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1巻
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序章
梅雨が明けると同時に蝉の大合唱が始まり、本格的な夏の暑さを感じ始めた七月中旬。
二十九歳の水谷萌衣は、様々なブランドジュエリーを取り扱う会社〝ウェルジェリア〟で役員秘書として働いている。現在は景山宏明専務付きなので、普段は役員室の隣室にいるが、今は同僚たちがいる秘書室の自席で仕事をしていた。
このあと景山の付き添いで出掛けるのだが、彼に〝わざわざ執務室に迎えに来なくていいよ。秘書室に行って、同僚たちと親睦を深めておいで〟と言われたためだ。
とはいえ、休憩時間でもないので仕事に専念するが……
「次は……」
パソコンの液晶画面に映し出したスケジュールを見ながら、会議室と執務室の清掃の予約を入れる。そして、昼食後に手渡された領収書の精算処理を行った。
これで、今日やるべき仕事はだいたい終わったかな?
萌衣は痛みが出始めた首を回し、凝り固まった肩を指で強く押した。
萌衣の普段の仕事は、主に景山のスケジュール管理で、出席する会議の取捨選択、彼にアポイントを求める人たちとの取り次ぎなどを行っている。
タブレットパソコンがあれば、どこにいても仕事に取り組めるが、やはりこうして同僚たちの話し声や活気を肌で感じ取れる場所で作業すると、とても気分がいい。
もう少しここにいたい気もするが、そうも言っていられない。そろそろ動いて、景山を迎える準備をするべきだ。
パソコンの電源を落として席を立つと、秘書室長の佐山の前で立ち止まった。
「室長、よろしいでしょうか」
「うん? どうした?」
仕事中の佐山が顔を上げると、萌衣はこれから景山に同行する旨を告げた。
「わかった。予定では、IT企業のHASEソリューションだったな。気を付けて行っておいで。……まあ、水谷さんに言うのは野暮だけどな」
佐山が〝そうだろう?〟と問いかけるように微笑んでくる。日頃からジムに通って身体を鍛えている佐山は、五十代でありながら四十代前半に見えるほど若々しい。
萌衣は信頼を寄せられるのが嬉しい反面、認めてもらえるのは仕事だけだと思うと、もの悲しい気分にさせられた。
そんなことは、今に始まったわけではないのに――と心の中で自嘲するが、萌衣はそれをおくびにも出さずに口元を緩める。
「とんでもございません。それでは失礼いたします」
挨拶したのち、萌衣は自分のデスクへ歩き出した。
それに合わせて、今年入社した二十二歳の榊原とその四歳年上の吉住が顔をつきあわせながらクスクス笑っているのが視界に入った。
楽しそうな雰囲気に自然と心が和み、後輩たちに目が吸い寄せられる。
「どうしたの?」
「あっ、水谷先輩!」
子猫のように可愛らしいショートボブの榊原と、切りっぱなしのワンレングスボブが印象的な吉住が席を立ち、満面の笑みを浮かべた。
「吉住先輩に聞いていたんです。明日のデートではどこに行くのかって」
「デート?」
萌衣が問いかけると、吉住が頷く。
「明日は休みなので、彼氏と予定があると言ったら、榊原さんがどこに行くのかを知りたがって」
「だって、吉住先輩に教えてもらった場所はどれも思い出に残るぐらいいいところで。当然知りたくなるじゃないですか。……あっ、水谷先輩はどこに遊びに行かれる予定なんですか?」
「わ、わたし?」
「水谷先輩がカノジョだったら、どこにでも連れていって喜ばせたいって思うもの」
二人は〝先輩のデートはどういったものなのか、あたしたちにもご教授お願いします〟とばかりに見つめてくる。
こういう恋愛話が出た時、萌衣は毎回付き合っている男性はいないと真実を告げるが、誰一人信じてくれない。
場の空気を読むのなら嘘を吐けばいいのかもしれないが、後輩たちを欺きたくはなかった。
「ごめんね。わたしからはなんとも言えないかな。だって誰とも付き合ってないから――」
「またまた! 水谷先輩ほど素敵な女性を、男性陣が放っておくはずがないじゃないですか」
「そんな風に言いますけど、わかってますからね。凄い人と付き合っているから隠すんだって」
吉住の言葉に、榊原はうんうんと頷いて同意を示す。
「女性として憧れます。はっきりとした二重に、肌のキメも細かくて……笑顔もとても素敵! すらりと手足が伸びたプロポーションも洋服のセンスもいいし」
そう言って、榊原が両手で萌衣が着ている服を示す。
膝頭が隠れるボックススカートに、フレンチスリーブのブラウスを合わせているだけなので、センスがいいとは言い難い。
ただ、秘書の服装としては合格点ではあるが……
「そう?」
「そうですよ! セミロングの髪も艶やかで綺麗でしょ。あと――」
急に榊原が周囲をきょろきょろ見回し、内緒話をするように口元に手を添えた。
「おっぱいが大きくて羨ましいです」
萌衣は驚いて、薄い生地を押し上げるEカップの胸元に目線を落とした。
「身長が一六〇センチ以上あるのもあって、そこだけが強調されすぎないですし。本当に憧れます! 聞いてくださいよ。彼氏ったら、あたしの胸は小さいからいろいろなことができないって」
「榊原さん、そこまで!」
吉住がぴしゃりと言い放つと、榊原が慌てて口を手で覆った。
「す、すみません! 仕事中なのに、あたしったら」
「ううん、いいのよ。誰かに聞かれたわけでもないし。だけど、そうね……そういう話は男性がいない密室でするのがいいかな」
萌衣は秘書室にいる男性秘書たちを窺って、榊原を窘める。彼女は何度も首を縦に振り、吉住はやれやれとため息を吐いた。
「じゃ、わたしはこれから外出するから、あとはよろしくね」
元気よく「はい」と返事をする後輩たちに微笑み、萌衣はタブレットパソコンをトートバッグに入れる。
そうして秘書室をあとにしたが、途中で小さく肩を落とす。
これまでの人生、萌衣は何事にも手を抜かず努力してきた。学生時代は勉強を、部活では上下関係の築き方を、バイトができる年齢になれば社会の繋がりを、そして美容の話で盛り上がれば、自分に似合う髪型や服装などを研究した。
その結果、今の秘書の地位を得られたと言っても過言ではない。
しかし、いくら努力しても叶わなかったものが一つだけある。それは、これまで一度も男性と付き合った経験がないことだ。
もちろん好きになった男性はいる。中学生の時に仲が良かった同級生で、好意を抱かれていた。
そう思っていた。
でも違った。彼は友人に〝水谷が好きなのか? ああ、好きなんだ!〟とからかわれて〝違う、僕が好きなのは水谷じゃない。彼女の親友の――〟と言ったのだ。
男性の考えがわからず悶々としているうちに高校生、大学生となり、恋愛というものがわからなくなった。
だからといって、男性が苦手なわけではない。高校時代から親しくしている男友達もいれば、大学時代に気になっていた人もいる。ただ、親切にしてくれたからなのか、それとも純粋に彼を好きなのかがわからず、結局何も進展がないまま今に至っている。
いったいどうすればいいのか。どういう感情を持たれると恋愛に発展するのか。
考えれば考えるほど恋愛迷子が重症化していった。このままだと、結婚どころか恋愛も経験しないまま三十代を迎えてしまうだろう。
萌衣はため息を吐いたが、すぐに背筋をピンと伸ばして気持ちを立て直す。
今は、仕事に集中しなければ……
萌衣は景山と待ち合わせをしている受付フロアへ向かいながら、スマートフォンを取り出し、会社が契約しているハイヤーに連絡を入れた。
「お世話になっております、ウェルジェリアの水谷です。予定どおり十五時配車で……はい、よろしくお願いいたします」
あとは景山を待つだけだ。
準備に抜かりはないよね――と頭の中で整理しながら受付フロアへ向かう。
「だったら、水谷さんは?」
突然自分の名前が聞こえて、萌衣は振り返る。ちょうど休憩室へ続く廊下で、男性二人が話し込む姿が目に入った。見覚えがないためどこの部署かは不明だが、萌衣より少し年上みたいだ。
もしかして、秘書室へ立ち寄る用件が?
萌衣は腕時計に視線を落とす。景山を迎えるまであと十分はあるので、ここで彼らの用件を聞いても間に合う。
そう思い、そちらへ足を踏み出すと、男性が「ないない!」と声を上げた。
萌衣はすかさず壁際へ寄って身を隠す。そうする必要はないのに、男性の強い口調に驚いてしまったせいだ。
「才色兼備ってああいう女性を言うんだよな。水谷さんが素敵だっていうのはわかってるんだけど、付き合うなら別の女性を選ぶよ」
「ああ、わかる。水谷さんって傍から見る分にはいいんだけど、自分の女にしたいかってなると、それはちょっと違って……。高嶺の花過ぎて恋愛対象としては無理なんだよな」
高嶺の花? 恋愛対象としては無理?
その言葉に、萌衣は苦々しく笑った。
どうして皆勝手に〝才色兼備〟という器に萌衣を押し込むのか。そもそも才色兼備ではないし、高嶺の花でもない。学生時代に努力した結果であって、決して皆が一目置くような存在ではない。
恋がどういったものかわからない萌衣は、はっきり言って欠陥品。恋を経験してきた同僚たちよりも劣っている。
なのに誰一人として、萌衣という人物をきちんと見ずに決めつける。
萌衣は悲しい気持ちのまま、トートバッグを持つ手に力を込めた。
「友達で充分だよな。カノジョにしたら、誰かに奪われるんじゃないかって気が気でなくなる」
「それで……合コンで会ったあの子に手を出したんだ?」
「おい、そんな風に言うなよ。あれでも可愛いんだから」
唐突に男性の話し声が大きくなり、こちらに歩いてきたのがわかった。萌衣は咄嗟に身を翻してその場を去った。
――数分後。
受付フロアの中央に設けられた円形のソファには、談笑や打ち合わせをする社員たちがいた。
萌衣は受付嬢に会釈し、景山を待つためにカウンターの脇に立つ。背筋を伸ばして仕事モードに切り換えるものの、先ほどの話を思い出さずにはいられなかった。
男性社員の言うとおり、萌衣は誰からも恋愛対象としては見られない。彼らは好意を向けつつも、そこに恋情は湧き起こらないのだ。
もう来年には三十歳になるのに、このままでいいの? ――そう悲しく思いながら景山を待っていると、彼が受付フロアに現れた。
年齢相応な中太りの体型だが、髪は黒々している。昔はかなりモテたとわかるぐらい笑顔が爽やかだ。数年前にシングルになり、今も人生を謳歌している。
理由は、これから向かうHASEソリューションに行けばわかる。ただこの件を知っているのは専属秘書の萌衣のみなので、決して口外はできない。
萌衣は歩き出して、景山を迎える。
「お車のご用意はできております」
「ありがとう」
萌衣は礼儀正しく首を縦に振り、エレベーターのボタンを押す。
「お先に失礼いたします」
景山に声をかけてエレベーターに乗ると彼を招き入れ、オフィスビルの玄関口となるフロアで降りた。
ぶわっと熱気が身体にまとわりつくような暑さに眉根を寄せつつ、すぐにオフィスビルのロータリーに顔を向ける。そこには既にハイヤーが横付けにされていた。
顔馴染みの四十代の女性運転手がドアを開けると、景山が乗り込む。
「水谷さんも」
隣に座るように示されて、萌衣も横に腰を下ろした。車が走り出すと、景山が咳払いする。
「今日、水谷さんは上まで来なくていいよ。一階のカフェででもゆっくりしていてほしい。終わったら、こちらから連絡を入れる」
「承知いたしました」
景山がそう言うのは、最初からわかっていた。
萌衣が勤めるウェルジェリアは、現在ネット通販でも業績を伸ばしている。それもあり、システム管理は最重要事項の一つに挙げられていた。システム強化のためHASEソリューションに発注書を送ったが、こちらが望むシステムを組むのは難しいと言われてしまう。
交渉が一年も続いたある日、萌衣は景山からHASEソリューションとのアポイントメントを求められた。
システム関連の担当者も通っていたが、彼らとは別に、景山もHASEソリューションの吉沢桐子常務と面会を重ねた。それが切っ掛けとなって好転し、契約の運びとなったのだ。
もちろん断られ続けてもしぶとく交渉を続けた担当者の成果でもあるが、やはり陰の功労者は景山だと萌衣は思っている。彼が五十代の美魔女である吉沢と付き合い始めて以降、急にこちらの要望に沿ったシステム開発に乗り出してくれることになったためだ。
吉沢は夫と死別して独身なのもあり、景山と交際する分には何も問題はない。しかし二人はお互いに会社での立場があるので、人目を忍んでこっそりと付き合っている。だから表立って、彼の後ろ盾があったとは言えなかった。
萌衣は景山がスマートフォンを弄り出したのを横目で捉えて、そっと窓の外に目線を向けた。
車がHASEソリューションの入るオフィスビルに到着するまで、流れる景色と歩道を歩く老若男女を眺める。
渋滞のせいで通常より十分ほど遅れたが、約束の時間の十五分前に新宿にある高層オフィスビルに到着した。
萌衣たちは車を降りてロビーに足を踏み入れると、許可証を得てエレベーターに乗る。そしてHASEソリューションが入った階で降り、受付で吉沢と面会の約束がある旨を伝えた。
「そちらでお待ちくださいませ」
受付嬢がにこやかにソファを示す。萌衣は会釈をし、既にそこに座る景山のところへ移動した。
一分も経たずに、二十代半ばの秘書が現れた。
「景山さま、お待ちしておりました。ご案内いたします」
外見が兎のようにふわふわとした可愛い女性を見て、萌衣の口元が自然と緩んでいく。
「水谷さん、またあとでね」
「承知いたしました」
萌衣は恭しく返事をし、景山を見送る。彼の姿が視界から消えると、受付嬢に会釈してエレベーターホールに向かった。
あとは景山からの連絡を待てばいい。
萌衣はエレベーターに乗り込み、ロビーで降りた。カフェで待つつもりだったが、店内はスーツを着た人たちが大勢いて座れそうにない。
それならばテイクアウトにして、屋外に設置してあるベンチで食べればいいが、三十度を超える場所で待つのは辛い。
だったら、どうしようか。
うーんと唸っていた時、萌衣はあることを思い出した。
HASEソリューションには景山と一緒に何回か訪れているが、ほとんど彼の傍にいたのでオフィスビルや社内を見て回る余裕はなかった。
でも一度だけ、景山から喉を痛めた吉沢のためにカフェでミルクを買ってきてほしいと頼まれた際、偶然ロータリーに通じるエントランスとは反対側にあるフリースペースを見つけた。そこにはテーブル席とソファがある。
あそこでなら、ゆっくりできるかも……
萌衣はそう決断するや否や、アイスラテとスコーンを注文し、それを受け取ってカフェを出た。
記憶を辿ってエントランスへ続く自動ドアを通り過ぎ、さらに奥へと進むと、目的のフリースペースが目に飛び込んできた。
「良かった!」
場所を間違っていなかったとホッと胸を撫で下ろしながら、周囲を見回す。
フリースペースには数人の男性しかおらず、新聞を読んだり、タブレットパソコンで仕事をしたりしている。皆他人を気にせず、自分のことに没頭していた。
ここでならのんびりと過ごせるだろう。
萌衣は空いているテーブル椅子に腰を下ろした。コーヒーカップとスコーンが入った袋を置き、トートバッグからタブレットパソコンを取り出す。
電源を入れて起動させている間にアイスラテで喉を潤し、スコーンを口に放り込んだ。そして仕事をするべくスケジュール管理を開き、景山の出席を打診された会議の調整を始める。
しかしその途中で、萌衣の手から力が抜けていった。ふと、景山を受付フロアで待っている時の記憶が甦ったからだ。
男性社員たちがしていた萌衣の噂話を……
身勝手な憶測で萌衣にレッテルを貼る人が多いのは、もう経験からわかっている。とはいえ、それを耳にするとやはり落ち込んでしまう。
このままでいいの? しかも来年は三十歳だ。恋愛の仕方がわからない以上、ずるずると時間だけが経つに決まっている。この調子では、結婚どころか一生恋愛すらできない。
今までと変わりない生活を送っていたら、尚更だ。幸せな結婚をした先輩たちのような、恋愛を謳歌する後輩たちのような運命の出会いなど期待できない。
だったらどうしたらいいのか。
萌衣は唇を引き結び、検索エンジンを立ち上げた。無作為に答えを求めてカーソルを動かしていた時、表示された広告にピタッと目が留まる。
「お見合いサイト?」
十万単位の登録者数に、万単位の成婚者を誇る紹介文に目が釘付けになる。
どうして気付かなかったのか。萌衣にとって一番いい手は、お見合いでは?
だいたい知り合った男性はほとんど自分を敬遠するが、お見合いの場であれば変な先入観を持たずに向き合ってくれるのではないだろうか。
最初は価値観が合えばいい。恋愛感情などなくていい。時間をかけて友情を育むところからスタートすれば、きっといつしか愛が生まれて、幸せな家庭を築ける。
「そうよ。こんなわたしを選んでくれる男性が絶対にいる。もし出会いのチャンスがあれば、わたしは躊躇わずにその手を掴み取って――」
「だったら、俺でどう?」
お見合いサイトにカーソルを合わせてクリックしようとした、まさにその瞬間だった。
真上から振ってきた声に驚いて顔を上げると、三十代ぐらいの男性がいた。甘いマスクの彼はテーブルについた手に体重をかけ、萌衣を見つめている。
耳元の上を刈り上げたマッシュウルフ風の髪型、キリリとした眉、意志の強そうな双眸、真っすぐな鼻筋、そして形のいい唇を目視し、再び面白そうにこちらを覗き込む男性に焦点を合わせた。
この人を知っている――そう思うや否や、記憶にある人物とぴたりと重なった。
萌衣は慌てて腰を上げようとするが、男性が手を上げて〝立たなくていい〟と示す。堂々とした態度で空いた椅子に座る男性は、その間も萌衣を凝視していた。
圧倒的な存在感に、萌衣の身体がかすかに震える。
そうなるのも当然だ。目の前にいる男性は、HASEソリューションの御曹司、長谷川玖生だからだ。
以前、吉沢の執務室を出てエレベーターホールへ向かっている時に偶然長谷川と出くわし、彼女の紹介で景山と一緒に挨拶をさせてもらった。
記憶が正しければ、長谷川は現在三十二歳。管理本部の部長補佐として財務部、情報システム部、経営企画部を統括している。
ただ長谷川と景山には仕事の接点が全然ないため、直接言葉を交わしたのはその一度きり。それ以降はHASEソリューション内の廊下で数回見かけたことがあったが、彼も部下を従えて忙しくしていたのもあり、遠くから会釈をする程度だった。
そういうわけで、顔見知りであっても親しくはない。だからこそ、長谷川の方から声をかけてきたことに驚きを隠せなかった。
しかし秘書気質が身に付いているのもあり、萌衣はさほど顔に感情を出さずに頭を下げた。
「お久しぶりです」
「俺のことを覚えていてくれたんだ?」
もちろんだ。ただ社外であったため、すぐに思い出せなかったが……
「今日は……景山専務のお供で?」
「はい。景山は吉沢常務と面会中です」
「じゃ、俺と話す時間は少しあるんだな?」
話す時間? お互いに接点があるわけではないのに、いったい何の話をしようと言うのか。
だからといって断れるはずもなく、萌衣は平然とした態度を装って長谷川に向き直った。
「なんでしょうか」
途端、長谷川がクスッと笑った。その仕草には男っぽい艶があって、萌衣は困惑する。
後輩だったら、たちまちうっとりと長谷川に見入るかも知れないが、萌衣は何か裏があるように思えて身構えてしまう。以前挨拶を交わした時と全然違う態度だからだ。
「面識はあるとはいえ、俺たちは気軽に言葉を交わすほど親しくない。にもかかわらず、こうして声をかけられても一切焦らない。そう、もの凄く冷静沈着。感情のない人形みたいなのに……目を奪われるほど綺麗だ」
面と向かって異性から〝感情のない人形〟と言われて、無意識に眉根を寄せる。それでもお構いなしに、長谷川はテーブルに肘を突き、心持ち顔を近づけてきた。
「話を戻すけど、君の独り言が聞こえてさ。お見合いサイトで相手を探すつもりなら、俺にしないか?」
俺って、わたしと? 結婚を!? ――と、あまりにも突拍子のない話に、萌衣は目を見開く。
何がどうなってそう提案してきたのかがわからず、ただ長谷川を見つめていると、彼がにっこりした。しかしその直後、女性を蕩かせる色艶を綺麗に消し、鋭い眼差しで萌衣を射貫いた。
「もちろん普通の結婚じゃない。……契約結婚の申し入れだ」
「……契約?」
「ああ。結婚したい者同士がここにいる。しかも、俺が望む条件を持ち合わせる君がね。俺が提示する条件を呑めるなら、君を妻に迎えてもいい。どうだ?」
そこには、最初に萌衣に声をかけた、あの甘いマスクの長谷川はいない。商談相手に駆け引きをするような勝負師の顔をしている。
……うん? 勝負師? それって、切羽詰まっているという意味? この人が?
「俺の条件は二つだけ。一つ目は、お互いに尊重するも干渉し合わない。二つ目は、どちらかが離婚したいと望めば争わずに応じる。それだけだ。呑んでくれるのなら、君の要望にも応じる。結婚相手がほしいという願いを」
淡々と述べるが、萌衣をターゲットにした理由が釈然としない。
萌衣が聞き齧った情報によると、長谷川は女性に不自由しておらず、いつも隣に美女を連れているらしい。萌衣はその光景を見たことがないが、彼自身を見れば頷ける話だ。
だったら、萌衣ではなく恋人に契約結婚を申し入れたらいいのに……
そう思うのに、正直契約結婚に心が引かれていた。それは長谷川の求める契約結婚は、お見合いのみならず普通の結婚にも通じる部分があるためだ。
相手を尊重して干渉し合わなければケンカはしないし、性格不一致で争わずに離婚もできるのだから……
これこそ自分が願う結婚生活では?
心の天秤が大きく動き、長谷川の方へ傾く。でもピタッと止まりはしなかった。やはり何故〝萌衣〟なのかという謎が解けない。
「どうしてわたしなんですか? お付き合いされている恋人に頼むのが一番いいと思いますが」
疑問を口にすると、長谷川が不意にふわっとした笑みを零した。
梅雨が明けると同時に蝉の大合唱が始まり、本格的な夏の暑さを感じ始めた七月中旬。
二十九歳の水谷萌衣は、様々なブランドジュエリーを取り扱う会社〝ウェルジェリア〟で役員秘書として働いている。現在は景山宏明専務付きなので、普段は役員室の隣室にいるが、今は同僚たちがいる秘書室の自席で仕事をしていた。
このあと景山の付き添いで出掛けるのだが、彼に〝わざわざ執務室に迎えに来なくていいよ。秘書室に行って、同僚たちと親睦を深めておいで〟と言われたためだ。
とはいえ、休憩時間でもないので仕事に専念するが……
「次は……」
パソコンの液晶画面に映し出したスケジュールを見ながら、会議室と執務室の清掃の予約を入れる。そして、昼食後に手渡された領収書の精算処理を行った。
これで、今日やるべき仕事はだいたい終わったかな?
萌衣は痛みが出始めた首を回し、凝り固まった肩を指で強く押した。
萌衣の普段の仕事は、主に景山のスケジュール管理で、出席する会議の取捨選択、彼にアポイントを求める人たちとの取り次ぎなどを行っている。
タブレットパソコンがあれば、どこにいても仕事に取り組めるが、やはりこうして同僚たちの話し声や活気を肌で感じ取れる場所で作業すると、とても気分がいい。
もう少しここにいたい気もするが、そうも言っていられない。そろそろ動いて、景山を迎える準備をするべきだ。
パソコンの電源を落として席を立つと、秘書室長の佐山の前で立ち止まった。
「室長、よろしいでしょうか」
「うん? どうした?」
仕事中の佐山が顔を上げると、萌衣はこれから景山に同行する旨を告げた。
「わかった。予定では、IT企業のHASEソリューションだったな。気を付けて行っておいで。……まあ、水谷さんに言うのは野暮だけどな」
佐山が〝そうだろう?〟と問いかけるように微笑んでくる。日頃からジムに通って身体を鍛えている佐山は、五十代でありながら四十代前半に見えるほど若々しい。
萌衣は信頼を寄せられるのが嬉しい反面、認めてもらえるのは仕事だけだと思うと、もの悲しい気分にさせられた。
そんなことは、今に始まったわけではないのに――と心の中で自嘲するが、萌衣はそれをおくびにも出さずに口元を緩める。
「とんでもございません。それでは失礼いたします」
挨拶したのち、萌衣は自分のデスクへ歩き出した。
それに合わせて、今年入社した二十二歳の榊原とその四歳年上の吉住が顔をつきあわせながらクスクス笑っているのが視界に入った。
楽しそうな雰囲気に自然と心が和み、後輩たちに目が吸い寄せられる。
「どうしたの?」
「あっ、水谷先輩!」
子猫のように可愛らしいショートボブの榊原と、切りっぱなしのワンレングスボブが印象的な吉住が席を立ち、満面の笑みを浮かべた。
「吉住先輩に聞いていたんです。明日のデートではどこに行くのかって」
「デート?」
萌衣が問いかけると、吉住が頷く。
「明日は休みなので、彼氏と予定があると言ったら、榊原さんがどこに行くのかを知りたがって」
「だって、吉住先輩に教えてもらった場所はどれも思い出に残るぐらいいいところで。当然知りたくなるじゃないですか。……あっ、水谷先輩はどこに遊びに行かれる予定なんですか?」
「わ、わたし?」
「水谷先輩がカノジョだったら、どこにでも連れていって喜ばせたいって思うもの」
二人は〝先輩のデートはどういったものなのか、あたしたちにもご教授お願いします〟とばかりに見つめてくる。
こういう恋愛話が出た時、萌衣は毎回付き合っている男性はいないと真実を告げるが、誰一人信じてくれない。
場の空気を読むのなら嘘を吐けばいいのかもしれないが、後輩たちを欺きたくはなかった。
「ごめんね。わたしからはなんとも言えないかな。だって誰とも付き合ってないから――」
「またまた! 水谷先輩ほど素敵な女性を、男性陣が放っておくはずがないじゃないですか」
「そんな風に言いますけど、わかってますからね。凄い人と付き合っているから隠すんだって」
吉住の言葉に、榊原はうんうんと頷いて同意を示す。
「女性として憧れます。はっきりとした二重に、肌のキメも細かくて……笑顔もとても素敵! すらりと手足が伸びたプロポーションも洋服のセンスもいいし」
そう言って、榊原が両手で萌衣が着ている服を示す。
膝頭が隠れるボックススカートに、フレンチスリーブのブラウスを合わせているだけなので、センスがいいとは言い難い。
ただ、秘書の服装としては合格点ではあるが……
「そう?」
「そうですよ! セミロングの髪も艶やかで綺麗でしょ。あと――」
急に榊原が周囲をきょろきょろ見回し、内緒話をするように口元に手を添えた。
「おっぱいが大きくて羨ましいです」
萌衣は驚いて、薄い生地を押し上げるEカップの胸元に目線を落とした。
「身長が一六〇センチ以上あるのもあって、そこだけが強調されすぎないですし。本当に憧れます! 聞いてくださいよ。彼氏ったら、あたしの胸は小さいからいろいろなことができないって」
「榊原さん、そこまで!」
吉住がぴしゃりと言い放つと、榊原が慌てて口を手で覆った。
「す、すみません! 仕事中なのに、あたしったら」
「ううん、いいのよ。誰かに聞かれたわけでもないし。だけど、そうね……そういう話は男性がいない密室でするのがいいかな」
萌衣は秘書室にいる男性秘書たちを窺って、榊原を窘める。彼女は何度も首を縦に振り、吉住はやれやれとため息を吐いた。
「じゃ、わたしはこれから外出するから、あとはよろしくね」
元気よく「はい」と返事をする後輩たちに微笑み、萌衣はタブレットパソコンをトートバッグに入れる。
そうして秘書室をあとにしたが、途中で小さく肩を落とす。
これまでの人生、萌衣は何事にも手を抜かず努力してきた。学生時代は勉強を、部活では上下関係の築き方を、バイトができる年齢になれば社会の繋がりを、そして美容の話で盛り上がれば、自分に似合う髪型や服装などを研究した。
その結果、今の秘書の地位を得られたと言っても過言ではない。
しかし、いくら努力しても叶わなかったものが一つだけある。それは、これまで一度も男性と付き合った経験がないことだ。
もちろん好きになった男性はいる。中学生の時に仲が良かった同級生で、好意を抱かれていた。
そう思っていた。
でも違った。彼は友人に〝水谷が好きなのか? ああ、好きなんだ!〟とからかわれて〝違う、僕が好きなのは水谷じゃない。彼女の親友の――〟と言ったのだ。
男性の考えがわからず悶々としているうちに高校生、大学生となり、恋愛というものがわからなくなった。
だからといって、男性が苦手なわけではない。高校時代から親しくしている男友達もいれば、大学時代に気になっていた人もいる。ただ、親切にしてくれたからなのか、それとも純粋に彼を好きなのかがわからず、結局何も進展がないまま今に至っている。
いったいどうすればいいのか。どういう感情を持たれると恋愛に発展するのか。
考えれば考えるほど恋愛迷子が重症化していった。このままだと、結婚どころか恋愛も経験しないまま三十代を迎えてしまうだろう。
萌衣はため息を吐いたが、すぐに背筋をピンと伸ばして気持ちを立て直す。
今は、仕事に集中しなければ……
萌衣は景山と待ち合わせをしている受付フロアへ向かいながら、スマートフォンを取り出し、会社が契約しているハイヤーに連絡を入れた。
「お世話になっております、ウェルジェリアの水谷です。予定どおり十五時配車で……はい、よろしくお願いいたします」
あとは景山を待つだけだ。
準備に抜かりはないよね――と頭の中で整理しながら受付フロアへ向かう。
「だったら、水谷さんは?」
突然自分の名前が聞こえて、萌衣は振り返る。ちょうど休憩室へ続く廊下で、男性二人が話し込む姿が目に入った。見覚えがないためどこの部署かは不明だが、萌衣より少し年上みたいだ。
もしかして、秘書室へ立ち寄る用件が?
萌衣は腕時計に視線を落とす。景山を迎えるまであと十分はあるので、ここで彼らの用件を聞いても間に合う。
そう思い、そちらへ足を踏み出すと、男性が「ないない!」と声を上げた。
萌衣はすかさず壁際へ寄って身を隠す。そうする必要はないのに、男性の強い口調に驚いてしまったせいだ。
「才色兼備ってああいう女性を言うんだよな。水谷さんが素敵だっていうのはわかってるんだけど、付き合うなら別の女性を選ぶよ」
「ああ、わかる。水谷さんって傍から見る分にはいいんだけど、自分の女にしたいかってなると、それはちょっと違って……。高嶺の花過ぎて恋愛対象としては無理なんだよな」
高嶺の花? 恋愛対象としては無理?
その言葉に、萌衣は苦々しく笑った。
どうして皆勝手に〝才色兼備〟という器に萌衣を押し込むのか。そもそも才色兼備ではないし、高嶺の花でもない。学生時代に努力した結果であって、決して皆が一目置くような存在ではない。
恋がどういったものかわからない萌衣は、はっきり言って欠陥品。恋を経験してきた同僚たちよりも劣っている。
なのに誰一人として、萌衣という人物をきちんと見ずに決めつける。
萌衣は悲しい気持ちのまま、トートバッグを持つ手に力を込めた。
「友達で充分だよな。カノジョにしたら、誰かに奪われるんじゃないかって気が気でなくなる」
「それで……合コンで会ったあの子に手を出したんだ?」
「おい、そんな風に言うなよ。あれでも可愛いんだから」
唐突に男性の話し声が大きくなり、こちらに歩いてきたのがわかった。萌衣は咄嗟に身を翻してその場を去った。
――数分後。
受付フロアの中央に設けられた円形のソファには、談笑や打ち合わせをする社員たちがいた。
萌衣は受付嬢に会釈し、景山を待つためにカウンターの脇に立つ。背筋を伸ばして仕事モードに切り換えるものの、先ほどの話を思い出さずにはいられなかった。
男性社員の言うとおり、萌衣は誰からも恋愛対象としては見られない。彼らは好意を向けつつも、そこに恋情は湧き起こらないのだ。
もう来年には三十歳になるのに、このままでいいの? ――そう悲しく思いながら景山を待っていると、彼が受付フロアに現れた。
年齢相応な中太りの体型だが、髪は黒々している。昔はかなりモテたとわかるぐらい笑顔が爽やかだ。数年前にシングルになり、今も人生を謳歌している。
理由は、これから向かうHASEソリューションに行けばわかる。ただこの件を知っているのは専属秘書の萌衣のみなので、決して口外はできない。
萌衣は歩き出して、景山を迎える。
「お車のご用意はできております」
「ありがとう」
萌衣は礼儀正しく首を縦に振り、エレベーターのボタンを押す。
「お先に失礼いたします」
景山に声をかけてエレベーターに乗ると彼を招き入れ、オフィスビルの玄関口となるフロアで降りた。
ぶわっと熱気が身体にまとわりつくような暑さに眉根を寄せつつ、すぐにオフィスビルのロータリーに顔を向ける。そこには既にハイヤーが横付けにされていた。
顔馴染みの四十代の女性運転手がドアを開けると、景山が乗り込む。
「水谷さんも」
隣に座るように示されて、萌衣も横に腰を下ろした。車が走り出すと、景山が咳払いする。
「今日、水谷さんは上まで来なくていいよ。一階のカフェででもゆっくりしていてほしい。終わったら、こちらから連絡を入れる」
「承知いたしました」
景山がそう言うのは、最初からわかっていた。
萌衣が勤めるウェルジェリアは、現在ネット通販でも業績を伸ばしている。それもあり、システム管理は最重要事項の一つに挙げられていた。システム強化のためHASEソリューションに発注書を送ったが、こちらが望むシステムを組むのは難しいと言われてしまう。
交渉が一年も続いたある日、萌衣は景山からHASEソリューションとのアポイントメントを求められた。
システム関連の担当者も通っていたが、彼らとは別に、景山もHASEソリューションの吉沢桐子常務と面会を重ねた。それが切っ掛けとなって好転し、契約の運びとなったのだ。
もちろん断られ続けてもしぶとく交渉を続けた担当者の成果でもあるが、やはり陰の功労者は景山だと萌衣は思っている。彼が五十代の美魔女である吉沢と付き合い始めて以降、急にこちらの要望に沿ったシステム開発に乗り出してくれることになったためだ。
吉沢は夫と死別して独身なのもあり、景山と交際する分には何も問題はない。しかし二人はお互いに会社での立場があるので、人目を忍んでこっそりと付き合っている。だから表立って、彼の後ろ盾があったとは言えなかった。
萌衣は景山がスマートフォンを弄り出したのを横目で捉えて、そっと窓の外に目線を向けた。
車がHASEソリューションの入るオフィスビルに到着するまで、流れる景色と歩道を歩く老若男女を眺める。
渋滞のせいで通常より十分ほど遅れたが、約束の時間の十五分前に新宿にある高層オフィスビルに到着した。
萌衣たちは車を降りてロビーに足を踏み入れると、許可証を得てエレベーターに乗る。そしてHASEソリューションが入った階で降り、受付で吉沢と面会の約束がある旨を伝えた。
「そちらでお待ちくださいませ」
受付嬢がにこやかにソファを示す。萌衣は会釈をし、既にそこに座る景山のところへ移動した。
一分も経たずに、二十代半ばの秘書が現れた。
「景山さま、お待ちしておりました。ご案内いたします」
外見が兎のようにふわふわとした可愛い女性を見て、萌衣の口元が自然と緩んでいく。
「水谷さん、またあとでね」
「承知いたしました」
萌衣は恭しく返事をし、景山を見送る。彼の姿が視界から消えると、受付嬢に会釈してエレベーターホールに向かった。
あとは景山からの連絡を待てばいい。
萌衣はエレベーターに乗り込み、ロビーで降りた。カフェで待つつもりだったが、店内はスーツを着た人たちが大勢いて座れそうにない。
それならばテイクアウトにして、屋外に設置してあるベンチで食べればいいが、三十度を超える場所で待つのは辛い。
だったら、どうしようか。
うーんと唸っていた時、萌衣はあることを思い出した。
HASEソリューションには景山と一緒に何回か訪れているが、ほとんど彼の傍にいたのでオフィスビルや社内を見て回る余裕はなかった。
でも一度だけ、景山から喉を痛めた吉沢のためにカフェでミルクを買ってきてほしいと頼まれた際、偶然ロータリーに通じるエントランスとは反対側にあるフリースペースを見つけた。そこにはテーブル席とソファがある。
あそこでなら、ゆっくりできるかも……
萌衣はそう決断するや否や、アイスラテとスコーンを注文し、それを受け取ってカフェを出た。
記憶を辿ってエントランスへ続く自動ドアを通り過ぎ、さらに奥へと進むと、目的のフリースペースが目に飛び込んできた。
「良かった!」
場所を間違っていなかったとホッと胸を撫で下ろしながら、周囲を見回す。
フリースペースには数人の男性しかおらず、新聞を読んだり、タブレットパソコンで仕事をしたりしている。皆他人を気にせず、自分のことに没頭していた。
ここでならのんびりと過ごせるだろう。
萌衣は空いているテーブル椅子に腰を下ろした。コーヒーカップとスコーンが入った袋を置き、トートバッグからタブレットパソコンを取り出す。
電源を入れて起動させている間にアイスラテで喉を潤し、スコーンを口に放り込んだ。そして仕事をするべくスケジュール管理を開き、景山の出席を打診された会議の調整を始める。
しかしその途中で、萌衣の手から力が抜けていった。ふと、景山を受付フロアで待っている時の記憶が甦ったからだ。
男性社員たちがしていた萌衣の噂話を……
身勝手な憶測で萌衣にレッテルを貼る人が多いのは、もう経験からわかっている。とはいえ、それを耳にするとやはり落ち込んでしまう。
このままでいいの? しかも来年は三十歳だ。恋愛の仕方がわからない以上、ずるずると時間だけが経つに決まっている。この調子では、結婚どころか一生恋愛すらできない。
今までと変わりない生活を送っていたら、尚更だ。幸せな結婚をした先輩たちのような、恋愛を謳歌する後輩たちのような運命の出会いなど期待できない。
だったらどうしたらいいのか。
萌衣は唇を引き結び、検索エンジンを立ち上げた。無作為に答えを求めてカーソルを動かしていた時、表示された広告にピタッと目が留まる。
「お見合いサイト?」
十万単位の登録者数に、万単位の成婚者を誇る紹介文に目が釘付けになる。
どうして気付かなかったのか。萌衣にとって一番いい手は、お見合いでは?
だいたい知り合った男性はほとんど自分を敬遠するが、お見合いの場であれば変な先入観を持たずに向き合ってくれるのではないだろうか。
最初は価値観が合えばいい。恋愛感情などなくていい。時間をかけて友情を育むところからスタートすれば、きっといつしか愛が生まれて、幸せな家庭を築ける。
「そうよ。こんなわたしを選んでくれる男性が絶対にいる。もし出会いのチャンスがあれば、わたしは躊躇わずにその手を掴み取って――」
「だったら、俺でどう?」
お見合いサイトにカーソルを合わせてクリックしようとした、まさにその瞬間だった。
真上から振ってきた声に驚いて顔を上げると、三十代ぐらいの男性がいた。甘いマスクの彼はテーブルについた手に体重をかけ、萌衣を見つめている。
耳元の上を刈り上げたマッシュウルフ風の髪型、キリリとした眉、意志の強そうな双眸、真っすぐな鼻筋、そして形のいい唇を目視し、再び面白そうにこちらを覗き込む男性に焦点を合わせた。
この人を知っている――そう思うや否や、記憶にある人物とぴたりと重なった。
萌衣は慌てて腰を上げようとするが、男性が手を上げて〝立たなくていい〟と示す。堂々とした態度で空いた椅子に座る男性は、その間も萌衣を凝視していた。
圧倒的な存在感に、萌衣の身体がかすかに震える。
そうなるのも当然だ。目の前にいる男性は、HASEソリューションの御曹司、長谷川玖生だからだ。
以前、吉沢の執務室を出てエレベーターホールへ向かっている時に偶然長谷川と出くわし、彼女の紹介で景山と一緒に挨拶をさせてもらった。
記憶が正しければ、長谷川は現在三十二歳。管理本部の部長補佐として財務部、情報システム部、経営企画部を統括している。
ただ長谷川と景山には仕事の接点が全然ないため、直接言葉を交わしたのはその一度きり。それ以降はHASEソリューション内の廊下で数回見かけたことがあったが、彼も部下を従えて忙しくしていたのもあり、遠くから会釈をする程度だった。
そういうわけで、顔見知りであっても親しくはない。だからこそ、長谷川の方から声をかけてきたことに驚きを隠せなかった。
しかし秘書気質が身に付いているのもあり、萌衣はさほど顔に感情を出さずに頭を下げた。
「お久しぶりです」
「俺のことを覚えていてくれたんだ?」
もちろんだ。ただ社外であったため、すぐに思い出せなかったが……
「今日は……景山専務のお供で?」
「はい。景山は吉沢常務と面会中です」
「じゃ、俺と話す時間は少しあるんだな?」
話す時間? お互いに接点があるわけではないのに、いったい何の話をしようと言うのか。
だからといって断れるはずもなく、萌衣は平然とした態度を装って長谷川に向き直った。
「なんでしょうか」
途端、長谷川がクスッと笑った。その仕草には男っぽい艶があって、萌衣は困惑する。
後輩だったら、たちまちうっとりと長谷川に見入るかも知れないが、萌衣は何か裏があるように思えて身構えてしまう。以前挨拶を交わした時と全然違う態度だからだ。
「面識はあるとはいえ、俺たちは気軽に言葉を交わすほど親しくない。にもかかわらず、こうして声をかけられても一切焦らない。そう、もの凄く冷静沈着。感情のない人形みたいなのに……目を奪われるほど綺麗だ」
面と向かって異性から〝感情のない人形〟と言われて、無意識に眉根を寄せる。それでもお構いなしに、長谷川はテーブルに肘を突き、心持ち顔を近づけてきた。
「話を戻すけど、君の独り言が聞こえてさ。お見合いサイトで相手を探すつもりなら、俺にしないか?」
俺って、わたしと? 結婚を!? ――と、あまりにも突拍子のない話に、萌衣は目を見開く。
何がどうなってそう提案してきたのかがわからず、ただ長谷川を見つめていると、彼がにっこりした。しかしその直後、女性を蕩かせる色艶を綺麗に消し、鋭い眼差しで萌衣を射貫いた。
「もちろん普通の結婚じゃない。……契約結婚の申し入れだ」
「……契約?」
「ああ。結婚したい者同士がここにいる。しかも、俺が望む条件を持ち合わせる君がね。俺が提示する条件を呑めるなら、君を妻に迎えてもいい。どうだ?」
そこには、最初に萌衣に声をかけた、あの甘いマスクの長谷川はいない。商談相手に駆け引きをするような勝負師の顔をしている。
……うん? 勝負師? それって、切羽詰まっているという意味? この人が?
「俺の条件は二つだけ。一つ目は、お互いに尊重するも干渉し合わない。二つ目は、どちらかが離婚したいと望めば争わずに応じる。それだけだ。呑んでくれるのなら、君の要望にも応じる。結婚相手がほしいという願いを」
淡々と述べるが、萌衣をターゲットにした理由が釈然としない。
萌衣が聞き齧った情報によると、長谷川は女性に不自由しておらず、いつも隣に美女を連れているらしい。萌衣はその光景を見たことがないが、彼自身を見れば頷ける話だ。
だったら、萌衣ではなく恋人に契約結婚を申し入れたらいいのに……
そう思うのに、正直契約結婚に心が引かれていた。それは長谷川の求める契約結婚は、お見合いのみならず普通の結婚にも通じる部分があるためだ。
相手を尊重して干渉し合わなければケンカはしないし、性格不一致で争わずに離婚もできるのだから……
これこそ自分が願う結婚生活では?
心の天秤が大きく動き、長谷川の方へ傾く。でもピタッと止まりはしなかった。やはり何故〝萌衣〟なのかという謎が解けない。
「どうしてわたしなんですか? お付き合いされている恋人に頼むのが一番いいと思いますが」
疑問を口にすると、長谷川が不意にふわっとした笑みを零した。
応援ありがとうございます!
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