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1巻

1-3

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「好きなところに座って」

 萌衣は肩越しに玖生に話しかけて、コミュニティスペースに誘導する。彼は歩きながら上着の前ボタンを外して、ポケットに片手を入れた。
 そこからにじみ出る男らしさをの当たりにし、萌衣の胸の奥が妙にざわざわし始めた。突如湧き起こった症状に困惑した萌衣は、すかさず玖生から目を逸らす。
 あれ? ――と軽く小首を傾げて胸に手を置き、トクトクトクッと早鐘を打つ心臓をなだめる。そして息苦しさを紛らわすように咳払いし、壁際に設置されたドリンクサーバーに向かった。

「飲み物を淹れるけど何がいい? カフェラテ?」
「ああ」

 玖生が家でもよく飲むのでそうたずねると、彼は機嫌よく返事する。たった一言なのに心がなごみ、萌衣の頬がゆるんだ。
 殺菌ディスペンサーからカップを取り出してサーバーにセットする。

「ここから木々が茂る公園を眺められるんだな」
「ええ。ここでレクリエーションする役員も多いんだけど、今日は誰もいなくて良かった」
「こういう場所、いいな。うちの会社でも作ろうと提案しようかな」

 玖生のつぶやきが聞こえると、肩越しにそちらを見る。彼はソファに座ったまま上体をひねり、大窓から望める景色に見入っていた。

「吉沢常務の賛同がもらえたら、一番いいかもね。決定権がある方だから」
「……そうだな」

 不意に玖生の声のトーンが低くなった気がして、そちらに意識が向く。だが萌衣は、ひとまず二客のカップにカフェラテを淹れ、銘々皿めいめいざらに北海道のバターサンドやクッキー、塩気のあるせんべいなどの茶菓子を盛る。それらを載せたトレーを持ち、彼の方へ向かった。
 萌衣はローテーブルにカップと銘々皿めいめいざらを置き、玖生の隣に腰を下ろした。

「どうぞ」
「ありがとう」

 玖生がソーサーを手に取るのを見て、自分もならう。カフェラテをすすると、いい香りが鼻を抜けた。

美味おいしい……」

 玖生の深い感嘆の声に、萌衣も嬉しくなる。温かくて濃い味に心が癒やされるのを感じながら、彼に茶菓子も勧めた。
 マンションのダイニングテーブルには、パウンドケーキやおかきなど、手軽に小腹を満たせるお菓子を置いている。玖生もよく手を伸ばすので、銘々皿めいめいざらに載せたお茶菓子も嫌いではないはずだ。
 想像したとおり、玖生はバターサンドを一口食べるなり満足げに頷いた。それを見て、萌衣はにっこりした。

「うちの常務がよく北海道に出張で行くんだけど、そこで気に入ったらしくて、定期購入して置いてくれるの。ここだけでなく、階下のコミュニティスペースにも」
「俺も気に入った。うちでも定期購入しよう」
「玖生さんの部下……海藤さんも喜んでくれると思う。なんでも食べそうなぐらい大きいから」

 萌衣は見事な体躯たいくを持つ海藤を真似るように、自分の身体を手で大きく見せる。笑うかと思いきや、玖生は微妙な顔つきで片頬を引きらせた。

「……いや〝うち〟っていうのは会社じゃない。家のことだ」
「えっ?」

 そう言われて、萌衣は玖生が口にした〝うち〟の意味がようやくわかった。

「ごめんなさい。会社の話をしていたから、てっきり……。じゃ、わたしに任せて。玖生さんの家に届くように手配しておくから」

 自分の勘違いに笑いながら、頭の中で〝バターサンド、定期購入、ネット、チェック〟とインプットする。その途中で、バターサンドを持つ玖生の手が動いていないことに気付いた。

「く、玖生さん? どうしたの? 何か……?」

 さりげなくおもてを上げると、玖生が真摯しんしな目つきで萌衣を観察していた。いつもと違う様子に、萌衣の笑みが段々と消えていく。しかも、場が変な緊張感に包み込まれていった。
 玖生に対してこれほど身構えたのは、初めて話しかけられたあの日以来だ。
 結婚して、もう一ヶ月以上経つ。共に朝食を摂る生活を続けて、少しずつ二人の距離が縮まってきた。今もその最中さなかで、最近ではさらに打ち解けた口調で接している。
 二人の関係はいい流れに乗ったと思っていただけに、玖生のただならぬ雰囲気に体温がぶわっと上昇し、首の後ろが湿り気を帯びてきた。髪は軽くひねり上げてアップにしているので暑いわけではないのに、首の汗をぬぐって髪を払いたくなる。
 ああ、お願い。何を言いたいのかわからない表情を向けないで……

「わたし、変なことを言った?」

 そう言っても、玖生は言葉を発さない。しばらくの間、萌衣をまじまじと見つめるだけだ。
 これ以上、萌衣が玖生の真意を汲み取るのは無理だと思い始めた時、彼が眉根を寄せた。

「一緒に生活する中で、萌衣が俺に慣れようとしてきたのは知ってる。そんな君を見て、俺も歩み寄らなければと思うようになった。それもあってか、意外に夫婦生活は苦ではないんだと知った。だが、あの姿は偽りだったんだな。俺の知る君は、家限定……。この俺がすっかりだまされた」

 玖生の様子が明らかにおかしい。別に怒ってはいないが、声音こわねの端々から萌衣を責めているように感じられた。でも、萌衣のどこに引っかかったのかさっぱりわからなかった。

「ごめんなさい。あの、わたし……何か間違ってた?」

 恐る恐るたずねると、玖生は手にした食べかけのバターサンドを銘々皿めいめいざらに置いた。

「最初に気付いたのは、景山専務の執務室だ。俺の元カノの話題が出ても無反応だった」
「元カノが女優だと知って驚いたけど、今は関係ないかなって」
「……だろうな。じゃ、俺と二人だけなのに、どうして叔母を常務と?」

 立て続けの質問にどぎまぎしながら、萌衣はその時の状況を振り返る。

義叔母おばさんだと知ったのはついさっきで、わたしの中では取引先の吉沢常務という位置付けだったから」
「確かに、萌衣は常務としての叔母さんと面識があったから、そうなるのが普通だ」

 玖生は膝に両肘を載せて前屈みになり、淡々と話す。その間も自分の手元に視線を落としていた。こちらを見ていないのに、萌衣はそのとおりだと小刻みに頷く。

「わたし――」

 これからきちんと義叔母おばさんって言うから――そう口にするつもりだった。しかし、顔を上げた玖生の目に射貫かれて、萌衣は何も言えなくなる。

「百歩譲って、その二つはいいとしよう。だが、どうして俺の家なんだ? 今は二人の家だろ?」
「えっ? あっ……」

 指摘を受けて、萌衣は愕然とした。
 もう一ヶ月以上生活を共にしているのに、心のどこかでまだ玖生のマンションだという考えがあった。
 まさか結婚を実感しきれてない? ――自分への問いかけに、心の中で激しく否定する。
 してる! しているが……

「あの、もう少し時間が経てば、もっと慣れると思う。……結婚生活に」
「それは暗に俺に文句を言っているのか?」
「文句? ……そんな風には言ってない」

 玖生が自由気ままに過ごしていても不満はない。今のままでも充分幸せだし、その上で彼との結婚生活を大切にできたらいいと思っている。

「契約は忘れてないから。わたしは玖生さんに干渉せず、引かれた一線を越えないようにしながらも、妻としてきちんと振る舞って――」

 迷惑をかけないから――と続けるつもりだった。
 しかし、不意に玖生が何かに気付いたかのように目を見開き、萌衣を凝視しながら口元を手で塞いだ。そのため、開きかけた口を閉じた。
 きっと玖生は、萌衣の自覚が足りないと思っているに違いない。
 内容を理解した上で契約を結んだからには、それを求められているのが明白なのに……

「本当にごめんなさい。これからは気を付けます」

 素直に謝るが、玖生は何も言わない。小さくうな垂れたあと、片手で髪を掻き上げて天井を仰ぎ見た。

「悪い。……今夜は帰らない」
「えっ? 帰ってこないの?」

 結婚して初めての外泊宣言に、萌衣は緊張の面持おももちでたずねた。玖生は「……問題でも?」と返す。

「ううん!」

 萌衣はどぎまぎしながら否定した。お互いに干渉し合わないという契約がある。〝どこに?〟や〝どうして?〟などとたずねるのは御法度ごはっとだ。にもかかわらず、玖生のまとう雰囲気がこれまでと全然違うこともあり、気になって仕方がない。
 揺れ動く心情にまごつく萌衣にも気付かず、玖生は立ち上がる。穴が開くのではと思うぐらい萌衣を見つめたのち、大きく息を吐いて背を向けた。

「ま、待って!」

 萌衣は思わず懇願してしまう。
 衝動的な自分に驚く中、玖生が振り向いた。

「……何?」
「あの……」
「用があって呼び止めたんだろ?」

 そんなつもりはなかったので、言葉など用意しているはずもない。
 何か言い訳を、言い訳を……!

「ないのか? だったら、もう行く――」

 行く? ……一人で? そうよ!

義叔母おばさまが一時間後に迎えに来てって言ってたけど?」

 玖生は萌衣を見つめたまま、気怠けだるげにため息を吐いた。

「叔母には俺から連絡を入れる」

 そう言って、玖生は萌衣から顔をそむけると歩き出した。
 萌衣は反射的に手を差し伸べて、玖生の名を呼ぼうとする。でも今度は声を出さず、伸ばした手をゆっくり下ろした。
 その場で立ち尽くしたまま、玖生の後ろ姿を目で追う。コミュニティスペースから見えなくなると、萌衣は力なくソファに腰を下ろした。

「やっぱり怒らせてしまったんだよね?」

 一番してはいけない真似をしてしまった自分に、本当に嫌気が差す。

「結婚って難しいな……」

 そうは言っても、この道は自分で決めた。何もせずに諦めるわけにはいかない。とりあえず、玖生をもっと知ろう。
 萌衣は使用済みのカップや銘々皿めいめいざらを片付け終えると、秘書室に戻ったのだった。


   ***


 銀座にある、会員制高級クラブ〝藤紫ふじむらさき〟。
 こだわり抜かれた調度品と内装が目を引く豪奢ごうしゃな室内では、色鮮やかなカクテルドレスを身にまとったホステスたちが、上客を相手にしている。
 ホステス――豊かな膨らみの谷間を惜しげもなくさらす美蝶たち。黒服に呼ばれるたびにソファからソファへ飛び交う姿を目の端に入れながら、玖生はブランデーを飲んでいた。
 ブルボン朝に存在した国王ルイの名を借りたそれは、照明を受けて琥珀色こはくいろに輝いている。何百種類の原酒がブレンドされてもにごりがない、実に飲みやすいコニャックだった。

「まさか俺にも内緒で結婚してたとはね。玖生は新婚なのか……。そんな響きが似合わない男が」

 そう言って苦笑いしたのは、島方製薬会社社長の甥、島方誠司しまかたせいじだ。MRを統括する医薬情報部部長補佐を務める幼馴染おさななじみの彼とは、月に一、二回会うぐらい仲がいい。
 それで今夜も誠司に連絡を入れた。しかし、最初は〝アフターがあるから駄目〟と言われて諦めた。だが気心知れた彼と話して、もやもやを吹き飛ばしたかった玖生は、無理を言って会う約束を取り付けたのだ。
 玖生は誠司がいるクラブまで足を運び、ほんの十数秒前に契約結婚した件を洗いざらい話したところだった。

「切羽詰まっていたのを知ってるだろ? 俺に結婚願望はない。だがこうなった以上、妻としての生活は保証するつもりだ」
「そう思ってるんなら、何をごちゃごちゃと悩む必要がある? 取引先の美女に白羽の矢を立てたんだろ? お前が選んだ道だ」

 玖生は、彫りが深く、短くアップバングの髪型にした誠司を見つめ返す。
 誠司の言うとおり、これは自分が決めた結婚だ。萌衣は、最初に交わした契約を律儀に守ってくれている。にもかかわらず、予想を裏切る彼女の行動の一つ一つに心がもやもやしてしまう。

「お前はいいよな。親族から〝どこそこの令嬢との縁談がある〟と写真を持ってこられなくて。好き勝手できて、本当にうらやましい」

 玖生のぼやきに誠司はニヤリと口角を上げるだけで、手にしたブランデーグラスをくねらせた。現在フリーでやりたい放題の彼は、余裕よゆう綽々しゃくしゃくだ。
 何も問題がないから、クラブでアフターを入れることができるのだろう。
 玖生は、誠司の隣に座るララに視線を移した。素肌と同化しそうな黄色のカクテルドレスに身を包み、豊満な胸元を惜しげもなくさらす彼女こそ、彼の今夜のアフター相手だ。
 萌衣もこのくらいあるな――と思って、すぐに顔をしかめる。玖生は軽く咳払いし、再びララを観察した。
 ララは二十四歳と若いながらもをわきまえ、男性陣の個人的な話に割り込んでこない。二人のグラスの中身がなくなれば、すかさずそれを受け取って満たしてくれる。
 ああ、こういう気が利く女性が誠司の好みだった――と思いながら視線を移すと、彼がニヤニヤしていた。

「何?」
「いや……結局何が問題なのかなと思って。契約とわかりきった上で結婚して、奥さんは玖生の自由を認めている。しかも、干渉は一切なしで」
「そうなんだ。萌衣は俺が一番大事にする部分を尊重してくれる。結婚生活に問題はない。なのにこう、もやもやしてたまらないだけで」
「もやもやする理由は?」

 玖生は顔をしかめて、グラスに入ったコニャックをぐいっと飲み干した。

「あら、氷が溶けてるみたい。新しいものを取ってくるから、ちょっと待っててね」

 ララが誠司の膝に軽く触れてにっこりすると、テーブルにあるアイスペールをつかんで立ち上がる。彼女は玖生をチラッと見てウィンクし、滑るような所作で歩き出した。
 まるで〝あたしがいない間に、ゆっくり内緒話をしてくださいね〟と暗に伝えるかのように……
 誠司が気に入るのもわかる。
 細やかな気遣いに感嘆していると、誠司がニヤリと唇の端を上げた。

「ほら、今のうちに話せよ」

 前のめりで催促する誠司に、玖生は大きくため息を吐いた。

「わかったよ……。ただ誠司の期待には添えないと思う。悩みという悩みじゃないから」
「性欲が溜まってるのか?」

 玖生は首を横に振った。

「性欲を気にする余力はない。毎日がいっぱいいっぱいだ。とにかく、萌衣と結婚した件を両親に告げるまでに、二人の仲を進展させるのが先決だ」
「だから、さっさとセックスすれば?」
「セックス、ね……」

 確かに女性との距離を早々に縮めようと思うなら、セックスに限る。けれども、それが萌衣に当てはまるとは到底思えない。

「俺をなんとも思ってない相手に手を出せると?」
「……は?」
「だから、萌衣は俺を……男として意識していない」

 そう、萌衣は玖生をまったく気にもかけない。
 契約条件を提示したのは玖生自身。そこに正常な夫婦関係はないが、萌衣はこの結婚に幸せを見出したいと宣言した。だったらある程度気にしても良さそうなのに、彼女は少しズレているのか、玖生の予想とは違う行動を取る。
 叔母が元カノの話をしても、気にしなかった。叔母を親戚ではなく常務と認識し、一緒に暮らす今も、マンションは玖生のものだという感覚だ。
 全てにおいて他人行儀だった。

「だがそれは、俺が望んだこと。これで誰にも縛られずに結婚生活を送れると踏んでいた。その予定だったのに」

 真剣に話す玖生に対して、誠司がやにわにぷっと噴き出した。
 まさか笑われるとは……!
 玖生が誠司をにらみ付けると、彼はお腹に手を当てて、本気で笑い始めた。

「お前、そんなに笑い上戸だったか?」
「いや、だって、俺の知る玖生じゃないから。女で苦しむ姿を見られるとはね」

 玖生は鼻にしわを寄せ、〝好きなように言えばいい!〟とばかりに鼻を鳴らした。すると誠司が、再び楽しげに肩を揺らす。
 いつまでも笑ってろ。お前だっていつの日か恋人に悩まされるさ――と心の中で吐き捨て、ソファにふんぞり返る。
 しかしその時、頭の中にクエスチョンマークが浮かび上がった。
 どうして〝お前だっていつの日か恋人に悩まされる〟と思ったのか。たとえ恋人ができても玖生の立場とは違うのに、自分と同列に並べるとは……
 それにしてもいったい萌衣の何が玖生を惹き付けるのか。彼女との距離感に満足しているにもかかわらず、彼女の心が読めないせいで、自然と姿を追ってしまう。
 これまでの元カノとタイプが違うこともあり、余計に調子が狂うのだろうか。
 玖生はふとここ最近の生活を振り返った。
 その理由を追い求めようとするが考えれば考えるほど、頭の中がぐちゃぐちゃになる。
 こんな思いをしたのは人生で初めてだ。
 萌衣といるだけで目が離せない、彼女が気になって仕方がないという悪循環に見舞われるとは……

「俺の知る女と全然違うから、調子が狂うんだと思う」
「違うなら、とことん話して知ればいい」

 誠司のつぶやきに即座に「ああ」と返事して、玖生はハッとした。
 そう、気になるのならあばけばいい。どうして今回に限って、遠慮をするのか。これまでの相手は恋人で、妻ではなかったからか? 彼女と過ごす時間が想像していたよりも居心地がいいからか?
 玖生はいつもの自分とはほど遠い行動に笑いたくなってきた。

「何がそんなに楽しいんですか? 向こうまで笑い声が聞こえてましたよ?」

 アイスペールを手にしたララと、彼女より若く赤いミニのスリップドレスを着たホステスが入ってきた。

「サナって言います。よろしくお願いします!」

 元気いっぱいのサナは今年短期大学を卒業し、先月から働いているという話だった。ララと違っておしゃべりで、落ち着きがない。
 高級クラブらしからぬ行動をララにたしなめられたが、サナは意に介さない。玖生の横に座るとすぐにコニャックを注いで手渡してきた。

「ありがとう」
「あたしも飲みたいな」

 ララが誠司に甘く強請ねだる。

「何が飲みたい?」
「ふふっ、ちょうど今――」

 そう言って口にしたのは、ピンク色のボトルが目印のロゼのシャンパン名だった。ベリー系の香りだが、口腔で炭酸が弾けるとアーモンドの風味が広がり、スパイシーな味へと変わる。
 玖生の好みではないが、仕事の付き合いで立ち寄るクラブでも、ホステスが好んでよく注文する有名な高級シャンパンだ。これを一本入れると、ホステスのステータスが上がるらしい。

「いいよ。一本入れてあげよう」

 誠司がホステスたちに頷くと、ララが嬉しそうに彼の手を握って黒服を呼ぶ。彼女がシャンパンを頼む間、サナは玖生の腕に手を回してしなだれかかってきた。

「ありがとうございます! 今夜は楽しくなりそう……」

 サナは柔らかそうな唇を開けて、豊満な乳房を腕に当ててくる。独り身なら彼女の誘いに乗っても悪くないと思うが、〝妻〟を裏切るつもりはさらさらなかった。
 玖生はサナに微笑みながらも〝勝手に触るな〟と伝えるように腕に絡める彼女の手をゆっくり払う。サナは軽く唇を尖らせるが、決して諦めない。
 玖生は〝もっときちんと言わなければ駄目か……〟と心の中でため息を吐く。そして、そのまま萌衣へと思いを馳せた。
 家に帰ったら、萌衣といろいろな話をしてみよう。彼女の心が読めないからといって躊躇ためらうなど自分らしくない。
 グラスに入ったブランデーを一気に飲み干して幾分いくぶん吹っ切れた玖生は、日付が変わっても誠司と楽しく飲んでいた。しかし、軽く酔いを感じたところで席を立つ。まだ飲むと言うご機嫌の彼を置いて、クラブをあとにしたのだった。


   ***


 三時過ぎに、玖生はマンションに戻ってきた。萌衣はあてがわれた部屋のベッドで、ドアが静かに閉まる音を聞いていた。
 何故玖生の帰宅に気付いたのかというと、初めて外泊宣言を受けたことで気がたかぶり、眠りが浅かったせいだ。
 しかし玖生が帰ってきて、萌衣はようやく人心地がついた。
 足音は玖生の部屋へ続く廊下へ向かうと思っていた。けれども音は遠ざかるどころか、萌衣の部屋の方に近づいてくる。
 玖生らしからぬ行動に、妙な緊張感が増していた。じっと息を殺していると、なんと足音はドアの前で止まった。
 ひょっとして、部屋に入ってくる!?
 神経が過敏になってきた頃、再び足音が聞こえたが、部屋に入るのではなく遠ざかっていった。
 玖生がベッドルームへ戻ったとわかると、萌衣は飛び起きた。萌衣の知る限り、彼が部屋の前まで来たのは初めてだ。

「な、何? ……やっぱり昨日の出来事が原因!?」

 一瞬、萌衣の脳裏に〝不和〟の二文字が浮かんだ。すぐさま頭を振って追い払うが、思いも寄らなかった玖生の行動に萌衣は不安になる。
 実は昨日玖生と別れて秘書室に戻ったあとも、彼が気になっていた。佐山から〝内定者の中に秘書に相応ふさわしい人はいなかったな〟という話を聞かされても、心ここにあらずだった。
 悪い方向に気持ちを引きられそうになっていたが、そうならなかったのは、榊原の元気な声が秘書室を明るくしてくれたからだろう。
 ただ、ひとたび会社を出ると玖生とのやり取りがよみがえり、それはマンションに戻るまで続いた。
 日付をまたいでも……

「もうダメ!」

 じっとしていられなくなった萌衣は、ベッドを出て部屋続きのバスルームに入る。長い時間湯船にかり、強張こわばった身体の筋肉を解した。
 その後、再びベッドで横になるが、睡魔は訪れない。何度も寝返りを打って寝やすい体勢を探すものの、どんどん目が冴えてしまう。
 結果いつもより早い時間に起き、朝食の準備をするためにキッチンに向かった。


 ――一時間後。
 広々としたシステムキッチンに立つ萌衣は、ちらっとベッドルームに顔を向けた。

「昨夜は飲んだのかな?」

 何を作ろうかと迷ったが、萌衣はおかゆを作ることに決めた。
 玖生は飲んで帰ってきた翌朝は、塩味のおかゆよりいくばくか濃い味付けを好む。今朝は台湾風豆乳がゆにしよう。香辛料が効いた本場のおかゆにはかなわないが、これなら各々おのおの好みの味付けができる。

「よし!」

 萌衣は生米をぎ、取り出した土鍋に水や胡椒こしょうを入れて中火にかける。その間に、挽肉を取り出し、梅風味の甘辛そぼろ肉を作る。他には温泉玉子、鮭、大根葉の炒め物などを用意し、さらにデザートとしてフルーツヨーグルトを合わせた。
 しばらくして、土鍋に無調整豆乳を入れて鶏ガラスープの素も入れる。十分後には、美味おいしそうな豆乳がゆができあがった。仕上げに味を調えていると、ドアが開く音が聞こえた。

「いい匂いだ」
「おはよう。もうできるから」

 萌衣がおもてを上げると、ちょうど玖生がこちらに歩いてくるところだった。スウェットのズボンに長袖シャツというラフな姿だが、彼からにじみ出る男の色気に目が離せなくなる。
 玖生は、カウンターを回ってキッチンに入った。

「おかゆ? 昨夜はかなりお酒を飲んだから、これは嬉しい。ありがとう、萌衣」

 寝起きだというのに、白い歯をこぼす玖生がまぶしくてまごつきそうになる。それを必死に隠しながら、萌衣は傍で立ち止まった彼の手元に視線を落とす。

「そんなに飲んだの?」
「ああ」

 そう言って、玖生が蒸らし中の土鍋に顔を近づける。
 突如、フローラル系の香水が匂ってきて萌衣は言葉を失った。
 昨夜は女性と一緒だった? こんなに香水の匂いが身体に染みつくほど近くに?
 玖生に腕を絡ませる可愛らしい女性を想像しただけで、胸を締め付けられる。


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