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1巻
1-2
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温もりに包まれるのが、これほど心地いいものかと思うほどに……
けれども、相手は遥斗。こんな風に心を許してはいけない。
「あの、遥斗さん」
遥斗に声をかけた時、暖かな空気を感じてハッとなる。彼は、マスターベッドルームに詩乃を連れて来たのだ。
詩乃は、戸惑いながら遥斗の肩を軽く叩く。
「下ろしてくだ――」
「ああ、下ろしてあげよう」
そう言って詩乃を座らせた場所は、シーツが乱れたベッドだった。
詩乃は慌てて下りようとするが、そうする前に遥斗に背後から抱きつかれてしまう。
「何を!」
遥斗を手で押しのけるものの、彼はあろうことか詩乃が身に着けた綿入りガウンの紐を解いた。
「ちょっ……やめて!」
拒む間もなく簡単に脱がされ、身体のラインが露わになるネグリジェ姿にされてしまった。
途端、背後にいる遥斗が息を呑んで動きを止める。
恐々と振り返ると、遥斗の目線が詩乃の胸元に落ちていた。ネグリジェのパイル地がたるみ、乳房が覗いているではないか。
恥ずかしさのあまり、詩乃の顔が一気に熱くなる。
「離してください!」
詩乃は生地を掴んで胸元を隠し、ベッドを下りようとした。ところが先に素早く動いた遥斗の腕が腰に回され、無理やりベッドに押し倒される。
「は、遥斗さん!」
詩乃が必死に手足をばたつかせるが、遥斗はものともしない。それどころか、彼は片脚で詩乃の下肢を挟んで押さえ込む。
「ちょっ、何をするんですか!」
「最初からここで寝ればいいものを……。君が咳をするたびに、俺が眠れなくなる」
「わたしの咳がここまで聞こえて?」
「ああ。そのせいで、俺も眠れなくなったんだぞ」
「すみません……」
素直に謝るも、詩乃の心中はここで譲歩したくないという思いでいっぱいだった。
誰が好んで雇い主の孫とベッドに入るというのか。しかも相手は、詩乃がここに乗り込む羽目になった元凶御曹司。
特殊な事情があるため、尚更遥斗の言いなりにはなれないというのに……
だからこそ、詩乃はなんとかして遥斗の腕の中から逃げようと、もう一度お願いすることにした。
ほんの僅か首を回して背後の遥斗を窺う。
「遥斗さん。やっぱりベッドではなく、そこのカーペットの上で寝ます」
「ここで寝ろ。俺を煩わせるな」
「ですが、わたしは会長の秘書で、遥斗さんはお孫さんです。こういう状況は許されません」
「静かに。俺を煽るな。……本当に眠いんだ」
「であれば、わたしがいない方がよく眠れますよね? さっさとベッドを下り――」
「詩乃。俺の我慢が利かなくなって君を襲う前に、早く寝ろ!」
まるで地を震わせるような冷たい声に、詩乃は瞬時に遥斗の腕の中で縮こまった。
「はい、寝ます」
小声で囁き、慌てて目をぎゅうっと閉じる。
遥斗がどこまで本気なのか見当もつかないが、その声音からは詩乃への興味は感じない。ただ、苛立ちを露わにしている今は、逆らわないのが一番いいとわかっていた。
それでなくても遥斗は眠りを妨げられて、機嫌が悪いのだから……
詩乃は上掛けを握り、音を立てないように気を付けて引っ張り上げる。そこに顔を埋めて耐えてるも、急に空咳が込み上げた。
「……ゴホッ」
直後、腹部に回された遥斗の手に力が込められて、詩乃は目を見開いた。
「寝るんだ」
こんな状況でわたしが眠れるとでも? ――そう言いたいが、口に出せばまた遥斗の怒りを煽る羽目になる。詩乃は返事をする代わりに頷き、唇を強く引き結んで瞼を閉じる。
そうしてしばらくじっとしていると、強張っていた身体から次第に力が抜けていく。
遥斗の温もりに包まれたせいか、それとも薪の爆ぜる音に心が休まったせいなのか。
知らぬ間に呼吸のリズムも平常に戻り、いつしか詩乃は深い眠りに落ちていったのだった。
* * *
梅林の方から聞こえる、鳥のさえずり。
心地いい鳴き声に揺り動かされて、詩乃は静かに眠りから覚めた。
「うーん」
早く起きて、仕事に行く準備をしなければ――そう思った時、何かがおかしいと気付く。
いつもなら簡単に動く身体が、今日に限って寝返りを打てない。何かが身体に伸し掛かっていた。しかも、リズミカルな風が頬をくすぐる。それらは全て、普段なら決して感じないものだ。
自分の身に起こっていることを確認しようと、詩乃は重たい瞼を押し開けた。
寝起きなのもあって焦点が定まらないものの、それでも必死に目を凝らす。すると、眠っている男性の顔が真正面に飛び込んできた。
えっ、男性? この人いったい……誰⁉
驚愕のあまり悲鳴を上げそうになるが、その男性が誰なのかわかるなり、出かかった声を呑み込んだ。
「ううん……」
詩乃が起きたと察したのか、遥斗が呻いて眉間に皺を寄せる。けれども、再び寝息を立て始めた。
詩乃は詰めていた息を吐き、静かに遥斗の腕の中から抜け出す。
着てきたガウンを拾い上げ、遥斗を起こさないように抜き足差し足でマスターベッドルームを出た。リビングルームで立ち止まり、肩越しに振り返る。
遥斗が起きて追ってくる様子はないかと耳を澄ましたが、その気配はなかった。
「良かった!」
詩乃はホッと胸を撫で下ろす。しかし、遥斗に抱かれて眠ってしまった経緯を思い出し、頭を抱えたくなった。
どうして気を抜いてしまったのだろうか。
しかし、その理由を考える時間はない。早くここから出なければ……
自分を立て直した詩乃は、ガウンを羽織って電話機が置いてある場所へ移動した。
まずそこにあるメモ用紙を使い、遥斗へ〝昨夜はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。お疲れのご様子なので、ごゆっくりお過ごしください。お先に失礼いたします〟と書き残す。そして、彼がリビングルームへ入った時に一番目につきやすいと思われるテーブルの上に、それを置いた。続いて、セキュリティロックを解除してもらうため、母屋に電話をかけようとする。
その時、偶然にも呼び出し音が鳴った。
コール音が一回鳴り終わらないうちに、受話器を取り上げる。
「もしもし」
『もしかして、大峯さん?』
聞こえてきたのは、野太い男性の声。スタッフを統括する宮崎の声だ。
「はい、大峯です。わたしも今、母屋に電話をかけようと思っていたところだったんです」
喜びを隠し切れないせいで早口になり、声が大きくなる。でも遥斗の存在が頭を過り、途中から声量を落とした。
『良かった! デスクの上に置かれたメモと、戻っていないカードキーを見ておかしいなと思ったんだ。やっぱり離れに閉じ込められてたんだね。すぐに僕に連絡してくれれば、ロックを解除できたのに。そういえば、セキュリティ会社から母屋に連絡がなかったな……』
遥斗がセキュリティ会社に連絡してくれたおかげだ。
けれどもそれを説明すれば、遥斗と一夜を過ごした件が露見してしまう。
詩乃は、ひとまずロックの解除をお願いして受話器を下ろした。十数秒後に警告音が鳴り響き、急いで暗証番号を打ち込んでロックを解除する。
あとは、資料を取るだけ……
書棚にある目的のファイルを探すと、早々に離れを飛び出した。
詩乃は朝の清々しい空気を吸い、燦々と輝く太陽の陽射しを一身に浴びる。まるで閉じ込められた洞窟を抜け出せたような、そんな幸せな気持ちに包まれた。
しかし、その場で立ち止まっている余裕はない。
詩乃は昨夜来た道を走り、自室へ戻った。
簡単にシャワーを浴び、身なりを整えていく。
昨日と似たような服装だが、シックに見えるようにグレーチェックのミディ丈スカートと黒色のセーターを組み合わせ、パールのアクセサリーで飾った。緩やかに巻いた髪は、いつもと変わらずハーフポニーテールにする。
鏡に映し出されたのは、綿入りのガウンを身に着けた不恰好な女性ではなく、人前に出ても大丈夫な女性の姿。
これで遥斗さんの記憶から、ベッドにいたわたしの姿が掻き消えますように――と祈りながら、詩乃は自室を出た。
シェフ、家政婦頭、その他のスタッフたちとすれ違うたびに挨拶し、東側に面した日当たりのいい書斎へ向かう。そしてドアをノックして「大峯です」と伝えた。
「入りなさい」
「失礼いたします」
詩乃は書斎に入り、アンティークの大型デスクで仕事をする国安会長の傍に立つ。
「おはようございます。昨夜、ご連絡いただいた資料です」
国安会長の前に置き、素敵な雇い主をそっと窺った。
当然ながら若い頃の姿は知らない。でも温和な目元、笑い皺、相手の心を和ませる話し方などから、いろいろな女性にモテていたことが窺える。
ここに就職したのは必要に駆られてだったが、今ではこの仕事を楽しんでいる。スタッフたちの雰囲気もいい。
詩乃は口元を緩めて、今日のスケジュールを説明し始める。
「午後ですが、十四時には役場の地域担当者が来られ、十六時からは本社で定例会議が行われます。その後、佐久野ワイナリーの佐久野社長と会食になります」
「今夜のレストランはどこかな?」
「地産地消を売りとする、フレンチレストラン〝ベイジープレ〟です」
「ああ、あそこか! いいね……。先方に、もう一席増やすよう伝えてくれるかな?」
「承知いたしました。本日のスケジュールは以上になります」
締めの言葉を告げた詩乃に、国安会長がデスクの上にあるファイルを差し出す。午前中に、国安会長が手を入れた資料をチェックしろという意味だ。
詩乃がそれを受け取って顔を上げると、国安会長は楽しげな様子で片眉を上げた。
「スケジュールはね。……他にも伝える件があるだろう? 離れで起こった件だよ」
詩乃は内心ドキッとするもそれを表には出さず、国安会長と目を合わせる。
こちらを見る国安会長の瞳は加齢もあってやや濁っているが、力強さや好奇心の輝きは失われていない。
こういう風に元気旺盛なところが、好きなのだ。
「相変わらずよくご存知ですね」
「そうでなければ、会長職など務まらん。隠居の身でありながら、本社の内情を知る手立てもあるのに、この敷地内で起きたことに気付かないわけがない」
得意げに鼻を鳴らして恰好をつける国安会長の仕草がおかしくて、詩乃は頬を緩めた。
多分、宮崎がセキュリティの件を国安会長に報告したのだろう。スタッフたちは、どんな些細な出来事であっても、雇い主への報告を怠らないからだ。
「会長が面白がる話ではありませんよ。昨夜ファイルの件で連絡を受けたあと、朝まで待てずに離れに行ったんです。でもセキュリティの罠にはまってしまい、それで今朝宮崎さんに対応いただきました」
詩乃の説明に国安会長は豪快に笑い、デスクに肘を突いて顔を覗き込んできた。
「詩乃らしい……ざっくりとした説明だね。必要な箇所が抜けてるぞ」
国安会長が大型の箱でも持つような手の形を作り、〝ここからここまでの部分な〟と示す。
まさしくそれは、詩乃が打ち明けていない時間帯だ。
「会長。そこは私的な部分ですので――」
「だったら俺が話そう」
瞬間、背後から深い声が響き、詩乃の心臓が勢いよく跳ね上がる。慌てて振り返ると、そこにはほんの数時間前にやり合った遥斗が立っていた。
母屋を訪れるのはわかっていたが、まさかこんなにも早く起きて来るなんて……
ダークスーツにストライプのネクタイを締めた遥斗の姿を、詩乃はまじまじと眺める。
初めて会った時の退廃的な雰囲気とは一変、身なりを整えた遥斗の佇まいは凛としていた。男性的な色香と、孤高の男らしさが滲み出ている。
そういう遥斗に惹かれる女性は、きっと多いに違いない。
それぐらい詩乃にもわかる。
遥斗には、フィアンセ候補など不要だというのも……
「どれだけ観察したら気が済むんだ?」
低音の声で凄まれて、詩乃は我に返る。
秘書らしからぬ不作法さを注意された気がして、一気に頬が上気していった。でも遥斗の言葉で、彼も同じく詩乃を見つめていたとわかる。
自分だって会長の個人秘書を見定めていたくせに――と、近寄ってきた遥斗に目を向けると、彼が〝何が言いたい?〟と言わんばかりに片眉を上げた。
途端、国安会長が楽しげに笑い始める。
「たった一夜を共にしただけで、そんなに仲良くなったのか」
詩乃は何事もなかったかのように身を翻し、国安会長ににっこり微笑んだ。
「会長、誤解です。お孫さんとは何もありません」
「そうですよ、お祖父さん。会長の秘書にまで手を出す孫だと思わないでください。迷惑をかけられたのは俺なんですよ」
「ほう? ……どんな迷惑を?」
国安会長が、急に興味津々な声音で目を輝かせる。その様子にハラハラする詩乃の横で、遥斗が大げさに嘆息した。
「散々でしたよ。昨夜は会合を終えたその足で車を走らせて疲れていたというのに、離れに鳴り響く警報音で眠りを妨げられたんです。しかも、セキュリティのロックがかかって閉じ込められる羽目に。その結果、彼女に俺のベッドの隣を奪われて……」
奪われる⁉
詩乃は血相を変えて、国安会長に真実とは違うと伝えるように頭を振るが、彼はただ目を細めるだけだ。
「お祖父さん、孫が離れにいると秘書に伝えていなかったんですか?」
「そんなに怒るな。まさか、詩乃が夜中に離れに行くとは思っていなくてな」
国安会長の言葉に、遥斗が詩乃に視線を移す。
やはり勝手に行動を起こした詩乃のせいだったのか――そう言わんばかりに、片眉を上げる。
詩乃は言い返したくなるも、静かに口を閉じて目線を落とした。
何故なら遥斗の考えが正しいからだ。今回の件は、事前に準備をしようと思って勝手に動いた詩乃の責任としか言いようがない。
神妙な顔で控えていると、遥斗が小さく息を吐いた。
「そうやって秘書を親しげに呼ぶせいで、規律が乱れるんです。秘書も……会長に向かって公私の区別がつかないようですし」
「遥斗。ここでは私のやり方こそが全てだ。お前が口を出す話じゃない」
国安会長がぴしゃりと言い放つと、遥斗が即座に「申し訳ありませんでした」と折れる。
「お前も知ってのとおり、別荘のスタッフは皆家族も同然だ。親しくするのは、詩乃に限ったことではない」
「……わかっております」
「ならいい。お前にも大切にしてほしいからな。私のために働くスタッフたちを」
何やら家族間の話に進みそうな気配を感じて、詩乃は会釈だけしてその場を去ろうとした。
「それにしても、詩乃と仲良くなってくれて本当に嬉しい。今日お前を呼んだのは、そこの詩乃に関係してるんだ」
突然自分の名前を出されて、詩乃は足を止める。
「実は、お前の個人秘書として詩乃を託したい」
「はい⁉」
遥斗が困惑した声を上げる。その横で、詩乃は口をぽかんと開けて絶句した。
わたしが遥斗さんの個人秘書に? 近寄りたくもない人の傍で働けと? そ、そんな――と狼狽えていると、国安会長が詩乃を安心させるように目を細めた。
「もちろん、永久に……というわけではない。夏が終わる頃にはこちらに戻してもらう。遥斗のところに行かせるのは、詩乃にホテル事業を勉強させるためだ」
「勉強なら、会長のところで充分では? 俺には優秀なアシスタントの岩井がいますので、個人秘書など不要です」
「わかってる、岩井くんが優秀だということは。だからこそ、詩乃を遥斗の手に委ねるんだ。岩井くんみたいに、私の下で動いてもらうためにな」
「ですが――」
「これは決定事項だ」
ぴしゃりと言い渡されて、遥斗が口を閉じる。しばらく俯いていたが、詩乃に何か言えとばかりに目で合図を送ってきた。
「あの……」
詩乃は狼狽えつつ、国安会長に呼びかけた。
「わたしは会長のお傍で働きたいです」
「詩乃、私が遥斗の個人秘書になれと命じたのは勉強させるため。だが、もう一つ頼みがある。遥斗にはフィアンセ候補が数人いるが、彼女たちが孫に相応しいかどうか見極めてきてほしい」
「お祖父さん……、秘書に私的な頼みごとはしないでください。それに、以前から彼女たちには興味がないと言っているでしょう?」
遥斗が呆れたように言い返す。それに対して国安会長が何かを言う間、詩乃は国安会長の申し出を考えていた。
もしかしたら、フィアンセ候補を見極めている最中に、彼女たちの誰かを遥斗に推せるのではないだろうか。上手くいけば、当初の目的を達成できるかもしれない。
だがそんな振る舞いをしたとバレたら、国安会長の怒りを買う恐れもある。結果〝詩乃の策略で選んだ女性など許さん! 他の候補者を選ぶんだ〟と言われたら、元も子もない。
国安会長の案はそそられるが、ここは下手に動くより、一番発言力のある会長の傍でフィアンセ候補を推す方が断然いいのではないだろうか。
詩乃がどうしたものかと思案していた時、何やらコツンコツンと規則正しく響く音が聞こえた。気になって顔を上げると、国安会長が手元のファイルを叩いていた。
いつまで経っても返事をしない詩乃に痺れを切らしたのだろう。
「申し訳――」
すぐさま謝ろうとするが、国安会長が小さく首を横に振ったのを見て、慌てて口を閉じる。
どうやら怒っているのではなさそうだ。
詩乃は不思議に思いながら国安会長が意味深にデスクとファイルを交互に叩くのを見て、ふと彼から渡されたファイルに視線を落とした。
もしかして、これを見ろと合図を送っているとか?
ちらっと窺うと、国安会長がどうぞとばかりに片眉を上げた。
詩乃は促されるままファイルを開ける。そこに挟まれたメモが何を意味するのかわかるや否や、大きく息を呑み、面を上げた。
「どうだ? 遥斗の個人秘書になり、フィアンセ候補たちを見極めてくれるか?」
「行きます!」
「はあ⁉」
詩乃が承諾したことに、遥斗が〝お前正気か⁉〟と言わんばかりに詩乃を凝視する。だが、急に考えを変えた理由が手元のファイルにあると察したのか、覗き込もうとしてきた。
それに気付いた詩乃は、慌てて背後にファイルを隠す。すると、遥斗が訝しげに目を眇めた。
そんな二人の間に漂う不穏な空気を払うように、国安会長が咳払いした。
「これで詩乃の了承も得た。遥斗、異議は?」
祖父でもある国安会長には逆らえないのか、遥斗がしぶしぶ頷く。
「ありません。彼女を俺の傍に置き、ホテル事業の勉強をさせます。但し、フィアンセ云々の件はなかったことにしてもらいます。本当に必要ありませんから」
「遥斗、いつまでも逃げていては先方にも失礼だ。詩乃には私の目となって見極めてもらう。そうそう、詩乃は本社に預けるがあくまで出向という形を取る」
そうするのは、本社の事務作業の負担を減らすためだろう。だが、遥斗はまだ納得がいかないようだ。
しかしこれ以上口答えをしようとはせず、国安会長の言葉を受け入れる。
「よし、この話はこれで終わりだ。二人とも朝食を取っておいで。私は須田くんに連絡を入れてから、そっちへ行く」
「では、失礼いたします」
遥斗が挨拶するのを横目で見て詩乃も黙礼し、彼に続いて部屋を出た。ドアを閉めるや否や、彼が詩乃の正面に立ち塞がった。
「理由を聞かせてもらおうか。最初、君は乗り気ではなかった。なのに手にあるファイルを見た途端、考えを変えた。何故? ……それを俺に見せるんだ」
遥斗がファイルを奪おうと距離を縮めてくる。それを避けるため、詩乃は少しずつ下がった。
「な、何もないですよ。わたしはただ……きゃっ!」
背中に壁が当たると同時に、遥斗がそこに手を置いた。彼の態度に、詩乃は目を白黒させて反対側へ逃げようとする。しかし、遥斗は上体を傾けてその退路さえも塞いだ。
遥斗の吐息が頬をかすめるぐらいの至近距離に、詩乃の心臓が早鐘を打ち始める。恐れと緊張、そして理由の付けられない不安にどんどん心が搦め捕られてしまう。
「俺のところに来るんだろう? 隠し事をされるのは嫌いなんだ」
甘く囁くように言いながらも、遥斗の目は笑っていない。
突然のことに詩乃が動けずにいると、遥斗がその隙を狙ってファイルに触れた。奪おうとする力が手に伝わった時、いきなりドアが開いて国安会長が現れる。
詩乃たちを見るなり顔をしかめた国安会長を見て、遥斗は決まり悪げに素早く下がった。
「転びそうになった彼女を支えただけです」
訊ねられてもいないのに、平然とした態度で説明する遥斗に、国安会長が苦笑いする。
「まあ、なんにせよ……親しくなったのはいいことだ。遥斗、一緒に朝食を取りに行こう」
「……はい」
素直に返事をするが、遥斗は〝これで終わったと思うな。必ず理由を突き止めてみせる〟と言うように詩乃を射貫いて、国安会長のあとに続く。
その場で二人を見送った詩乃は、一人になると壁に凭れて脱力した。
「良かった……」
実は国安会長から渡されたファイルには、遥斗のフィアンセ候補の情報が挟まれていた。
もちろんそれは遥斗に見られても構わないが、そこの一番上に〝結婚の意思のない孫をその気にさせること。他の候補者を早く自由にしてあげるために〟という付箋が貼られていた。
国安会長が詩乃だけに伝えたということは、それは秘密の指示だからに違いない。だから、詩乃は遥斗に見られないよう必死に隠したのだった。
それにしても、なんという指示だろうか。読んだ瞬間面食らったが、これで当初の目的が果たせると悟った。
国安会長のおかげで、思う存分他の候補たちを彼に薦められる! 本人がフィアンセ候補の誰かを気に入れば、わたしは自由に――そう思えば思うほど喜びを隠し切れず、自然と頬が緩む。
資料に書かれた名前は三名。詩乃は、候補の中でも三番手という立ち位置だ。だったら、候補の一番手と二番手を薦めるのは道理にかなっている。
「期限は夏までね……」
そう呟くも、不意に詩乃を雁字搦めにするような遥斗の野性的な瞳が頭を過り、身体が震えた。堪らず片手で喉元に触れ、激しく脈打つそこをなだめる。
理由のわからない自分の反応に戸惑うも、詩乃は込み上げてくる不安を吹き飛ばすように歩き出したのだった。
第二章
長野から東京へ出てきて、約三週間が経った。
その間、詩乃は研修を受けていたため、内部統制部部長の遥斗とは会っていない。しかし、彼のアシスタントの岩井裕也とは、頻繁に顔を合わせた。
遥斗の個人秘書として岩井と一緒に仕事をするためだが、その研修もようやく今日で終わった。午後から遥斗の傍で働く日々が始まる。
「ここで働くのは八月末まで。早く動かないと……」
遥斗の執務室とはドア一枚で繋がっているこのアシスタント室で、詩乃は待機を命じられている。大人しく自分の席に座っていたが、いつしか執務室へ続くドアに目が吸い寄せられた。
現在、執務室では遥斗と岩井が話している。いったい何を話しているのだろうか。
暇を持て余した詩乃は、とうとう引き出しからあのファイルを取り出した。
けれども、相手は遥斗。こんな風に心を許してはいけない。
「あの、遥斗さん」
遥斗に声をかけた時、暖かな空気を感じてハッとなる。彼は、マスターベッドルームに詩乃を連れて来たのだ。
詩乃は、戸惑いながら遥斗の肩を軽く叩く。
「下ろしてくだ――」
「ああ、下ろしてあげよう」
そう言って詩乃を座らせた場所は、シーツが乱れたベッドだった。
詩乃は慌てて下りようとするが、そうする前に遥斗に背後から抱きつかれてしまう。
「何を!」
遥斗を手で押しのけるものの、彼はあろうことか詩乃が身に着けた綿入りガウンの紐を解いた。
「ちょっ……やめて!」
拒む間もなく簡単に脱がされ、身体のラインが露わになるネグリジェ姿にされてしまった。
途端、背後にいる遥斗が息を呑んで動きを止める。
恐々と振り返ると、遥斗の目線が詩乃の胸元に落ちていた。ネグリジェのパイル地がたるみ、乳房が覗いているではないか。
恥ずかしさのあまり、詩乃の顔が一気に熱くなる。
「離してください!」
詩乃は生地を掴んで胸元を隠し、ベッドを下りようとした。ところが先に素早く動いた遥斗の腕が腰に回され、無理やりベッドに押し倒される。
「は、遥斗さん!」
詩乃が必死に手足をばたつかせるが、遥斗はものともしない。それどころか、彼は片脚で詩乃の下肢を挟んで押さえ込む。
「ちょっ、何をするんですか!」
「最初からここで寝ればいいものを……。君が咳をするたびに、俺が眠れなくなる」
「わたしの咳がここまで聞こえて?」
「ああ。そのせいで、俺も眠れなくなったんだぞ」
「すみません……」
素直に謝るも、詩乃の心中はここで譲歩したくないという思いでいっぱいだった。
誰が好んで雇い主の孫とベッドに入るというのか。しかも相手は、詩乃がここに乗り込む羽目になった元凶御曹司。
特殊な事情があるため、尚更遥斗の言いなりにはなれないというのに……
だからこそ、詩乃はなんとかして遥斗の腕の中から逃げようと、もう一度お願いすることにした。
ほんの僅か首を回して背後の遥斗を窺う。
「遥斗さん。やっぱりベッドではなく、そこのカーペットの上で寝ます」
「ここで寝ろ。俺を煩わせるな」
「ですが、わたしは会長の秘書で、遥斗さんはお孫さんです。こういう状況は許されません」
「静かに。俺を煽るな。……本当に眠いんだ」
「であれば、わたしがいない方がよく眠れますよね? さっさとベッドを下り――」
「詩乃。俺の我慢が利かなくなって君を襲う前に、早く寝ろ!」
まるで地を震わせるような冷たい声に、詩乃は瞬時に遥斗の腕の中で縮こまった。
「はい、寝ます」
小声で囁き、慌てて目をぎゅうっと閉じる。
遥斗がどこまで本気なのか見当もつかないが、その声音からは詩乃への興味は感じない。ただ、苛立ちを露わにしている今は、逆らわないのが一番いいとわかっていた。
それでなくても遥斗は眠りを妨げられて、機嫌が悪いのだから……
詩乃は上掛けを握り、音を立てないように気を付けて引っ張り上げる。そこに顔を埋めて耐えてるも、急に空咳が込み上げた。
「……ゴホッ」
直後、腹部に回された遥斗の手に力が込められて、詩乃は目を見開いた。
「寝るんだ」
こんな状況でわたしが眠れるとでも? ――そう言いたいが、口に出せばまた遥斗の怒りを煽る羽目になる。詩乃は返事をする代わりに頷き、唇を強く引き結んで瞼を閉じる。
そうしてしばらくじっとしていると、強張っていた身体から次第に力が抜けていく。
遥斗の温もりに包まれたせいか、それとも薪の爆ぜる音に心が休まったせいなのか。
知らぬ間に呼吸のリズムも平常に戻り、いつしか詩乃は深い眠りに落ちていったのだった。
* * *
梅林の方から聞こえる、鳥のさえずり。
心地いい鳴き声に揺り動かされて、詩乃は静かに眠りから覚めた。
「うーん」
早く起きて、仕事に行く準備をしなければ――そう思った時、何かがおかしいと気付く。
いつもなら簡単に動く身体が、今日に限って寝返りを打てない。何かが身体に伸し掛かっていた。しかも、リズミカルな風が頬をくすぐる。それらは全て、普段なら決して感じないものだ。
自分の身に起こっていることを確認しようと、詩乃は重たい瞼を押し開けた。
寝起きなのもあって焦点が定まらないものの、それでも必死に目を凝らす。すると、眠っている男性の顔が真正面に飛び込んできた。
えっ、男性? この人いったい……誰⁉
驚愕のあまり悲鳴を上げそうになるが、その男性が誰なのかわかるなり、出かかった声を呑み込んだ。
「ううん……」
詩乃が起きたと察したのか、遥斗が呻いて眉間に皺を寄せる。けれども、再び寝息を立て始めた。
詩乃は詰めていた息を吐き、静かに遥斗の腕の中から抜け出す。
着てきたガウンを拾い上げ、遥斗を起こさないように抜き足差し足でマスターベッドルームを出た。リビングルームで立ち止まり、肩越しに振り返る。
遥斗が起きて追ってくる様子はないかと耳を澄ましたが、その気配はなかった。
「良かった!」
詩乃はホッと胸を撫で下ろす。しかし、遥斗に抱かれて眠ってしまった経緯を思い出し、頭を抱えたくなった。
どうして気を抜いてしまったのだろうか。
しかし、その理由を考える時間はない。早くここから出なければ……
自分を立て直した詩乃は、ガウンを羽織って電話機が置いてある場所へ移動した。
まずそこにあるメモ用紙を使い、遥斗へ〝昨夜はご迷惑をおかけして申し訳ございませんでした。お疲れのご様子なので、ごゆっくりお過ごしください。お先に失礼いたします〟と書き残す。そして、彼がリビングルームへ入った時に一番目につきやすいと思われるテーブルの上に、それを置いた。続いて、セキュリティロックを解除してもらうため、母屋に電話をかけようとする。
その時、偶然にも呼び出し音が鳴った。
コール音が一回鳴り終わらないうちに、受話器を取り上げる。
「もしもし」
『もしかして、大峯さん?』
聞こえてきたのは、野太い男性の声。スタッフを統括する宮崎の声だ。
「はい、大峯です。わたしも今、母屋に電話をかけようと思っていたところだったんです」
喜びを隠し切れないせいで早口になり、声が大きくなる。でも遥斗の存在が頭を過り、途中から声量を落とした。
『良かった! デスクの上に置かれたメモと、戻っていないカードキーを見ておかしいなと思ったんだ。やっぱり離れに閉じ込められてたんだね。すぐに僕に連絡してくれれば、ロックを解除できたのに。そういえば、セキュリティ会社から母屋に連絡がなかったな……』
遥斗がセキュリティ会社に連絡してくれたおかげだ。
けれどもそれを説明すれば、遥斗と一夜を過ごした件が露見してしまう。
詩乃は、ひとまずロックの解除をお願いして受話器を下ろした。十数秒後に警告音が鳴り響き、急いで暗証番号を打ち込んでロックを解除する。
あとは、資料を取るだけ……
書棚にある目的のファイルを探すと、早々に離れを飛び出した。
詩乃は朝の清々しい空気を吸い、燦々と輝く太陽の陽射しを一身に浴びる。まるで閉じ込められた洞窟を抜け出せたような、そんな幸せな気持ちに包まれた。
しかし、その場で立ち止まっている余裕はない。
詩乃は昨夜来た道を走り、自室へ戻った。
簡単にシャワーを浴び、身なりを整えていく。
昨日と似たような服装だが、シックに見えるようにグレーチェックのミディ丈スカートと黒色のセーターを組み合わせ、パールのアクセサリーで飾った。緩やかに巻いた髪は、いつもと変わらずハーフポニーテールにする。
鏡に映し出されたのは、綿入りのガウンを身に着けた不恰好な女性ではなく、人前に出ても大丈夫な女性の姿。
これで遥斗さんの記憶から、ベッドにいたわたしの姿が掻き消えますように――と祈りながら、詩乃は自室を出た。
シェフ、家政婦頭、その他のスタッフたちとすれ違うたびに挨拶し、東側に面した日当たりのいい書斎へ向かう。そしてドアをノックして「大峯です」と伝えた。
「入りなさい」
「失礼いたします」
詩乃は書斎に入り、アンティークの大型デスクで仕事をする国安会長の傍に立つ。
「おはようございます。昨夜、ご連絡いただいた資料です」
国安会長の前に置き、素敵な雇い主をそっと窺った。
当然ながら若い頃の姿は知らない。でも温和な目元、笑い皺、相手の心を和ませる話し方などから、いろいろな女性にモテていたことが窺える。
ここに就職したのは必要に駆られてだったが、今ではこの仕事を楽しんでいる。スタッフたちの雰囲気もいい。
詩乃は口元を緩めて、今日のスケジュールを説明し始める。
「午後ですが、十四時には役場の地域担当者が来られ、十六時からは本社で定例会議が行われます。その後、佐久野ワイナリーの佐久野社長と会食になります」
「今夜のレストランはどこかな?」
「地産地消を売りとする、フレンチレストラン〝ベイジープレ〟です」
「ああ、あそこか! いいね……。先方に、もう一席増やすよう伝えてくれるかな?」
「承知いたしました。本日のスケジュールは以上になります」
締めの言葉を告げた詩乃に、国安会長がデスクの上にあるファイルを差し出す。午前中に、国安会長が手を入れた資料をチェックしろという意味だ。
詩乃がそれを受け取って顔を上げると、国安会長は楽しげな様子で片眉を上げた。
「スケジュールはね。……他にも伝える件があるだろう? 離れで起こった件だよ」
詩乃は内心ドキッとするもそれを表には出さず、国安会長と目を合わせる。
こちらを見る国安会長の瞳は加齢もあってやや濁っているが、力強さや好奇心の輝きは失われていない。
こういう風に元気旺盛なところが、好きなのだ。
「相変わらずよくご存知ですね」
「そうでなければ、会長職など務まらん。隠居の身でありながら、本社の内情を知る手立てもあるのに、この敷地内で起きたことに気付かないわけがない」
得意げに鼻を鳴らして恰好をつける国安会長の仕草がおかしくて、詩乃は頬を緩めた。
多分、宮崎がセキュリティの件を国安会長に報告したのだろう。スタッフたちは、どんな些細な出来事であっても、雇い主への報告を怠らないからだ。
「会長が面白がる話ではありませんよ。昨夜ファイルの件で連絡を受けたあと、朝まで待てずに離れに行ったんです。でもセキュリティの罠にはまってしまい、それで今朝宮崎さんに対応いただきました」
詩乃の説明に国安会長は豪快に笑い、デスクに肘を突いて顔を覗き込んできた。
「詩乃らしい……ざっくりとした説明だね。必要な箇所が抜けてるぞ」
国安会長が大型の箱でも持つような手の形を作り、〝ここからここまでの部分な〟と示す。
まさしくそれは、詩乃が打ち明けていない時間帯だ。
「会長。そこは私的な部分ですので――」
「だったら俺が話そう」
瞬間、背後から深い声が響き、詩乃の心臓が勢いよく跳ね上がる。慌てて振り返ると、そこにはほんの数時間前にやり合った遥斗が立っていた。
母屋を訪れるのはわかっていたが、まさかこんなにも早く起きて来るなんて……
ダークスーツにストライプのネクタイを締めた遥斗の姿を、詩乃はまじまじと眺める。
初めて会った時の退廃的な雰囲気とは一変、身なりを整えた遥斗の佇まいは凛としていた。男性的な色香と、孤高の男らしさが滲み出ている。
そういう遥斗に惹かれる女性は、きっと多いに違いない。
それぐらい詩乃にもわかる。
遥斗には、フィアンセ候補など不要だというのも……
「どれだけ観察したら気が済むんだ?」
低音の声で凄まれて、詩乃は我に返る。
秘書らしからぬ不作法さを注意された気がして、一気に頬が上気していった。でも遥斗の言葉で、彼も同じく詩乃を見つめていたとわかる。
自分だって会長の個人秘書を見定めていたくせに――と、近寄ってきた遥斗に目を向けると、彼が〝何が言いたい?〟と言わんばかりに片眉を上げた。
途端、国安会長が楽しげに笑い始める。
「たった一夜を共にしただけで、そんなに仲良くなったのか」
詩乃は何事もなかったかのように身を翻し、国安会長ににっこり微笑んだ。
「会長、誤解です。お孫さんとは何もありません」
「そうですよ、お祖父さん。会長の秘書にまで手を出す孫だと思わないでください。迷惑をかけられたのは俺なんですよ」
「ほう? ……どんな迷惑を?」
国安会長が、急に興味津々な声音で目を輝かせる。その様子にハラハラする詩乃の横で、遥斗が大げさに嘆息した。
「散々でしたよ。昨夜は会合を終えたその足で車を走らせて疲れていたというのに、離れに鳴り響く警報音で眠りを妨げられたんです。しかも、セキュリティのロックがかかって閉じ込められる羽目に。その結果、彼女に俺のベッドの隣を奪われて……」
奪われる⁉
詩乃は血相を変えて、国安会長に真実とは違うと伝えるように頭を振るが、彼はただ目を細めるだけだ。
「お祖父さん、孫が離れにいると秘書に伝えていなかったんですか?」
「そんなに怒るな。まさか、詩乃が夜中に離れに行くとは思っていなくてな」
国安会長の言葉に、遥斗が詩乃に視線を移す。
やはり勝手に行動を起こした詩乃のせいだったのか――そう言わんばかりに、片眉を上げる。
詩乃は言い返したくなるも、静かに口を閉じて目線を落とした。
何故なら遥斗の考えが正しいからだ。今回の件は、事前に準備をしようと思って勝手に動いた詩乃の責任としか言いようがない。
神妙な顔で控えていると、遥斗が小さく息を吐いた。
「そうやって秘書を親しげに呼ぶせいで、規律が乱れるんです。秘書も……会長に向かって公私の区別がつかないようですし」
「遥斗。ここでは私のやり方こそが全てだ。お前が口を出す話じゃない」
国安会長がぴしゃりと言い放つと、遥斗が即座に「申し訳ありませんでした」と折れる。
「お前も知ってのとおり、別荘のスタッフは皆家族も同然だ。親しくするのは、詩乃に限ったことではない」
「……わかっております」
「ならいい。お前にも大切にしてほしいからな。私のために働くスタッフたちを」
何やら家族間の話に進みそうな気配を感じて、詩乃は会釈だけしてその場を去ろうとした。
「それにしても、詩乃と仲良くなってくれて本当に嬉しい。今日お前を呼んだのは、そこの詩乃に関係してるんだ」
突然自分の名前を出されて、詩乃は足を止める。
「実は、お前の個人秘書として詩乃を託したい」
「はい⁉」
遥斗が困惑した声を上げる。その横で、詩乃は口をぽかんと開けて絶句した。
わたしが遥斗さんの個人秘書に? 近寄りたくもない人の傍で働けと? そ、そんな――と狼狽えていると、国安会長が詩乃を安心させるように目を細めた。
「もちろん、永久に……というわけではない。夏が終わる頃にはこちらに戻してもらう。遥斗のところに行かせるのは、詩乃にホテル事業を勉強させるためだ」
「勉強なら、会長のところで充分では? 俺には優秀なアシスタントの岩井がいますので、個人秘書など不要です」
「わかってる、岩井くんが優秀だということは。だからこそ、詩乃を遥斗の手に委ねるんだ。岩井くんみたいに、私の下で動いてもらうためにな」
「ですが――」
「これは決定事項だ」
ぴしゃりと言い渡されて、遥斗が口を閉じる。しばらく俯いていたが、詩乃に何か言えとばかりに目で合図を送ってきた。
「あの……」
詩乃は狼狽えつつ、国安会長に呼びかけた。
「わたしは会長のお傍で働きたいです」
「詩乃、私が遥斗の個人秘書になれと命じたのは勉強させるため。だが、もう一つ頼みがある。遥斗にはフィアンセ候補が数人いるが、彼女たちが孫に相応しいかどうか見極めてきてほしい」
「お祖父さん……、秘書に私的な頼みごとはしないでください。それに、以前から彼女たちには興味がないと言っているでしょう?」
遥斗が呆れたように言い返す。それに対して国安会長が何かを言う間、詩乃は国安会長の申し出を考えていた。
もしかしたら、フィアンセ候補を見極めている最中に、彼女たちの誰かを遥斗に推せるのではないだろうか。上手くいけば、当初の目的を達成できるかもしれない。
だがそんな振る舞いをしたとバレたら、国安会長の怒りを買う恐れもある。結果〝詩乃の策略で選んだ女性など許さん! 他の候補者を選ぶんだ〟と言われたら、元も子もない。
国安会長の案はそそられるが、ここは下手に動くより、一番発言力のある会長の傍でフィアンセ候補を推す方が断然いいのではないだろうか。
詩乃がどうしたものかと思案していた時、何やらコツンコツンと規則正しく響く音が聞こえた。気になって顔を上げると、国安会長が手元のファイルを叩いていた。
いつまで経っても返事をしない詩乃に痺れを切らしたのだろう。
「申し訳――」
すぐさま謝ろうとするが、国安会長が小さく首を横に振ったのを見て、慌てて口を閉じる。
どうやら怒っているのではなさそうだ。
詩乃は不思議に思いながら国安会長が意味深にデスクとファイルを交互に叩くのを見て、ふと彼から渡されたファイルに視線を落とした。
もしかして、これを見ろと合図を送っているとか?
ちらっと窺うと、国安会長がどうぞとばかりに片眉を上げた。
詩乃は促されるままファイルを開ける。そこに挟まれたメモが何を意味するのかわかるや否や、大きく息を呑み、面を上げた。
「どうだ? 遥斗の個人秘書になり、フィアンセ候補たちを見極めてくれるか?」
「行きます!」
「はあ⁉」
詩乃が承諾したことに、遥斗が〝お前正気か⁉〟と言わんばかりに詩乃を凝視する。だが、急に考えを変えた理由が手元のファイルにあると察したのか、覗き込もうとしてきた。
それに気付いた詩乃は、慌てて背後にファイルを隠す。すると、遥斗が訝しげに目を眇めた。
そんな二人の間に漂う不穏な空気を払うように、国安会長が咳払いした。
「これで詩乃の了承も得た。遥斗、異議は?」
祖父でもある国安会長には逆らえないのか、遥斗がしぶしぶ頷く。
「ありません。彼女を俺の傍に置き、ホテル事業の勉強をさせます。但し、フィアンセ云々の件はなかったことにしてもらいます。本当に必要ありませんから」
「遥斗、いつまでも逃げていては先方にも失礼だ。詩乃には私の目となって見極めてもらう。そうそう、詩乃は本社に預けるがあくまで出向という形を取る」
そうするのは、本社の事務作業の負担を減らすためだろう。だが、遥斗はまだ納得がいかないようだ。
しかしこれ以上口答えをしようとはせず、国安会長の言葉を受け入れる。
「よし、この話はこれで終わりだ。二人とも朝食を取っておいで。私は須田くんに連絡を入れてから、そっちへ行く」
「では、失礼いたします」
遥斗が挨拶するのを横目で見て詩乃も黙礼し、彼に続いて部屋を出た。ドアを閉めるや否や、彼が詩乃の正面に立ち塞がった。
「理由を聞かせてもらおうか。最初、君は乗り気ではなかった。なのに手にあるファイルを見た途端、考えを変えた。何故? ……それを俺に見せるんだ」
遥斗がファイルを奪おうと距離を縮めてくる。それを避けるため、詩乃は少しずつ下がった。
「な、何もないですよ。わたしはただ……きゃっ!」
背中に壁が当たると同時に、遥斗がそこに手を置いた。彼の態度に、詩乃は目を白黒させて反対側へ逃げようとする。しかし、遥斗は上体を傾けてその退路さえも塞いだ。
遥斗の吐息が頬をかすめるぐらいの至近距離に、詩乃の心臓が早鐘を打ち始める。恐れと緊張、そして理由の付けられない不安にどんどん心が搦め捕られてしまう。
「俺のところに来るんだろう? 隠し事をされるのは嫌いなんだ」
甘く囁くように言いながらも、遥斗の目は笑っていない。
突然のことに詩乃が動けずにいると、遥斗がその隙を狙ってファイルに触れた。奪おうとする力が手に伝わった時、いきなりドアが開いて国安会長が現れる。
詩乃たちを見るなり顔をしかめた国安会長を見て、遥斗は決まり悪げに素早く下がった。
「転びそうになった彼女を支えただけです」
訊ねられてもいないのに、平然とした態度で説明する遥斗に、国安会長が苦笑いする。
「まあ、なんにせよ……親しくなったのはいいことだ。遥斗、一緒に朝食を取りに行こう」
「……はい」
素直に返事をするが、遥斗は〝これで終わったと思うな。必ず理由を突き止めてみせる〟と言うように詩乃を射貫いて、国安会長のあとに続く。
その場で二人を見送った詩乃は、一人になると壁に凭れて脱力した。
「良かった……」
実は国安会長から渡されたファイルには、遥斗のフィアンセ候補の情報が挟まれていた。
もちろんそれは遥斗に見られても構わないが、そこの一番上に〝結婚の意思のない孫をその気にさせること。他の候補者を早く自由にしてあげるために〟という付箋が貼られていた。
国安会長が詩乃だけに伝えたということは、それは秘密の指示だからに違いない。だから、詩乃は遥斗に見られないよう必死に隠したのだった。
それにしても、なんという指示だろうか。読んだ瞬間面食らったが、これで当初の目的が果たせると悟った。
国安会長のおかげで、思う存分他の候補たちを彼に薦められる! 本人がフィアンセ候補の誰かを気に入れば、わたしは自由に――そう思えば思うほど喜びを隠し切れず、自然と頬が緩む。
資料に書かれた名前は三名。詩乃は、候補の中でも三番手という立ち位置だ。だったら、候補の一番手と二番手を薦めるのは道理にかなっている。
「期限は夏までね……」
そう呟くも、不意に詩乃を雁字搦めにするような遥斗の野性的な瞳が頭を過り、身体が震えた。堪らず片手で喉元に触れ、激しく脈打つそこをなだめる。
理由のわからない自分の反応に戸惑うも、詩乃は込み上げてくる不安を吹き飛ばすように歩き出したのだった。
第二章
長野から東京へ出てきて、約三週間が経った。
その間、詩乃は研修を受けていたため、内部統制部部長の遥斗とは会っていない。しかし、彼のアシスタントの岩井裕也とは、頻繁に顔を合わせた。
遥斗の個人秘書として岩井と一緒に仕事をするためだが、その研修もようやく今日で終わった。午後から遥斗の傍で働く日々が始まる。
「ここで働くのは八月末まで。早く動かないと……」
遥斗の執務室とはドア一枚で繋がっているこのアシスタント室で、詩乃は待機を命じられている。大人しく自分の席に座っていたが、いつしか執務室へ続くドアに目が吸い寄せられた。
現在、執務室では遥斗と岩井が話している。いったい何を話しているのだろうか。
暇を持て余した詩乃は、とうとう引き出しからあのファイルを取り出した。
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