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第8話 小林 要
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◆◆◆◆◆
少年を大阪市内のホテルに連れ込んだときには、俺は後悔の念に駆られていた。正美の事が気に掛かっていた。
弟を責めるような事を、言ってしまった。虐待を疑いながら通報しなかった事を責めてしまった。誰だって、他人の家庭に介入したいとは思わないだろう。まして、確信もなく虐待を疑って通報する事は、稀じゃないのか?
なのに、俺は正美の話を聞くこともせず、切り捨ているようにしてアパートを後にしてしまった。そんなことを考えていると、ベッドに座った少年がか細い声を出した。
「あの・・」
「ああ、悪い。ちょっと考え事をしていたから・・えーっと、小林要くんだったね?」
「そうです。あの、俺はこれからどうなりますか?」
俺は少年を安心させるために、笑顔を浮かべ答えた。
「まず最初に言っておくと、俺は警察官なんだ。だから本来は犯罪行為を発見した場合、警察に君を連れていかねばならない。だが、君にも事情があるようだし・・今回は見逃してやる。ただし、明日は児童相談所に一緒に行ってもらう。いいね?」
「放火の事は黙っていてくれるの?」
要が疑わしそうに呟く。
「アパートは燃えなかった。駐輪場が灯油臭くなっただけだ。もう二度と放火はしないと誓え」
少年は躊躇しながらも頷いた。
「声に出して言えよ」
「・・・もう放火はしない」
中学生だと言っていたが、小柄な体型の彼はより幼く見えた。その肩が僅かに震えている。俺は身を屈めると、彼の顔を覗き込んだ。
「よく聞いてくれ。放火なんてするな。そんなことをしなくても、父親からは離れられるんだ。大人がお前を守ってくれる。冷静になるんだ」
少年が涙目になって俺を睨みつける。
「・・誰も、助けてくれなかった。俺の親父はやくざ崩れなんだ。気に入らないとすぐに怒鳴って、人を脅すんだ。学校の先生もびびっちゃって部屋にも入ってこなかった。アパートの人だって・・薄々気が付いているのに、誰も助けてくれなかった!」
「落ち着け・・ゆっくり聞くから」
「親父は陰湿なんだよ。見えないところを殴るんだ。お腹とか背中とか。俺が悲鳴を上げそうになると、口に布を詰めて、それで、それで・・」
要はぶるぶると震えながら、自分の腕で体を抱きしめ身を小さくする。俺は黙って聞いていた。
「俺を・・犯すんだ。尻に突き込むんだ。汚いあれを。何度も、何度も!」
「許せなかったんだな、父親を?」
「当たり前だ!あんな奴、死んで当然なんだ!俺を馬鹿にして、押しつぶして、犯して、指を入れて・・笑うんだよ。俺の事を!情けない男だって。男の癖に、男が好きなんだろうって、ペニスを握り込んで、あいつ、あいつ、笑うんだぁああ!あんな奴、灰になればいいんだ。あんな事、皆に知られたくない!!嫌だぁああ!!」
「落ち着けって」
「どうして止めたんだよ!あいつを殺せたかもしれないのに!灰にできたのに。消せたのに!」
俺は要の頬を叩いていた。ホテルの部屋に、皮膚の当たる音が響く。
「いっ・・!」
「それで、放火して・・他の人間も巻き添えにするつもりだったのか?俺の弟も、殺すつもりだったのか?お前を救わなかったから?」
「誰も助けてくれなかった!」
「お前は中学生だろ?もう、自分であの家を出て、助けを求められたはずだ。虐待されていると、世間に訴えられたはずだ。でも、そうしなかった。父親をただ消したくて、憎くて、犯罪に手を染めようとした」
「だって、だって・・俺は・・」
俺には少年を叱責する資格なんてない。俺は中学生の時に、本当にこの手で父親を消してしまったのだから。その俺が、今は少年を説得しようと白々しい言葉を並べている。
吐き気がする。それでも、それを悟られたくない。俺は深呼吸をして、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「やり直すんだ、人生を。最悪の父親に当たってしまったのは不運だけど、それで人生が終わったわけじゃない。なあ、どうして警察官の俺が、お前の犯罪に目こぼしするか分かるか?」
「?」
「俺も弟の正美も、酷い父親に育てられたんだ。同じような、虐待を受けた。それに、性的な事もあった。でも、俺たちは今は、まともな人生を歩んでいるつもりだ。君にそれができないとは思えない。君は今絶望の淵にいるけど、いつかそこからも脱する事ができる。善良な大人の力を借りてね」
要は目を見開いて俺を見つめる。
「おじさんは、善良な大人なの?」
俺はゆっくりと頷いて笑顔を見せた。
「信じられないか?」
少年が戸惑いがちに口を開く。
「・・親父と同類かと思ってた」
俺は驚いて要を見つめた。
「え!なんだ、俺が君に襲いかかるとでも、思っていたのか?弱みに付け込んで?酷いな。そんな悪徳警官じゃないよ。妻もいるし・・」
「ご、御免なさい!」
少年が慌てて頭を下げる。
「まあ、仕方ないか。無理やりホテルに連れ込んだようなものだし・・誤解されても仕方ないな。なあ、男が皆父親と同じ趣味とは限らないよ?俺は、女にしか興味ないし」
俺の言葉に少年はほっとしたようだった。少し放心したような少年の姿に、気が付けば俺は幼い日の正美を重ね合わせていた。
不意に懐かしく、正美の肩を昔のように抱きしめたくなった。だが、その気持ちを胸の奥底に押し込める。
それにしても、この少年をホテルに一人で、泊めるわけにもいかなかった。
「心配を増幅させるようで悪いけど、俺も今日この部屋に泊まるから。誤解しないでくれよ?」
俺の言葉に、要は少し笑って頷いた。さて、あとは・・。俺は携帯を取り出して、弟のアドレスを呼び出す。とにかく、謝りたかった。
◇◇◇◇◇
兄さんの着信を見たとき、僕は泣きそうになった。不安で、酷く寂しかった。兄さんの声が聞きたい。
「兄さん!!」
僕は慌てて電話に出ていた。
『正美、さっきは悪かった。お前を責めるような事を言って』
「そんなこと気にしていないよ。僕が、他人に無関心だったのも事実だし、今は反省しているんだ。ねえ、今どこ?」
兄さんはホテルの名前を告げた。僕は何となく不安になって聞いた。
「兄さんもそこに泊まるの?危険じゃない?」
『何が危険なんだ?え?まさか、お前まで、俺が子供を襲うとでも、思っているんじゃないだろうなぁー!』
僕は眉を寄せた。
「違うよ。どうして、そんな結論になるんだよ。ねえ、相手は子供でも、放火しようとしていた人間だよ?危なくないかな。兄さんに危害を加えられたら、僕は!」
兄さんの返事が遅れる。すこし沈んだ声になっていた。
『放火魔が・・全員頭が狂ってるわけじゃない。正美は、そう思うのか?』
「少なくとも、正常ではないし、危険な傾向があるんだと思うよ?」
『そうか・・そうだな』
「どうしたの、兄さん?」
『なんでもない。正美・・』
「なに?」
『あの少年を見ていると、昔のお前を思い出したよ。昔の俺は、虐待を世間に訴える事もできず、考えなしにお前を深く傷つけてしまった。だから、この子は助けてあげたいんだ。そう思うことは間違いか?』
兄さん。
兄さんは、過去の事で罪悪感なんて抱く必要ないのに。兄さんは僕を抱く事で、守ってくれていたから。大人の欲望から、身を呈して守ってくれていたのは兄さんだよ?
僕に挿入しながら泣いていた兄さんの姿が、今も目から離れないよ。本当の犠牲者は兄さんなのに・・。
「兄さん、僕も協力するよ。守ってあげてよ、その子を」
僕は呟いていた。
兄さんと心を一つにしたい。
心から、そう思った。
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少年を大阪市内のホテルに連れ込んだときには、俺は後悔の念に駆られていた。正美の事が気に掛かっていた。
弟を責めるような事を、言ってしまった。虐待を疑いながら通報しなかった事を責めてしまった。誰だって、他人の家庭に介入したいとは思わないだろう。まして、確信もなく虐待を疑って通報する事は、稀じゃないのか?
なのに、俺は正美の話を聞くこともせず、切り捨ているようにしてアパートを後にしてしまった。そんなことを考えていると、ベッドに座った少年がか細い声を出した。
「あの・・」
「ああ、悪い。ちょっと考え事をしていたから・・えーっと、小林要くんだったね?」
「そうです。あの、俺はこれからどうなりますか?」
俺は少年を安心させるために、笑顔を浮かべ答えた。
「まず最初に言っておくと、俺は警察官なんだ。だから本来は犯罪行為を発見した場合、警察に君を連れていかねばならない。だが、君にも事情があるようだし・・今回は見逃してやる。ただし、明日は児童相談所に一緒に行ってもらう。いいね?」
「放火の事は黙っていてくれるの?」
要が疑わしそうに呟く。
「アパートは燃えなかった。駐輪場が灯油臭くなっただけだ。もう二度と放火はしないと誓え」
少年は躊躇しながらも頷いた。
「声に出して言えよ」
「・・・もう放火はしない」
中学生だと言っていたが、小柄な体型の彼はより幼く見えた。その肩が僅かに震えている。俺は身を屈めると、彼の顔を覗き込んだ。
「よく聞いてくれ。放火なんてするな。そんなことをしなくても、父親からは離れられるんだ。大人がお前を守ってくれる。冷静になるんだ」
少年が涙目になって俺を睨みつける。
「・・誰も、助けてくれなかった。俺の親父はやくざ崩れなんだ。気に入らないとすぐに怒鳴って、人を脅すんだ。学校の先生もびびっちゃって部屋にも入ってこなかった。アパートの人だって・・薄々気が付いているのに、誰も助けてくれなかった!」
「落ち着け・・ゆっくり聞くから」
「親父は陰湿なんだよ。見えないところを殴るんだ。お腹とか背中とか。俺が悲鳴を上げそうになると、口に布を詰めて、それで、それで・・」
要はぶるぶると震えながら、自分の腕で体を抱きしめ身を小さくする。俺は黙って聞いていた。
「俺を・・犯すんだ。尻に突き込むんだ。汚いあれを。何度も、何度も!」
「許せなかったんだな、父親を?」
「当たり前だ!あんな奴、死んで当然なんだ!俺を馬鹿にして、押しつぶして、犯して、指を入れて・・笑うんだよ。俺の事を!情けない男だって。男の癖に、男が好きなんだろうって、ペニスを握り込んで、あいつ、あいつ、笑うんだぁああ!あんな奴、灰になればいいんだ。あんな事、皆に知られたくない!!嫌だぁああ!!」
「落ち着けって」
「どうして止めたんだよ!あいつを殺せたかもしれないのに!灰にできたのに。消せたのに!」
俺は要の頬を叩いていた。ホテルの部屋に、皮膚の当たる音が響く。
「いっ・・!」
「それで、放火して・・他の人間も巻き添えにするつもりだったのか?俺の弟も、殺すつもりだったのか?お前を救わなかったから?」
「誰も助けてくれなかった!」
「お前は中学生だろ?もう、自分であの家を出て、助けを求められたはずだ。虐待されていると、世間に訴えられたはずだ。でも、そうしなかった。父親をただ消したくて、憎くて、犯罪に手を染めようとした」
「だって、だって・・俺は・・」
俺には少年を叱責する資格なんてない。俺は中学生の時に、本当にこの手で父親を消してしまったのだから。その俺が、今は少年を説得しようと白々しい言葉を並べている。
吐き気がする。それでも、それを悟られたくない。俺は深呼吸をして、ゆっくりと言葉を吐き出した。
「やり直すんだ、人生を。最悪の父親に当たってしまったのは不運だけど、それで人生が終わったわけじゃない。なあ、どうして警察官の俺が、お前の犯罪に目こぼしするか分かるか?」
「?」
「俺も弟の正美も、酷い父親に育てられたんだ。同じような、虐待を受けた。それに、性的な事もあった。でも、俺たちは今は、まともな人生を歩んでいるつもりだ。君にそれができないとは思えない。君は今絶望の淵にいるけど、いつかそこからも脱する事ができる。善良な大人の力を借りてね」
要は目を見開いて俺を見つめる。
「おじさんは、善良な大人なの?」
俺はゆっくりと頷いて笑顔を見せた。
「信じられないか?」
少年が戸惑いがちに口を開く。
「・・親父と同類かと思ってた」
俺は驚いて要を見つめた。
「え!なんだ、俺が君に襲いかかるとでも、思っていたのか?弱みに付け込んで?酷いな。そんな悪徳警官じゃないよ。妻もいるし・・」
「ご、御免なさい!」
少年が慌てて頭を下げる。
「まあ、仕方ないか。無理やりホテルに連れ込んだようなものだし・・誤解されても仕方ないな。なあ、男が皆父親と同じ趣味とは限らないよ?俺は、女にしか興味ないし」
俺の言葉に少年はほっとしたようだった。少し放心したような少年の姿に、気が付けば俺は幼い日の正美を重ね合わせていた。
不意に懐かしく、正美の肩を昔のように抱きしめたくなった。だが、その気持ちを胸の奥底に押し込める。
それにしても、この少年をホテルに一人で、泊めるわけにもいかなかった。
「心配を増幅させるようで悪いけど、俺も今日この部屋に泊まるから。誤解しないでくれよ?」
俺の言葉に、要は少し笑って頷いた。さて、あとは・・。俺は携帯を取り出して、弟のアドレスを呼び出す。とにかく、謝りたかった。
◇◇◇◇◇
兄さんの着信を見たとき、僕は泣きそうになった。不安で、酷く寂しかった。兄さんの声が聞きたい。
「兄さん!!」
僕は慌てて電話に出ていた。
『正美、さっきは悪かった。お前を責めるような事を言って』
「そんなこと気にしていないよ。僕が、他人に無関心だったのも事実だし、今は反省しているんだ。ねえ、今どこ?」
兄さんはホテルの名前を告げた。僕は何となく不安になって聞いた。
「兄さんもそこに泊まるの?危険じゃない?」
『何が危険なんだ?え?まさか、お前まで、俺が子供を襲うとでも、思っているんじゃないだろうなぁー!』
僕は眉を寄せた。
「違うよ。どうして、そんな結論になるんだよ。ねえ、相手は子供でも、放火しようとしていた人間だよ?危なくないかな。兄さんに危害を加えられたら、僕は!」
兄さんの返事が遅れる。すこし沈んだ声になっていた。
『放火魔が・・全員頭が狂ってるわけじゃない。正美は、そう思うのか?』
「少なくとも、正常ではないし、危険な傾向があるんだと思うよ?」
『そうか・・そうだな』
「どうしたの、兄さん?」
『なんでもない。正美・・』
「なに?」
『あの少年を見ていると、昔のお前を思い出したよ。昔の俺は、虐待を世間に訴える事もできず、考えなしにお前を深く傷つけてしまった。だから、この子は助けてあげたいんだ。そう思うことは間違いか?』
兄さん。
兄さんは、過去の事で罪悪感なんて抱く必要ないのに。兄さんは僕を抱く事で、守ってくれていたから。大人の欲望から、身を呈して守ってくれていたのは兄さんだよ?
僕に挿入しながら泣いていた兄さんの姿が、今も目から離れないよ。本当の犠牲者は兄さんなのに・・。
「兄さん、僕も協力するよ。守ってあげてよ、その子を」
僕は呟いていた。
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