのか千佳にはさっぱりわからなかった。
ジッと彼を見つめていると、突然女性を蕩かすような笑みを向けてきた。そのことに、千佳は驚愕を隠せなかった。
優貴のことを詳しく知っているわけではない。彼とはいつも同じ言葉しか交わさないし、二人っきりになった時でさえ、こんなにも人懐っこい笑みを向けるようなことはなかった。
千佳は、入り口に佇んでいる彼をさらに観察し始めた。
すると、いくつか異なる点が見えてきた。髪を後ろに撫でつけてる優貴とは違い、彼は今風に髪を無造作に遊ばせている。そして、優貴にはない笑い皺が微かに目元にある。
それは、いつも笑っている証拠。優貴には、決して当てはまらないもの。
だが、優貴と背格好や目元や口元、鼻の形までが瓜二つだ。
つまり、彼は社内の女子の間でも噂になっているもう一人の御曹司だ。優貴とは一卵性双生児で彼の弟にあたる水嶋康貴。
同じ顔、同じ目でこちらを見てくるのに、何故何も感じないのだろうか? 相手が優貴だと、あんなにも恐怖を覚えてしまうのに。
千佳は秘書の仮面を被ると、冷静に椅子から立ち上がった。
「何かご用でしょうか?」
「えっと~、秘書は君一人なのかな? ……それならいいや。仕事が山積みのようだし。また明日お願いするよ。じゃ」
軽く手を上げると、康貴はそのまま千佳の視界から消えた。
今のはいったい何だったんだろうと首を傾げながら、千佳は仕事に戻ろうとした。
その時、資料室の入り口付近で黒い影が動いた。びっくりした千佳は、思わず叫びそうになり口元を手で覆った。それが誰かわかると、違う悲鳴が漏れそうになった。
そこには、口元を綻ばせている優貴が立っていた。
千佳の心臓が、ドキンと高鳴る。
康貴の笑みには何とも思わなかったのに、何故優貴の優しそうな口元を見ただけで、こんなにも胸がときめくのだろう?
今でも、優貴の側に近寄ることができないほど、怖いという気持ちはあるのに……
千佳は、全く知らなかった。
いつもより少し早く来てしまった優貴が、資料室に身を潜め、瞼を閉じて一生懸命何かを考えている千佳を見ていたということを。
そして、双子の弟に対して何の興味も抱かず、仕事モードに切り替えて冷静に対応する千佳を、さらに愛おしく想い始めたということを。
一歩一歩、優貴が千佳に近付いていく。
千佳は、何か強い意思を秘めてこちらに向かってくる優貴を、ただ青ざめながら見ているしかなかった。
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