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第一章
梅の花が咲き誇り、桜の蕾が見られるようになった三月。
西條詩乃は、閑静な別荘地に建てられた母屋の書斎から、広い庭を彩る梅林を眺めていた。
昨日の夕方から今朝にかけて降り続いた雨がようやく上がり、今は陽射しを浴びた木々がキラキラ輝いて見える。
なんと美しい景色なのだろうか。
「私の話を聞いているかい?」
突然話しかけられた詩乃は、見事な白髪をした男性に顔を向ける。アンティークのデスクで仕事をしているその人こそ、KUNIYASUリゾートホテル創業者であり、詩乃の雇い主だ。
国安会長は、家族と離れてここ、長野県東信地方で優雅な隠居生活を送っている。とは言っても働いていないわけではなく、地域活性に尽力したり、会社の利になるよう動いたりしていた。
国安会長の個人秘書として住み込みで働き始めたのは、ちょうど一年前の春、詩乃が大学を卒業した年だ。
思い立ったら即行動する性格のため、未だに仕事でミスを犯してしまうこともあるが、二十三歳になり、ようやく落ち着いて対処できるようになった。
国安会長や須田という顧問の指導を受け、自分を律する術を覚えたからだ。
もちろんまだ甘い部分があるが……
自分の未熟さに詩乃は思わず眉間を寄せてしまうが、すぐに笑みを浮かべて国安会長に頷いた。
「はい。現在群馬県入りされている経営企画部の嶋田さんに、電話をかける件ですよね? このあと連絡を入れ、会長と合流するようにお伝えします。ほのぼの市場イベントにて、営農組合の新田さまに引き合わせたいという旨も同時にお知らせしておきますね」
「そうしてくれると有り難い。そのイベントだが、須田くんだけを連れて出る。君は母屋で待機しておくように。私が戻って来るのは遅くなるから十七時で仕事を終えなさい。いいね?」
国安会長が意味深に片眉を上げて、詩乃に念を押す。
いつもなら、須田だけでなく詩乃も一緒に連れて行くが、今回に限って留守番させるのはいったいどういう理由があるのだろうか。
しかし、国安会長の意図を一介の秘書が推し量るのは難しい。そのため、詩乃は素直に「わかりました」と答えた。
国安会長は満足げに口元をほころばせて、もう行っていいと手を振って合図を送る。
「失礼いたします」
詩乃は頭を下げ、書斎をあとにした。
スタッフが詰める管理室に向かう途中で、詩乃は出勤してきた須田顧問とばったり出くわす。
六十代で三つ揃いのスーツをびしっと着こなすその姿は、とても素敵だ。貫禄のある国安会長と並んでも引けを取らない。
「おはようございます」
詩乃がすかさず笑顔で挨拶すると、須田顧問の表情が和らいだ。
「おはよう。会長はもう書斎かな?」
「はい。既に仕事を始めておられます」
「わかった。私も急ごう。じゃ、またあとでね」
片手を上げて歩き出す須田顧問を見送ったのち、詩乃は再び歩き出すが、窓に映る自分の姿が目に入り思わず立ち止まった。
今朝は、ツイードの膝丈スカートにタートルネックのセーターを合わせ、パールのアクセサリーで胸元と耳朶を飾った。緩やかに巻いた髪はハーフポニーテールにし、背中に垂らしている。
一六二センチの細身体型のせいでそれほど豊満には見えないが、丸みを帯びたEカップの乳房が女性らしさを強調させ、レッドローズ色の口紅を塗った唇が可憐な印象を与えていた。
秘書として見合った恰好はしているが、それは外見だけでも落ち着いて見えるように心掛けたせいだ。
気を付けるべきところは、外見ではなく内面なのに……
小さくため息を吐いた詩乃は、気持ちを切り換えて先を急いだ。管理室でスタッフを統括する宮崎に今日の連絡事項を告げ、嶋田に連絡を入れた。
午後になると国安会長と須田顧問を送り出し、母屋の周囲や庭園を見回り始めた。別荘で働くスタッフは十数人で、通いで来る者もいれば住み込みの者もいる。そんな彼らと話をしては、国安会長に指示を仰がなければならない事案をまとめていった。
深い闇が広がり、静寂に包まれた二十四時を過ぎた頃。
国安会長が帰宅するのと同時に、家政婦が動き出す音が聞こえた。詩乃は自室のベッドに寝転がり、その気配を感じながら瞼を閉じていたが、一向に眠りは訪れない。
一時間経っても目が冴えていた詩乃は、仕方なくネグリジェの上に綿入れのガウンを羽織り、ベッドを下りて窓際に寄った。
ライトアップされた梅林は、まるで絵画のように美しい。
見事な景色に心が和むも、初めてこの光景を眺めた時の記憶が甦ったせいで憂鬱になってきた。
ここへ来た〝本来の目的〟を思い出したためだろう。
「そっか……妙に心がざわついて眠れないのは、あれからもう一年経つからなのね」
本来の目的――それは、KUNIYASUリゾートホテルの御曹司のフィアンセ候補から外れることだ。
詩乃の実家は、京都府で慶応元年から続く老舗呉服屋を営んでいる。しかし、十数年前に経営難になり、店を畳む寸前にまで陥ってしまった。
それを助けてくれたのが国安会長だった。
古きものや伝統を大切にする国安会長の考えに感銘を受けた父は、この人の家族に娘を託したいと思い、幼かった詩乃を彼の孫にと差し出した。
国安会長は、孫の一人である国安遥斗のフィアンセにしようと約束をしたらしい。
大学時代にその話を聞いた詩乃は卒倒しそうになった。でもそうならなかったのは、父が遥斗にはフィアンセ候補が他に二人もいると話してくれたためだ。
そこで、あえて本名の西條姓ではなく母方の大峯姓で面接を受け、国安会長の懐に飛び込んだ。彼の一言でフィアンセ候補を追加できるなら、詩乃を外すことも簡単だろうと思い行動に移した。
しかし、上手くはいかなかった。フィアンセ候補の誰かが訪れたら、素知らぬ顔で彼女たちを推そうと考えていたのに、遥斗どころかフィアンセ候補たちも現れないとは……
当初の目論見が外れてしまった詩乃は、とうとうそれとなく跡取りの結婚話を口にした。でもその都度さらりとかわされてしまい、今では話題にすらできない。
どうしよう。このままだと本来の目的を達成できない。
詩乃は唇を噛み締め、諦めそうになる気持ちをすぐに頭の中から振り払う。
「やめやめ!」
明日の仕事に備えてもう眠らなければならないのに、自分で気を昂らせてどうするのか。
まだ一年しか経っていないのよ。根気よく耐えれば、きっとフィアンセ候補という枷から逃れられる――と自分に言い聞かせていた時、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。これは会長専用のものだ。
こんな時間に連絡を入れるなんて、何かあったのだろうか。
詩乃は急いでベッドに戻り、スマートフォンを手に取った。
「……えっ?」
そこには〝明日書斎へ来る際、離れにある事業計画ファイルを取ってきてほしい〟とあった。
離れとは、国安会長が敷地内に建てたもう一棟の別荘のこと。母屋から距離があるものの、防音設備がしっかりしているため、彼の孫たちは成人するまでよくそちらに泊まって遊んでいたらしい。
しかし社会人として働く今は、別荘を訪れてもほぼ日帰りするのでなかなか泊まらない。それもあって、離れは書庫と化していた。
詩乃は月一ぐらいでそこに入って書類の整理をするので、時間をかけずに目的のファイルを探し出せるだろう。明日の朝一番で取りに行き、その足で書斎へ向かえばいい。
そう思うのに、いつしか詩乃の目は離れがある方角へ引き寄せられていた。
「今夜のうちに取りに行こうかな」
どうせ眠れないのなら、先にファイルを取りに行くのもいいかもしれない。
それに、国安会長は仕事で帰宅が遅くなった場合、翌日は早い時間帯から働く習慣がある。つまり明日もそうする可能性が高い。
だったら今夜中に用意をして、明日の朝は早く出勤できるようにした方が断然いい。
詩乃は動くことを決めると、スマートフォンをベッドに置いて準備を始めた。セキュリティカードにもなっている身分証をポケットに入れる。
意気揚々と部屋を出ようとした瞬間、姿見に映る自分が目に入り立ち止まった。
緩やかに巻いた長い髪を乱雑に後ろで結び、身体のラインが見えない綿入りのガウンを着た不恰好な姿に、思わず噴き出してしまう。
こんな姿で母屋を歩いていたら、皆になんと言われるか。でも、住み込みで働いているスタッフたちは既に床に就いている時間なので、誰かに見咎められる心配はない。
詩乃は悪戯を楽しむ少女のように声を潜めて笑い、自室をあとにした。
予想どおり、母屋は静まり返っている。
なるべく物音を立てずに廊下を進み、管理室に向かった。
身分証を使い、制御盤から離れのカードキーを手に取る。アクセス記録をたどれば、誰が制御盤を開けたか判明するが、念のためにデスクの上にメモを置いて母屋を出た。
「ううっ、寒い!」
三月に入って日中の気温は上昇してきたが、別荘地は山間にあるため朝晩はものすごく冷える。あまりの寒さに顔をしかめた時、冷たい風に乗って梅花の香りがふわっと漂ってきた。
途端、頬の筋肉が緩んでいく。
この匂いをいつまでも嗅いでおきたいと思いつつ、詩乃は梅林を隔てた離れへ続く回廊を急ぎ足で進む。
数分後には離れに到着した。
「こんなに素敵な離れなのに、今は誰も泊まらないなんて勿体ない」
母屋の荘厳さとは異なり、隠れ家的な洋風ログハウス。
軒がテラスまで覆うカバードテラス、陽光を取り入れるために作られた大きな窓、そして屋根裏部屋の造りなどは、どれも素敵だ。
詩乃はうっとりしながら階段を上がり、管理システムにカードキーを触れ合わせて鍵を開けた。
室内に入った数秒後、玄関に照明が灯り、小さな警告音が鳴り響く。数十秒以内に暗証番号を打ち込まなければ電子ロックがかかり、セキュリティ会社に通報される仕組みになっていた。
そうなる前に、早く暗証番号を打ち込まないと……
急いで解除しようとした時、部屋の奥で床を踏み締めるような小さな音がした。
何気なく目線をそちらに移した瞬間、詩乃の目に上半身裸の男性が飛び込んできた。
驚愕のあまり、心臓が一瞬止まりそうになる。同時に手の力が抜け、カードキーがするりと足元に落ちた。それを拾えないほど、男性から目を逸らせない。
水泳選手のように見事な肉体美を持つ男性は、気怠げな様子で腕を組み、大きな柱に凭れていた。にもかかわらず、詩乃に向ける眼光は鋭く、それだけで空気がピリピリする。
叫んで牽制しなければならないのに、舌が喉の奥に引っ付いて声が出ない。
しかし、この状況で不利なのは詩乃ではなく、勝手に離れに侵入し、衣服を脱いでリラックスしている目の前の男性だ。
詩乃は渇いた口腔をなんとか唾で潤し、声を振り絞った。
「あなた、誰⁉」
「それを君が言うのか?」
静寂な空気を破る深い声音に、背筋がぞくぞくする。それを振り払いたくて、詩乃は身体の脇で握り拳を作り、顎を上げた。
「ど、泥棒のくせに、いい度胸ね。わたしには訊ねる権利が――」
凄みを利かせて反論しようとする詩乃に、男性がゆっくり片手を上げた。
「何⁉」
詩乃は乱暴でもされるかと思い、反射的に足を後ろに引く。
けれども男性は何もせず、ただ天井を指しただけだった。その意味がわからず、指先を追って吹き抜けのそこに目を向ける。
しかし、変わったところはない。
「わからないのか?」
「えっ?」
そう問いかけるや否や、部屋中に警報音が鳴り響き、赤いランプが点滅し始めた。その間隔がどんどん狭まっていく。
警告アラームだとわかった途端、男性が伝えたかった内容を悟る。
「セキュリティ!」
詩乃はすぐさまパネルと向かい合うが、既に遅かった。
このままではセキュリティ会社から母屋に緊急連絡が入り、眠っている皆を起こしてしまう!
パニックになる詩乃を尻目に、男性が動き出した。彼は慣れた様子で固定電話の受話器を取り上げ、どこかへ連絡する。
「すみません、私は国安遥斗と申し――」
「国安遥斗⁉」
驚きのあまり叫ぶ詩乃を、男性がじろりと睨む。
詩乃は慌てて口を閉じて大人しくするも、男性をこっそり窺わずにはいられなかった。
泥棒だと思っていた男性――遥斗は、どうやらセキュリティ会社に連絡しているようだ。暗証番号を打てなかった事情などを説明するのが聞こえる。
そんな遥斗を見ながら、詩乃は頭を抱えたくなった。
国安会長のデスクには家族写真が飾られており、詩乃も目にしていた。
どうして、遥斗の顔をすぐに思い出さなかったのか。詩乃が国安会長の懐に飛び込まざるを得なかった元凶御曹司、国安遥斗の姿も見ていたのに……
家族写真から、遥斗がモデルみたいに恰好いいのは認識していた。でもまさか、これほどとは思っていなかった。退廃的な雰囲気を漂わせていても、その姿に目が引き寄せられるのを止められない。
現在は二十八歳の遥斗は、リバースショートの髪にパーマをかけている。ゆうに一八〇センチを超すほど背が高く、体躯も引き締まって見事だ。
キリッとした目、真っすぐな鼻梁、そして薄い唇を持つ遥斗は一見冷酷な感じにも見える。一方で、ほんの僅か唇の端が上がるだけで印象が和らぎ、優しげな男性へと変貌する。
今まさにそうだった。深刻そうに話しつつも、相手の話の途中でふっと唇が緩むと、周囲の気温が上昇したように感じる。
この人が、国安会長が期待する孫であり、詩乃が結婚するかもしれない御曹司。
ウェディングドレスをまとった自分が遥斗の隣に立つのを想像してしまい、一瞬にして鳥肌が立った。詩乃は堪らず我が身に腕を回し、何度もそこを擦る。
「では、それでお願いします」
そう言って通話を終わらせた直後、今度は別の部屋で違う呼び出し音が響いた。
遥斗は詩乃に一瞥もくれず、奥へと歩いていく。
「ちょっ、待って……!」
遥斗を追うが、彼がマスターベッドルームに消えたため途中で尻込みしてしまった。
詩乃はフィアンセ候補の一人。自分から彼のプライベート空間に足を踏み入れるのは止めるべきだ。
親密になりたいのではなく、関わりたくないと思っているのだから……
しかし、今は緊急事態。まずは、それを解決する方が大事だと思い直す。
とはいえ、国安会長の秘書としての立場を忘れてはならない。一線を越えないように気を付けて、ドアの直前で立ち止まった詩乃は、そこから室内を覗いた。
「国安、さん?」
途端、暖かな空気がふわっと流れてきた。
部屋に置かれた暖炉を見ると、そこでは火が踊り、薪が爆ぜていた。
ああ、冷えた身体を温めたい――そんな風に思う詩乃の前で、遥斗がキングサイズのベッドからスマートフォンを拾い上げる。
「もしもし。……はい、私です。そちらに届け出ているデータの確認が取れて良かった。……ええ、この時間ですから母屋への連絡は遠慮していただけますか?」
再びセキュリティ会社と話しているみたいだ。本来なら母屋へ確認の連絡が入るが、時間が時間なため、遥斗の権限で止めている。
すぐにセキュリティ会社に身分照会を求めるとは、なんて頭の回転が早いのだろうか。
もしかして、こういう経験が昔あったとか?
詩乃がそんな風に考えていた時、今まで鳴り響いていた警報音が消える。
「今、消えました。お手数をおかけして申し訳ありません。……はい、それでは失礼します」
遥斗はそう告げると電話を切り、スマートフォンをベッドに放り投げた。
その音にハッと顔を上げると、ゆっくり振り返った遥斗に鋭い目つきで射貫かれる。
「さて、俺の眠りを妨げ、いらぬ厄介ごとを負わせたお前は誰だ?」
威圧的な態度に気後れしそうになるも、詩乃は国安会長の個人秘書として従順に頭を下げた。
「この度はご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。わたしは国安会長の個人秘書、大峯詩乃と申します」
「祖父の個人秘書? 君が?」
「はい」
素直に頷く詩乃を観察しながら、遥斗がベッドに腰掛けた。
「俺の知らない、祖父の個人秘書ね……」
「一年前に採用されてこちらでお世話になっていますが、その間にお孫さんの国安さん……えっと、遥斗さんとはお会いしたことがないので当然だと思います」
「ふーん。それで、祖父の個人秘書が離れに来た理由は? しかもそんな恰好で。もしかして、スタッフの誰かと密会するために、この建物を使っていたのか?」
「密会⁉」
想像すらしなかった言葉に、詩乃は唖然とする。
いったい同僚の誰とここで密会するというのか。
詩乃はバカバカしいとせせら笑う。しかし、すぐに態度を改めるように背筋を伸ばした。
「明日の朝に必要な書類が、こちらに置いてあるんです。それを持ってくるようにと、国安会長の指示を受けました。もし遥斗さんが滞在していると伺っていれば、夜にお邪魔する真似は決してしませんでした。本当に申し訳ございません。書類を引き取り次第、失礼いたします」
「どこへ行くと言うんだ?」
呆れ気味に言い放った遥斗は、気怠い仕草で乱れた髪を掻き上げた。
「スタッフなら、セキュリティの仕組みを知っているはずだ。一度ロックされれば、離れにいる人物では解除ができない。母屋にいる誰かに頼むしかないと」
遥斗の言うとおり、母屋の誰かにパスワードを打ち込んでもらわない限り、電子ロックは解除されない。
もし泥棒と遭遇して閉じ込められた場合は、別の部屋に逃げ込んでロックをかけ、セキュリティ会社か警察を呼べばいい。そうすることで、契約者を介さなくても安全に脱出できる。
しかし普通にセキュリティの解除に失敗した時に開けられるのは、契約者の承諾を得たセキュリティ会社か、パスワードを知る母屋のスタッフたちのみだ。
結局のところ、頼めるのはスタッフだけになる。就寝中の彼らを起こしたくないが、この非常事態を知ればきっと許してくれるに違いない。
「はい。ですので、同僚に連絡をします。解除をしてもらい――」
そう言って、ポケットを探る。しかし、そこにあるはずのものがなかった。
嘘、……スマートフォンがない!
詩乃はポケットを叩いてはあたふたと視線を彷徨わせ、記憶をたどり始めた。
そこで、身分証だけをポケットに入れて、自室を出たのを思い出す。
「わたし、いったい何をやってるの?」
詩乃は小声で自分を叱咤し、唇を噛んだ。
「スマホがないと、やっと気付いたか」
「えっ? 〝やっと気付いた〟って……どうしてわかったんですか?」
目を見開く詩乃に、遥斗はそれぐらいわからないのかと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「ポケットにスマホを入れていれば、重みで生地が引っ張られるはず。なのに、そういう風には見えなかったからな。それでどうする? 母屋に電話をかけて、祖父も含めた皆を叩き起こすのか?」
詩乃は静かに頭を振った。
離れにある固定電話機には母屋の代表番号が登録されているので、誰かを起こすのは可能だ。でもそうすれば、母屋中にコール音が響き渡り、国安会長の眠りまで妨げる可能性がある。
自分の失態で雇い主の睡眠を削るなど、言語道断だ。
ならばどうしようかと考えていると、痺れを切らしたかのように、遥斗がため息を吐く。
「では、どうする?」
遥斗に訊ねられ、詩乃は目線を逸らした。
「どうするって……あっ!」
あることを思い出し、遥斗に顔を向けた。
「遥斗さんのスマートフォンを貸していただけませんか? ここで働くスタッフの一人ぐらいは、番号を入れてますよね?」
「ああ、一人だけ入れてある。……須田顧問の番号ならな」
そう言われて、詩乃の儚い望みは崩れ去った。
須田顧問は住み込みではなく通いなので無理だ。それに、そもそも自分の失態で年配の男性を未明に起こすなんて問題外。
結局のところ、陽が昇るまでここに留まる他ない。
つまり、詩乃は遥斗と二人きりで一夜を過ごすと……
その事実が脳に浸透していくにつれて、詩乃の顔から血の気が引いていった。
よりにもよって、一番一緒にいたくない人物とだなんて!
緊張と不安で、自然と身震いが起こる。それを抑えるために身体に力を入れ、両手をぎゅっと握り締めた。
「お休みのところ、本当に申し訳ございませんでした。……あの、遥斗さんにはご迷惑をおかけしませんので、明け方までこちらにいさせてくださいませんか? スタッフたちが動き出す頃にロックを解除してもらいますので」
「そうするしかないな。じゃ、もう寝よう。車を走らせてきたせいで疲れてるんだ」
遥斗がベッドに横になるのを見て、詩乃はくるっと身を翻した。
「失礼します!」
「どこへ行く? 二階の客室か?」
遥斗に声をかけられて、詩乃は一歩足を踏み出したところで、動きをぴたりと止めた。
「いいえ。二階もロックされてしまったので、リビングルームのソファをお借りします」
「リビングルーム? そんなところへ行かず、ここで寝たらいい」
「ここ?」
恐る恐る振り返る詩乃に、遥斗がベッドの隣を叩いた。
「ベッドは広いんだ。大人三人でも横になれる」
「いいえ! ……わたしは遠慮いたします」
「風邪をひいてもいいのか?」
「どうぞご心配なく。身体は丈夫なので……。おやすみなさい」
詩乃は国安会長に接する時と同じく慎ましやかに答え、ドアを閉めた。
途端、冷気が肌に刺さってぶるっと震える。
「寒い!」
暖炉で温められた部屋に入りたい気もするが、そこに一歩足を踏み入れたら遥斗と同じベッドで寝ることになってしまう。
そんなのは、絶対にお断りだ。
あと数時間も経てば、スタッフたちが起き出す。それまで耐えればいい。
詩乃は寒さを凌ぐため、ソファにあるクッションを一ヶ所に掻き集めて簡易ベッドを作ると、そこに潜り込んだ。
だが、一向に身体が温まる気配はなかった。
仕方なく下肢を擦り合わせたり、冷たい手に息を吐きかけたりして暖を取ろうとするが、そうすればするほど身体が冷えていく。
目を瞑って辛抱しようにも、気温が下がるにつれて空咳が出始めた。
こんな状態で眠れるわけがない。
「早く時間が過ぎて、朝になって」
そう呟いた瞬間、ドアが開く音が響いた。
遥斗が洗面所へ行くのかと思いきや、足音はどんどん大きくなり何故かこちらに近づいてくる。足音が背後で止まるものの、遥斗は何も言わない。ただ、詩乃の顔を見入っているのがなんとなく肌で感じられた。
しばらく眠ったフリをして我慢していたが、見られている間隔が長くなればなるほど、瞼がぴくぴくし出す。
お願い、早く部屋に戻って! ――そう心の中で祈った時、背後で大きなため息が聞こえた。
「ったく、意地っ張りな秘書だな」
刹那、詩乃の身体がふわっと浮き上がった。頭が揺れて、眩暈に似た症状に襲われる。
「きゃっ!」
「ほら、起きてる」
詩乃は何度も瞬きをして、間近に迫る遥斗に目を凝らした。彼の吐息が頬に当たる距離に戸惑うものの、彼の体温を感じるだけでどんどん思考が鈍り始めた。さらに身体の芯がふにゃふにゃになっていく。
梅の花が咲き誇り、桜の蕾が見られるようになった三月。
西條詩乃は、閑静な別荘地に建てられた母屋の書斎から、広い庭を彩る梅林を眺めていた。
昨日の夕方から今朝にかけて降り続いた雨がようやく上がり、今は陽射しを浴びた木々がキラキラ輝いて見える。
なんと美しい景色なのだろうか。
「私の話を聞いているかい?」
突然話しかけられた詩乃は、見事な白髪をした男性に顔を向ける。アンティークのデスクで仕事をしているその人こそ、KUNIYASUリゾートホテル創業者であり、詩乃の雇い主だ。
国安会長は、家族と離れてここ、長野県東信地方で優雅な隠居生活を送っている。とは言っても働いていないわけではなく、地域活性に尽力したり、会社の利になるよう動いたりしていた。
国安会長の個人秘書として住み込みで働き始めたのは、ちょうど一年前の春、詩乃が大学を卒業した年だ。
思い立ったら即行動する性格のため、未だに仕事でミスを犯してしまうこともあるが、二十三歳になり、ようやく落ち着いて対処できるようになった。
国安会長や須田という顧問の指導を受け、自分を律する術を覚えたからだ。
もちろんまだ甘い部分があるが……
自分の未熟さに詩乃は思わず眉間を寄せてしまうが、すぐに笑みを浮かべて国安会長に頷いた。
「はい。現在群馬県入りされている経営企画部の嶋田さんに、電話をかける件ですよね? このあと連絡を入れ、会長と合流するようにお伝えします。ほのぼの市場イベントにて、営農組合の新田さまに引き合わせたいという旨も同時にお知らせしておきますね」
「そうしてくれると有り難い。そのイベントだが、須田くんだけを連れて出る。君は母屋で待機しておくように。私が戻って来るのは遅くなるから十七時で仕事を終えなさい。いいね?」
国安会長が意味深に片眉を上げて、詩乃に念を押す。
いつもなら、須田だけでなく詩乃も一緒に連れて行くが、今回に限って留守番させるのはいったいどういう理由があるのだろうか。
しかし、国安会長の意図を一介の秘書が推し量るのは難しい。そのため、詩乃は素直に「わかりました」と答えた。
国安会長は満足げに口元をほころばせて、もう行っていいと手を振って合図を送る。
「失礼いたします」
詩乃は頭を下げ、書斎をあとにした。
スタッフが詰める管理室に向かう途中で、詩乃は出勤してきた須田顧問とばったり出くわす。
六十代で三つ揃いのスーツをびしっと着こなすその姿は、とても素敵だ。貫禄のある国安会長と並んでも引けを取らない。
「おはようございます」
詩乃がすかさず笑顔で挨拶すると、須田顧問の表情が和らいだ。
「おはよう。会長はもう書斎かな?」
「はい。既に仕事を始めておられます」
「わかった。私も急ごう。じゃ、またあとでね」
片手を上げて歩き出す須田顧問を見送ったのち、詩乃は再び歩き出すが、窓に映る自分の姿が目に入り思わず立ち止まった。
今朝は、ツイードの膝丈スカートにタートルネックのセーターを合わせ、パールのアクセサリーで胸元と耳朶を飾った。緩やかに巻いた髪はハーフポニーテールにし、背中に垂らしている。
一六二センチの細身体型のせいでそれほど豊満には見えないが、丸みを帯びたEカップの乳房が女性らしさを強調させ、レッドローズ色の口紅を塗った唇が可憐な印象を与えていた。
秘書として見合った恰好はしているが、それは外見だけでも落ち着いて見えるように心掛けたせいだ。
気を付けるべきところは、外見ではなく内面なのに……
小さくため息を吐いた詩乃は、気持ちを切り換えて先を急いだ。管理室でスタッフを統括する宮崎に今日の連絡事項を告げ、嶋田に連絡を入れた。
午後になると国安会長と須田顧問を送り出し、母屋の周囲や庭園を見回り始めた。別荘で働くスタッフは十数人で、通いで来る者もいれば住み込みの者もいる。そんな彼らと話をしては、国安会長に指示を仰がなければならない事案をまとめていった。
深い闇が広がり、静寂に包まれた二十四時を過ぎた頃。
国安会長が帰宅するのと同時に、家政婦が動き出す音が聞こえた。詩乃は自室のベッドに寝転がり、その気配を感じながら瞼を閉じていたが、一向に眠りは訪れない。
一時間経っても目が冴えていた詩乃は、仕方なくネグリジェの上に綿入れのガウンを羽織り、ベッドを下りて窓際に寄った。
ライトアップされた梅林は、まるで絵画のように美しい。
見事な景色に心が和むも、初めてこの光景を眺めた時の記憶が甦ったせいで憂鬱になってきた。
ここへ来た〝本来の目的〟を思い出したためだろう。
「そっか……妙に心がざわついて眠れないのは、あれからもう一年経つからなのね」
本来の目的――それは、KUNIYASUリゾートホテルの御曹司のフィアンセ候補から外れることだ。
詩乃の実家は、京都府で慶応元年から続く老舗呉服屋を営んでいる。しかし、十数年前に経営難になり、店を畳む寸前にまで陥ってしまった。
それを助けてくれたのが国安会長だった。
古きものや伝統を大切にする国安会長の考えに感銘を受けた父は、この人の家族に娘を託したいと思い、幼かった詩乃を彼の孫にと差し出した。
国安会長は、孫の一人である国安遥斗のフィアンセにしようと約束をしたらしい。
大学時代にその話を聞いた詩乃は卒倒しそうになった。でもそうならなかったのは、父が遥斗にはフィアンセ候補が他に二人もいると話してくれたためだ。
そこで、あえて本名の西條姓ではなく母方の大峯姓で面接を受け、国安会長の懐に飛び込んだ。彼の一言でフィアンセ候補を追加できるなら、詩乃を外すことも簡単だろうと思い行動に移した。
しかし、上手くはいかなかった。フィアンセ候補の誰かが訪れたら、素知らぬ顔で彼女たちを推そうと考えていたのに、遥斗どころかフィアンセ候補たちも現れないとは……
当初の目論見が外れてしまった詩乃は、とうとうそれとなく跡取りの結婚話を口にした。でもその都度さらりとかわされてしまい、今では話題にすらできない。
どうしよう。このままだと本来の目的を達成できない。
詩乃は唇を噛み締め、諦めそうになる気持ちをすぐに頭の中から振り払う。
「やめやめ!」
明日の仕事に備えてもう眠らなければならないのに、自分で気を昂らせてどうするのか。
まだ一年しか経っていないのよ。根気よく耐えれば、きっとフィアンセ候補という枷から逃れられる――と自分に言い聞かせていた時、スマートフォンの通知音が鳴り響いた。これは会長専用のものだ。
こんな時間に連絡を入れるなんて、何かあったのだろうか。
詩乃は急いでベッドに戻り、スマートフォンを手に取った。
「……えっ?」
そこには〝明日書斎へ来る際、離れにある事業計画ファイルを取ってきてほしい〟とあった。
離れとは、国安会長が敷地内に建てたもう一棟の別荘のこと。母屋から距離があるものの、防音設備がしっかりしているため、彼の孫たちは成人するまでよくそちらに泊まって遊んでいたらしい。
しかし社会人として働く今は、別荘を訪れてもほぼ日帰りするのでなかなか泊まらない。それもあって、離れは書庫と化していた。
詩乃は月一ぐらいでそこに入って書類の整理をするので、時間をかけずに目的のファイルを探し出せるだろう。明日の朝一番で取りに行き、その足で書斎へ向かえばいい。
そう思うのに、いつしか詩乃の目は離れがある方角へ引き寄せられていた。
「今夜のうちに取りに行こうかな」
どうせ眠れないのなら、先にファイルを取りに行くのもいいかもしれない。
それに、国安会長は仕事で帰宅が遅くなった場合、翌日は早い時間帯から働く習慣がある。つまり明日もそうする可能性が高い。
だったら今夜中に用意をして、明日の朝は早く出勤できるようにした方が断然いい。
詩乃は動くことを決めると、スマートフォンをベッドに置いて準備を始めた。セキュリティカードにもなっている身分証をポケットに入れる。
意気揚々と部屋を出ようとした瞬間、姿見に映る自分が目に入り立ち止まった。
緩やかに巻いた長い髪を乱雑に後ろで結び、身体のラインが見えない綿入りのガウンを着た不恰好な姿に、思わず噴き出してしまう。
こんな姿で母屋を歩いていたら、皆になんと言われるか。でも、住み込みで働いているスタッフたちは既に床に就いている時間なので、誰かに見咎められる心配はない。
詩乃は悪戯を楽しむ少女のように声を潜めて笑い、自室をあとにした。
予想どおり、母屋は静まり返っている。
なるべく物音を立てずに廊下を進み、管理室に向かった。
身分証を使い、制御盤から離れのカードキーを手に取る。アクセス記録をたどれば、誰が制御盤を開けたか判明するが、念のためにデスクの上にメモを置いて母屋を出た。
「ううっ、寒い!」
三月に入って日中の気温は上昇してきたが、別荘地は山間にあるため朝晩はものすごく冷える。あまりの寒さに顔をしかめた時、冷たい風に乗って梅花の香りがふわっと漂ってきた。
途端、頬の筋肉が緩んでいく。
この匂いをいつまでも嗅いでおきたいと思いつつ、詩乃は梅林を隔てた離れへ続く回廊を急ぎ足で進む。
数分後には離れに到着した。
「こんなに素敵な離れなのに、今は誰も泊まらないなんて勿体ない」
母屋の荘厳さとは異なり、隠れ家的な洋風ログハウス。
軒がテラスまで覆うカバードテラス、陽光を取り入れるために作られた大きな窓、そして屋根裏部屋の造りなどは、どれも素敵だ。
詩乃はうっとりしながら階段を上がり、管理システムにカードキーを触れ合わせて鍵を開けた。
室内に入った数秒後、玄関に照明が灯り、小さな警告音が鳴り響く。数十秒以内に暗証番号を打ち込まなければ電子ロックがかかり、セキュリティ会社に通報される仕組みになっていた。
そうなる前に、早く暗証番号を打ち込まないと……
急いで解除しようとした時、部屋の奥で床を踏み締めるような小さな音がした。
何気なく目線をそちらに移した瞬間、詩乃の目に上半身裸の男性が飛び込んできた。
驚愕のあまり、心臓が一瞬止まりそうになる。同時に手の力が抜け、カードキーがするりと足元に落ちた。それを拾えないほど、男性から目を逸らせない。
水泳選手のように見事な肉体美を持つ男性は、気怠げな様子で腕を組み、大きな柱に凭れていた。にもかかわらず、詩乃に向ける眼光は鋭く、それだけで空気がピリピリする。
叫んで牽制しなければならないのに、舌が喉の奥に引っ付いて声が出ない。
しかし、この状況で不利なのは詩乃ではなく、勝手に離れに侵入し、衣服を脱いでリラックスしている目の前の男性だ。
詩乃は渇いた口腔をなんとか唾で潤し、声を振り絞った。
「あなた、誰⁉」
「それを君が言うのか?」
静寂な空気を破る深い声音に、背筋がぞくぞくする。それを振り払いたくて、詩乃は身体の脇で握り拳を作り、顎を上げた。
「ど、泥棒のくせに、いい度胸ね。わたしには訊ねる権利が――」
凄みを利かせて反論しようとする詩乃に、男性がゆっくり片手を上げた。
「何⁉」
詩乃は乱暴でもされるかと思い、反射的に足を後ろに引く。
けれども男性は何もせず、ただ天井を指しただけだった。その意味がわからず、指先を追って吹き抜けのそこに目を向ける。
しかし、変わったところはない。
「わからないのか?」
「えっ?」
そう問いかけるや否や、部屋中に警報音が鳴り響き、赤いランプが点滅し始めた。その間隔がどんどん狭まっていく。
警告アラームだとわかった途端、男性が伝えたかった内容を悟る。
「セキュリティ!」
詩乃はすぐさまパネルと向かい合うが、既に遅かった。
このままではセキュリティ会社から母屋に緊急連絡が入り、眠っている皆を起こしてしまう!
パニックになる詩乃を尻目に、男性が動き出した。彼は慣れた様子で固定電話の受話器を取り上げ、どこかへ連絡する。
「すみません、私は国安遥斗と申し――」
「国安遥斗⁉」
驚きのあまり叫ぶ詩乃を、男性がじろりと睨む。
詩乃は慌てて口を閉じて大人しくするも、男性をこっそり窺わずにはいられなかった。
泥棒だと思っていた男性――遥斗は、どうやらセキュリティ会社に連絡しているようだ。暗証番号を打てなかった事情などを説明するのが聞こえる。
そんな遥斗を見ながら、詩乃は頭を抱えたくなった。
国安会長のデスクには家族写真が飾られており、詩乃も目にしていた。
どうして、遥斗の顔をすぐに思い出さなかったのか。詩乃が国安会長の懐に飛び込まざるを得なかった元凶御曹司、国安遥斗の姿も見ていたのに……
家族写真から、遥斗がモデルみたいに恰好いいのは認識していた。でもまさか、これほどとは思っていなかった。退廃的な雰囲気を漂わせていても、その姿に目が引き寄せられるのを止められない。
現在は二十八歳の遥斗は、リバースショートの髪にパーマをかけている。ゆうに一八〇センチを超すほど背が高く、体躯も引き締まって見事だ。
キリッとした目、真っすぐな鼻梁、そして薄い唇を持つ遥斗は一見冷酷な感じにも見える。一方で、ほんの僅か唇の端が上がるだけで印象が和らぎ、優しげな男性へと変貌する。
今まさにそうだった。深刻そうに話しつつも、相手の話の途中でふっと唇が緩むと、周囲の気温が上昇したように感じる。
この人が、国安会長が期待する孫であり、詩乃が結婚するかもしれない御曹司。
ウェディングドレスをまとった自分が遥斗の隣に立つのを想像してしまい、一瞬にして鳥肌が立った。詩乃は堪らず我が身に腕を回し、何度もそこを擦る。
「では、それでお願いします」
そう言って通話を終わらせた直後、今度は別の部屋で違う呼び出し音が響いた。
遥斗は詩乃に一瞥もくれず、奥へと歩いていく。
「ちょっ、待って……!」
遥斗を追うが、彼がマスターベッドルームに消えたため途中で尻込みしてしまった。
詩乃はフィアンセ候補の一人。自分から彼のプライベート空間に足を踏み入れるのは止めるべきだ。
親密になりたいのではなく、関わりたくないと思っているのだから……
しかし、今は緊急事態。まずは、それを解決する方が大事だと思い直す。
とはいえ、国安会長の秘書としての立場を忘れてはならない。一線を越えないように気を付けて、ドアの直前で立ち止まった詩乃は、そこから室内を覗いた。
「国安、さん?」
途端、暖かな空気がふわっと流れてきた。
部屋に置かれた暖炉を見ると、そこでは火が踊り、薪が爆ぜていた。
ああ、冷えた身体を温めたい――そんな風に思う詩乃の前で、遥斗がキングサイズのベッドからスマートフォンを拾い上げる。
「もしもし。……はい、私です。そちらに届け出ているデータの確認が取れて良かった。……ええ、この時間ですから母屋への連絡は遠慮していただけますか?」
再びセキュリティ会社と話しているみたいだ。本来なら母屋へ確認の連絡が入るが、時間が時間なため、遥斗の権限で止めている。
すぐにセキュリティ会社に身分照会を求めるとは、なんて頭の回転が早いのだろうか。
もしかして、こういう経験が昔あったとか?
詩乃がそんな風に考えていた時、今まで鳴り響いていた警報音が消える。
「今、消えました。お手数をおかけして申し訳ありません。……はい、それでは失礼します」
遥斗はそう告げると電話を切り、スマートフォンをベッドに放り投げた。
その音にハッと顔を上げると、ゆっくり振り返った遥斗に鋭い目つきで射貫かれる。
「さて、俺の眠りを妨げ、いらぬ厄介ごとを負わせたお前は誰だ?」
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「この度はご迷惑をおかけしてしまい、大変申し訳ございませんでした。わたしは国安会長の個人秘書、大峯詩乃と申します」
「祖父の個人秘書? 君が?」
「はい」
素直に頷く詩乃を観察しながら、遥斗がベッドに腰掛けた。
「俺の知らない、祖父の個人秘書ね……」
「一年前に採用されてこちらでお世話になっていますが、その間にお孫さんの国安さん……えっと、遥斗さんとはお会いしたことがないので当然だと思います」
「ふーん。それで、祖父の個人秘書が離れに来た理由は? しかもそんな恰好で。もしかして、スタッフの誰かと密会するために、この建物を使っていたのか?」
「密会⁉」
想像すらしなかった言葉に、詩乃は唖然とする。
いったい同僚の誰とここで密会するというのか。
詩乃はバカバカしいとせせら笑う。しかし、すぐに態度を改めるように背筋を伸ばした。
「明日の朝に必要な書類が、こちらに置いてあるんです。それを持ってくるようにと、国安会長の指示を受けました。もし遥斗さんが滞在していると伺っていれば、夜にお邪魔する真似は決してしませんでした。本当に申し訳ございません。書類を引き取り次第、失礼いたします」
「どこへ行くと言うんだ?」
呆れ気味に言い放った遥斗は、気怠い仕草で乱れた髪を掻き上げた。
「スタッフなら、セキュリティの仕組みを知っているはずだ。一度ロックされれば、離れにいる人物では解除ができない。母屋にいる誰かに頼むしかないと」
遥斗の言うとおり、母屋の誰かにパスワードを打ち込んでもらわない限り、電子ロックは解除されない。
もし泥棒と遭遇して閉じ込められた場合は、別の部屋に逃げ込んでロックをかけ、セキュリティ会社か警察を呼べばいい。そうすることで、契約者を介さなくても安全に脱出できる。
しかし普通にセキュリティの解除に失敗した時に開けられるのは、契約者の承諾を得たセキュリティ会社か、パスワードを知る母屋のスタッフたちのみだ。
結局のところ、頼めるのはスタッフだけになる。就寝中の彼らを起こしたくないが、この非常事態を知ればきっと許してくれるに違いない。
「はい。ですので、同僚に連絡をします。解除をしてもらい――」
そう言って、ポケットを探る。しかし、そこにあるはずのものがなかった。
嘘、……スマートフォンがない!
詩乃はポケットを叩いてはあたふたと視線を彷徨わせ、記憶をたどり始めた。
そこで、身分証だけをポケットに入れて、自室を出たのを思い出す。
「わたし、いったい何をやってるの?」
詩乃は小声で自分を叱咤し、唇を噛んだ。
「スマホがないと、やっと気付いたか」
「えっ? 〝やっと気付いた〟って……どうしてわかったんですか?」
目を見開く詩乃に、遥斗はそれぐらいわからないのかと言わんばかりに鼻を鳴らした。
「ポケットにスマホを入れていれば、重みで生地が引っ張られるはず。なのに、そういう風には見えなかったからな。それでどうする? 母屋に電話をかけて、祖父も含めた皆を叩き起こすのか?」
詩乃は静かに頭を振った。
離れにある固定電話機には母屋の代表番号が登録されているので、誰かを起こすのは可能だ。でもそうすれば、母屋中にコール音が響き渡り、国安会長の眠りまで妨げる可能性がある。
自分の失態で雇い主の睡眠を削るなど、言語道断だ。
ならばどうしようかと考えていると、痺れを切らしたかのように、遥斗がため息を吐く。
「では、どうする?」
遥斗に訊ねられ、詩乃は目線を逸らした。
「どうするって……あっ!」
あることを思い出し、遥斗に顔を向けた。
「遥斗さんのスマートフォンを貸していただけませんか? ここで働くスタッフの一人ぐらいは、番号を入れてますよね?」
「ああ、一人だけ入れてある。……須田顧問の番号ならな」
そう言われて、詩乃の儚い望みは崩れ去った。
須田顧問は住み込みではなく通いなので無理だ。それに、そもそも自分の失態で年配の男性を未明に起こすなんて問題外。
結局のところ、陽が昇るまでここに留まる他ない。
つまり、詩乃は遥斗と二人きりで一夜を過ごすと……
その事実が脳に浸透していくにつれて、詩乃の顔から血の気が引いていった。
よりにもよって、一番一緒にいたくない人物とだなんて!
緊張と不安で、自然と身震いが起こる。それを抑えるために身体に力を入れ、両手をぎゅっと握り締めた。
「お休みのところ、本当に申し訳ございませんでした。……あの、遥斗さんにはご迷惑をおかけしませんので、明け方までこちらにいさせてくださいませんか? スタッフたちが動き出す頃にロックを解除してもらいますので」
「そうするしかないな。じゃ、もう寝よう。車を走らせてきたせいで疲れてるんだ」
遥斗がベッドに横になるのを見て、詩乃はくるっと身を翻した。
「失礼します!」
「どこへ行く? 二階の客室か?」
遥斗に声をかけられて、詩乃は一歩足を踏み出したところで、動きをぴたりと止めた。
「いいえ。二階もロックされてしまったので、リビングルームのソファをお借りします」
「リビングルーム? そんなところへ行かず、ここで寝たらいい」
「ここ?」
恐る恐る振り返る詩乃に、遥斗がベッドの隣を叩いた。
「ベッドは広いんだ。大人三人でも横になれる」
「いいえ! ……わたしは遠慮いたします」
「風邪をひいてもいいのか?」
「どうぞご心配なく。身体は丈夫なので……。おやすみなさい」
詩乃は国安会長に接する時と同じく慎ましやかに答え、ドアを閉めた。
途端、冷気が肌に刺さってぶるっと震える。
「寒い!」
暖炉で温められた部屋に入りたい気もするが、そこに一歩足を踏み入れたら遥斗と同じベッドで寝ることになってしまう。
そんなのは、絶対にお断りだ。
あと数時間も経てば、スタッフたちが起き出す。それまで耐えればいい。
詩乃は寒さを凌ぐため、ソファにあるクッションを一ヶ所に掻き集めて簡易ベッドを作ると、そこに潜り込んだ。
だが、一向に身体が温まる気配はなかった。
仕方なく下肢を擦り合わせたり、冷たい手に息を吐きかけたりして暖を取ろうとするが、そうすればするほど身体が冷えていく。
目を瞑って辛抱しようにも、気温が下がるにつれて空咳が出始めた。
こんな状態で眠れるわけがない。
「早く時間が過ぎて、朝になって」
そう呟いた瞬間、ドアが開く音が響いた。
遥斗が洗面所へ行くのかと思いきや、足音はどんどん大きくなり何故かこちらに近づいてくる。足音が背後で止まるものの、遥斗は何も言わない。ただ、詩乃の顔を見入っているのがなんとなく肌で感じられた。
しばらく眠ったフリをして我慢していたが、見られている間隔が長くなればなるほど、瞼がぴくぴくし出す。
お願い、早く部屋に戻って! ――そう心の中で祈った時、背後で大きなため息が聞こえた。
「ったく、意地っ張りな秘書だな」
刹那、詩乃の身体がふわっと浮き上がった。頭が揺れて、眩暈に似た症状に襲われる。
「きゃっ!」
「ほら、起きてる」
詩乃は何度も瞬きをして、間近に迫る遥斗に目を凝らした。彼の吐息が頬に当たる距離に戸惑うものの、彼の体温を感じるだけでどんどん思考が鈍り始めた。さらに身体の芯がふにゃふにゃになっていく。
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